メディオンは甲板に立って、海を眺めていた。 港町で生まれ育った彼にとっては、海は日常生活と切っても切り離せないものだった。祖父と一緒に、船で沖まで釣りに行ったこともしょっちゅうだった。 王宮に引き取られてからも、常に町の海のことを思っていた。 今メディオンの目の前にあるのは、故郷デストニアの海ではない。遠征往路でもレモテストに向かうために通った、西の海である。そこを、今は共和国のベアソイルに向かって南下中だ。 総てを終えた今、メディオンは安堵感を感じつつ、寂寥感も覚えていた。 これから先、あの懐かしい故郷の海を見ることはないだろう。あの父が、自分を許すはずがないと、メディオンは知っていた。 ----この海も、あのデストニアの海に繋がっている。 そう思うことで、メディオンは自分の心を慰めていた。 ----そういえば、こんなときにぴったりの歌があったな。 懐かしい故郷に年老いた親を残して、未知なる新しい大地を目指して旅立つ人々の歌だ。かなり昔から歌い継がれてきた曲だが、独立戦争が起こってからにわかに注目された。共和国に亡命する人々の心情と共鳴したからだろう。そのため、帝国では歌うどころか話題にするのさえ禁止された。亡命を助長する恐れがあるとのことだ。 メディオンは以前、祖父が船の上でこの歌を歌っているのを耳にしたことがある。 何の歌かと問うと、祖父は慌てていた。自分でも無意識のうちに歌っていたらしい。メディオンに、誰にも聴かせちゃいけないよ、と強く念を押してから、最後まで歌ってくれた。ついでに、禁止になった理由も丁寧に説明してくれた。 それを聴いて、メディオンは馬鹿馬鹿しい、と思った。こんな素晴らしい歌を禁止にするなんて、皇帝は何を考えているのだろう。自分の父親がそんなことを言う人だなんて、寂しくて情けなかった。 そんな父親の許に引き取られたメディオンは、ことあるごとにその歌を思い出した。すると不思議なことに、どんなに辛いことも乗り越えられたものだ。 懐かしくなったメディオンは、唇に歌を乗せようとした。 と、ドアが開いた。 甲板には他にも何人かいたが、ドアが見える位置に立っていたのはメディオンだけだった。誰が出てくるのか見ていたところ、シンビオスが蒼い顔でふらふらと出てきたではないか。 メディオンは急いで駆け寄った。 「シンビオス。----船酔いかい?」 おぼつかない足取りのシンビオスに、手を差し出す。 「すいません」 シンビオスは掴まって、手すりの所までメディオンと一緒に歩いた。 「足下が揺れて、落ち着かなくて。外の景色を見たら、少しはましになるんじゃないかと思って」 今日は風もないし、波も穏やかだ。でも、メディオンはそれを言うのはやめておいた。ただ、 「そうか。君は船には慣れてないんだったね。大丈夫、じきに平気になるよ」 とだけ言う。 「そうでしょうか」 シンビオスが不安そうに見上げてくる。 いや、世の中にはどうやっても船酔いに慣れない体質の人もいる。メディオンは祖父からそう教えられていた。勿論、これもシンビオスには黙っていよう、と思った。シンビオスがそういう体質であるかどうか、まだ判らないからだ。 「そういえば、お腹が空いていると気持ち悪くなったりするものだけど」 「…食欲なんて湧きませんよ」 渋い顔つきで応えるシンビオスに、メディオンは微笑んで、 「いや、自分でそう思っていても、案外食べられるものだよ。私も祖父と釣りに行ったときにね、結構波のある日だったから気分が悪くなったんだけど、祖母の作ってくれたお弁当を食べたら、すぐによくなったよ」 シンビオスは少し考えている風だったが、 「じゃあ、何か軽くつまんできます」 と、ふらふらと行きかけて、 「----宜しければ、王子もいかがですか?」 と、振り向いて訊いてきた。 シンビオスの誘いを、メディオンが断るはずもない。 「勿論、喜んで」 再びシンビオスに手を貸しつつ、船内に戻った。 シンビオスは船酔いしないタイプだったようで、軽くサンドウィッチなどを食べてお茶を飲んだら、程なくして具合もよくなった。 メディオンは、また彼を甲板に連れ出した。 今度は景色を楽しむ余裕ができたらしいシンビオスは、大陸の山肌や、澄み切った空、水面を横切る魚映などを眺めては、楽しそうに目を細めている。 そして、そんなシンビオスを見て、メディオンも幸せな気分になるのだった。 ふと、シンビオスの唇から歌が漏れた。 あの歌だった。 どうやら無意識のうちに歌っているらしい。自分を驚いた顔で見つめているメディオンの視線に、シンビオスは戸惑ったようだ。 「----王子、どうかしましたか?」 「いや、…今の歌…」 「え? 歌ってました?」 シンビオスが目を瞬かせる。 「うん。この歌----」 メディオンは一節を歌って、 「----好きなのかい?」 シンビオスは大きく頷いた。 「この景色を見ていたら、自然に出てきたみたいです。いい歌ですよね。共和国ではみな歌ってますけど、帝国では禁止になっているんじゃなかったですか?」 「皇帝がそう定めたらしいね」 「なのに、王子はよくご存知でしたね」 「祖父に教わったんだ。以来、こっそり歌ってる。----心の中でだけど」 「でも、これからは大声で歌えますよ」 シンビオスは、満面の笑みを浮かべて、メディオンを見上げた。 「メディオン王子もこの歌を好きだって伺って、とても嬉しいです」 この言葉こそが、メディオンにとっては何より嬉しい。彼も笑顔になって、 「じゃあ、一緒に歌おうか」 「はい」 二人は声を合わせて歌い始めた。もう誰にも遠慮する必要はない。メディオンはのびのびと声を出した。それにつられて、シンビオスも声を出す。 甲板にいた他の人達の耳にも届いて、彼らも一緒に歌い出した。 歌声を乗せて、船は大海原をどこまでも進んでいった。 |