共同生活を送っていると、それまで知らなかった相手の、色々なことが自ずと知れてくる。
 たとえば、食べ物の好み、生活習慣、ちょっとした癖などである。
 レモテストで共に生活しているうちに、メディオンはシンビオスの、今まで知らなかったことを発見した。といっても、お互い鍛錬で忙しい身だ。顔を合わすのは食事のとき位なので、シンビオスについてのメディオンの知識も、その方面にのみ偏っている。
 食事のときは、何か飲み物がないと駄目だとか、ミルクティよりプレーンな紅茶を好む(砂糖は入れない)とか、好きなものは最後に取っておく、とかだ。
 最初の二つはメディオンも一緒だが、最後のはまったく逆だった。
「だって、好きなものは最初に食べて置いた方が安心だろう? 食事中に何が起こるか解らないし」
 メディオンが言うと、シンビオスは可愛らしく小首を傾げた。
「何かって、何です?」
「たとえば、地震とか。あるいは、誰かに横取りされるかも知れない」
「地震みたいな災害はともかく、横取りっていうのは…。そんな意地汚いことをする人がいるんですか?」
 シンビオスの台詞に、メディオンは微笑んだ。なんて純粋な人だろう。----馬鹿にしているのでは勿論なく、感動し、かつ彼のそこを愛してもいる。
「残念ながら、そういう人は結構多いんだよ、シンビオス。単なる悪戯から、本当に悪意を持ってする場合もある」
「へーえ…」
 シンビオスは、あくまでもピンとこないらしい。彼の育ちを考えると無理もないと言えよう。
 メディオンはうっとりとした目つきでシンビオスを見つめて、
「君には今のままでいてほしいな。今のまま----変わらないでほしい」
「…は?」
 シンビオスは目を瞬かせた。いきなり何を言い出すんだ、といった様子である。
「----シンビオス」
 メディオンは自然に居住まいを正して、
「ちょっと話が----」
「----お話中に失礼します」
 頭上から慇懃な声が降ってきて、メディオンの言葉に重なった。
「ダンタレス。どうしたの?」
 シンビオスが声の主に呼びかける。
「そろそろ鍛錬の時間です」
 ダンタレスは、少なくとも何の感情をも顔に表していなかった。
「解った。支度してすぐに行くよ」
 シンビオスは膝の上のナプキンをテーブルに乗せて、
「----すいません、メディオン王子。お話の途中で」
「い、いや、構わないよ」
 どのみち、ここでできる話ではなかった。同じテーブルでは二人だけだが、周りの他のテーブルには、遠征軍の全員がそれぞれ着いているのだ。シンビオスの愛らしさに、ついそれを失念していたメディオンであった。
「----では、お先に失礼します」
 シンビオスが立ち上がって、ダンタレスと並んで食堂を出ていく。
 周りを見回すと、シンビオス軍のメンバーはもうほとんど残っていなかった。
 メディオンが軽く溜息をついたとき、キャンベルがやってきた。
「申し訳ありません、メディオン様」
 開口一番、そう言って頭を下げる。
「----?」
 目で問うと、
「ダンタレスです。引き留めようとしたのですが、力及ばず…。----せっかく、シンビオス殿といい雰囲気だったのに」
「ああ…」
 メディオンは苦笑した。
「いや、却って助かったよ。ダンタレス殿のお陰でね。----いくらなんでも、深刻な話に向いていない場所だろう」
「それはまあ、そうですね」
「私も部屋に戻るよ。戻って、今後の対策を考えてみる」
「それが宜しいでしょう」
 メディオンとキャンベルは連れ立って食堂を後にした。

 ベッドに寝転がって、メディオンはつらつらと思考を巡らせた。
 誰も知らないシンビオスのことを知りたい、と彼は思っていた。
 今メディオンがシンビオスについて知っていることは、他の誰にでもすぐに知れることだ。
 更に、シンビオスの付き人達----ダンタレス、マスキュリン、そしてグレイスは、シンビオスについて、他人よりももっと多くのことを知っている。
 彼ら3人ですら知らないシンビオスを、メディオンは独り占めしたかった。
 ----シンビオスが私の想いを受け入れてくれさえすれば…
 すぐにでも可能だろう。
 ----だが、受け入れてもらえるだろうか?
