暗い暗い海の底から、晶は浮かび上がってきた。
「…良かった…。気が付いたのね」
 目の前に、見知らぬ少女の姿があった。
 声を出そうとして、晶はむせ返った。
「だ、大丈夫?」
 少女が彼の背中を叩く。ひとしきり咳をして、晶はやっとかすれた声を出した。
「ありがとう…。…君は?」
「私はユナ。ここは、ツィーリンという小さな村よ」
 少女は、沸いたお湯をカップに入れながら言った。
「あなた、海岸に倒れてたの」
「そうか…。で、君が助けてくれたんだね。ありがとう」
 礼を言われて、ユナは紅くなった。それから、晶に湯気の立っているカップを差し出す。
「ありがとう」
 晶はカップを受け取った。そのまましみじみと中身を眺める。
「不思議な香りでしょ?」
 ユナが笑って、
「大丈夫。この村に昔から伝わる、ハーブティなの。殆どの怪我や病気なんて、これ1杯で30分もすれば治っちゃうわ」
「そうなんだ」
 晶はぽつりと言うと、意を決して一気に飲み干した。
「凄い。これを一気に飲んじゃうなんて。ーーーーひょっとして、お口に合った?」
 ユナが眼を丸くして訊くと、
「…なんだか、凄く効きそうな味」
 晶はそれだけ言った。
 ユナは笑って晶からカップを受け取った。
 晶は朦朧とする頭を振って、
「そうか…。嵐に遭って、オクトラパトスをやっつけて…」
 ゆうべのことを思い出すため、彼は自分に言い聞かせた。
「波で船が揺られて、海に落っこちて…」
 ここで、ハッと気付いた。
「そうだ! デイヴィ! ーーーーねえ、デイヴィは? 彼はどこ?」
 晶が勢いよく訊く。ユナは戸惑った。
「ーーーーデイヴィ?」
「ぼくを助けようとして、海に飛び込んでくれたんだ。ーーーー彼は無事?」
「…私が見たのは、あなた1人だったわ…」
 ユナの答に、晶は慌てて立ち上がった。
「探しに行かなきゃ」
 途端にふらつく。
「駄目よ! もう少し休んでなきゃ!」
 ユナが晶の体を押して、強引に座らせた。
「…ごめん」
 晶も素直に従って、再び布団にもぐり込む。
「私が探してくるわ。別の海岸に打ち上げられてるかもしれないし、他の家に助けられてるかもしれない」
 ユナは頷いて、
「どんな男(ひと)なの?」
「すぐ判るよ。長い黒髪で、黒い鎧を着けてて…、ぼくよりもずっと綺麗な男(ひと)だから」
「……………」
 晶の口調に何を感じたか、ユナは暫く黙っていたが、
「解ったわ。待ってて。必ず見つけてみせるわ」
 と強い口調で言い、家を出ていった。
 
 晶が鎧に着替え、ぼんやりと座り込んでいると、ユナが帰ってきた。
「ユナ!」
 弾かれたように、晶は立ち上がった。
「デイヴィは?」
 ユナは寂しげに晶を見つめ、一言、
「ついてきて」
 2人は家を出た。
「村の長老が、最初にあなた達を見つけたんですって」
 歩きながら、ユナが晶に話して聴かせた。
「お互いに庇い合うように倒れてたって…。長老は、まずデイヴィを先に自分の家に運んで、もう1度、今度はあなたを運ぼうと戻ってみたら、もうあなたはいなかった…。私が運んだ後だったの」
「よかった…。デイヴィはここにいるんだね」
 晶が素直に喜ぶ。ユナは目を伏せて、
「ええ…」
 とだけ言った。
 2人は、小さな村の中では大きめだが、かなり古い家までやって来た。
「で、彼は無事なの?」
 晶の問いに、ユナの手は玄関のドアにかかったまま止まった。
「ーーーーユナ?」
 晶の眉が寄った。
「ーーーーまさか…」
「…大丈夫。生きてるわ」
 ユナは絞り出すような声を出し、扉を開けた。
「生きてはいるの…。でも…」
 晶はユナの言葉が終わるのを待たずに、家の中に飛び込んだ。中にいた、皺だらけの老女が振り向く。そして、その後ろにベッドが見えた。
「デイヴィ…。デイヴィは…」
 老女は晶を上から下まで繁々と眺め、
「おまえ、この男の連れかい?」
 百年の眠りから、やっと醒めたような声であった。
「ええ。そうです」
 晶はぼんやりと呟き、老女の横を通ってベッドの横に跪いた。
「こんな綺麗な男達にいっぺんに会えるなんて、長生きはするもんじゃのう」
「…長老、今はそんなこと言ってる時じゃないでしょう」
 老女ーーーー長老とユナの会話が、晶の耳に遠く聞こえた。
 デイヴィは眠っていた。鳩尾の上で組み合わされた手が、規則正しい呼吸に合わせて上下している。でなければ、死んでいるものと思っただろう。それほど安らかな顔だった。
「デイヴィ…」
 晶の呟きに、ユナは胸が締めつけられる思いがした。そこには、見つけたという喜びと、安堵の響きが滲んでいた。
「デイヴィ」
 もう一度そっと呼びかけ、晶はデイヴィの唇に触れた。自分の唇で。それから彼の胸に自分の顔を押しつける。
「…どうだね? 息もしておるし、心臓もちゃあんと動いとるじゃろう?」
 長老の問いに、
「ええ。確かに」
 晶は冷静に答えた。
「でも、いつ目が醒めるの?」
 長老は首を横に振った。
「彼は恐らく…、蜃に噛まれたんじゃろう」
「しん?」
「蜃というのは、この辺の海に住む巨大な貝のことよ」
 ユナが説明した。
「いつもは海底深くで、夢を見ながらまどろんでるんだけど、たまにーーーーゆうべみたいな嵐の晩には、眠りから醒めるといわれてるわ」
「その時蜃に噛まれたものは、蜃のように眠り続け、夢の中で生きるようになってしまうのじゃ」
 長老が辛そうに言葉を続けた。
「…で、どうすればいいの?」
 晶は、デイヴィの寝顔に目を留めたまま訊いた。
「……………」
 長老とユナは顔を見合わせた。やがて、長老が口を開いた。
「それがの…。なにせ、わしの生まれるずーっとずーっと昔、こういうことがあったと文献に載っているだけなのじゃ。だから、ハッキリしたことは言えん」
