フラガルドの城から、微かに見分けられる程度についた獣道を辿っていくと、木々と山肌に囲まれた小さな窪地に出る。簡単に跳び越せるくらいの澄んだ小川が流れている。腰掛けるのに丁度いい、苔むした岩が川辺にあった。
 職務を終えたシンビオスは、ここに来て手紙を読んでいた。
 光の遠征軍が解散してから十日。みなが以前のような生活を取り戻しつつあり、お互いの消息が気になり出す頃だ。
 カーンからの手紙によると、グラシアはエルベセムの復興に忙しいらしい。だが、以前よりもずっと逞しく、そして輝くように強くなった、ということだ。グラシア本人からの手紙でも、それは窺い知れた。控えめで静かな文調だが、前向きなものが感じられる。
 ジュリアンは、例の傭兵と再会できたとのことだった。全然変わっていなくて不思議な感じがした、と書いてあった。
 やはり父を亡くして領主を継いだハラルドは、シンビオスと同じようなことで悩んでいた。同じ境遇の人がいるのは心強い。辛いのは自分だけじゃないと判るからだ。彼とはこれから色々やり取りしていきたい、とシンビオスは考えた。
 トラスティン義兄とマーガレットからは、どんな些細なことでも相談してほしい、と、ありがたいことが書かれてきた。アグリードの手紙は可愛らしくて、シンビオスも思わず微笑んでしまう。
 ベネトレイムからのものは、やはり仕事の関係が多い。後は、アスピアの復興の様子や、アスピアに滞在している人々----メリンダ王妃やメディオン王子の様子について書かれてあった。
 そのメディオンからの手紙を、シンビオスは一番最後に取っておいた。本当はまっ先に読みたいところだが、敢えてそうしなかったのだ。
 他の者達からは初めての便りだが、メディオンとは以前から文を交わしていた。ただ、シンビオスは忙しくて、返事が遅れがちだった。だからといって、メディオンは催促することもなく、ちゃんと待ってくれていた。
 メディオン自身の瞳を思い出させる、柔らかい空色の封筒に、シンビオスはそっと唇を寄せた。丁寧に封を切って中の便箋を出す。
 流れるような文字を熱心に目で追っていく。
 内容は取り立てて特別なものではない。シンビオスを気遣う優しい言葉と、気持ちを明るくさせるユーモア。そして、深読みしなければ見過ごしてしまいそうな、さり気ない愛情の表現。
 それなのに、どうしてこんなに心が安らぐのだろう。
 いつも何度も読み返してみてその謎を解明しようと試みるのだが、はっきりした答は得られない。
 ----愛しているから?
 それもあるだろうが、それだけではない気もする。
 何度目か読み終えて顔を上げたシンビオスは、小川に鴨が泳いでいるのに気付いた。華やかな羽色の雄と、控えめな色合いの雌。つがいだろう。
 シンビオスの数メートル先で、彼らは岸辺に上がってきた。どこに行くつもりか、芝の上を歩き出す。
 ふと、雌が足を止めた。
 数歩先を歩いていた雄も止まり、雌を振り返った。だが、雌はその場にうずくまってしまった。再び動き出す気配もない。
 雄はただじっと待っている。
 そのまま成りゆきを見届けたい気もしたが、そろそろ夕食の時間だ。シンビオスは鴨を驚かさないように静かに立ち上がると、少し迂回してその場を立ち去った。
 暫く行って振り向いてみると、雌はまだ座り込んでいて、雄も雌を見守るようにじっと佇んでいた。

 夕食の後、シンビオスは自室で、手紙の返事を書いていた。
 最後にメディオンへのものを書いていると、頭にあの鴨のことが浮かんだ。
 ----結局、雄はずっと待ってたんだろうか。
 しびれを切らすこともなく、せかすこともなく、雌が自分の意志で再び歩き出すまで。
 ----まるで、メディオン王子みたい。
 手紙の件からも判る通り、メディオンにもそういうところがある。
 例えば、シンビオスが冗談混じりに、
「もう何もかも嫌になった。総てを捨ててどこかに行きたい」
 と言ったとする。
 勿論、本気ではない。大体、そんなことができるはずもない。
 ただ、疲れたときなど、現実を忘れたくて言ってみるだけなのだ。
 それでも、ダンタレスやグレイス、マスキュリンなら、立場上、とんでもない、何を仰るのです、などと諌めるだろう。
 だが、メディオンなら。
 何もかも承知の上で、
「君のしたいようにするといいよ、シンビオス」
 あるいは、
「じゃあ、二人だけでどこかに行ってしまおうか」
 こう言ってくれるに違いない。
 ----あ、そうか…。
 いつもメディオンの言葉に勇気づけられるのは、彼がいつでもシンビオスの味方でいてくれるからだ。
 シンビオスが一番言ってほしい言葉を、ちゃんとくれるからだ。
 そう思った途端、シンビオスの胸は締め付けられるように苦しくなった。メディオンの瞳を、声を思い出して切なくなる。
「…逢いたいです、メディオン王子」
 窓越しに夜空を見上げて、シンビオスは呟いた。

