戦いは終わった。 シンビオス軍とメディオン軍の協力を得て邪神宮に乗り込んだジュリアン軍は、ブルザムを倒しジェーンを無事に助け出した。 エルベセム居住区に戻ってきた一行は、戦いの穢れを落とした後、夕食までの時間を思い思いに過ごしていた。 ジェーンと今後のことについて色々話し合ってから、ジュリアンは確かめたいことがあってメディオンの部屋に行った。 メディオンは疲れた様子もなく、明日の出発に備えて荷物をまとめていた。 「…もう支度してんのか? 気が早いな」 ジュリアンはテーブルに乗っている本を手にとって、呆れ気味に呟いた。----『第三国の陰謀』----政治物かスパイ物か。どのみち興味を引かれなかった彼は、中も見ずに元の場所にそれを戻した。 「夜には他にすることがあるんだよ。----たぶん」 メディオンは手を休めて答えた。ジュリアンに椅子を勧めると、自分も腰掛ける。 「なんだ、そりゃ?」 いつものジュリアンなら、王子が夜に何をしようと勝手だ、と気にも留めないのだが、今のメディオンの言い方は妙に意味ありげだった。 が、メディオンは今度は答えず、 「ところで、なんの用だ?」 逆に訊いてきた。 「ゆうべ、シンビオスとあれからどうなった?」 ジュリアンは前置きもなく、いきなり核心に迫った。単刀直入なのが彼のモットーだと知っているメディオンは苦笑を浮かべて、 「別に、何もなかったよ」 「何も? …やらなかったのか?」 ジュリアンは、珍しい動物でも見るような目つきで、メディオンを見た。 「信じらんねえな。俺はてっきり…」 「戦いに支障をきたしてはいけないからね。ありったけの理性をかき集めて耐えたんだ」 「いくら理性をかき集めたからって、聖人君子じゃあるまいし」 ジュリアンはてんで信じていないようだ。それはそうだろう。お互いの気持ちを確認しあった後には、することは一つしかない。メディオンは真相を白状することにした。 「実は、ダンタレス殿にばったり会ってね。シンビオスの戻りがあんまり遅いんで、君の所に迎えに行くつもりだったらしい」 「なるほどな。----そりゃあ、お気の毒に」 と口では言いながら笑っているジュリアンを、メディオンは軽く睨んで、 「断っておくけど、ダンタレス殿に会わなくたって、私は何もするつもりはなかったよ。ただ、彼に会ったことでそれが容易になっただけだ」 そう。自分で『戦いが終わった後』と言った手前、メディオンはシンビオスに何かするわけにはいかなかったのだから、ダンタレスに会って逆に安堵したのだ。----もっとも、そんなことで感謝されても、ダンタレスの方は嬉しくないだろうが。 「ま、そういうことにしといてやる」 ジュリアンは尊大に言った。 「でも、あんたとシンビオスが一緒にいるのを見て、ダンタレスの奴、驚いてただろ?」 「そりゃあね。----シンビオスが巧い具合にその場を治めてくれたよ」 『心配かけてごめんね、ダンタレス。でも、全部解決したから』とシンビオスがにっこり微笑みかけただけで、ダンタレスは引き下がってしまった、との説明に、ジュリアンも納得した。シンビオスの満開笑顔に、ダンタレスが敵うわけがないのだ。 「『解決』の意味を知ったら、あいつ荒れ狂うだろうな」 ジュリアンは他人事のように呟いた。 「まあ、シンビオスはダンタレスの宥め方も心得てるだろうし。----後は王子。あんたが…」 ここまで言って、ジュリアンはやっと気付いた。 「…今夜することって、…それかよ」 メディオンは品よく微笑んだ。 「そうしたいと思ってる。ただ、シンビオスに無理はさせたくないからね」 だから『たぶん』と付け加えたのだ。 「だけど、シンビオスってそういうこと知ってんのかな? ホントにガキだぜ、あいつ」 「領主の子息として、そういう教育ぐらい受けているとは思うが」 とは言ったものの、メディオンもそれを不安に思っていた。 