にわかに湧いた雨雲が、大粒の雨を落とす。
 シンビオスは慌てて、一番近い民家の軒下に駆け込んだ。城を出るときには晴れていたので、傘を持ってこなかったのだ。
 ----ついてないな。
 シンビオスは空を見上げて、ぼんやりと考えた。空一面に真っ黒な雲が広がっている。とても、すぐには止みそうにない。
「----困りましたねえ」
 小さな呟きが横から聞こえて、シンビオスはそちらを向いた。いつからそこにいたのか、小柄なお婆さんが、シンビオス同様空を見上げている。
「お爺さんの言う通り、傘を持って出ればよかったわ…」
 言いながらシンビオスの方に目を移して、にっこりと微笑む。優しい笑顔だ。
「まさか、雨が降るとは思いませんものね。あんないい天気でしたもの」
「そうですね」
 お婆さんの笑顔につられて、シンビオスも微笑んだ。
 傘を差している通行人はほとんどいなかった。みなおとなしく雨宿りするか、或いは、土砂降りの中を必死に駆けていくか、である。
 シンビオスは迷っていた。このまま待っていても止みそうにない。かといって、この寒いのに、雨に濡れるのも遠慮したいところだ。城まで、結構な距離がある。
「何とか止まないかしらね」
 お婆さんが、シンビオスを見上げる。彼に訴えれば雨が止む、とでもいうかのように、縋るような目をしている。
「家のお爺さん、雨が降ると神経痛が酷くなるんですよ。早く戻ってあげないと…」
 シンビオスにしても、いつまでもここで足止めを食らっているわけにはいかない。
「この家の人に、傘を借りましょうか」
 と言って、軒下を借りている家の窓を叩いてみた。返事がない。
「いないみたいですね」
 そっと中を窺ってみる。人の気配はなかった。
「出かけてるのね」
 お婆さんは、残念そうにそっと息を吐いて、
「傘を持って出たなら戻ってくるでしょうけど…。私達みたいに、どこかで雨宿りしてるかもしれませんね」
 どうしたものか、とシンビオスは考えを巡らせた。若い自分はともかく、こんなお年寄りをこの寒空の下にいつまでも立たせておくのは忍びない。
 かくなる上は、他の家か店に行って、自分の分とお婆さんの分の傘を借りてこよう。
 そう決意して、シンビオスは雨の中に飛び出そうとした。
「…あら、あれはあなたのお迎えじゃない?」
 お婆さんが、不意に言った。
 彼女の視線を辿った先に、傘を差した人がいた。こちらに向かって歩いて来るその人の顔は傘に隠れていたが、シンビオスはすぐに誰か判った。
「メディオン王子!」
 シンビオスが声をかけると、その人は傘を上げて、優しい笑みを浮かべた。
「シンビオス、ごめんね、遅くなって」
 手に持っていた別の傘を、シンビオスに差し出してくる。
「そんなこと…。ありがとうございます、王子」
 シンビオスは傘を受け取って、そのままお婆さんに渡した。
「お婆さん、この傘を使ってください」
「あら、いいんですか?」
 お婆さんが目を丸くして、それでも幾分嬉しそうに言う。
「はい。私達は傘一つあれば充分ですから。早くお爺さんの所に戻ってあげてください」
「ありがとうございます。本当にありがとう…」
 お婆さんは何度もお礼を言って、雨の中を帰っていった。
「----じゃあ、ぼく達も帰りましょう」
 シンビオスは言って、メディオンの腕に掴まった。
 しっかりと寄り添っても、狭い傘ではどうしても体が入りきらない。肩や腕が冷たい雨に濡れてしまったが、シンビオスは全然気にならなかった。
 傍らにメディオンがいる。シンビオスにとっては、それがなによりの幸せなのだ。それ以外は、取るに足らない些細なことであった。


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