 それが一番の心配であった。
 もし、シンビオスがメディオンではなく、他の誰かとそういうことになったら。そう想像するだけで、メディオンは苦しくなる。現実になったとしたら、----いや、考えたくもないことだ。
 ----私は案外独占欲が強いのだな…
 こんな自分の性質も、メディオンは初めて知った。今まで他の誰にも、メディオンはそこまで思い詰めたことがなかった。シンビオスただ一人だけなのだ。
 不意に、ドアがノックされた。
「----メディオン王子。いらっしゃいますか?」
 紛れもないシンビオスの声がドア越しに聞こえる。
 メディオンはベッドから飛び上がったついでに、時計に目をやった。思いの外時間が経っている。
「今開けるよ!」
 狭い部屋の中を飛ぶようにして、メディオンはドアまで急いだ。
 シンビオスには、鍛錬の汚れなどまったくなかった。身を清めてすぐに来たのだろう。まだ髪が湿っている。
「お疲れさま、シンビオス。----どうしたんだい?」
 鍛錬の後、食堂や図書室では会うことがあるが、わざわざ部屋まで来てくれたことは一度もない。それだけに、メディオンの胸は異様に高鳴っていた。
「さっき、お話の途中で席を立ってしまったので…」
 シンビオスは遠慮がちに言って、そっとメディオンを見上げる。その風情が、ますますメディオンをどきどきさせた。
「そ、そうか。----とにかくお入り」
 なるべく自然に言ったつもりだが、巧くいったかどうか。
 シンビオスが素直にメディオンの言葉に従ったところを見ると、どうやら成功したらしい。
 メディオンはドアを後ろ手に閉めて、
「ええっと、さっきはどこまで話したっけ?」
 実はしっかり覚えているのだが、わざと訊いてみる。彼自身の口から言わせることで、メディオンがその言葉に込めた想いを感じ取ってほしかったのだ。
 シンビオスはちょっと紅くなった。
「なんだか、ぼくが変わってるとか…?」
 全然違う。メディオンは慌てて、
「そんなことは言ってないよ!」
 思わず叫ぶ。
「あれ? そうでしたか?」
 シンビオスの顔には笑いが浮かんでいる。メディオンは解った。
「君、わざと間違ったふりをしたね?」
「すいません」
 シンビオスは軽く首を竦めた。
「だって、王子ってば臆面もなくキザな台詞を言うんだもの。そのまま言うのが恥ずかしかったんです」
「キザ、だったかな?」
 今度はメディオンが首を傾げる番だった。まったく自覚がない。
「キザです」
「そ、そうか…」
 あっさりきっぱり言われて落ち込むメディオンを、シンビオスは深い緑色の瞳で見つめて、
「でも、----好きです」
「----え?」
 メディオンは我が耳を疑った。
「キザなことを臆面もなく言う王子のことが、ぼくは大好きなんです」
 大胆な告白の後、シンビオスは恥ずかしそうに目を伏せてしまった。これは明らかに、メディオンが望んでいた展開だ。
「私もね、シンビオス。----純真で誠実な君のことを、心から愛しているよ」
 メディオンは、シンビオスの体を腕の中にそっとくるみ込んだ。
「また、そんなことを…」
 照れくさそうに嬉しそうに、シンビオスが呟く。
「本当だから仕方ない」
 紅く染まったシンビオスの頬に、メディオンは手を当てた。静かに上向かせる。
 シンビオスがゆっくりと目を閉じる。微かに開いた薄紅の唇に、メディオンは優しく口付けた。
 ----そうだ。この表情…。
 戸惑ったような恥ずかしそうな、そして幸せそうなシンビオスの表情こそ、メディオンが見たいと思っていた、『誰も知らないシンビオス』そのものだった。
 メディオンは何度もシンビオスにキスした。唇に、頬に、額に、顎に。
「----ん…、メディオン王子…」
 潤んだ瞳で、シンビオスが吐息混じりに囁く。
「今はまだ…。…夜にまたここで…」
 しかし、メディオンはシンビオスを解放しなかった。
「夜までなんて…とても待てないよ、シンビオス」
「でもまだ…心の準備が…」
「そんなもの、私を好きだって気持ちがあれば充分だよ」
 愛情と欲情と独占欲とが、今のメディオンを支配していた。他の誰かが知ってしまうより先に、誰も知らないシンビオスをもっと深く知りたかった。
 だんだんと深く激しくなる口付けに、シンビオスも覚悟を決めたようだ。メディオンの胸の所でシャツを握りしめていた手を、おずおずと背中に廻してくる。
 このままベッドに運んでしまおうと、メディオンがシンビオスの膝裏に腕を通して抱き上げたとき----待っていたかのようにドアがノックされた。