「…万が一の場合は、この本を読ませるかな」 先ほどジュリアンが無造作に置いた『第三国の陰謀』の地味な表紙を、メディオンは長い指で撫でる。 「そんな本、役に立つのか?」 首を傾げるジュリアンの方に、メディオンは本を押し出した。 「読んでみたまえ」 お言葉に甘えて、ジュリアンは目を通した。読み進めていく内に、男らしい眉が寄る。 「----とんでもねえ本だな、おい」 ジュリアンはやっとそれだけ言った。政治物でスパイ物でもありながら、まさに『そういう教育』に相応しい場面もふんだんに載っている。 メディオンは楽しげに笑って、 「私も含めて、騙された人は結構いるだろうね。大体、誰が想像できる? その題名でそんな内容だなんて」 「確かに、教材としては詳しくていいかもな」 ジュリアンは本を閉じて再びテーブルに置いた。 ここにキャンベルがやってきて、夕食の支度ができたと告げた。二人は部屋を出て、キャンベルと共に食堂へ向かった。 祝勝会、と称された夕食会は、ささやかながら親密な雰囲気の中で行われた。口には出さなかったが、このメンバーで摂る最後の食事、との思いが全員の心にあったろう。明日になれば、それぞれが自分の道を歩んでいくのだ。 犠牲になった者達のために黙祷を捧げた後、上座からベネトレイムが、みなの活躍を讃え労をねぎらう短い言葉を述べる。乾杯をして、すぐにわいわいと食べ始めた。 二時間ほど経つと、疲れたために退出する者もあれば、その場で酒を酌み交わす者達もいる。グラシアやパペッツなどの子供や、女性の内体力のない者は部屋に戻っていった。 シンビオスはダンタレスに付き添われて、メディオンとジュリアン、それにキャンベルと、取り留めのない話をしていた。表面上は取り留めがないように見えた。だが、ダンタレスはシンビオスにメディオンを近付けないように目配りしていたし、それを察知しているキャンベルはダンタレスの気を逸らそうと画策するし、その隙をメディオンが油断なく狙っているしで、傍観者のジュリアンはだんだん気疲れしてきた。シンビオスはどうかといえば、三人の熾烈な争いにも全然気付いていなかった。この辺が彼らしいところだ。 ジュリアンはとうとうその場に爆弾を落とした。ダンタレスからノーマークである彼は、シンビオスにこう訊いたのだ。 「シンビオス。おまえ、ガキがどうやってできるか知ってるか?」 驚いたことに、シンビオスはやけにあっさり答えた。 「知ってるよ」 「…シ、シンビオス様! ななな何故ご存知なんですか?!」 ダンタレスのうろたえようから察するに、シンビオスは『そういう教育』を施されていなかったようだ。それでいいのか、と、ジュリアンだけでなくメディオンもキャンベルも心の中で突っ込んだ。共和国の未来は大丈夫だろうか。 「本で読んだんだ」 シンビオスはなんだか堂々としている。そして更に言った。 「キャベツからできるんだろう?」 言った本人以外は見事に凍り付いた。言ってやりたい言葉は浮かぶのだが、衝撃のあまりに声が出ない。 最初に正気を取り戻したのは、長年の付き合いでシンビオスの大ボケにも慣れているダンタレスだった。 「ち、違いますよ、シンビオス様」 彼は声を震わせて叫んだ。 「コウノトリが運んでくるんです!」 「ちょっと待て!」 立て続けの大ボケ発言に声帯が回復したジュリアンは、有無を言わさずダンタレスを廊下に引きずり出した。 「----どういうつもりだよ。ちゃんと教育しなかったのか?」 詰め寄るジュリアンを、ダンタレスは鋭く睨み返して、 「いいか、ジュリアン。古今東西、国王や領主、豪傑から聖人に至るまで、名を成した人物が躓くのは色欲に溺れたからに相違ないのだ」 「…だから、シンビオスにはそういうことを吹き込まねえようにしたのか?」 