馬車が必要なほどの荷物もなく、馬に乗るほどの距離でもなく、かといって歩くには時間がかかりすぎる距離のとき、共和国でも帝国でも自転車が使われている。手軽で便利なため、庶民の間で愛されている乗り物だ。
 ジュリアン軍が次の町に向けて街道を歩いている間にも、数え切れないほどの自転車とすれ違った。
 進軍中の軍とすれ違うときには乗り物から降りてその場に留まる、という風習をグラシアが嫌っているのは有名なので、馬車でも馬でも自転車からでも、みな朗らかに挨拶しながら通り過ぎていく。
「気持ちよさそうですね、自転車」
 グラシアは、傍らのジュリアンに言った。荷台に設えられた子供用のシートに収まって、片手で自転車を漕ぐ母親に掴まり、もう片方の手でグラシアに手を振ってくれた子供に、手を振り返したところだ。
「今日は風も穏やかだしな」
 ジュリアンも、挙げていた手を下ろす。
「我が軍も導入したらどうでしょうかな? 行軍スピードが一気に上がりますぞ」
 ドンホートが笑いながら言った。一番歩行スピードの速いケンタウロスなので、一番遅い者に合わせて進むのはいささか辛いものがあるのだ。だから冗談半分、真面目半分といったところだった。
「いや、いきなり敵に襲われたときに、咄嗟に対処できねえだろうし、第一、全員の分を買うのはきついだろ。その分を武器や防具に廻した方がよっぽどいいさ」
 淀みなくすらすらと応じるジュリアンを、
「ああ、そうですね。そこまで考えが及びませんでした」
 グラシアは尊敬の眼差しで見つめた。
「さすがジュリアンですね。いつも先の先まで見通していて…」
「うむ。さすがは我らがリーダーじゃ」
 ドンホートも満足げに頷く。
 ジュリアンは苦笑して、
「----いや、そこまで誉められたんじゃ、種明かしするしかねえな」
「----?」
 グラシアとドンホートが顔を見合わせる。
「俺もさ、前に同じことを考えたことがあるんだよ。自転車に乗ったら楽だろうなって」
「----なんじゃ。あらかじめ結論が出ていたのか。道理で、やけにすらすらと駄目出しすると思ったわい」
 今度は、ドンホートが苦笑いした。
「…おーい、馬車が通りますよー!」
 隊列の後ろから、誰かが叫んだ。
「全員、端に寄れ!」
 ジュリアンの号令に、隊列は道の端に一列になって、細長く伸びた。
「どうもすいません! お先に失礼します!」
 御者台から男が声をかけつつ走りすぎていく。荷台一杯に自転車が積まれていた。
「おー、凄えな」
 ジュリアンが声を上げる。
「自転車屋さんでしょうか」
 グラシアも、目をまん丸にして見送っている。
「だろうな。----さて、みんな直れ!」
 ぱっと、隊列が二列に直る。
「次の町はもうすぐだ。全員、進め!」
「おー!」
 爽やかな晴れの天気に相応しく、ジュリアン軍はてきぱきと進んでいった。