 晶が長老の方を振り向いた。その瞳に、長老はうろたえた。そこには哀しみも絶望もなく、ただ、何かを決意した強い意思だけがあった。
「その本にはなんて?」
 静かな口調だが、有無を言わせぬ何かを秘めている。
「…ここから東の山に、蒼龍(そうりゅう)が住んでおる。四聖を統べるといわれる龍じゃ。『彼が知っている』と、その本にはそれだけが書かれていた…」
「東の山か…。ーーーーありがとう」
 晶は立ち上がった。
「----ま、待て! 待つのじゃ!」
 長老が慌てて声を掛けた。
「東の山に行くつもりなら、ユナを連れていけ」
 晶は足を止めて振り向いた。
「ユナを? ーーーーでも」
 戸惑った様子の晶に、長老は力強く頷いてみせた。
「ユナは強力な魔法を使える。足手まといにはならんはずじゃ。それに、巫女じゃからのーーーー蒼龍に会うのは難しいが、ユナがいれば確実に会えるじゃろ」
 ユナが立ち上がって、晶の傍まで歩いていく。
「そういうことなら…。宜しく、ユナ」
 晶が優しく微笑む。ユナは頬を染めて頷いた。
「こちらこそ、宜しくお願いします。ーーーーあら?」
 ユナは照れ笑いしながら晶を見上げて、
「そういえば、まだ名前も訊いていなかったわね」
「あ、そういえば。…ごめん。ーーーー晶だよ」
「晶、ね。----じゃあ、行きましょう、晶」
「くれぐれも気を付けるのじゃぞ」
 長老の言葉に、晶は振り返って頷いた。
 
 晶とユナは、険しい山道をひたすら登り続けた。勿論、モンスターも出る。ユナは何度も挫けそうになったが、その度に、前を黙々と歩く晶の後ろ姿を見て、頑張らなくちゃ、と思い直した。
 晶がどういう想いを抱いているのか、その胸中を想像しただけで、ユナは胸が苦しくなってくるのだった。
 同時にーーーーこんなことを言ったら、世界中の人からの非難を受けるかもしれないがーーーー今まで感じたことのないほど、彼女は幸せだった。晶を手助けを出来るのが嬉しかった。晶のために自分に出来ることがあるのが嬉しかった。勿論、自分の気持ちを晶に伝える気はユナにはないし、伝えたって意味のないことは解っている。でも、だからこそ、ユナは今の瞬間を大事にしたいと思った。この気持ちを誰が責められるだろう。晶に会った人は、皆、同じ想いを胸に抱くのだ。
 いきなり晶が足を止めて振り向いたので、ユナはドキッとした。あるはずのないことだが、自分の気持ちに気付かれたのかと思ったのだ。
「ーーーー疲れた? 少し休もうか?」
 労りを込めて、晶が尋ねる。一刻も速く蒼龍の所に着きたいのだろうが、ちゃんと他人にも気を遣う。こういう少年なのだ、彼は。
「ううん。平気よ」
 精一杯明るい笑顔で、ユナは答えた。
「でも、顔が紅い。暑いんじゃない?」
 本気で心配そうに晶が言う。ユナは慌てた。
「ち、違うの。これはーーーー」
 出し抜けに、見かけよりずっと力強い腕に腰を抱かれた。
 ユナの頭が真っ白になる。反応できる間もなく、2人は宙を跳び、晶はユナを庇いつつ草むらに転がった。
 今まで2人が立っていた頭上すれすれの所を、何かがかすめていった。同時に、凄まじい風圧と、呪詛のこもった鳴き声が響く。
「ルフ鳥だ」
 ユナの耳元で、のんびりした声がした。
 7mもある巨鳥は、獲物を捕らえ損なったのを恥じて、そのまま飛び去っていった。
「怪我はない?」
「ええ…。ありがとう、晶」
 今頃になって、ユナは照れくさくなった。なんとなく俯いてしまう。
 逞しい手が目の前に差し出された。ユナは自分の手を重ね立ち上がる。このまま縋りたいという心を、彼女は必死に抑え込んだ。
「さ、行こう。頂上はもうすぐだよ。頑張って」
 晶が微笑んだ。
 胸の奥の微かな痛みを隠して、ユナは晶の後をついていった。

 何度も角を曲がり、何度もモンスターを倒して、晶とユナはやっと山頂に到達した。足元には、黒々と口を開けている火山口が広がっている。
「死火山なの?」
「いえ。いつの頃からか蒼龍が住み着いて、それから活動を停止しているの。蒼龍がいなくなれば再び活発になって、村は一溜まりもないでしょうね」
「そうなんだ。大変だね」
 同情を込めて晶は呟き、
「じゃあ、ユナ、頼むよ」
 ユナは頷き、目を閉じて何事か呟いた。大地が揺れ、火口から蒼い煙が立ち込める。
〔ーーーー我を呼ぶのは誰だ〕
 腹に響く声がした。
「私です。ツィーリンのユナです」
 ユナが叫んだ。
「蒼龍よ、姿をお見せください!」
 その刹那、突風と共に煙がながれ、晶とユナは目を閉じた。
 再び目を開けた時には、煙も晴れ、偉大なる龍がその姿を現していた。
「おお…」
 ユナは思わずひれ伏した。対して、晶は
「あなたが、蒼龍ですか?」
 全く変わらない口調。ユナがハッと顔を上げる。
〔そうだが。ーーーーおまえは?〕
 やや戸惑いを乗せて、蒼龍の声が響いた。
「ぼくは晶です。ーーーーあなたにお願いがあって来ました」
〔…………………〕
 蒼龍は晶を見つめた。晶がどういう人間か測りかねたのだ。今まで蒼龍が会ってきたのは、ユナのような人間ばかりだった。彼の威光に戦き、崇め奉る。しかし、晶は違った。無礼なわけではない。無知なわけでもない。その証拠に、その紅茶色の瞳の奥に輝く光は、強い精神を示している。
 蒼龍の沈黙が余りに長いため、ユナは緊張の余り息を殺していた。蒼龍は怒ったのだろうか? 神の機嫌は人には計り知れない。
 四聖は直接人に危害を加えることはない。だが、もし蒼龍が怒ったとしたら、もうこの火山から出て行ってしまうこともあり得る。そうなれば火山が噴火し、村は一溜まりもないだろう。
 どれだけの緊張の時間が流れたか。
〔ーーーー面白い…〕
 蒼龍は思わず呟いた。
〔この世の中、おまえのような、強く純粋な魂を持った者がいたとは…〕
