アスピアでのことを、メディオンは忘れてはいなかった。 シンビオスと彼の軍のメンバーは、メディオンのそうせざるを得なかった事情を知って許してくれた。 だが、メディオン自身が自分のことを許せなかった。 あのとき----シンビオスから一瞬だったが憎しみを向けられて、メディオンの胸は張り裂けるように痛んだ。もともと、他人から向けられるマイナスの感情に対して、メディオンはひどく敏感だった。ましてや相手はあのシンビオス。初めて逢ったときから魅かれていた人物だ。 だから、いくらシンビオスが許してくれても、メディオンは彼に対して遠慮というか引け目というか、とにかく、以前のように気楽な思いで接することができなくなっていた。 レモテストで再会したときも、二人の間はどこかぎこちなかった。 メディオンは前述の理由から、シンビオスはといえば、メディオンに対して辛辣な言葉を吐いてしまったのを気にしていたのだ。 無論、シンビオスの方も肩身の狭い思いをしているなんて、メディオンは思ってもいないので、彼が自分と話すときに気まずそうにしているのは、アスピアでの件が尾を引いているせいだと考えていた。それで、メディオンはますます落ち込んでいたのだが。 ある日突然、シンビオスが頻繁にメディオンの許に来るようになった。初めて逢ったときのように屈託のない様子で、メディオンが前から彼としたいと思っていた色々な話をしたり、一緒にお茶を飲んだり、あまつさえ、メディオンが遺跡に潜るときには見送ってくれて、そのまま待っていてくれたりするようになった。 最初は戸惑い訝ったメディオンだったが、シンビオスが本当に許してくれたのだ、と嬉しく思った。そろそろ自分を許してもいい頃かもしれない。結局あれは不可抗力だったのだ、とメディオンは思い始めていた。 ところがその矢先、シンビオスはメディオンの前に姿を見せなくなった。 最初は、遺跡から出たときだった。いつも待っていてくれるはずなのに、シンビオスはいなくなっていた。寒い日だったし、メディオンもシンビオスの体の方が心配だったから、それはそれで構わなかった。その日は結局食事のときにも見かけなくて、風邪でもひいたのかとメディオンは心配になった。そこで彼の部屋に行ってみたのだが、シンビオスはいなかった。妙だとは思ったものの、疲れも手伝って、メディオンは深く考えなかった。 翌朝の朝食の席にも、シンビオスは現れなかった。いつも傍にいるダンタレスの姿もない。さすがに気になって、メディオンはジュリアンに、 「シンビオスはどうしたんだろう?」 と訊いてみた。 ジュリアンは素っ気無い口調で、 「さあな。俺はあいつの番人じゃねえから」 と答えた。もっともだとは思ったが、納得はできない。 そこに、ダンタレスだけがやってきた。もう食事を終えていたメディオンは、早速彼の所に行って、同じ質問をした。 「シンビオス殿はどうされたんですか?」 ダンタレスは一瞬困ったような顔をして、 「さあ…。もうお部屋にはいらっしゃらなかったので、こちらにおいでかと思ったんですが」 「そうですか」 メディオンは昨日の遺跡での戦闘で疲れていて、いつもよりも少し遅く起きていた。それで食事の時間もずれ込んだので、シンビオスと顔を合わせなかったのだろう。 「今日はシンビオス軍が遺跡に潜る番ですね。シンビオス殿に、気をつけるようにお伝え願えますか? ダンタレス殿」 「え、ええ。それは勿論です」 ダンタレスは妙な表情で頷いた。 シンビオスと会えないことについて、最初のうちは色々理由をつけて自分を誤魔化していたメディオンだが、こう毎日続くとさすがに疑心暗鬼になってくる。 ----やっぱり、シンビオスは許してくれていないんだろうか? 今までは気を遣ってくれていただけで、本当は私とは話もしたくなかったのかもしれない。…嫌いな相手でも、それをあからさまにしては遠征軍の団結にヒビが入るから。 そう考えると、メディオンはシンビオスを追えなかった。嫌われ避けられても仕方がないことを自分はしてしまったのだ。やはり無理だったのだ、と自分に言い聞かせるしかできなかった。 主が落ち込んでいるのを見て、キャンベルは黙っていられなかった。メディオンを励ましつつ、シンビオスの本意を探ろうと試みた。だが、何故かキャンベルさえもシンビオスには会えなかった。ダンタレスとジュリアンのガードが妙に堅いのだ。 ダンタレスはともかく、何故ジュリアンが。キャンベルはそこから突破口を探すことにした。すると、ある情報を得ることができた。 シンビオスがメディオンを待たずにいなくなったあの日、直前までジュリアンと何か話し込んでいたのを見た者がいたのだ。その後、妙にふらふらした足取りで歩いているシンビオスと、廊下ですれ違った者もいた。シンビオスは深く思い詰めたような顔をしていたという。 キャンベルはジュリアンを問いつめた。 「シンビオス殿に余計なことを言わなかったか?」 