「その通り!」 「威張るなよ、情けねえな」 ジュリアンはうんざりした。 「シンビオスはそういうタイプか? それに、純粋培養し過ぎて、却って免疫不足で毒されちまったらどうすんだよ?」 「シンビオス様に限って、そんなことはない!」 「だったら! ちゃんと教えてやれよ。いざというとき困るだろ」 「勿論、そのときには俺がちゃんと、手取り足取り…」 「…腰取り」 「そう! …いや、違う! そういう意味じゃない!」 ダンタレスは真っ赤になった。 「ジュリアン、変なことを言うな!」 ジュリアンは溜息をついた。 「…解りやすい奴だな、おまえ」 一方、メディオンは素早く立ち直っていた。ここは自分が教えてあげるべきだろう。幸い彼には教材と、なによりシンビオスからの愛があるのだから。 「シンビオス」 メディオンは静かに口を開いた。 「私でよければ、正しい方法を教えてあげるよ?」 口調は穏やかだったが、メディオンはひどく緊張していたし、断られたらどうしようかと恐れてもいた。 ところが、 「はい、お願いします、王子」 シンビオスは無邪気な様子で答えるではないか。メディオンは、自分が稀代の詐欺師ででもあるかのような錯覚に陥った。 ----いや、私は間違ってないはずだ。 メディオンは、必死になって自らに言い聞かせた。シンビオスを愛しているし、シンビオスだって好きだと言ってくれた。なら、そうするのが当然のことなのだ。 「…じゃあ、ここでは無理だから、私の部屋に行こう」 といったメディオンの袖を、今まで黙っていたキャンベルがそっと引いた。 「メディオン様。一緒にいなくなっては、ダンタレスが怪しみますぞ」 シンビオスに聞こえないように囁いてくる。メディオンは軽く頷いた。 「…私は先に戻って準備しておくから、シンビオス、後からおいで」 「はい、メディオン王子」 シンビオスは少しも不審を抱いていないらしい。屈託なくよい子の返事を返してきた。メディオンは再び襲い掛かる謂れのない罪悪感を抑え込みながら、食堂を出ていった。----出口でジュリアンとダンタレスに会って、些細な会話を交わした頃には、もう心は落ち着いていた。 なんでメディオンがこんな早くに部屋に戻ったのかジュリアンは知っていたが、何も言わなかった。彼はゆうべの、メディオンの瞳を思い出していた。あれを見たら、彼でなくともメディオンの邪魔をする気にはなれないだろう。絶望と哀しみ、そしてほんの僅かに残った希望の光。ジュリアンは職業柄、そういった瞳を何度となく目にしてきた。そして、その持ち主達の運命も。 そういったわけで、ジュリアンはなんとなくメディオンに手を貸す気になっていたのである。 一番の障害になるダンタレスも、勿論メディオンの企みに気付いていたが、シンビオスが残っているのでさほど心配していなかった。自分の目の届く限り、シンビオスを独りにしないつもりだった。 しかし、ジュリアン以外に、メディオンは強力な伏兵を残していた。 「----おお、戻ったのか。一体、何をしていたのだ」 キャンベルがダンタレスに声をかける。 「大した話ではない」 ダンタレスは気のない様子で答えてから、 「メディオン王子がお部屋に戻られたのだな。お独りにしておいていいのか?」 「子供じゃあるまいし」 キャンベルが豪快に笑う。 ダンタレスは顔を顰めた。彼は総じて、この気のいい同族の騎士を好きだったが、今は厄介な存在でしかない。 「なんて顔をしているんだ、ダンタレス」 キャンベルは、ダンタレスにグラスを突き付けた。 「呑め! 今日はめでたい日ではないか」 ダンタレスは素直に従った。そしてすぐに返杯する。キャンベルもそれを受けてから、更にダンタレスのグラスを満たす。 そうやって、超人的なピッチで酒を呑んでいくケンタウロス達を、ジュリアンは面白そうに眺めている。 