 ユナは詰めていた息を吐き出した。なんにせよ、どうやら蒼龍に気に入られたらしい。
〔我ら四聖は畏まった話し方は苦手だ。気楽に話せ〕
 蒼龍は優しく言った。
 晶は頷いて、
「実は…」
 と言いかけると、蒼龍はそれを遮って、
〔解っている。我はここにいながらにして、総てを知ることが出来るのだ〕
「それは凄い」
〔い、いや、それ程でもないが〕
 晶の口調に、本気で感心しているのだと気付いて、蒼龍は戸惑った。こんな反応は初めてだ。どうも調子が狂う。
〔ーーーーところで、おまえは、蜃に噛まれた人間を助けたいのだな〕
 晶は頷いた。
〔その人間は、おまえにとってどういう者だ?〕
 からかうような口調にも、晶は全く気にせず、静かに蒼龍を見つめ、
「ぼくの総て」
 清々しささえ感じさせる口調で、きっぱりと言い切った。
「……………」
 ユナが、切なげな瞳で晶を見た。
〔そ、そうか〕
 さすがの蒼龍も、馬鹿なことを訊いた自分を恥じた。
「…どうしたら、彼を助けられるの?」
 ひたむきに自分を見つめる目線を、蒼龍は穏やかに受け止め、
〔…北の湖に、一匹の亀が住んでいる。名を、玄武という。その甲羅に生える苔を持ってくれば、おまえの想い人を助ける方法を教えよう〕
「北の湖の、玄武…だね? …ありがとう」
 踵を返した晶を、蒼龍が呼び止めた。
〔これを持っていけ〕
 放物線を描いて、蒼龍の手から晶の手に、きらめきが走った。
「これは…?」
 手の中に落ちた物を見て、晶が茫洋と呟いた。彼の手に丁度納まるくらいの大きさで、向こうが透けるほど薄い。そして、微かに虹色に輝いている。
〔我の鱗だ。お護り代わりというところか…。後で、何かの役に立つだろう〕
「ありがとう」
 晶はもう一度礼を言って、ユナと一緒に山を降りていった。
 
「あ、モンスターだ」
 木の幹に隠れ、こちらの様子を伺っている銀狼に、晶は気付いた。
「変ね…。何故襲いかかってこないのかしら」
 不思議そうに言うユナを残して、晶はすたすたと歩み寄った。
「こんにちは」
 と手を挙げてみた。銀狼の獰猛な性格を考えれば、逆上して襲いかかってくるに違いない行為だ。こんなことを平気でやるなんて、なんて惚けた男(ひと)だろう。ユナは晶の神経を疑った。そして、そんなところをますます好きになってしまう。
 しかし驚いたことに、銀狼は襲いかかってくるどころか、毛を逆立ててキャンキャンと情けない声を出し、後ずさりし始める。
「…さっきはかかってきたくせに」
 晶は顎に手を当てて考えた。
「ーーーーひょっとして、これのせい?」
 懐から蒼龍の鱗を取り出し、銀狼の目の前に翳す。効果てきめん。ギャン! と一声哭くや、モンスターは尻尾を丸めて一目散に逃げだした。
「まあ…。さすが蒼龍。凄い威力ね」
 ユナが感嘆して呟く。
「そうだね。ーーーー煩わされなくなるのは有り難いな」
 一刻も早くデイヴィを助けたいのに、モンスターにかかずらっていては余計な時間を取られることになる。それに、戦い慣れている自分はともかく、民間人であるユナに余計な負担をかけるのも、晶は心苦しく感じていた。
 すっかり快適になった道を、2人はどんどんと進んでいった。

 湖に着くと、玄武は2人を待ち構えていた。
〔おお、よく来たのう〕
 大人2人は楽に乗れそうな大きさで、苔どころか盆栽まで生えている亀は、眼を細めて2人を眺めた。
「実は、玄武…」
 晶が切り出すのを、
〔解っておる、解っておる〕
 玄武は何度も頷いて止めた。
〔わしの身体の苔が欲しいんじゃろ〕
「ええ。少し分けて下さいませんか」
 ユナが丁寧に言った。蒼龍はああいってくれたものの、やはり敬語になってしまう。巫女としては当然の反応である。
 そんなユナの奥ゆかしさを好ましく思ったのだろう。玄武は優しく笑って、
〔勿論じゃ。ーーーーじゃがの〕
「なに?」
 玄武は、内緒話のように声を落として、
〔実は、わしゃ、最近身体の調子が悪くての〕
「え。大丈夫なの?」
 突然の話の急展開に悩みながらも、晶は心配して言った。
〔うむ。水に浸かってばかりいるから、冷え性になってしもうた〕
「……………」
「……………」
 晶とユナは、どこまで信じていいものやら、顔を見合わせた。
「…それは、辛いね」
 一応、そう言っておいた。
〔うむ。それで、薬を作ろうと思うのじゃが、1つ材料が足りん〕
「はあ」
 だんだん、言いたいことが読めてきた。
〔そこで、おまえ達に取ってきて貰いたいのじゃ。なにせ、この巨体じゃ。わしは思うように歩けないからの〕
「そうだろうね」
 晶は、玄武が歩くところを思い浮かべてみた。遅い。しかも、一足ごとに大地が揺れる。これはやっぱり駄目だろう。
〔西の森の洞窟に、白虎が棲んでおる。奴の眉間に生えている毛が1房必要なんじゃ〕
「白虎の眉間の毛を1房? それでいいんだね?」
 晶は胸を叩いて、
「任せといて」
〔じゃあ、頼んだぞ。苔は帰ってきた時に渡そう〕
「うん。…あ、玄武」
〔なんじゃ?〕
 晶は自分の立っている場所を指して、
「そこよりも、こっちの方が日当たりがいい。ーーーーうん、ここ。ーーーーね? あったかいだろ?」
〔…本当じゃの〕
 玄武は顔をほころばせた。
「じゃあ、なるべく急いで帰ってくるから。ーーーーそれまで頑張って」
〔ああ、ありがとう。ありがとうよ〕
 玄武は、晶とユナの後ろ姿をじっと見送っていたが、やがて見えなくなると、しみじみと首を振って、
〔なんとも優しい子じゃ…。白虎よ、くれぐれも手荒な真似はせんようにな〕
 と、呟いた。
 
 西の森は、光が満ち溢れていた。
 晶もユナも、しばし言葉を忘れ、その幻想的な景色に見入った。