 ジュリアンの言葉通り、1時間もしないうちに次の町に到着した。早速本陣に荷を降ろしてくつろぐ。
「----じゃあ、俺は情報を集めてくる」
「あ、ジュリアン、私も行きます」
 グラシアが小走りに、本陣を出ていこうとするジュリアンの後を追った。
「----グラシア様、すっかりジュリアンに懐いてますね」
 ケイトが楽しそうに言った。本当は彼女もジュリアンについていきたいと思っていたのだが、グラシア相手に張り合っても仕方がない。むしろ、グラシアが子供らしく楽しげにしているのを見て喜んでいた。
「ジュリアンも、グラシア様のこと可愛がってるしね」
 ブリジットが頷く。
「なんか、凄く仲のいい兄弟って感じね」
 兄弟のような二人は、のんびりと町の中を歩いていた。時折町の人達と雑談し、店を覗いて必要なものを購入する。
 町の外れの店前で、グラシアは足を止めた。
「ジュリアン、ここ…」
「ああ、自転車屋だな」
 店の前に並べられた様々な自転車を眺めながら、ジュリアンは応えた。
 タイヤがジュリアンよりも大きい自転車や、逆に5歳の子供にも小さすぎるようなもの、サドルとペダルが沢山並んだ多人数乗りのもの----2人乗りから、最大10人乗りまであった----、普通の自転車にサイドカーがついているもの、そして三輪車や一輪車もあった。
「色々な自転車があるんですね!」
 グラシアは目を輝かせて見入っている。
「これなんて、乗れんのかな」
 10人乗りの自転車を撫でつつ、ジュリアンは呟く。
「----いえ、相当気が合う人達でも難しいでしょうね」
 店の中から声をかけつつ、男が姿を見せた。先ほどジュリアン軍を追い越していった馬車の人だった。
「あ、先ほどは失礼しました」
 男----この自転車屋の店長----もそうと気付いて、頭を下げてくる。
「いや。----やっぱり自転車屋だったんだな」
「ええ。…どうです? これも何かの縁でしょう、1台…といわず、何台でもお買いあげくださるというのは?」
 商売人らしく早速売り込み始める店長に、
「え? ええ…? ですが、我々は進軍中ですし…」
 グラシアは律儀に応じたが、ジュリアンの方は笑って、
「グラシア、真面目に取るなよ。相手だって本気じゃねえんだ。----そうだろ? あんた」
「ええ。駄目もとで言ってみただけです」
 店長は真面目くさった顔で言った。
「あ、なんだ。そうでしたか」
 グラシアはちょっと顔を紅くして、
「すいません」
「いえいえ、こちらこそ失礼しました」
 店長はそつのない態度を崩さない。丁寧に頭を下げる。
「…で、如何ですか? 当店の自転車は。ハードな行軍にも耐えうる丈夫さでございますが」
「え…、あの…」
「こらこら、いい加減からかうのはやめろ」
 ジュリアンが苦笑する。
「はい、失礼しました」
 店長はにっこりと笑ってみせた。
 グラシアは寂しそうに、手近な自転車のサドルを撫でて、
「…そうですね。今の私達に自転車なんて無理ですよね」
 しんみりと呟く。
 ジュリアンと店長は、一瞬目を合わせた。
「なあ、買うのは無理なんだが、レンタルはしてねえのか?」
 ジュリアンが訊くと、阿吽の呼吸で、
「勿論、してございますとも」
 店長は揉み手しつつ答えた。
 グラシアが顔を上げる。
「じゃあ、2台貸してくれ。大人用と子供用のを1台づつ----、ん? どうした、グラシア」
 グラシアに袖を引かれて、ジュリアンは彼の方に身を傾けた。グラシアは伸び上がって、ジュリアンの耳にひそひそと囁く。
「ああ、そうか。----悪い、1台でいいや。後ろにもう一人乗れるようなやつな」
「畏まりました」
 店長はにこやかな微笑みを崩さぬまま店の中に入って行き、1台の自転車を運んできた。
「こちらなら、後ろの荷台部分が座席になってございますので、大変快適にお乗り頂けるかと」
「じゃあ、これを1時間借りるぜ」
 ジュリアンは言いながら、グラシアの体を抱き上げて、後ろの座席に座らせた。
「金は本陣で貰ってくれ。それと、悪いんだがついでに伝えておいてくれないか。ジュリアンとグラシアはサイクリングに出かけて1時間戻らないって」
「ええ。確かに承りました。----この町の東に綺麗な湖がありますよ。片道15分位で着くでしょう」
「サンキュー。…じゃあ、行って来る」
 ジュリアンはひらりと自転車に跨ると、力強くペダルを漕いだ。
「お気をつけて」
 店長は一礼すると、そのまま本陣に向かった。

「ジュリアン、よかったんですか? こんなふうに出てきてしまって」
 グラシアは不安そうに言った。店長を信用していないわけではない。几帳面な彼は、自分できちんと伝えてから出てきたかったのだ。
「気にすんなって。どうせ今日はあの町に泊まるんだ。夜まで時間もあるしな」
 ジュリアンは凄いスピードで自転車を漕いでいく。ジュリアンの服の裾を遠慮がちに握っているだけの体勢なので、グラシアは怖くなった。といって、しがみつくのも恥ずかしいような気後れするような気分だったので、
「ジュリアン、もう少しゆっくり走ってくださいませんか?」
 そう声をかける。
「なんだ? 怖いならしっかり掴まってろよ」
「ええ…」
 ジュリアンは一向にスピードを緩めない。グラシアは、今度はジュリアンが座るサドルの端を掴んだ。さっきよりも体が安定するが、うなりを立てて体を襲う風圧が恐ろしい。
「----それにしても、おまえが自転車に乗れねえとはな」
 ジュリアンは楽しげに言った。
 グラシアはむっと唇を尖らせて、
「仕方ないでしょう! 他のことに忙しくて、自転車に乗る練習なんてできなかったんですから!」
 勢いよく反論する。神子としての鍛錬の中には『自転車』という項目は含まれていなかったのだ。
「そうか…。そうだな」
 ジュリアンは頭を巡らせてグラシアを見た。
「----じゃあ、この遠征が終わったら、俺が特訓してやるよ」
「ちゃんと前を向いてください!」
 グラシアはまずそう言ってから、
「本当ですか? 本当に教えてくれるんですか?」
「ああ。ただし、俺は厳しいぜ。1日で乗れるようにしごくからな」
 冗談ぽい口調で、ジュリアンは答える。
「はい、頑張ります!」
 グラシアはすっかり嬉しくなった。
「----ジュリアン、もっとしっかり掴まっていいですか?」
「だから、さっきからそう言ってんだろ」
 ジュリアンの声は優しい。それに勇気づけられて、グラシアはジュリアンの腰に腕を廻した。広い背中に頬を当てる。
 それだけで、グラシアはもう怖くなくなった。
 頬にジュリアンの温もりと、爽やかに吹きすぎる風を感じながら、グラシアは今までで一番の幸せを感じていた。


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