シンビオスは上の空だったが、やがて唐突に立ち上がった。 「…シンビオス様? どうなさいました?」 酔いかけてはいても、ダンタレスはシンビオスのことなら何でも気付く。 「疲れたから部屋に戻るよ」 シンビオスは茫洋と答えた。 これは怪しい。そう思ったダンタレスは、 「では、部屋までお送りしましょう」 とグラスを置きかけたが、 「独りで戻れるよ。子供じゃないんだから」 シンビオスは笑って彼を押しとどめた。 「君は、キャンベル殿との約束を果たすといい」 戸惑いを浮かべているダンタレスの肩を、キャンベルが肘で小突いた。 「薄情な男だな。もう忘れたのか」 「俺だって覚えてるぜ。『そのうち酒でも酌み交わそう』ってやつだろ?」 ジュリアンも横から口を挟む。 「いや、忘れてなどいないぞ」 ダンタレスはむきになって言い返す。この時点で、彼は罠に嵌ったわけだった。 「そうか。では、今夜はとことん呑もう!」 馬鹿力のキャンベルに思いっきり背中を叩かれて、ダンタレスは痛いのと、自分が今置かれている状況をやっと悟ったのとで、髪の色よりも蒼くなった。 「い、いや、今夜はちょっと…」 「何を言うか。こんな機会は今度いつ来るか解らんぞ」 「そうそう。----ほら、シンビオス。ガキはさっさと寝ちまえ」 その場に突っ立ったきりのシンビオスに、ジュリアンはからかい半分に声をかけた。 シンビオスは苦い顔をしたが、 「じゃあ、おやすみ。…あまり飲み過ぎないようにね」 「ああ、解った解った」 ジュリアンがうるさそうに手を振る。シンビオスのこういうところが、彼は苦手だった。そして、そんな態度をいつもならダンタレスが咎めるのだが、今日は何も言わなかった。ダンタレスは、ただシンビオスを見ていた。 「ダンタレス、なに?」 その視線に気付いて、シンビオスも真直ぐにダンタレスを見つめ返す。いつも同じ深い緑の瞳は、いつもとどこか違っている。ダンタレスはそっと溜息を逃がした。 「なんでも、ありません。…おやすみなさい、シンビオス様」 優しさの中に苦いものが交ざった口調で、ダンタレスは言った。 10分が10時間にも感じられた。 先に部屋に戻ってきたのを、メディオンは後悔していた。本当にシンビオスは来るのだろうか? 来たとしても、これからされることを知ったら逃げ帰ってしまうかもしれない。この世で一番強いのは無知なることだ、とどこかの誰かが言っていたが、メディオンにしてみればまさに今のシンビオスがそれだ。 ----シンビオスが来ないことと、来ても拒まれることとでは、どっちが辛いだろう。 メディオンが落ち着かない頭で詮無いことを考え出したとき、ようやく救いの鐘が部屋に響き渡った。彼は冷静に、冷静にと口の中で唱えながら、扉を開けた。 「…メディオン王子、遅くなってごめんなさい」 シンビオスが、いつもと変わらぬ可愛らしい笑顔で立っている。 「い、いや、気にすることはないよ、シンビオス」 メディオンもどうにか笑顔をこしらえて、シンビオスを中へ通した。 「疲れてはいないかい?」 「ええ。夕食前に仮眠を…」 シンビオスの言葉が途切れた。彼の目は机の上にある本に固定されている。『第三国の陰謀』に。 「…シンビオス?」 メディオンはシンビオスの表情を訝った。あの顔はまさか…。 「まさか、この本…、読んだことが?」 「…和平会議前にベネトレイム様が送ってきてくださったんです。サラバンドでは何があるか解らないから、これで勉強しておくようにって。読んでみて驚きましたけど、ベネトレイム様の仰ることだから何か意味があるんじゃないかと思って…」 シンビオスは急いで言った。メディオンが誤解するのを恐れたのだ。 だが、メディオンに誤解する暇はなかった。新たな疑問が次々湧いてくる。 「じゃあ、…キャベツの話は?」 