----行カナケレバナラナイ。ボクハ、…ニ行カナケレバ----

 空から落ちてくる雪は一向に納まる気配がなかった。強い風がそればかりか、積ったばかりの雪をも吹き上げ、ほとんど視界はゼロに近い。
 シンビオスはそれでも、膝まである雪の中を進んでいた。襲い掛かる風雪を防ごうともしない。むき出しの顔に当たる雪が痛いだろうに、無表情のまま、ただ機械的に脚を前に進めている。
 なにより、深い緑色の瞳からはいつもの輝きが失せていた。
 下から風が吹き上げて、シンビオスの黒い帽子を吹き飛ばした。
 だが、シンビオスは立ち止まろうとも、それを拾い上げようともしなかった。

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「----シンビオス様がいない!」
 食堂に駆け込んできたダンタレスの一声は、みなに衝撃を与えた。
「いない、とはどういうことだ?」
 ベネトレイムが顔を顰めて訊く。
「外套などが見当たらないんです。何より、窓が開けっ放しで!」
「窓が? ----こんな吹雪の中を出ていったってわけ? 無茶だわ!」
 マーキィが声を上げる。雪の魔女である彼女は、この3軍のメンバーの中で一番、吹雪の恐ろしさを知っていた。
「一体どうして…?」
 マスキュリンが心配そうに呟く。
「そんなことより、今は一刻も早くシンビオスを見つけださねばならん」
 ベネトレイムは立ち上がった。
「3軍総出で、この町の周辺をしらみつぶしに捜索するのだ」
 みな一斉に席を立って、準備を整えるために部屋に戻っていく。
「----まったく、厄介なことになったな」
 ジュリアンが、隣のメディオンに声をかけた。
「シンビオスの奴…、どうしちまったんだ?」
「……………」
 メディオンは答えなかった。

 食料や万が一のための治療薬、方向を確認するためのコンパス、それからシンビオスを見つけたときに打ち上げる煙玉を持って、みなはレモテストの町からあちこちに散らばっていった。

 慣れない雪に閉口しながら、メディオンも懸命に進んでいた。
 何か手がかりは、と思っても、視界は真っ白に染まって5メートル先も見通せない状態だ。風も強く、息をさらわれてしまう。メディオンはマントで顔をガードしつつ、横を向いて浅く呼吸した。
 ----本当に、一体どうして?
 軍の規律を乱すような行動を、シンビオスが取るわけがない。彼は優秀な指揮官であり、誰よりも率先して軍の和を護る立場にあるからだ。
 なればこそ、今回の行動には合点がいかない。
 メディオンの胸を暗い不安が覆う。
 ----もしシンビオスを見つけられなければ、このまま永遠に彼とは会えなくなる気がする…。
 この状況に惑わされて、悪い方に考えてしまうんだ。吹雪なんて体験したことがないし、シンビオスがいなくなった理由も、今どこにいるかも判らないから、過敏になっているだけだ。
 いくらそう言い聞かせても、嫌な胸騒ぎは消えなかった。
 メディオンは腰に下げた小さな巾着袋に触れた。中には丸く磨かれた青い石が入っている。エルベセムで、グラシアを助けたお礼として神父に貰ったものだ。これと同じものを、シンビオスも持っている。

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「----シンビオス、これを…」
 メディオンの指から下がる小さな袋と彼の顔を交互に見つめて、
「王子、なんですか?」
 シンビオスは訊いた。
「エルベセムの護り石だよ。二つ貰ったから、一つ君にあげよう」
「いいんですか?」
「うん。同じものを二つもいらないからね。----君はこれから、一足先に北の世界に行くんだ。何が待ち受けているか判らないから」
 メディオンはシンビオスの手を取って、袋を掌に置いた。
「まあ、気休め程度にしかならないかもしれないが…」
「いいえ! 嬉しいです」
 シンビオスはお守りをぎゅっと握って、微笑んだ。
「ありがとうございます、メディオン王子。----私のことを気にかけてくださってるんですね…。…嬉しいです…」

