曇り空なのに気温が高く、湿度も高い。 窓を開けても、微かにしか風が入ってこない。 部屋の中に、熱い空気が溜まっている。 暦の上ではもう秋で、実際、フラガルドでは例年、もう涼しくなっている頃なのに、今年は残暑が続いていた。 シンビオスは、頭を押さえた。のぼせて、とても熱くなっている。書類を書く手を止めて、冷たく濡れたタオルで顔から首筋を拭った。 それでも、頭痛は引かない。 そんな主人の様子を見かねたダンタレスが、冷たい飲み物を持ってきた。 「シンビオス様、少しお休みになられたら?」 「ありがとう、ダンタレス。----でも、もう少しで終わるから」 シンビオスは冷たいお茶を少しだけ飲んだ。喉は渇いているのだが、胃袋が受け付けない。昼食を採ったのは4時間も前なのに、まだ消化し切れていない感じがする。胃が重いのだ。 「じゃあ、タオルを冷やしてきましょう」 ダンタレスは、シンビオスの手からタオルを受け取って、部屋を出た。洗面所に向かう前に、ゼロの姿を捜す。 シンビオスの元に戻って、冷たくしたタオルを渡すと、主は気持ち良さそうにそれを顔に当てた。 「大丈夫ですか?」 訊いても詮無いことと解っていながら、どうしても訊かずにはいられないダンタレスだった。 「うん」 シンビオスは短く答えたが、まだ眉を顰めているところを見ると、頭痛は続いているようだ。 それでも書類をなんとか書き上げて、 「----終わったよ。ダンタレス、悪いけど…」 「はい、シンビオス様。後はお任せください」 シンビオスから書類を受け取って、 「さ、もうお休みください」 「うん」 シンビオスは立ち上がって、それでもしっかりした足取りで、自分の部屋に戻った。 ベッドに、どさっと倒れ込む。 きっと、冷たいシャワーを浴びればスッキリするのだろうが、何もする気にならない。少し眠ろうにも、体が熱を持っていて、それがうっとうしくて寝つけない。頭もまだずきずきと痛む。タオルで首の後ろを冷やしているが、それだけでは間に合うはずもない。 目を瞑ってじっとしていると、少しでも風を通すために開けっ放しのドアがノックされた。そちらを見る元気も、返事をする元気もない。そのまま黙っていると、 「…シンビオス、----寝てるのかい?」 遠慮がちな声がした。 シンビオスは、ベッドに肘を突いて上体を起こした。 「王子? どうしたんですか?」 今日は、来てくれる日ではなかったはずだ。約束していたのは明日だ。 「うん。ゼロが呼びにきたんだ。ダンタレス殿に頼まれたって」 メディオンは、ベッドまで歩み寄った。 「暑気あたりだって?」 「ええ…」 頷きながら、シンビオスは心の中でダンタレスに礼を言っていた。やはり、メディオンの顔を見ると元気が出てくる。 「今日は湿度が高くて蒸し暑いからね」 メディオンは、シンビオスが起き上がった拍子に首から落ちたタオルを見て、 「そんなタオルで冷やすぐらいじゃ、間に合わないよ。シャワーで全身を冷やさないと」 「解ってるんですけど、どうも億劫で」 辛そうに呟くシンビオスの服に、メディオンはいきなり手をかけた。 「ちょっ、お、王子?」 面喰らうシンビオスに、 「君は何もしなくていいよ。私が全部やるから」 メディオンは優しく言って、下着まで全部脱がせた。抱き上げて、浴室まで運ぶ。 椅子に座らせると、シャワーを冷たすぎないように調整して、シンビオスの頭から浴びせかけた。 「冷たくない?」 「はい。…気持ちいいです」 シンビオスは目を閉じた。水を貰って生き生きとする植物が人の姿になったら、きっとこんな表情を浮かべるだろう。それくらい、心地よさそうだ。 メディオンはシンビオスの頭と体を洗ってやり、ぬるい水をかけて充分に彼の熱を冷ました。濡れた体を丁寧に拭って、清潔で楽な部屋着を着せた後、再びベッドまで運んだ。それから、冷たい飲み物を用意して、シンビオスに渡す。 それを飲み干して、 「…ありがとうございます、メディオン王子。お陰で、凄くスッキリしました」 シンビオスは言った。頭痛は無くなったわけではないが、さっきよりも痛みが引いている。熱くけだるかった体も、さっぱりと涼しくなった。 「よかった。少し眠っておいで、シンビオス。----私もシャワーを借りるよ」 メディオンは笑った。着衣のままシンビオスの世話をしたから、すっかり服が濡れている。それに、ここに来るまでも、来てからも汗をかいた。 たまに泊まっていくメディオンのために、いつも彼の服を用意してある。メディオンはそれをチェストから出して、浴室に入った。 こちらもさっぱりして出てくると、シンビオスは既に眠っていた。 メディオンはベッドに腰掛けて、無防備な表情で眠っているシンビオスを見つめた。まだ少し湿った髪を撫でる。 ここよりも南にある、暑い帝国で育ったメディオンでも、今日の暑さは堪える。本来涼しい筈のフラガルドで育ったシンビオスなら、尚更だろう。 