「あれは…、…冗談のつもりだったんです」 「…冗談」 哀れなシンビオスは真っ赤になって頷いた。 「でも、誰も笑ってくれなかったので、そう言い出せなくて…」 メディオンは笑わないようにとの無駄な努力を試みたが、案の定巧くいかなかった。今までの緊張の反動も手伝って、どうしても止まらなくなってしまった。彼は椅子に崩れ込んでなお笑った。 「い、今になってそんなに笑わないでください」 シンビオスは弱々しく文句をつけた。腹を立てたわけではない。メディオンに対して、シンビオスはどんな場合でも怒れなかった。ただ、決まりが悪くて仕方がなかったのだ。 シンビオスの機嫌を損ねたと感じたメディオンは、なんとか笑うのをやめた。シンビオスにこんなことで嫌われたくはない。彼は深呼吸して息を整えた。 「----すまない、シンビオス。…怒ったかい?」 「怒ってません」 シンビオスはごく小さく呟いてから、これじゃあ王子の誤解は解けそうにない、と考えた。そこで、メディオンの傍らに歩み寄って、 「本当です」 と付け加える。 メディオンはシンビオスの腕を引いた。小柄な体が飛び込んでくるのをしっかりと抱きとめると、いい香りのする柔らかい髪に頬を乗せて、 「君は知っているんだね? ----それでいて、ここに来た。…どうしてだい?」 メディオン王子は意地悪だ、とシンビオスは思った。訊かなくても解ることを訊いてくるなんて。 ----もし、王子が望む答をぼくが言ったら…。 シンビオスはメディオンの胸に顔を押し付けて、薄紅色の唇を開いた。 「…ぼくは王子が好きだから、こうするのが当然だと思ったんです」 メディオンは微笑した。シンビオスの紅く染まった耳にキスする。 びく、と身を震わせて、シンビオスがメディオンを見る。すかさず、メディオンは今度は唇に唇を重ねた。 ここまではゆうべも通った道だ。勿論、今夜はここで終わらせるつもりはない。メディオンはシンビオスの体を抱き上げると、ベッドに横たえた。 「----もう、その辺にしておいたらどうだ、ダンタレス」 キャンベルは朋友の顔を覗き込んだ。思ったほど紅くなってはいないが、目が据わっている。最初に誘ったのは自分だが、ダンタレスがここまで呑むとは思わなかった。 「酔えないのだ、キャンベル」 空になったグラスを、ダンタレスはテーブルに強く置いた。 「俺には解ったんだ。シンビオス様は『キャベツ』と言ったが、あれは嘘だ。あの方はご存知なんだ」 「まさか」 と言ったのはジュリアンだった。どう思い出しても、あのときのシンビオスはマジだった。 ダンタレスは自嘲気味な笑みを見せて、 「あの方が、それこそ赤ん坊のときから、俺はお傍にお仕えしているんだぞ、ジュリアン。シンビオス様は知っているんだ。----キャンベル、シンビオス様はメディオン王子と待ち合わせていたのだろう? だからおまえは、ここで俺を引き留めている。…違うか?」 「…すまぬ、ダンタレス」 キャンベルはいつもの実直さで、真摯に告白した。 「おまえが、どれほどシンビオス殿を大切に想っているかは知っている。だが、それと同じように、俺はメディオン様のことを想っているのだ。だからこそ、あの方の望む通りにしてさしあげたい」 「俺だってそうだ。シンビオス様が望んでいるなら仕方のないことだ。仕方がないと解っていながら納得できない自分が許せんのだ! そして何より悔しいのは…」 ダンタレスは大きく息をついて、 「…おまえのこともメディオン王子のことも、俺は嫌いになれないんだ」 苦々しげに呟く。キャンベルは彼の肩をそっと叩いた。 ジュリアンはダンタレスのグラスに酒を注いで、幾分優しげに、 「呑んで言いたいことを全部吐き出したら、明日にはすっきりしてるさ。…二日酔いにはなるけどな」 「胸の痛みより、二日酔いの方がマシだ」 ダンタレスは乱暴に酒を呷った。 「----もう1杯!」 