 鳥が歌い、木漏れ日が輝く。言葉にすれば壊れてしまいそうなので、2人は何も言わずに歩いていった。
 ーーーーこんな所を、恋人と手を繋いで歩けたら素敵だろうな。
 ユナは18の娘らしいことを考え、隣を歩く晶をちらっと見た。手も繋いでないし、ましてや恋人なんてとんでもないけれど、ユナは充分嬉しかった。晶が誰を好きでも構わない。ーーーー彼が好きな人なら、きっと素敵な人に違いないから。
「ーーーーねえ、晶」
 ユナは静かに口を開いた。
「デイヴィって、どんな男(ひと)?」
 答はすぐ返ってきた。
「最高に素晴らしい男(ひと)だよ」
 いつになく、感情が込もっている。
「そうなの…」
 その答と声に、ユナはそれ以上聴かなくても、ちゃんと解った。晶がどれほどデイヴィを愛しているかを。
 風に乗って、低い声が聞こえてきた。
〔…随分と、甘いことを言う〕
 ドスの利いた声に、晶は振り返った。ユナが彼の後ろに廻る。
 茂みを揺らして、銀色の虎が姿を現した。
「…あなたが、白虎?」
 低く唸る獣に、晶は声を掛けた。
〔いかにも〕
 威嚇するように、雄叫びを1つ、白虎は上げた。ユナが身を縮める。
 しかし、晶は平気な顔で、
「へえ。ーーーーだね」
〔なんだって?〕
 白虎は訊き返した。予想外の台詞に、耳が反応しなかったのだ。
「綺麗だね」
 晶はのんびりと繰り返した。
〔……………〕
 ----なんだ、こいつは。
 白虎は恐怖さえ感じた。彼を恐れないどころか、綺麗だという。
「あなたに、お願いがあってきたんだけど。あなたの眉間の毛を1房、もらえないかな?」
 白虎の当惑をよそに、晶はどんどん話を進める。
〔なんだって?〕
「だから、あなたの眉間の…」
〔俺の眉間の毛など、一体なんに使うのだ?〕
 晶の見かけに寄らぬ強引さに辟易したのか、白虎の声には諦めの色がある。
「玄武に頼まれたんだ。冷え性の特効薬なんだって?」
〔この俺の毛を、冷え性なんぞの特効薬だと?! ーーーーふざけるな!〕
 白虎が怒鳴った。その咆哮は木々を揺すり、大地を震わす。鳥達が驚いて一斉に飛び立った。
「あ、晶…」
 ユナはすっかり恐れをなして、無意識に晶の腕に掴まろうとした。その腕が、すっと遠のいた。
 晶は吠える白虎の前に進み出ると、
「『なんぞ』じゃない。本人にとっては、本当に辛いことなんだから。そんな言い方、失礼だ」
 真剣な顔で諭す。
〔なんだって?〕
 白虎は晶を睨んだ。
〔この俺に、説教をーーーー〕
 晶は臆すことなく、白虎を見つめ返した。その澄んだ瞳に、白虎の怒りは急速に萎んでいく。
〔ーーーーお、おまえ…、一体何者なんだ…〕
 永い永い沈黙の後、白虎は喘ぐように言った。
〔なんなんだ、おまえは…。何故俺を恐れない。何故、そんなに澄んだ眼をしている。…何故…〕
「何者、って言われても、困るけど」
 晶は彼らしい応じ方をして、
「ただ、あなたがぼくの眼を『澄んでる』って言ってくれたように、ぼくはあなたの眼をとても優しく感じるんだ。どこかで見たような感じが…」
 そう言うと、晶は考え込んだ。
〔俺の眼が、『優しい』?〕
 白虎は呆然と呟いた。その眼が大きく見開かれる。
〔おい、おまえ、ーーーーそれは!!〕
「え? ーーーーああ、これ?」
 晶は手にした物を白虎に示した。白虎が乱暴にそれをひったくる。
〔こ、これは…、蒼龍の鱗!〕
 まじまじと矯めつ眇めつしていたが、
〔ーーーー面白い〕
「何が?」
 こちらも思考状態から我に返って、晶が訊く。
 白虎はにやりと笑うと、
〔蒼龍が鱗を渡すーーーー即ち、その者を認めたということ…。面白い〕
 白虎は繰り返した。それから晶を見つめ、
〔蒼龍が認めた男…。俺も試してみたい。ーーーー南の滝の上に、一本の梧桐が生えている。そこには、我ら四聖の中でもとりわけ気位の高い、朱雀が棲んでいる。そいつの羽を持ってくれば、俺もおまえを認めよう〕
「認めて、それからどうするの? ーーーー眉間の毛をくれる?」
 厄介なことになったな、と晶は思いつつ、育ちがいいので顔には出さなかった。
〔やろう〕
 晶は白虎に鱗を返して貰った。
「ユナ、疲れただろうけど、もう少し付き合ってくれる?」
 ユナは頷いた。これほどまで優しく言われては、誰だってそうするに違いない。
 晶はユナを促して、南に向かった。が、数歩行って足を止める。
「ーーーー解った。あなたの瞳、デイヴィに似てる」
〔デイヴィ?〕
「ぼくの大切な人」
 晶は、白虎がどきっとするほど優しい眼と声で言った。
〔……………〕
 白虎が黙り込んでしまったのを見て、晶は再び歩き出した。その背中に、白虎は今までしようとも思わなかったことを言った。
〔…気を付けろよ〕
 晶は頷いた。
 その姿が見えなくなってから、なんであんなことを言ってしまったんだろう、と、白虎は自分を訝しみ、あの時の晶の笑顔を思い出して、ま、いいか、と思い直した。
 
「厄介なことになっとる」
 水晶玉を覗きながら、長老は呟いた。
「あの2人のことじゃから、大丈夫じゃろうとは思うが…」
 長老はデイヴィの所に戻った。相変わらず、身じろぎもせずに眠っている。
「やれやれ…。おまえにも、ちゃあんと”視えとる”んじゃろう? 晶が今何をしとるか。ーーーーおまえのために、晶がどれだけ苦労しとるか。だったら、少しは自分で目醒めようとせんかい!《黒い悪魔》の根性を見せてみるのじゃ!」
 長老は一気に怒鳴り、それからため息をついた。
「ーーーーなんて、言っても無駄じゃろうな」
 その通り、ぴくりともしないデイヴィを、長老は繁々と眺めた。
「ふん…。キスでもしてやったら起きるかのう?」
 最初は冗談のつもりだったのだろうが、長い間見つめているうちに彼の魅力に囚えられてしまったようで、長老の頬は幾分紅く染まった。