ジュリアンはうんざりしたような表情を浮かべて、 「なんで、おまえにそんなことを訊かれなきゃなんねえんだよ?」 「おまえの言ったことでシンビオス殿がメディオン様を避けるようになったのなら、黙っているわけにはいかん。…メディオン様を傷つけたらどういう目に遭うか、今ここで教えてやってもいいんだぞ?」 数多のつわもの達を震え上がらせた目つきで、キャンベルはジュリアンを睨む。 ジュリアンは肩を竦めた。 「俺はただ、シンビオスの相談に乗っただけだ」 「相談とはなんだ?」 「他人のプライバシーをべらべら喋れるか。知りたきゃ、本人に訊くんだな」 キャンベルはそうすることにした。今、シンビオス軍は遺跡に潜っている。出てきたところを待っていても、ダンタレスに阻止されるだろう。キャンベルは物陰に潜んで待ち、そっと後をつけて、やっとシンビオスが独りになったところを捉えることができた。 「シンビオス殿、ちょっと宜しいですかな?」 そう声をかけると、シンビオスは怯えたように身を硬くした。そういう態度を取られる理由が解らない。キャンベルは殊更優しい調子で、 「お手間は取らせませんから」 シンビオスは微かに頷いて、キャンベルを自分の部屋に入れた。 落ち着かない様子で両手を握り合わせながら、 「何のご用でしょう?」 シンビオスは訊いてくる。 「単刀直入にお尋ねします。シンビオス殿はメディオン様のことがお嫌いなのですか?」 キャンベルは冷たい口調にならないように気をつけながら、言った。 シンビオスはじっと唇を噛んで、首を横に振る。 「では…、やはりアスピアでのことが…」 キャンベルが言いかけると、シンビオスはまたしても首を振って、 「違うんです。…これは私自身の問題なんです。キャンベル殿、これ以上は何もお尋ねにならないでください」 強い口調で言い切る。さすがに、キャンベルも従わざるを得なかった。 キャンベルは主人の許に戻った。メディオンはいつもと変わらぬ様子で、妹のイザベラとお茶を飲みながら談笑していた。 キャンベルはメディオンを促して、廊下に出た。周りに誰もいないのを確認して、 「メディオン様。この際シンビオス殿のお心を、はっきりと確認なさった方が宜しいですよ」 「だが、キャンベル。シンビオス殿はきっと…」 メディオンは表情を暗くする。その肩を元気づけるように叩いて、 「シンビオス殿は、メディオン様のことはお嫌いではないと仰っていましたよ? ならば、他に理由があるのです。聴いてみれば些細なことかもしれません」 キャンベルは明るめな声で言った。 嫌われているのではないと聴いて、メディオンはほんの少しだけだが気分が軽くなった。 それに、いよいよ明日は決戦の日だ。こんな気持ちのまま臨んでも力を発揮し切れないだろう。いっそのことシンビオスの本心を知った方が、それが自分にとってどんなに辛いことでも、却って吹っ切れていいかもしれない。 「…ありがとう、キャンベル。そうしてみるよ」 キャンベルは微笑んで、もう一度メディオンの肩を優しく叩いた。 いざとなると勇気が出ない。 夕食の後、メディオンは中庭を歩き回って、冷たい空気の中で頭を冷やした。 シンビオスはメディオンのことを嫌いではないと言う。それでいて避けるのは、他に好きな人がいるからかもしれない。彼に対するメディオンの『想い』に気付いて、誤解を避けるために近付かなくなった、という可能性が高い。 その相手はダンタレスだろうか、それともジュリアンだろうか。 それをシンビオスの口から告げられて、自分は平気でいられるだろうか。メディオンには自信がなかった。 雪を踏んで、キャンベルがやってきた。 「メディオン様。お体が冷えてしまいます。中にお入りください」 メディオンは素直に従った。廊下の暖かい空気に触れて、ほっと息を吐く。 「シンビオス殿は、ジュリアンの部屋にいるようです」 メディオンはキャンベルを見つめた。 「…シンビオス殿は…、ジュリアンを好きなんだろうか?」 「友情以上の感情を抱いているようには見受けられませんが」 キャンベルの言葉はただの慰めかもしれない。それでも、今のメディオンにはありがたかった。 「とにかく、行ってみる。----ありがとう、キャンベル」 キャンベルは黙って頷いた。 ----ドアの前で、メディオンは一瞬躊躇した。脳裏を掠めた忌わしい想像を追い出すように頭を振って、ドアをノックする。 「----遠慮はいらないぜ」 すぐに、ジュリアンの返事がある。メディオンは安堵しつつドアを開けた。 ドアに背を向けているジュリアンと、向いに座っているシンビオスの姿が、メディオンの視界に納まる。 「王子。なんの用だ?」 ジュリアンが顔だけをこちらに向けて尋ねてきた。 「…シンビオスに話がある」 言いながら、そのシンビオスの顔が蒼ざめているのを、メディオンは見て取っていた。 「ジュリアン、悪いが席を外してくれないか」 「おい、王子…」 ジュリアンは言いかけたが、メディオンの瞳を見て何も言えなくなった。