「シンビオス」
 後ろから声をかけられて、振り向く前に肩に手を置かれる。ゆっくり頭を巡らせると、思ったより近いところにメディオンの顔があった。
 驚きと戸惑いとときめきと恍惚感が、一度にシンビオスの体を駆けめぐった。ただ茫洋とメディオンの、あの不思議な瞳と、上品な口元を見やる。
 そんなシンビオスの状態など知らぬげに、
「あのね、----のことだけど」
 メディオンは話を始めた。
 今のシンビオスにとって、メディオンの声は上質な音楽に過ぎなかった。----つまり、内容がまったく頭に入っていなかった。
「----それでどうだろう?」
 この台詞が辛うじて脳に到達し、はっと我に返ったシンビオスは、メディオンの話をまったく聴いていなかったことに気付いた。メディオンの顔ばかり見ていたのだ。途端に、決まり悪さと恥ずかしさで頬が熱くなっていく。
「す、すいません、メディオン王子。----あの…」
 言いかけると、メディオンは優しく微笑んだ。
「あ、やっぱり聴いてなかったんだ」
 ずばり言い当てられたのに加えて、至近距離でメディオンの笑顔である。シンビオスはいっそういたたまれなくなった。
「す、すいません! ----えーっと…」
 シンビオスの必死な声に、
「…廊下でキスでもする気か?」
 からかいを含んだ男らしい声が重なった。
 そちらを見ると、ジュリアンが人の悪い笑みを浮かべて立っている。
 焦ったシンビオスは、跳び退さるようにメディオンから一歩離れた。対してメディオンの方は、さほど慌てた様子もなく、シンビオスの目線に合わせて屈めていた腰を伸ばした。
「二人で何しようと勝手だけど、廊下でっていうのはどうかと思うぜ」
 ジュリアンは、いつも通りふざけた調子で茶化してくる。
「なっ、そ、そんなことするわけないだろう!」
 堪りかねて、シンビオスは叫んだ。
「大体、王子と私は別にそんな間柄じゃないし」
「…気の毒に」
 ぼそ、とジュリアンが呟くのを、シンビオスは聞き咎めた。
「な、何が?」
「いーや、なんでも」
 ジュリアンはにやにや笑ってメディオンの方を見た。シンビオスもつられて、メディオンに目を移す。いつもと同じ、涼しげな表情だ。
「ジュリアン、そろそろ鍛錬の時間じゃないのか?」
 そう言う口調も普段通りだ。
「はいはい。邪魔者は消えますよ」
「…だ、だから! そんなんじゃないって…」
 シンビオスの言葉を遮るようにジュリアンは手を振って、廊下を去っていった。
「----まったく、ジュリアンときたら」
 シンビオスは一つ息を吐いてから、メディオンの方を振り向いた。
「すいません、メディオン王子。お気を悪くされたでしょう?」
「…どうして?」
「だって、ジュリアンがあんなことを…。----あんな、あり得ないことを…」
「どうして?」
 同じ問いを同じ口調で投げかけられて、シンビオスは戸惑った。
「どうしてって…。王子が私に…キス…なんてするわけないじゃないですか」
「どうして?」
「----だって、王子がそんなふうに私のことを考えているはずがないし…」
「どうして?」
 メディオンは同じ問いかけを続けてくる。短いが、シンビオスの想いを総て吐き出させるような、的確な言葉で。
「……………」
 とうとう、シンビオスは答に詰まった。
 メディオンは寂しげにふ、と微笑んで、軽く肩を竦めた。
「それはきっと、君が私のことをそんなふうに考えていないから、ってことでいいのかな」
「----え?」
「困らせてごめんね、シンビオス。ジュリアンにあんなことを言われて、君は迷惑だったんだね。私は、----図星を刺されて焦ったんだけど」
「…え。それって…」
「うん、いや、いいんだ。忘れて、ね」
 そう言って去っていくメディオンの後ろ姿をシンビオスはただ見つめていたが、やがてやっと今すべきことに気付いた。急いで追いかけて、
「ちょ、ちょっと、メディオン王子!」
 なお歩みを止めないメディオンの腕を両手で掴まえて、無理矢理引き止める。
「勝手に早合点して、勝手に納得して、勝手にいなくならないでくださいよ」
 メディオンは振り向いた。その瞳には、もの問いたげな風情が溢れている。
 シンビオスは 照れ隠しの咳払いをしてから、
「あ、あのですね。----私は迷惑だなんて思ってません。むしろ、メディオン王子の方が迷惑だと思ってるんじゃないかと心配して…」
 メディオンが小首を傾げてシンビオスを見つめる。さっきのように、『どうして?』の応酬にも参ったが、今の、無言のうちに瞳だけでなされる問いかけにもかなり困惑させられる。
「だからですね…。----王子が私のことをそんなふうに考えてるなんて、全然想像したことも----いえ、ちょっとは想像してみたこともありますけど、でも、まさか、そんな、あり得ないでしょ…。…そんな----幸運なこと…」
 メディオンは目を細めてシンビオスを見つめている。口元には愛おしげな笑みが浮かんでいる。
「『幸運なこと』----本当にそうだね」
 メディオンはゆっくりと言った。
「もし良ければ、その『幸運』についてもっと語り合いたいんだけど、どうだろう? ----ああ勿論、こんな廊下でじゃなく」
 シンビオスは、ただ頷くよりできなかった。幸せの予感が胸を塞いで、息苦しくなる程だ。
 そしてメディオンの部屋に場所を変えた二人は、お互いの言う『幸運なこと』が同じことを指すのを確認した。----その後、廊下ではとてもできないようなことにまで至ったのは、もはや言うまでもない。


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