「うん。それもいいかの…」
 半ばマジで恐ろしいことを呟いた時、ドアが破れんばかりにノックされ、長老は舌打ちしてドアを開けた。
「なんじゃ、おまえかい」
 思いっきり失望したのを隠さない声で、長老は言った。入ってきたのは、この村の村長だった。確かにデイヴィを見た後でこの男を見たら、誰だって失望するだろう。全く正反対のタイプだ。
「おまえかい、じゃありませんよ、長老。一体どうなっておるんですか」
 顔を真っ赤にして、汗を拭き拭き、村長が訊ねる。
「なんのことじゃ?」
「惚けないで下さい! 東の山が煙を吐きだしたと思ったら、蒼龍の声が響いてくるし…。それに、鳥達が西の森から一斉に飛び立ったのだって、獣の凄い咆哮がしたからなんだ。あれは、白虎でしょう! あの方達に逢えるのは、あなたとユナしかいない!」
 村長は、タラコみたいな指をぐいっと長老に向けた。
「わしなら、ここにおるじゃろ」
「ユナはどこです?」
「夕飯の魚釣りにいっとる」
「嘘だ!」
 村長はわめいた。
「嘘だ、嘘だ! ユナは蒼龍と白虎の所に行ったんでしょう! 隠したって判ります! あなたはユナを遣って、蒼龍と白虎に何か言いに行かせたんだ!」
「お、おい、村長…」
 うんざりと長老が声を掛けたが、頭に血の昇った村長は耳を貸そうとせず、1人わめき続ける。
「一体、何を企んどるんです?! ーーーーま、まさか、この村を滅ぼそうとでも?」
「落ち着かんか、村長!」
「こ、これが落ち着いていられますか! 村が滅びる! ーーーーこの、魔女め!」
 長老は自分に向けられた指を思いっきり叩いた。
「い、痛い! 痛いじゃないですか! 何なさるんです」
「喧しいわい!」
 とうとう堪忍袋の緒が切れた長老は、この貧弱で悲観主義の小男を睨んで、
「なんで、わしがこの村を滅ぼさねばいかんのじゃ? もっと考えて物を言わんかい!」
「しかし、蒼龍と白虎は…」
 尚も疑い深い村長を、長老はベッドサイドまで引っ張っていった。
「こ、これは…!」
 村長は眼を瞠った。
「な、なんと美人じゃあ…」
 欲望丸出しでデイヴィに触ろうとした手を、長老は再び叩いた。
「おまえの汚い手で触るんじゃない!」
 村長は不満そうにぶつぶつ言ったが、幸い、長老の耳には入らなかった。
「ーーーーユナは確かに蒼龍の所に行った。じゃが、おまえの妄想のようなことではない。この男を救う為じゃ。この男は蜃に噛まれたのじゃ」
「へ?  ーーーーお、男? 男なんですか? この美人が?!」
「まったく、おまえは本当にズレた奴じゃのう。男だろうと女だろうと、今は関係ないじゃろうが。問題なのは…」
「これが誰かってことですよ! 余所者じゃないですか! しかも、蒼龍に白虎まで…。…そのうち、玄武と朱雀も出てくるに違いない! 不吉だ…。きっと災いが勃るぞ!」
 この哀れな男をからかいたくなったものか、長老はにやりと人の悪い笑顔を見せて、
「おまえにしちゃあ、良く冴えたじゃないか。玄武にはもう逢ったぞ。…朱雀はこれからじゃ」
 これを聞いて、村長はみるみる蒼くなった。余りのショックに声も出せず、ぶるぶると震える。
「安心せい。なにしろこの男は《黒髪の天使》じゃからのう。大事にしないと却って祟るかもしれんぞ!」
「ひ、ひええ!! く、く、《黒い悪魔》ですか?!」
「《天使》じゃ」
「で、でも、《悪魔》と呼ぶ者もいますよ!」
「それは、彼奴(きゃつ)の敵だけじゃ。ーーーーおまえ、敵に廻るようなことをしたのかえ?」
「と、と、とんでもない!」
「なら、要らぬ心配はせんことじゃ」
「し、しかし…」
「まったく、うるさい奴じゃのう。さ、もう用は済んだじゃろ。さっさと、去ね、去ね」
「ちょ、長老!」
 尚も渋る村長の背中を長老はぐいぐい押して、外に追い出した。文句を言う隙も与えずドアを閉めて鍵を掛ける。暫くドアが鳴っていたが、放っておくうちに諦めたのか、やがて静かになった。
「やれやれ、やっと行ったようじゃ…。あやつがいたら、目醒める者もその気をなくしてしまうじゃろうて」
 長老は首を振り振り、再び水晶玉を覗き込んだ。
「ふむ、着いたようじゃの。ここからが正念場じゃ、しっかりな」
 水晶玉には、勢い良く流れ落ちる滝と、それを見上げる晶とユナの姿が映し出されている…。
 
 晶とユナは、黙って滝を見上げていた。
「…どこか、上から行けるような場所は?」
 晶が口を開いた。
「残念だけど、下から登るしかないわ」
「そう」
 2人はまた黙り込んだ。
 何しろ、幅10m、落差30mはある大滝だ。すぐ隣にいる人の声も、大声を出さないと聞こえない。おまけに、横の岩山は、水しぶきを浴びて濡れている上、苔や藻がびっしりだし、安定も悪そうだ。
「…ユナ、君はここにいたほうがいい」
 ユナは微笑んで、
「平気よ。ーーーーフルール!」
 こう唱えた途端、2人の体が浮かび上がり、瞬きする間もなく、滝の上に着いた。
「ーーーー凄いよ、ユナ」
 短いが心の入っている晶の褒め言葉に、ユナは頬を染めて、
「そんな…。大したことじゃないわ」
 と手を振った。
「それより、朱雀を探しましょう」
 白虎が言った梧桐の木はすぐに見つかったものの、そこの主は見当たらなかった。
「どこへ行っちゃったのかしら」
 ユナが泣きそうな顔で呟く。
「ま、その内帰ってくるよ。それまで、少し休もう。ユナも疲れただろ?」
 晶はそう言うと、梧桐の根元に座り込み、幹にもたれて目を閉じた。
 ユナは暫く晶を見ていたが、自分も彼の隣にそっと腰を降ろした。
「晶、…無理しないで」
「…無理なんてしてない」
 晶は相変わらず静かに答える。