肩を竦めて、 「…手短に頼むぜ」 言いおいて、部屋を出ていく。 後は、気まずい沈黙だけが部屋を支配した。 シンビオスはメディオンを見ようともせず、膝の上で両手を握りしめて俯いている。 「…シンビオス、何か言ってくれないか」 メディオンの呼び掛けにも、びくりと体を震わせただけで、口を開こうとしない。メディオンは仕方なく、自分から訊くことにした。 「この頃私を避けていたね。…どうしてだい?」 「さ、避けてなんか…」 シンビオスは、掠れた声でやっとそれだけ答えた。 そのシンビオスの態度に、メディオンは最悪の事態を予測した。それならば言いたいことを言ってしまおう、と、メディオンはすっかり開き直った。 「…そうかな? このところはいつ訪ねても部屋にいないし、食事の時間もずらしていただろう。ダンタレス殿やジュリアンに訊いてみても知らないと言うばかりだし。…君があの二人に、そう言うように頼んだんじゃないのかい?」 言い過ぎかとも思ったが、メディオンはもうどうでもいい気分だった。 シンビオスは相変わらず下を向いたまま、なんとも答えなかった。 これで完全に嫌われただろう。メディオンは溜息をついた。 「君が私を嫌うのは仕方がないことだ、シンビオス。私はそれだけのことをしてしまったんだからね。----ただ、少し前までは君は頻繁に私に話しかけてくれた。だから許されたのだと思っていたのだけど…、…私の勘違いだったようだ」 ここまで言われてもなおシンビオスは無言のまま、メディオンと議論する気もないようだ。メディオンは諦めて、立ち去ろうとした。シンビオスに背を向ける。 椅子がガタン、と音を立てて倒れた。 「…待って! 待ってください、メディオン王子!」 シンビオスが声を上げて駆け寄ってくる。メディオンのマントを両手で掴んで、 「そんなつもりじゃなかった…、こんな風に貴男を傷つけるつもりじゃなかったんです!」 ぽろぽろと涙を零しながら言う。メディオンは戸惑ったが、自分の言ったことでシンビオスを泣かせてしまったと思うと辛い。小柄な体をそっと抱き寄せ、宥めるように頭を撫でた。 「シンビオス…、一体どういうことだい?」 シンビオスはしゃくりあげながら、 「----好き…、なんです…。でも、どうしても言い出せなかったんです…。迷惑じゃないかって思って…」 メディオンは我が耳を疑った。嫌われていると思ったのに実際は違って、それなのに避けられていて、迷惑だといえば、そんな態度を取られた方が余程迷惑だ。最初からそう言ってくれたなら、こんなに悩まずに済んだのに。 「…随分勝手だな、君は」 思わず、メディオンは言ってしまった。 「急に私を避けるようになったから、嫌われたのかと思っていたんだ。それなのに本当は好きだと言う」 「…ごめんなさい…」 メディオンの胸に顔を押し付けて、シンビオスは涙声で謝ってくる。まだ混乱していたメディオンは、謝罪の言葉よりも別の言葉を望んだ。 「謝らなくていい、シンビオス。それよりはっきりさせてくれないか。…君は本当は私が好きなのか嫌いなのか」 「…さ、最初の方です…」 シンビオスが消え入りそうな声で呟く。メディオンはそんなことでは納得しなかった。シンビオスの顔を上げさせて、 「それじゃあ判らないよ、シンビオス」 シンビオスは涙で潤んだ緑の瞳で、メディオンを見つめた。 「…好き、です」 そう言って恥ずかしそうに目を閉じる。そうなると、するべきことは一つしかない。 「私も君が好きだ」 メディオンは囁いて、シンビオスの唇に自分の唇を重ねた。 腕の中で、シンビオスの体が震える。苦しそうに吐息を漏らして、メディオンにしがみついてくる。取り敢えず、メディオンは彼を解放した。 ぼう、とした様子のシンビオスに、 「…これで許したわけではないよ?」 とメディオンは言った。シンビオスの今回の態度にはすっかり翻弄されてしまった。ちゃんとそれなりの償いをしてもらっても、罰は当たらないだろう。 「だけど、明日は大事な決戦の日だからね。総てはそれが終わってからにしよう。----いいね、シンビオス」 「はい、メディオン王子…」 シンビオスは顔を紅くして頷く。 「本当にごめんなさい…」 メディオンはシンビオスの頭をもう一度撫でた。 「もういいよ、シンビオス。はっきり自分の気持ちを君に伝えなかった私も悪かったんだ。アスピアでの件で、君に嫌われてるんじゃないかと思っていたからね」 「貴男を嫌うなんて、そんなこと…」 シンビオスは呟いて、 「ぼくの方こそ、貴男にひどいことを言ってしまったから…」 「ああ、もうよそう。自分を責めても仕方がない」 メディオンは微笑んだ。 「どちらも悪くて、どちらも悪くなかった、ということにしよう、シンビオス」 「そうですね」 シンビオスも笑顔を浮かべる。 その笑顔は、メディオンに明日のことを、そしてそれに続く日々のことを予想させるに充分なほど、愛らしいものだった。 |