そういえば、冬の最中のレモテストでは、寒い寒い、と連呼していたメディオンに比べて、シンビオスはまったく平然としていた。 「寒いのは、沢山着込んだりすればしのげますけど、暑いからって全部脱いでも、まだ駄目なときってあるでしょう? とても耐えられません」 シンビオスは、そんなことを言っていた。 「それに、寒いときにはこうして----」 とメディオンに抱きついて、 「暖をとれますしね」 悪戯っぽく笑っていた。 そんなことを思い出しながら、しみじみとシンビオスの寝顔を眺めていたメディオンだったが、まだ部屋の中に残る熱気に、再びうんざりしてきた。 シンビオスの机の上に団扇が乗っていたので、それを取ってきて、メディオンはシンビオスと自分、交互に風を送る。 窓の外に広がる、厚い灰色の雲を恨めしげに見上げて、 ----いっそ雨が降ってくれたら、一気に涼しくなるだろうに。 と思いつつ、冷たいお茶を飲んだ。 夕食の時間まで一眠りしたシンビオスは、だいぶ気分が良くなっていた。 メディオンの願い通り、凄まじい勢いで雨が降ったせいもある。なにせ、暑いとはいえもう初秋なので、夜になって雨が降るとかなり空気が冷やされる。 夕食は胃に優しくさっぱりしたものを、とシンビオスを気遣ったダンタレスが料理長に注文していた。シンビオス以外にも、今日の暑さに辟易していた者が多数いたため、このさっぱりメニューにみな喜んでいる。 シンビオスも、いつもより量は少な目だったが、美味しくそれを頂いた。メディオンもダンタレスも、まずは一安心、といったところだ。 部屋に戻ったシンビオスは、まずはソファにくつろいだ。 メディオンはそっと隣に腰掛けて、 「気分はどう?」 「まだ、ちょっと頭が痛いです」 と言って、シンビオスはメディオンの肩に頭を預ける。 すぐに、メディオンはゆっくりと頭を撫でてくれる。シンビオスは目を閉じた。痛みが和らぐようだ。 部屋の空気は、昼間とは比べものにならないくらいひんやりしている。抱き合う分にはちょうどいいが、こう気温差が大きいと、風邪をひいてしまいそうだ。 「もう一度、シャワーを浴びようか」 メディオンは、静かに話しかけた。 「それとも、湯を入れるかい?」 シンビオスは目を閉じたまま、 「シャワーでいいです」 眠そうな声で応える。 「じゃあ、さっさと浴びて、今夜は早く休もう、シンビオス」 「そうですね」 シンビオスは頭を起こした。 「あ、今度は自分で脱ぎます」 笑いながら、そんなことを言う。 「それは残念だな」 メディオンも、笑って応じた。 本調子でないシンビオスの体を、メディオンは気遣ってくれている。 いつもなら、浴室であれやらこれやらするのだが、今日は純粋に身を清めるだけだった。ベッドに入ってからも、腕の中にくるみ込んでくれて、優しいキスを2つ3つしてくれたが、それ以上のことはなかった。 ゆっくりと頭を撫でてくれるメディオンの手を感じながら、シンビオスは安心しきって眠りについた。 翌朝。 今日は休みなので、心おきなく寝坊ができる。 それでも、昨夜早く寝たせいか、シンビオスはいつもと同じ時間に目が覚めた。昨日の頭痛はどこかに消え去って、晴れ晴れしたいい気分だ。 天候の方も、やっとフラガルドの初秋らしい涼しさが戻ってきている。少し開けた窓から入ってくる風は、ひんやりと冷たい。 メディオンは、まだ眠っている。 その寝顔を見ている内に、シンビオスの胸に感謝の気持ちが込み上げてきた。形のいい薄い唇に、自分のをあてがう。 「…ん…」 メディオンは小さく声を漏らして、目を開けた。 「…シンビオス…? 今、何かした?」 まだ寝ぼけたような様子で訊いてくる。 「キス、したんです」 シンビオスは微笑んで、もう一度キスした。 激しいキスにやっと目が覚めたメディオンは、 「…もう大丈夫なのかい?」 と続けて訊いた。 「お陰様で。メディオン王子、本当にありがとうございました」 甘えるように、胸に頬を擦り寄せてくるシンビオスの髪を、メディオンはさらりと撫でた。 「元気になって良かった」 「王子のお陰です。----それに、みんなもよくしてくれましたから」 たとえばダンタレスは、王子を呼んでくれた。ゼロは、暑い最中にアスピアまで飛んでくれた。ダンタレスから注文を受けた料理長は、あっさりして美味しい料理を作ってくれた。 みな、シンビオスのことを心配してくれていた。 「当然だよ。君は何物にも代え難い人なんだから。----勿論、私にとってもね」 「王子…」 メディオンの唇を素直に受けながら、それなら自分の方も同じ思いだ、とシンビオスぼんやりと考えていた。 フラガルドの町も、ここに住む人達も、そしてなによりメディオンも、シンビオスにとってはかけがえのない宝物だ。 そう思ったのを最後に、シンビオスは暫く何も考えられなくなった。熱が、再び寝室の空気を支配したからであった。ただ、今回はメディオンが与えるものであり、シンビオスも喜んでそれを受け入れたのだった。 |