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「----もし君に何かあったら、私も辛いから…」
 メディオンは呟いた。あのときはうやむやにしてしまったが、何故そう伝えなかったのだろう。シンビオスに万が一のことがあったら、自分も生きていられない。彼を無事に見つけることができたら、そのときこそきちんと告げよう。
 唐突に強い風が吹き、積った雪を巻き上げて地吹雪を起こした。
 メディオンは立ち止まり、マントで顔を覆った。
 納まったのを確認して、腕を降ろす。その視界に、黒いものが飛び込んできた。
 メディオンは駆け寄り、それを手に取った。さらさらの雪を払うと、現れたのは----
「帽子…。シンビオスの…」
 以前、シンビオスがこれを被っていたのを見た覚えがある。
 シンビオスは確かにここを通ったのだ。更に、こうして雪が吹き上げられたぐらいですぐに見つかったということは、それほど時間も経っていない!
 メディオンは足を早めた。深い雪を漕ぐように進む。雪の冷たさも疲れも感じない。ただ、早くシンビオスを捜し出すことだけを考えていた。
 やがて、白一色の景色の中に、色付きのものが動いているのを発見した。メディオンはほとんど走るようにそれに近付いた。息が上がって、肺に冷たい空気が入り込んでくる。それでも足を止めなかった。
 はっきりとシンビオスだと確信できる距離まで近付いた。メディオンは大声で、
「シンビオス!」
 と呼んだ。思いきり冷たい空気を吸って肺が痛くなる。
 しかし、メディオンがそれほどの労力を使って叫んだにも関わらず、シンビオスは止まらなかった。いくら風が強いとはいえ、聞こえない距離ではないはずだ。
 仕方ない。メディオンはシンビオスに追い縋ろうと懸命に走った。もう一度呼ぼうとして、激しく咳き込んでしまう。それでもなんとか呼吸を落ち着かせて、
「シンビオス、待つんだ! シンビオス!」
 声をかけながらシンビオスを追う。
 シンビオスは止まらない。
 やっと、メディオンは尋常じゃない状態に気付いた。何しろ彼は(雪が深くて思うように進めないとはいえ)ほとんど走るような歩調なのに対し、シンビオスは普通の早歩きの歩調だ。それなのに、いつまで経っても追いつけない。いくらシンビオスが雪に慣れているからといっても、これはおかしい。
 肺が痛む。だが、メディオンは走り続けた。このままでは本当に、シンビオスを失ってしまう。それだけは耐えられない。
「シンビオス----」
 雪に足を取られて、メディオンは前のめりに倒れてしまった。冷たい雪が羽布団のようにメディオンの疲れた体を受け止める。メディオンは気力を振り絞って起き上がった。再び走り出す。
 シンビオスは結構先に行ってしまっている。それほど時間が経っているわけでもないのに。
 メディオンはもうほとんど気力だけで走っていた。今にもまた倒れてしまいそうだ。苦しげに息を吐く。
「----?」
 腰に下げたお守りが熱い。メディオンは袋を開けてみた。
 石が赤くなっている。
 メディオンは驚愕した。青い石だったはずだ。メディオンは戸惑いながら、シンビオスの方に視線を移した。
 シンビオスは誰かに射すくめられたかのように、びくり、と体を硬直させ、そのまま後ろに倒れ込んだ。
 メディオンは慌てて駆け寄った。シンビオスの上体を抱え上げ、
「シンビオス! 眼を開けてくれ!」
 耳許で叫ぶ。
「----ん…」
 シンビオスの瞼が震え、ゆっくりと開かれた。ぼんやりとメディオンを見上げる。
「…王子…?」
 メディオンは微笑んで頷いた。
「大丈夫?」
「え…。----ここ、どこですか?」
 シンビオスは驚いたように辺りを見回した。
「外? どうして?! ベッドで寝てたはずなのに…?」
「…何も覚えてないのかい?」
 メディオンが訊くと、シンビオスは不安げに頷いた。
「そうか…。----まあ、その話は町に戻ってからにしよう、シンビオス」
 メディオンはシンビオスの髪から雪を払い落とすと、途中で拾った帽子を被せた。それから立ち上がる。シンビオスの腕を取って立たせると、体に付いた雪を払ってあげた。
「あ、すいません。王子」
 シンビオスは頬を染めた。
「でも、王子も雪が付いてますよ」
 と言って、メディオンの雪も払う。そのお腹がぐう、と鳴った。
 メディオンはクスクス笑って、