 びっくりしたメディオンは、思わずシンビオスを落としそうになった。
「----うわっ!」
 シンビオスが小さく声を上げて、メディオンの首にしがみついてくる。
「----メディオン様! 夕食の時間ですぞ!」
「早く行かないとなくなっちゃいますよー!」
「キャンベル様に食べ尽くされちゃいますよ」
 ドアの向こうから、キャンベル、ウリュド、そしてシンテシスの陽気な声がする。
「---さ、先に行っててくれ!」
 メディオンは、やっとそれだけ応えた。
 動揺が声に表れていたのだろう。キャンベルが怪訝そうに、
「メディオン様。何かあったんですか?」
 と訊いてくる。
 いつも気の付くキャンベルを有り難く思っているメディオンだが、今このときばかりは厄介でしかなかった。
「いや、何もない」
 メディオンはやっと落ち着いてきた。だが、完全に冷静な状態ではないのは、まだシンビオスを抱き上げたままということから判る。
「少し昼寝をしていたから、服や髪が乱れてるんだ」
「あー、なるほど。----では、先に行っております」
 やや苦しい言い訳だったが、キャンベルは納得してくれた。
 3組の足音が部屋の前から去っていく。
 メディオンとシンビオスは、同時に安堵の溜息をついた。
「----びっくりしましたね」
 シンビオスが笑う。心を許した人だけに見せる親密な笑顔だ。
「うん。----ごめん。手が滑ってしまって…。怖かっただろう?」
 メディオンはやっとシンビオスを降ろした。
「ちょっとだけ。でも、大丈夫です」
 シンビオスは恥ずかしそうに、メディオンから一歩離れる。
「それにしても、邪魔が入って残念だよ」
 浮かない顔で呟くメディオンの頬に、シンビオスは伸び上がって唇を触れさせた。
「----また、夜に来ます。みんなが眠った頃に」
 首筋まで紅くして、顔を伏せてしまう。
 メディオンは、優しく愛おしそうにその頭を撫でた。

 待っている時間は遅く過ぎていく。
 もう10年も待った気分だ。
 ----もうそろそろかな…。
 メディオンは時計を見て、そう思った。針が止まっているんじゃないかと疑いたくなるくらい遅々と時間は過ぎ、やっともう日付も変わろうかという時刻になった。
 メディオンは何度、針を進めてやろうかと思ったことか。基本的な解決にはならないとは承知しているのだが、焦る気持ちがそう思わせたのだ。
 メディオンはドアまで行き、耳を付けた。何の音も聞こえない。みな、すっかり寝静まっているようだ。
 静かにドアを開けて、メディオンは廊下の様子を窺った。シンビオスの姿はまだ見えない。来るまで見ていようかとも思ったが、
 ----それもなんだか浅ましいような…
 気がして、メディオンはドアを閉めた。
 落ち着くために紅茶を入れることにする。
 お湯が沸いても、シンビオスは来なかった。
 紅茶がちょうどいい濃さになる。シンビオスはまだ来ない。
 1杯飲み干してしまった。----来ない。
 2杯目の半分まで飲んだとき、
 ----もしかして、眠ってしまったんじゃないか。
 メディオンは思いついた。今日はシンビオス軍の鍛錬の日だった。戦闘の疲れで、メディオンとの約束も忘れて眠り込んでしまった、とは充分あり得る。
 ----ちょっと、様子を見に行こうか。
 シンビオスの部屋のドアをそっとノックしてみて、返事がないようなら帰ってこよう。疲れているのを無理矢理たたき起こしてまで、というつもりは、メディオンには毛頭ない。
 残った紅茶を渇いた喉に流し込んで、メディオンは立ち上がった。静かに----誰の眠りも覚まさないように静かに扉を開ける。
 廊下はしんとしていた。ぼんやりと常夜灯が灯されているため、不自由はない。
 彼らが寝泊まりしている部屋は、それぞれの軍の本陣の奥にある。
 シンビオス軍の本陣から、部屋のある廊下へと行こうとしたとき、メディオンは人の声を耳にした。
「----こんな…中に……らにいらっしゃる………か?」
 メディオンは足を止めて、壁際に身を寄せた。
 辺りを憚って小さな声なので、切れ切れにしか聞こえてこない。
「…え…、どこ……わけじゃ……いけど…」
 これはシンビオスの声だ。
「鍛錬で……疲れ……しょう? …夜はもう……休み…さい」
 こちらはどうも、ダンタレスのようだ。
「解……。----お…すみ」
「お休……さい、シン……ス様」
 ドアの閉まる音が2回する。