ジュリアンとキャンベルは顔を見合わせて、同情交じりの微苦笑を浮かべた。 騒がしい鳥のさえずりで目が覚めたシンビオスは、自分がメディオンの腕という甘い戒めの中にいるのに気付いた。意識が覚醒するにつれ、体中が違和感を訴える。といって、不快感はない。 カーテンの隙間からまだ明け切らぬ淡い光が差し込んでいて、メディオンの金の髪を月のように輝かせている。 ----あれは本当のことだったのかな…。 端整で穏やかなメディオンの寝顔をぼんやり眺めながら、シンビオスはゆうべのことを思い返した。とはいえ、実際はよく覚えていない。夢の中の出来事だったような気さえするが、体に残る鈍い痛みが現実だと告げている。 不意にメディオンが目を開けた。煙るような長い金の睫毛の下から、緑がかった蒼い双眸がシンビオスを捉え、薄く整った唇が笑みを刻む。 「…おはよう、シンビオス」 「お、おはようございます…」 頬が熱くなる。こういう朝にはどんな表情をすればいいのだろう。シンビオスは顔を伏せた。その耳許に、 「ゆうべはありがとう」 メディオンの声が囁いてくる。シンビオスはどうにも恥ずかしくて、俯いたまま頭を横に振った。 もう一度もの恋しげな瞳で見つめてほしくて、メディオンはシンビオスの紅い頬に手を伸ばした。顔を仰向かせて、柔らかい唇に口付ける。----ゆうべのような深いキスではなく、触れるだけのものだ。それでも、今のシンビオスには刺激が強すぎたようで、腕の中で身を硬くするのが感じられる。メディオンは唇を離して、そのままシンビオスの頭を抱き寄せた。髪を梳くように撫でていると、やっと落ち着いたのかシンビオスは微かに息を吐いて、体の力を抜いた。 暫くはそのまま、無言のうちにお互いの温もりを心地よく味わっていたが、窓の外が徐々に明るくなってくるにつれて、どちらからともなく溜息を漏らした。いつまでもこうしていたいが、そうもいかない。今日は出立の日だ。 メディオンはシンビオスの額に軽くキスしてからベッドを出た。床に広がる服の中からシンビオスのものを選んで彼に渡す。自分は、昨夜用意しておいた別の服を身につける。 シンビオスも身を起こして、ややぎこちない動作で服を着込み、靴を履いて立ち上がろうとした。膝と腰に力が入らない。崩れそうになったところを、メディオンに支えられた。 「…大丈夫かい? シンビオス」 「す、すいません、王子…」 「いや。元はといえば、私が無理をさせてしまったからだ。…すまなかったね」 シンビオスは首を振った。 「そんなこと…。…だって、ぼくも…」 後はとても口に出せない。だが、メディオンにはちゃんと伝わった。彼はもう一度、 「ありがとう」 と囁いて、シンビオスの赤らんだ頬に唇をつけた。----本当は唇にキスしたかったのだが、そうしたら最後、歯止めが効かなくなってしまうと知っていた。清らかな朝の陽射しを援軍に、メディオンは恐らく他人よりは多く持ち合わせている、しかしシンビオスの前ではあまりに心許ない理性を奮い起こして、 「…部屋まで送っていこう」 と言った。 シンビオスの顎に微かな紅い痕が残っていた。勿論メディオンによるものだ。ただ、つけた本人もつけられた本人も自覚していなかった。 朝食後、皆が船に乗り込む頃になって、それははっきりしてきた。それを見つけた者に原因を尋ねられたシンビオスは、当然すぐに思い当たったが、とても正直には言えなかった。 誠実なシンビオスは、メディオンとの関係を隠すつもりはなかった。かといって、自ら公言するにはあまりに純情すぎた。だから彼が答に悩んでいるうちに、不注意でぶつけたのだろう、と皆は勝手に解釈してくれた。シンビオスがそういうことをするとは、誰も思っていないらしい。 シンビオスは、取り敢えずそれで通すことにした。