「ありがとう、シンビオス。----朝食も食べずに歩いてたんだから、さぞお腹が空いただろうね。食べ物を用意しておいたよ」
 幸い、雪も小降りになり、風も静かになってきた。二人はその場に再び腰を降ろした。
 メディオンは道具袋からサンドウィッチを取り出して、シンビオスに渡した。小さいポットから紅茶も淹れる。
「ありがとうございます」
 シンビオスは美味しそうに食べ始める。その様子を愛しく見守りながら、メディオンは今度は煙玉を取り出して打ち上げた。鮮やかな赤い煙が空に広がる。これで、他の場所を捜索しているメンバー達も町に戻るだろう。
「----シンビオス、私にも一杯くれるかい?」
 メディオンは言った。走ったり叫んだりして、すっかり喉が痛い。おまけに肺も冷たい感じがする。
「あ、はい」
 コップは一つしか付いていない。シンビオスは自分の分を飲み干すと、すぐに紅茶を注いでメディオンに渡した。
 メディオンはゆっくりと飲んだ。胃が温まる。それ加えて、シンビオスを無事に取り戻せた喜びが、メディオンの疲れを癒した。
「----さあ、行こうか。みな君を心配してる」
「はい。…本当にすいませんでした」
 二人は立ち上がると、ゆっくりと戻り始めた。
「----なんだか、熱い…?」
 歩きながら、シンビオスが呟いた。
「熱い?」
「ええ。----王子に以前頂いた護り石が…」
 シンビオスは袋から石を出した。
「赤くなってる…。これ、青い石でしたよね?」
 メディオンは自分の石も掌に出した。
「あ…」
 二人の目の前で、二つの石は本来の青色に変わっていった。
「----さすが、エルベセムの護り石だ。不思議な力を持っているな」
 メディオンは感慨深げに、
「これがきっと、君を救ってくれたんだね」
「そうですね。----でも…」
 シンビオスはちょっと笑って、
「これをくださるとき、『気休め程度のもの』って、メディオン王子、仰ってませんでした?」
「そうだったかな?」
 メディオンも笑った。
 雪も止んで、薄い雲がぼんやりと明るい光を地上に投げかける。
「なんだ、いい天気になってきたな」
 メディオンは眼を細めて空を見上げた。
「助かった。もう吹雪はこりごりだ----」
「……………」
 シンビオスが不意に足を止めた。
「どうしたんだい?」
 メディオンは彼に向き直った。
「よく覚えてないんですけど…」
 シンビオスは顔を歪めて、
「なんだか、声が聞こえたんです。『ここへおいで』って」
「声? 誰の?」
「解り…ません。ただ、その声を聴いた途端に、どうしても行かなきゃって思って…。自分でも恐くなるぐらいに強く…」
 メディオンは険しい表情を浮かべた。
「どこに?」
 シンビオスは首を振って、
「それも解らないんです」
 小さく答える。
「そうだったのか」
 メディオンは息を吐いた。あのとき、いくら呼び掛けても答えずに歩き続けたシンビオスの様子にただならぬものを感じたが、もしかしたら誰かに操られていたのかもしれない。
「誰なんでしょう? …それに、もし王子が来てくれなかったら、私はどこに行っていたんでしょう?」
 シンビオスは身を震わせた。
「恐い、です。----また聞こえたら、と思うと…。もう、どうしたらいいのか----」
「シンビオス」
 メディオンはシンビオスを強く抱き締めた。
「また私が見つけるから。何度でも見つけるから」
「メディオン王子…」
 シンビオスは潤んだ瞳でメディオンを見上げた。

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「やれやれ、とんだ邪魔が入りましたね」
 水晶玉を前に、邪眼の男はつまらなそうにごちた。輝く球体には、しっかりと抱き合って口付けを交わす二人の姿が映っている。
「まさか、あんな護り石を持っているとはねえ」
 横から、黒髪の魔女が口を挟んだ。同情というより、面白がっているといった感じだ。
「私の伝授した『魅惑の術』も効かないなんて。手強いわね」
「なんの。だからこそ、余計に欲しくなるのですよ。簡単に手に入ってしまってはつまらないですからね」
「あーあ、あのボーヤも気の毒にね。こんな変態魔導師に目を付けられちゃって」
 魔女が揶揄するように言って笑う。
 邪眼の魔導師は、これ以上ないほどの邪悪な笑みを浮かべた。


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