 ----今夜は駄目らしいな。
 とにかくその場は適当にダンタレスを誤魔化しておいて、彼が眠った頃にもう一度こっそり抜け出す----シンビオスはそういうタイプではない。休むと言ったからには本当に休む。そして、そういうシンビオスだからこそ、メディオンは好きになったのだ。
 メディオンはそっと息を吐いて、今来た道を戻った。
 自軍の部屋の廊下に来て、ドアの下から灯りの漏れている部屋があるのに、メディオンは気付いた。来るときにはなかったはずだ。自分の部屋は消してきた。
 それがキャンベルの部屋だと判って、メディオンは躊躇うことなく静かにノックした。
 すぐに開けられて、
「----メディオン様? こんな夜中にどうなさったのですか?」
 キャンベルが顔を出した。耳まで真っ赤だ。
 大きい彼の体を押しのけるようにして部屋に押し入ったメディオンは、
「おまえ、今までダンタレス殿と呑んでいたのか」
 いつになく厳しい主の目つきに、キャンベルはたじろいだ。
「え、ええ。----ですが、何故…?」
「酒臭い」
「…それは失礼を。----ですが、どうして相手がダンタレスだとお判りになったのです?」
「知りたいか?」
「はい、できれば」
「なら、話してやる。最初から総てな。----どうせ、今夜は眠れそうにない」

「----それはそれは…」
 最初から余さず、今までの経緯をメディオンに聴かされたキャンベルは、何とも言えない表情を浮かべた。
「私は…一体なんと申し上げたらよいですかな?」
「何も言わなくていい。今はどんな慰めも虚しいだけだ」
 メディオンは、何度目か判らない溜息をつく。
「いえ、これだけは言わせてください」
 キャンベルは、メディオンの前に膝を折った。
「知らなかったこととはいえ、あなたのお邪魔ばかりした自分が憎い! どうぞ、気の済むまで罰をお与えください、メディオン様!」
「キャンベル、夜中だ。大声を出すな」
 メディオンは苦笑した。
「おまえを責めるつもりはない。今日はたまたま----タイミングが悪かっただけだ」
 実際、そうでも思わないとやっていられない。
「そうですね。故事に曰く『好事、魔多し』とも…。----シンビオス殿のお気持ちは間違いのないものなのですし、きっと想いを遂げられるときが来ますとも!」
 しかし、メディオンはキャンベルほど楽観的になれなかった。
「ダンタレス殿のことが気になる…。こんな夜中にシンビオスがどこに行こうとしたのか、彼はきっと気にしている」
 夜中だし、酔っていたこともあって、シンビオスの不審な行動についてさっきは深く追及しなかったダンタレスだが、朝になって冷静さを取り戻せばきっと、シンビオスから総てを聞き出そうとするはずだ。その結果、どうなるかは想像に難くない。
「ダンタレスは、シンビオス殿のこととなると目の色が変わりますからなあ」
 キャンベルもしみじみ呟く。腕を組んで暫く考え込んでいたが、
「よし、彼のことは私がなんとかしましょう! 巧くお二人から目を逸らさせます」
「----そう巧くいくか?」
 不安そうなメディオンの背中を、
「メディオン様。このキャンベルが今までしくじったことがございましたか? そして、あなたの信頼を裏切るようなことを?」
 キャンベルは力強く叩いた。
「私にお任せください! メディオン様の望みが叶うよう、必ずや巧く計らいますから」
「ありがとう、キャンベル」
 メディオンは頭を下げた。背中はじんじんと痛むが、胸は軽くなった。
「お礼などいいのですよ」
 照れくさそうに、キャンベルは顎髭を撫でた。
「----さ、今夜はもうお休みください。明日は我々が遺跡に潜る日ですよ」
「ああ、そうだった」
 メディオンは小さく笑った。
「お休み、キャンベル」
「お休みなさい、メディオン様」
 自室に戻ったメディオンは、すぐに着替えてベッドに潜り込んだ。
 ----本当なら、今頃はシンビオスが隣に寝ているはずだったのにな…
 昼間、彼を腕に抱いたときの感覚が、まざまざと蘇ってきた。
 頬に当たった柔らかい髪。首筋に巻き付いてきた腕。
 ----駄目だ。眠れなくなってしまう。
 メディオンは、頭の中の妄想を必死に振り払った。代わりに、もっと堅いこと----明日の鍛錬のことなどを考える。
 連れていくメンバーを全員決めきらないうちに、メディオンは眠ってしまった。

 翌朝。
 朝食のために食堂に行くと、シンビオスはもう来ていた。