 翌朝。
 シンビオスが珍しく起きてこないので、ダンタレスは部屋まで行ってみた。
 ノックをしても返事がない。ドアを開けてみた。誰もいない。
 首を傾げながら部屋に入ったダンタレスの目に、机の上に乗った紙片が飛び込んできた。
 シンビオスの几帳面な文字で、
『アスピアまで行ってくる。今日中に戻るから』
 忠臣ダンタレスは、ハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
「『今日中』って、…シンビオス様…」
 ----…一日は24時までですよ、随分曖昧な表現じゃございませんか。
 ダンタレスは混乱の余り、どうでもいいことを考えた。ハッと我に返って、
「大体、いつ出ていかれたのだ…」
 ベッドには、眠った様子は見られなかった。では、夜の内に?
 ----まさかシンビオス様が、こんなことをするなんて。
 ダンタレスは厳しい表情で、暫くその場から動かなかった。

 ダンタレスが書き置きを発見した頃、それを書いたシンビオスは、メディオンの腕の中でまどろんでいた。
 これが初めてではなかった。
 遠征からの帰還途中、アスピアで、シンビオスがフラガルドに戻る前の晩に一度、愛を交わしている。
 それでも、慣れないことには変わりない。----メディオンは優しかった。
 シンビオスが目を開けると、メディオンも目を覚ましたところだった。
「…おはよう、シンビオス」
「おはようございます…」
 恥ずかしげに頬を染めるシンビオスの柔らかい唇に、メディオンはそっとキスした。
「----メディオン王子…」
 シンビオスはメディオンの胸に頬を擦り寄せた。ずっとこうしていられたらいいのに。
 だが、時間は容赦なく過ぎていく。
 シンビオスはため息を漏らした。
「…もう、行かないといけません」
「シンビオス…」
 メディオンはシンビオスを強く抱き締めた。領主として忙しい身でありながら、こうやって逢いに来てくれた彼を、メディオンは心の底から愛おしく感じていた。
「今度は、私の方から君に逢いに行くよ。----君が望んだときにはいつでも」
「…貴男は望んでくれないんですか?」
 シンビオスは、わざとそう訊いてみた。シンビオスの仕事の妨げにならないように、メディオンが気を遣ってくれているのは判っている。でも、聴きたかったのだ。メディオンの気持ちを。
 メディオンはちょっと笑って、
「私が君に逢いたいとき、となると、毎日お邪魔しなきゃならなくなるからね」
 やっぱり、シンビオスが欲しかった言葉を、メディオンは言ってくれた。
「それならぼくだって。毎日貴男に逢いたいです」
 シンビオスはひたむきにメディオンを見つめた。
「毎日、逢いに来てくださいますか?」
 返事の代わりに、メディオンは再びシンビオスに口付けた。

 身支度を整えた後、シンビオスはメディオンと一緒にアスピアを出た。 
 あんな手紙を残していなくなったシンビオスのことを、ダンタレスは酷く怒っているに違いない。まして、原因がメディオンだと承知しているダンタレスに、当の本人を会わせたらどうなるか。シンビオスは一人で大丈夫だからと言ったのだが、メディオンが、どうしても送っていく、と言って譲らなかったのだ。
 最悪の事態を想像しながらも、メディオンがいてくれることをシンビオスが心強く感じていたのも確かだ。
 フラガルドの町から、城に向かう。
 なんと、ダンタレスは城門の前に仁王立ちして、シンビオスを待ち構えていた。
「----ダ、ダンタレス、ただいま…」
 シンビオスが、些か引きつった笑顔で声をかけても、ダンタレスは無言だった。シンビオスとメディオンをじっと睨んでいる。
 とにかく、こんな所では話もできない。
 気まずい雰囲気のまま、彼らは執務室へ向かった。
「----ダンタレス、ごめん」
 部屋に入って、まずシンビオスが口を開いた。
「いきなりいなくなったりして。でも、どうしても王子に逢いたかったんだ」
 続いてメディオンも、
「ダンタレス殿。忙しい身であるシンビオス殿を、こんな時間まで引き留めてしまって申し訳ない」
 と頭を下げる。
「メディオン王子、やめてください」
 シンビオスがそれを制して、
「ダンタレス、私が勝手にしたことなんだ。メディオン王子を責めないでほしい」
「別に王子を責める気はありませんよ」
 ダンタレスはやっと口を開いた。
「私が怒っているのは、シンビオス様、夜中に一人でふらふらと出歩いたことに関してです。領主のすることじゃないでしょう? もし何かあったらどうなさるおつもりだったんですか?!」
「ご、ごめん。…でも…」
 口籠るシンビオスの言葉にかぶせるように、
「貴男がこんな突拍子もないことをなさるとは、夢にも思いませんでしたよ。----それほどまでに、メディオン王子にお逢いしたかったのですね。よく判りました」
 ダンタレスは一気に言って、シンビオスを見つめた。
「ですが、こんなことを続けられては、私の身がもちません。今度からは、メディオン王子に来て頂くようにしてください」
「勿論、ダンタレス殿が許してくれるなら、そうするつもりでした」
 メディオンが頷く。
 ダンタレスは首を振って、
「許すも許さないも、シンビオス様がそうお望みなら、私の口出しすることじゃございません。却って仕事の能率が下がっても困ります」
「ダンタレス、ありがとう!」
 シンビオスが満面の笑みを浮かべる。
 ダンタレスはやっと表情を和らげて、それでも幾分意地悪っぽく、
「それよりも、仕事が山積みですよ、シンビオス様」
 と、言ったのだった。


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