「嘘。本当は、とてもとても哀しいくせに。本当は、思いっ切り泣きたいくせに。なのに、どうしてそんなに優しいの? どうして玄武や私みたいな他人に、そんな心遣いができるの? ーーーー私、あなたの心の中を感じることができるわ。痛いほどに叫んでるのが聞こえるの。…お願いだから、堪えて抱え込むのはやめて。あなたがどうかなってしまうわ」
 ユナは悲痛な表情で晶の手に縋りついた。晶はその手を取って、
「ユナ、ありがとう。でも、ぼくは本当に大丈夫。だって、ぼくにはまだできることがーーーー希望があるから。泣くのは簡単だけど、その前にやることをやっちゃわないと。それから思いっきり泣くよ」
「晶…」
 自分を見上げるユナに、晶は微笑んでみせた。
「ーーーーありがとう、ユナ。心配してくれて」
 ユナは黙って首を横に振った。その拍子に、堪えていた涙が珠になって飛び散る。
「…ご…ごめんなさい…」
 晶が我慢しているのに自分が泣いてどうするのだろう。ユナは恥ずかしくなった。慌てて目を拭う。その肩を、晶は優しく、幾分力強く叩いた。
 美しい声が聞こえてきた。それは、鳥の声だった。
 晶が立ち上がる。ユナも急いで後に続いた。やっと、待ちに待っていた相手が戻ってきたのだ。
 赤金色に輝く鳥が舞い降りてきて、梧桐の枝に静かに止まった。
「朱雀?」
 晶が早速話しかける。
〔…あなた達は?〕
 澄みきった声が響いた。
「ぼくは晶。彼女はユナ」
 2人は朱雀にお辞儀をした。
〔私になんの用ですか?〕
「実は、あなたの羽を頂きたいのです」
 今度はユナが話を進める。
〔私の羽? ーーーー一体、なんに使うのです〕
 朱雀の声に、意識しなければ判らないほどの苛立ちがこもった。
「白虎にーーーー」
〔白虎? あの無礼者…。あの者の名前など、聞きたくありません〕
 思いがけず、朱雀は大声を上げた。ユナがびくっと身を振るわせる。
「で、でもーーーー」
〔それに、私はそれどころではないのです。ーーーー失礼〕
 朱雀は再び飛び立とうと羽ばたいた。風が巻き起こる。よろめくユナを、晶はしっかりと支え、尋ねた。
「何があったの?」
 静かながら、滝の音にも風圧にも負けていない。ユナも、朱雀でさえも思わずハッとした。
〔なんでもいいでしょう。あなたには関係ありません〕
「…何を、そんなに悩んでるの?」
 朱雀の言葉を無視して、晶は重ねて訊いた。
「晶…?」
〔何を…〕
 ユナと朱雀は同時に言った。ユナは訝しげに、朱雀は戸惑って。
 晶は手を差し出した。軽く握った指の隙間から僅かに光が漏れている。
「蒼龍が言ってる」
 晶は手を開いた。鈍い光に包まれて、蒼龍の鱗が浮き上がった。
〔そ、それは…、蒼龍の! …なぜ、あなたがこれを…〕
 朱雀は恐ろしいものを見るような眼で、晶を見た。
「蒼龍がくれたんだ。理由はぼくにも解らない」
 晶の言葉に反応するように、鱗の光が少しだけ強くなった。そのまま晶の手を離れ、朱雀の目の前で点滅した。
〔蒼龍…〕
 朱雀は目を閉じた。神の声を聞こうとする、敬虔な信者のように。
〔ーーーーどうやら、あなたはただ者じゃないようですね〕
 朱雀が再び口を開いたのは、3分あまりが過ぎてからだった。
「…自分じゃ、普通のつもりなんだけど」
 晶は意外そうに呟いた。どうやら本気でそう思っているらしい。ユナは半分呆れ、半分は、そんなところが可愛いと思った。
〔蒼龍が言っています。あなたなら、なんとかしてくれるかもしれません〕
「何を?」
 長老が危惧していたとおり段々と厄介なことになってきたが、晶は朱雀の願いを断る気はなかった。これがデイヴィを助けるためになるのなら何でもしよう、という気持ちだったからだ。
〔実は、私の連れ合いが、人間に捕らえられてしまったのです〕
「なんですって? 一体、誰がそんなことを!」
 ユナが蒼くなって叫んだ。
 朱雀は首を振って、
〔判りません。ただ、その者は、タブーとされていた呪文の封印を解き、私の連れ合いを魔法の籠に閉じ込めているのです〕
「なんてこと…」
 ユナはショックを受けた。この村を見守ってくれる朱雀に対し、そんな酷いことをする者がいるとは。ーーーーしかも、それは恐らく、この村の人間。
 朱雀は俯いた。その声に哀しみを乗せて、
〔我々四聖は、人を傷つけることができません。晶、私に代わってその者を倒し、私のあの人をーーーー〕
 語尾は滝の音にかき消されてしまったが、晶の心には届いた。
「任せといて」
 安請け合いするな、と傍目には言いたくなるほどあっさりと、晶は頷いた。するとその言葉に答えるように、蒼龍の鱗がぐるぐると回り始めた。
「これは…。蒼龍は知っているんだわ! 犯人がどこにいるのか」
 ユナの叫びが終わるか終わらないかの内に、蒼龍の鱗は凄い速さで飛び出した。
「あ、ちょっと」
 まるで緊迫感のない調子で、晶が声を掛ける。
〔私に乗ってください!〕
 朱雀が2人の前に降り立つ。晶はユナを助けつつ、その背に乗った。途端に、朱雀も猛スピードで鱗を追いかける。
「晶、もっと強く掴まっていい?」
 純粋に、飛ばされそうで怖いので、ユナはそう言った。何しろ、『空の散歩』なんてロマンティックなことを言ってられるような、半端なスピードじゃない。
「いいよ!」
 と答える晶も、朱雀の首にしっかりかじりついている。
 蒼龍の鱗は、村の中心へと進んでいったが、やがて、小さな家々の中で一際立派なーーーーこの村の規模にしては不似合いな程ーーーー邸宅の上で旋回しだした。
「あ、あそこは…」
 ユナが呆然と呟いた。
 
「なんということじゃ!」
 長老は、水晶玉に向かって思わず怒鳴っていた。この長老である自分に気付かれぬように朱雀の片割れをさらうなんて、並大抵の術士じゃないと踏んでいたのだが…。
「信じられん…。まさか、あ奴が…!」
 長老は頭を抱えた。