真相に気付いた者がいたら仕方なく本当のことを言うつもりだったが、今のところそんな人物は現れなかった。目ざといダンタレスも、今日はひどい二日酔いに悩まされて、一歩ごとに呻きながら早々と船の中に引きこもってしまっていた。 顔を合わせた全員に同じ質問をされるため、シンビオスはいささかうんざりしていた。彼は誰からも離れた所で、船に荷物が積み込まれるのを眺めていた。 桟橋の前で、ジェーンと女性メンバーが固まって、別れを惜しんでいる。人々が三々五々連れ立って船に入っていく。メディオンの姿は見えない。捜しに行きたいが、他の誰かに会うのも煩わしい。シンビオスは、独りきりの寒さを噛み締めながら佇んでいた。 そこに、ジュリアンがやってくる。シンビオスは素っ気無く言った。 「…ぶつけたんだよ」 「あぁ? 何のことだ?」 「い、いや、なんでもない」 慌てて繕うシンビオスの顔を、ジュリアンは例のからかうような目つきで眺めていたが、 「なあ、腕のいい傭兵を雇う気はねえか? フラガルド領主様」 「…え?」 「ほら、これからいろいろあんだろ? ----たとえば、王子を返せって皇帝が乗り込んできたらどうする?」 「追い返すよ。決まってるだろ。大体、皇帝にそんなこと言う資格なんてない」 シンビオスは威勢よく答える。ジュリアンはその肩に手をかけて、 「そういう面倒が起きたときに、手を貸してやる。…正規の8割でどうだ?」 シンビオスはちょっと考えてから、 「高い。半額にして」 「半額? 冗談言うな。悪いが、こっちだって仕事なんだ」 「じゃあ、せめて6割」 「話にならねえな」 「…ケチ」 「どっちがだよ」 不毛な口喧嘩が始まりそうになるのを、 「----6割。但し、酒代は実費で」 涼やかな声が割り込んで止めた。 「手を打とう」 ジュリアンは声の主に笑いかけた。 「…シンビオスも、それでいいかな?」 艶やかに微笑むメディオンに、シンビオスが異議を唱えられるはずもない。 「勿論です。----いくらジュリアンでも、そんなに呑まないでしょうから」 そう言ったのは、ジュリアンに対する当て擦りである。ジュリアンもちゃんとその棘に気付いた。彼はアイスブルーの瞳を光らせて、人の悪い笑みを浮かべた。 「よかったな、シンビオス。いい婿が来てくれて。これでフラガルドも安泰だ」 「……………」 絶句したシンビオスを横目に見ながら、今度はメディオンに、 「王子、あんたが気をつけてやんなきゃ。顎は痕が消えにくいんだぜ」 ジュリアンは言ってやった。ところが、敵もさる者。メディオンは全然うろたえず、 「いいことを教えてくれた。ありがとう、ジュリアン。----シンビオス、今後はちゃんと注意するからね」 などと言っている。 ジュリアンは声を上げて笑った。 「まったく、付き合い切れねえな! ----もう行くぜ。グラシアとも交渉しなきゃなんねえからな」 ちょうど、建物からグラシアが出てくるところだった。ジュリアンはそちらに行きかけた。 「ジュリアン。神の御加護が欲しければ、あまりボラないようにすることだ」 メディオンがしかつめらしく忠告する。 「俺はそこまで罰当たりじゃねえ。----じゃあな。しっかりやれよ」 後半の言葉はいつになく真剣な口調で、メディオンもシンビオスもハッと胸を衝かれた。 「ジュリアン!」 遠ざかる背中に、シンビオスは声をかけた。 「面倒が起こらなくても、たまには顔を見せに来てくれるよね?」 ジュリアンは振り向くことなく、ただ軽く手を上げて応じた。 「----行こうか、シンビオス」 メディオンがシンビオスの肩を抱く。シンビオスは頷いて、メディオンと共に船に足を向けた。 ----やがて出航の銅鑼が鳴り響く。それは新しい世界の始まりを告げる合図でもあった。そこに何が待ち受けていようとも、恐れる必要はないのだ。大切な仲間と、愛する人がいるのだから。 |