スピリテッドが待ち合わせ場所に着いたとき、フランツの姿はまだなかった。 ----珍しいな。 スピリテッドは少し辺りを見回した。いつもなら彼が先に来ているのだ。 と、いうのも、フランツは几帳面というか慎重というか、待ち合わせの時間に30分は早く到着するのを信条としている。いや、正確には、待ち合わせ場所までかかる時間を逆算してみて、ぴったり着く時間よりも30分早く家を出るのだ。 本人曰く、不測の事態に備えるためらしい。たとえば、味方への援軍として進軍するとき、途中に待ち伏せしている敵がいて戦闘になったら、その時間だけ味方の軍を全滅の危機に追いやる可能性が高くなる。だからできるだけ早く出軍して、目的地に早く着くのが肝要だ、というのが、フランツの言い分だ。 戦場においてはもっともな論理であるが、日常生活でそうそう不測の事態など起こらないものだ。従って、そのまま30分早く着いてしまう。 同じく几帳面なスピリテッドが時間ぴったりに着くのを信条としているのは、軍人としての慣習と日常生活とをきちんと切り離しているからだ。 かといって、フランツのその考えを改めさせるつもりは、スピリテッドにはなかった。彼のそういう愚直なところも、むしろ好もしいと思っている。 そのフランツが待ち合わせの時間に、待ち合わせの場所にいないということは、 ----まさか、『不測の事態』が起こったのか? スピリテッドは不安になった。 今日は休日の上天気もいいので、結構な人出である。目の前を絶え間なく行き来する通行人の中からフランツを探し出そうと、スピリテッドは伸び上がったり頭を動かしたりした。 「----なんだ、もう来ていたのか」 声と共に肩を叩かれて振り向くと、紛れもなくフランツが立っていた。スピリテッドは安堵したが、そんな様子はおくびにも出さずに、 「あなたにしては遅かったじゃないか」 と言った。 「何か『不測の事態』に巻き込まれたのか?」 「まあ、そんなところだ」 フランツは答えて、背中に廻していた左腕を前に持ってきた。小さな花束が握られていた。 「そこの花屋でセールをやっていて、待っている間に物色したんだが、花を選ぶのに時間がかかったのと、レジが込んでいたのが『予想外』だった」 フランツの、彼らしい無骨で散文的な台詞に、スピリテッドは我知らず微笑んだ。 「わざわざありがとう」 「いや」 短く応じて、フランツは歩き出した。 スピリテッドもすぐに続いて、 「まだ時間がある。少しそこの公園を散策しようか」 今日は芝居を見に行く。開演時間まで間があるので、提案してみたのだ。それに、劇場はその公園を抜けた先にある。横切ればその分早く着く。 フランツが同意して、二人は公園の中に入った。 行楽日和ということで、結構人が溢れている。家族連れやカップル、友人同士や老夫婦と、バラエティにも富んでいる。共通しているのは、皆、緑を楽しみながらゆっくり歩いているところだ。 フランツとスピリテッドもカップルに違いないが、職業柄歩みが速くなってしまう。『散策』というより『ウォーキング』というのが正しい。 それでも、会話を聞けば紛れもなく恋人同士なのである。 「やはり花はいいな。新居には季節の花を植えよう」 「バラを忘れないようにな。『君の髪と唇のように紅いのと、額のように白いのと、頬のようにピンクのバラを』」 「----それは、何かの本の一節だったな」 フランツは苦笑して、 「君も読んでいたか」 「黄色のバラはどうだ?」 「あれは花言葉がよくない。綺麗なんだがな。----そういえば、アロガント王子に1本頂いたよ」 スピリテッドはすぐに、そのアロガントの意図を理解して、柳眉を思い切り顰めた。 「それは----嫌な思いをしただろう。すまない、私のせいだな」 「気にしていない。花に罪はないからな。それに、確かに黄色のバラは綺麗だ。----そして君も。王子の気持ちも判る。同じ立場なら、私も同じことをしただろう」 フランツが鷹揚に微笑む。スピリテッドも気を取り直して、笑顔になった。 「そうか。----ありがとう」 口調は堅苦しいが、雰囲気は和やかに会話をしつつ歩いていると、普通の人より歩くのが速いせいで、思ったより早く公園を横切ってしまった。あとは道を一本渡れば劇場である。開場まで間があるせいか、人影はほとんどない。 「歩いたら腹が減ったな。----スピリテッド、その店に入ろう」 目の前のオープンカフェをフランツが指した。 「そうだな。公演中にお腹が鳴っても困る」 店は、どうやら芝居を見に来た客達で結構な混雑振りだった。それでも、ぎりぎりテラスに案内されて、人心地つく。 ランチセットにデザートまでしっかり頼んだものだから、食べ終わる頃には開場時間を少し過ぎたくらいになった。 支払いは別々、とは、付き合い当初に決めたことだ。 店を出ると、劇場へ向かう道は人で溢れていた。今回の演目はミュージカルで、なんでも有名な吟遊詩人のコンビが特別出演するとかで、連日満員御礼、チケットもすぐに売り切れたのだ。ただ、帝国皇室にはそれなりの枚数が回ってきて、皇帝を始め王子、側近達に渡された。そのおこぼれに、フランツとスピリテッドもありつけたのである。 スピリテッドは第一、第二王子は元より、クリュエルにも誘われたが、勿論総て断った。フランツ以外の誰とも行くつもりはない、と。こうまではっきり言いきっても、周りの者達は怒らず、その代わり、彼女を諦めようともしなかった。スピリテッドにしては迷惑でしかないのだが----いや、今そんな不愉快なことを考えるのはよそう。大評判のミュージカルを、望んだ相手と一緒に観られるのだから。 ミュージカルはライトなラブコメディで、好き合っている二人が誤解したり意地を張ったりしながら結局ハッピーエンド、というありきたりになりがちな話の筋を、上質の歌と音楽を絡めて上品に楽しくまとめたものだった。劇場から出てきた人々の顔には、高揚感と幸福感が漂っている。 マチネーなので、終わってもまだ夕方である。 「夕飯にはまだ早いな。また散歩でもしようか?」 呟くようなフランツの言葉に、 「いや。----花のお礼に、手料理をご馳走したい。家に来てくれないか」 家に誘うのは別に珍しいことではない。次に彼女が取った行動こそが、滅多にないことだった。スピリテッドは、フランツの腕に自分の腕を絡めたのだ。ミュージカルの余韻がそうさせたのだろう。でなければ、人前でぜったいしない行為だ。 フランツは驚いたようだったが、かといって振り解くこともなく、むしろ嬉しげであった。彼もまた、幸せな余韻に酔っているのだろう。 傍目から見ても、今日のこの二人は普通の恋人同士であった。----いや、いつもだって、表面上はよそよそしく見えるだけであって、心ではきちんと繋がっている、れっきとした恋人同士、なのである。 |