「ーーーーしかし、そういえば、思い当たる節があるわい。あ奴の態度…。気の小さい男だというのは知っていたが、最近は益々おどおどしていた…」
 長老は暫く考え込んでいたが、
「こうしてはおられん!」
 と叫ぶと、水晶玉を抱えて家を飛び出した。

「な、な、なんだ、おまえ達はっ!」
 その邸宅の主ーーーーいうまでもなく村長だーーーーは、精一杯の威厳をかき集めて怒鳴った。が、元々余り威厳も備わっていないし、いかにも何か隠して繕っているのが見え見えなので、晶もユナも全然気にしなかった。
「村長さん?」
 晶がのんびりと声を掛ける。
 村長は凶悪な顔で晶を睨んだが、それも一瞬のことで、すぐにその可愛らしさに鼻の下が伸びそうになる。それでも、
「そうだ! 一体、おまえはこの村で何をしておるのかね! 蒼龍を始め、その他の四聖にちょっかいをかけたな?! どういうつもりなんかね!」
 と攻め込んだのは、この男にしては上出来だろう。
「どういうって、村長…」
 ユナが反論しようとしたのを抑えて、晶はあくまで穏やかに、
「ちょっかいを出したのは、そちら」
「ななななんのことだ」
 村長は目に見えてうろたえた。正直な男だ。
「朱雀のパートナーを解放してくれないかな? みんなが困ってるんだ」
 この単刀直入な切り込み方に、村長は蒼白になって黙り込んだ。
「村長!」
 ユナが詰め寄る。
「…し、知らんぞ! わしゃあ、なんも知らん!」
 知らんが聞いて呆れる。
「でも、蒼龍が言ってる」
 晶が手を開くと、そこから凄い勢いで村長に向かって何かが飛んだ。
「ひっ! なな、ななんだ、こりゃあ!」
 まるで蜂のように、蒼龍の鱗は村長の周りを飛び回り、隙を見ては体にぶつかる。薄っぺらい物だが、そこは蒼龍の鱗だけあって、結構攻撃力があるらしい。
「い、痛い! 止めてくれ!」
 村長は情けない悲鳴を上げた。
「止めて欲しかったら、正直に話すことじゃ」
 嗄れ声に振り向くと、長老が水晶玉を持って、晶とユナの後ろに立っていた。
「長老!」
 ユナの呼びかけに長老は頷いてみせた。
「おまえ達、結構大変じゃったようじゃの」
「ええ、まあ、それなりに」
 こんな簡単に言い表せる苦労ではないのだが、その辺りは晶らしいと言える。
「しかし、この男が朱雀の片割れを拉致監禁するとはのう。この男に、それを思いつく頭と、実行する勇気があるとは思えんわい」
「え? …どういうことですか?」
 ユナが訝しげに尋ねる。
「つまり、黒幕がいるってわけだ」
 晶の言葉に呼応するように、
「なんの騒ぎ? これは一体!」
 妖艶な女の声が奥からして、その主も姿を見せた。声の通り妖艶な女だ。歳は30半ばか。強烈な色香が漂う。
「あら、長老にユナにーーーーそちらの可愛いボーヤは初対面ね。皆さんお揃いで。家の人が何かしたのかしら?」
 そう、この女は、このうだつの上がらぬ村長の妻なのだ。
「ええ、しましたわ」
 ユナは挑むような調子で言った。どうやら、この女とは合わないらしい。片や清純派、片や、セクシーな熟女。水と油だ。
 蒼龍の鱗は村長への攻撃をやめ、今度はその女の周りを回りはじめた。しかし、攻撃しようとはせず、3回ほど回っただけで晶の元へと戻ってきた。
「ーーーーやはりな。おまえが朱雀の片割れを誘拐したのか」
 長老は静かに、しかし迫力のある眼で女を睨んだ。
「あら、なんの話か、あたくしにはさっぱり」
 女はにっこりと微笑んでみせる。
「惚けないで!」
 ユナが叫んだが、やはり女は不敵な笑顔でそれをはぐらかした。
「イリヤ!」
 村長が、気が気じゃない様子で呼びかけると、女ーーーーイリヤは一瞬鋭い眼で彼を睨み付けたが、すぐに笑顔に戻って、
「あなた、お疲れでしょう。この方達のお相手はあたくしがいたしますから、奥でお休みになっていて下さいな」
「し、しかし…」
「あなた!」
「う、うん…」
 厳しい声で叱咤されて、村長はすごすごと奥に引っ込んだ。止める者はいない。元より、あの男のことなど誰も気に掛けていないのだ。
「ーーーー朱雀をどこに閉じ込めてるの?」
 村長が完全にいなくなってから、晶が口を開いた。
 イリヤは晶にセクシーに微笑みかけると、腰をくねらせて彼の前まで歩いてきた。
「あら、初対面の女性に、いきなりそんなこと訊くもんじゃないわ」
 晶は何も答えない。代わりにユナが、
「そんなことより、質問にだけ答えなさい!」
「うるさい娘ねえ。あたくしは、このボーヤと話してるのよ」
 イリヤは、晶の肩ごしにユナを睨んだ。
「あなたとのんびり話をしてる暇はないんだ」
 晶はのんびりと言って、それから、
「ーーーー悪いけど」
 と、取って付けたように付け足した。
 この態度は、イリヤのプライドをいたく傷つけた。何しろ、色気が服を着て歩いてるような女でーーーーマミラも似たタイプだったが、彼女はもっと爽やかだった。だが、このイリヤは、自分の“女”を利用し、男達を手玉に取るのに快感を感じるという、まあ、悪女の典型だ。
 一瞬怯んだが、ここで引き下がっては“女”が廃る、と思ったのか、イリヤは益々妖艶に、悩ましく晶の頬を撫で、
「情(つれ)ないのね」
 と、耳許で囁いてみた。
 ユナは気が気じゃない様子で、顔を紅くして2人を見つめている。
 肝心の晶はというと、ーーーー無反応。
「ーーーー無駄なことは止めるんじゃな」
 長老が苦笑いしながら、
「イリヤ、おまえ、この晶を色仕掛けで籠絡しようとしとるらしいが、晶はそんなもんに引っ掛かりゃあせんぞ」
「今の、色仕掛けだったのか」
 晶は、本当に今まで気付かなかったらしい。口調からそれが窺い知れた。
 それを聞いて、ユナは安堵のため息をつき、イリヤはというと、凄まじい顔で晶を睨み付け、彼から離れた。
