その声は、月の下で聴く吟遊詩人のセレナーデのように、シンビオスを魅了した。
 まだほんの子供であるシンビオスにそんな比喩は浮かばなかったが、とにかく惹き付けられたのは事実だ。
 声の主は日溜まりの中で毛づくろいしていた。銀色がかった桃色の長い毛皮が日光に煌めく。
 シンビオスが来たのにも気付いているはずなのに警戒もせず、のんびりと儀式を済ませてから、彼女は腰をあげた。優雅な足取りでセクシーに背中を波打たせて、シンビオスの許にやってくる。長いしっぽをピンと立てて、体をシンビオスの脚に擦り付けながら、例の魅惑的な声で鳴いた。
 シンビオスは恐る恐る手を伸ばして彼女に触れた。顎の下を撫でると、彼女は気持ち良さそうに喉を鳴らす。
 シンビオスは彼女を抱き上げた。

「…で、連れてきちゃったんですか」
 ダンタレスが、少し呆れたような声を出した。
 シンビオスはこくりと頷いた。
「だって、可愛かったんだもん」
「確かに可愛いですけどねぇ」
 ダンタレスはちょっとため息をついて、
「首にリボンを巻いてるじゃないですか。飼い猫ですよ、きっと」
 幾ら子供とはいえ聡明なシンビオスだ。そんなことに気が付かぬはずがない。それでも自分の部屋まで連れて来てしまうなんて、相当彼女に魅了されてしまったのだろう。
「でも、中庭にいたんだよ? どこから入ったの?」
 自分でも説得力がないと感じながらも、シンビオスは反論した。
「どこからでも入って来れるでしょう。なにせ、猫は三次元に移動できますからね」
「『さんじげん』って何?」
 目を瞬かせるシンビオスに、
「横だけじゃなく縦にも、ってことです。屋根とか木とかを伝ってね」
 ダンタレスは優しく説明して、
「とにかく、城下で飼われている猫がたまたま入って来たんでしょう」
 シンビオスは黙り込んで、腕の中の猫を見下ろした。じっと唇を噛んで何か考えている。一方、猫の方は呑気に欠伸なんかしていた。それから喉を盛大に鳴らして、シンビオスに頭を擦り付けている。
「…飼ってる人、心配してるかな」
 シンビオスはぼそっと呟いた。
「猫は出歩くものですが、必ず家に戻ります。それが帰ってこないとなったら、やっぱり心配するでしょう」
 ダンタレスの答に、シンビオスは再び考え込んだ。
 ダンタレスもそれ以上何も言わず、シンビオスの判断に任せることにした。
 ずっとゴロゴロいっている猫の頭をシンビオスは撫でていたが、やがて、
「中庭に放してくる」
 寂しそうに言って、出て行った。
 ダンタレスの胸も痛んだ。滅多に我が儘を言わず、あまり物もねだらないシンビオスが、自分を誤魔化してまであの猫を欲しがっていた。母も亡く、父も忙しく、最近は姉にも恋人ができて、自分だけの姉では無くなってしまった。やはり寂しいのだろう。
 シンビオスは戻って来て、
「すぐに出て行っちゃった」
 と言った。大きな瞳が少し潤んでいるようにも見える。
「『デリラ』っていうんだって、あの猫。首のリボンにそう書いてあった」
「そうですか」
 ダンタレスはシンビオスを抱き上げた。
「シンビオス様、猫が欲しいなら飼いましょうか? 貴男だけの猫を」
「いいの?」
 シンビオスの顔が明るくなる。
 ダンタレスは真剣な表情と口調で、
「貴男が責任を持って世話できるなら、ね。生き物を飼うというのは、いい加減な気持ちじゃできません」
 と言い聞かせた。
「するよ! ちゃんと世話するから」
 シンビオスはダンタレスに抱きついた。
「ああ、ダンタレス、嬉しいな! ありがとう!」
 ダンタレスは笑って、
「ただし、グレイスにはあまり会わせないようにしてくださいね。彼女は犬科のハーフリングですから、猫とは相性が悪いんですよ」
 それこそが、今まで猫を飼わなかった理由だった。だが、シンビオスの笑顔に比べれば、グレイスだってそのくらい我慢するだろう。
「猫が苦手なんて信じられないな、あんなに可愛いのに」
 シンビオスは不思議そうに言ってから、すぐに気を取り直して、
「図書室に猫の本があったよね。よく読んで勉強しておかなきゃ」
「解らないことがあったらお手伝いしますよ、シンビオス様」
 ダンタレスは言ってみた。
 シンビオスは首を振って、
「いいよ。ぼく一人で頑張る。だって、ぼくの猫だもん」
 と元気に答えた。

 やがて可愛らしい子猫がやって来て、シンビオスはすっかり夢中になった。白地に琥珀色の縞が入ったその猫に『メイプルシュガー』と名前を付け、自身が宣誓した通りちゃんと世話をした。
 そしてこれはダンタレスの予想通り、グレイスもシンビオスのために我慢したのだった。


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