 同じテーブルに、お付きの3人がもれなく着いている。
 特にダンタレスなど、いつも以上に硬い表情をしていた。
 これは近づけそうにない。メディオンは諦めて、ちょっと離れた席に向かった。
 ダンタレスがメディオンの方に顔を向ける。二人の目がばっちりと合った。
 メディオンは最初、先に目を逸らそうかと思った。だが、それもおかしな話だ。後ろめたいことは何もない。シンビオスに対する想いだって、誠実なものだ。
 真っ直ぐに見つめ返してくるメディオンの態度に、ダンタレスは戸惑った顔をした。しかし、彼もまた目を逸らすことはない。無言のまま、視線で重圧をかけてくる。
 この応酬は静かすぎて、周りの者達は最初誰も気付かなかった。あまりにも長いこと二人が固まっているため、徐々に不審がられてきた。----男二人が見つめ合ったまま動かないとなれば、確かに異様な光景である。しかも、明らかに色っぽい視線ではない。かといって、火花が散るような反目のものでもない。表現するのが難しいのだが、強いて言うなら、目線だけで相手を説得しているような、というのが最も近いだろうか。
 メディオンとダンタレスは、やがて同時に小さく息を吐き、同じタイミングで相手からやっと目を逸らせた。それも、ごく自然に、だ。
 そのため、固唾を呑んで見守っていたはずの周りの人々も、何事もなかったかのように普通に動き始めた。他愛のない会話がそこかしこから起こり、明るい笑い声が響く。
 そんな中、シンビオスだけは青ざめた顔をして、ぎゅっと唇を噛んでいた。

 鍛錬を終えたメディオンは部屋に戻り、汗を流してくつろいでいた。
 ----今朝のダンタレス殿の視線は、凄かったな…
 戦闘中も、メディオンはそればかり考えていた。
 ----だが私も…。シンビオスへの想いは本物だ。だから目を逸らさなかったのだが…、通じただろうか?
 ドアが、遠慮がちな音を立てた。あまりに小さくて、最初は空耳かと思ったほどだ。
「----シンビオス」
 ドアを開けたメディオンは、そこに愛しい人の姿を見いだした。
 シンビオスは顔を伏せている。
「とにかく、入って」
 そっと肩を抱いて、メディオンはシンビオスを導き入れた。
「お疲れのところ、ごめんなさい」
 顔を伏せたまま、シンビオスは言った。
「でも、どうしてもあなたに謝っておきたくて…」
「謝る? 何を?」
 メディオンは本気で解らなかった。
「…ゆうべのこと…。ここに来るって言ったのに、来られなかったから…」
「ああ…、そのことか」
 メディオンは、シンビオスが来られなかった理由を知っているから、今の今まで忘れていたのだ。だから、どうでもいい、と言った口調になった。
 シンビオスは身を震わせて、
「やっぱり…、怒ってますよね…」
 小さく呟いた。
「ごめんなさい。…ぼく、本当に来たかったんです…。あなたを騙そうとかからかおうとかじゃなくて、本当に…」
 メディオンは、自分の言葉がシンビオスを誤解させ、かつ傷つけたと知った。
「ああ、シンビオス。違うんだ、君を責めてるんじゃない。怒ってもいない」
 シンビオスの体をそっと抱きしめて、
「知ってるんだ、私は。君が何故来られなかったかをね」
「----え?」
 シンビオスが顔を上げる。涙こそ流れていなかったが、目は真っ赤だ。
 メディオンはシンビオスに軽くキスしてから、昨夜のことを話して聴かせた。
「----そうだったんですか…」
 シンビオスの声からは、安堵の響きがした。
「よかった…。今朝、王子の様子が変だったから、やっぱり怒ってるんだと思ってたんです」
「そうか…。いらぬ心配をさせてしまったね」
 メディオンはシンビオスの髪を掻き上げて、額に口付けた。
「それで、昨夜の埋め合わせはいつしてくれるんだい?」
 と、冗談のつもりでメディオンは訊いたのだが、
「----今からは…どうでしょう?」
 シンビオスが確かにそう答えた。消え入りそうな声だったが、間違いなくそう言った。
「今から?」
 しかし、メディオンは訊き返さずにはいられなかった。何度も肩透かしを食らって、疑い深くなっているのかもしれない。
 シンビオスは微かに頷いた。
「もし、王子が宜しければ…」
「いいに決まってるじゃないか!」
 メディオンはシンビオスの体を抱き上げて、ベッドに横たえた。
 ----今度は、最後まで邪魔は入らなかった。


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