「ーーーーさあ、お得意の手も通じないし、後は正直に話すことじゃ」
 長老がイリヤを見つめ、諭すように言った。
「…なんのことでしょう?」
 女の武器が破れても懲りないのか、破れたから自棄になったのか、イリヤは知らばっくれた。
「誤魔化さないで! 朱雀をどこに閉じ込めてるの?」
 ユナが攻める。こういう惚けるタイプの人間に、高圧的な態度は厳禁だ。巧くはぐらかされてしまう。現に、
「あなた達の言ってること、さっぱり解らないわ」
 と、イリヤは大げさな身振りで肩をすくめた。このタイプの攻略法はーーーー
「惚けるのが上手だね」
 晶が静かに声をかける。
「惚けてなんかないわ」
 やや苛立った口調で、イリヤは答える。
「じゃあ、嘘が巧いんだ」
 晶はあくまで穏やかだ。
「嘘なんてついてないわよ」
「でも、蒼龍が言ってる。彼が嘘をつくはずないから、嘘つきはあなただ」
「……………」
 しばらく黙り込んでいたイリヤは、やがて悪魔のような笑みを浮かべて答えた。
「そうよ、あたくしは嘘つきよ。ーーーー朱雀をさらったのはこのあたくし。古代魔法を復活させてね」
「何故、そんな馬鹿な真似を!」
 長老が絶望を声に乗せて呟いた。
 イリヤはその笑みをますます深めて、
「馬鹿な真似、ですって? あたくしに言わせたら、あなた達のほうがよっぽど馬鹿だわ。朱雀のーーーー四聖の力を手に入れたら、なんでも思いのままなのに」
「そんなことのために朱雀をさらったというの?」
 ユナの心の中で、晶と朱雀がリンクした。彼女は晶と朱雀のために涙した。
「あなたのせいで、朱雀がどれだけ哀しんだか! 愛する人を奪われ、寂しい想いを抱いて捜し回ってーーーーやっと見つけたのに、自分と愛する人を苦しめた人間に、報復することもできない…」
「それがどうしたというの?」
 イリヤは冷たく答えた。
「あたくしは朱雀のために生きているのではないわ。自分自身のために生きているのよ! 他の者がどうなろうと、知ったことではないわ!」
 その言葉に引き起こされたかのように、遠く東の山から煙が吹き出した。西の方から獣の咆哮が天を震わせた。巨大な石が落ちたかのように大地が揺れた。そして、激しい風とともに哀しげな美しい声が一つ上がった。
「四聖が…、怒っていらっしゃる…」
 力ない長老の声が響いた。
「イリヤ、早く朱雀を解放するのじゃ! この村が滅びてしまうぞ!」
 イリヤは残酷な笑い声を立てた。
「ほほほ。あたくしだけは助かるわよ。朱雀がついていますものね。先程も言ったでしょう? 他の者がどうなったからといって、あたくしには関わりのないこと。後は、残りの四聖も捕らえて、なんでも望み通りに生きるのよ!」
「怖いこと言うね」
 天地を揺るがす混乱の中で、晶は静かに言った。静かな口調なのに、ユナも長老も、イリヤでさえも背筋に寒いものを感じた。
 揺れがますます激しくなった。
「いかん! ーーーーユナ、祈るぞ! 四聖に祈りを捧げて、怒りを解いてもらうのじゃ!」
「はい!」
 長老とユナは跪き、目を閉じ祈りはじめた。
「無駄じゃないかしら?」
 イリヤが平然と、面白そうに言った。この女は間違いなく悪魔だ。なら、
「ぼくもそう思う」
 と答えた晶も悪魔か。いや、彼は天使だ。その証拠に、刀を抜いてイリヤに向けた。
「…あたくしを斬るおつもり?」
 イリヤの顔がやや蒼ざめた。それでも口調に何か余裕があるのは、こんなボーヤが人を斬れるわけがない、と高を括っているからだ。
 イリヤは晶を知らなかった。
「あなたは改心しそうにないし、なら他に方法はない」
 晶は踏み出した。威圧感を感じてイリヤは退がった。ここにきて、晶が本気なこと、本当に怒っていることが解ったが、遅すぎた。
 神をも恐れぬ妖女は、一人の少年に心底恐怖を感じた。
「あ、あたくしを殺せば、朱雀の行方は永久にーーーー」
 その首が飛んだ。
 頭がなくなってもなお人を魅きつける豊満な肢体は、晶に向けて差し出された指先からぼろぼろと、砂の城のように崩れ、やがて塵の固まりとなって床に山を作った。血は出なかった。まるで、この残酷な女には初めから流れていなかったとでもいうように。
 残る頭は胴の後を追わず、光を失ったが妖しい眼で晶を睨んでいた。
「術者がいなくなれば、朱雀は解放される」
 晶の言葉に応えるように、近くも遠くもない所から、美しい声が2つ聞こえてきた。
 大地の変動も治まり、それに気付いた長老とユナは感謝を捧げてから祈りを止め、純白に輝く後ろ姿を見つめた。
 微かな哀しみをこびりつかせた声で、晶は呟いた。
「あなた、最期まで嘘つきだったね」
 妖女の紅い唇が笑いの形を作り、そのまま塵と化して消えた。
「結局、あの女は魔物じゃったのか」
 長老が納得したように独り言を言った。
「…晶…」
 佇む美しい後ろ姿に、ユナは声をかけた。
 振り向いた顔には、いつも通りの笑みが刻まれていた。

 村長の家を出た3人を迎えたのは、2羽の朱雀が空中で踊る喜びのダンスだった。
「よかった」
 その晶の呟きが届いたのか、2羽の朱雀は動きを止め、3人の前に舞い降りた。
〔晶…。ありがとう。おかげでまた2人で暮らすことができます〕
「おめでとう」
 晶は心から祝福した。
〔あなたのおかげです〕
 朱雀はそう言うと、首を曲げて嘴で自分の羽を1本引き抜いた。
〔本当はこんな物ではなく、もっとちゃんとしたお礼がしたいのですが…〕
 朱雀が羽を差し出す。晶はそれを受け取ると、
「これこそが何よりのお礼」
 と嬉しそうに笑った。
〔本当にありがとう。ーーーーあなたの大切な人が回復したら、ぜひ2人で訪ねてきてください〕
「そうさせてもらうよ」
 2羽の朱雀は美しく一声啼くと、見守る3人の頭上で2・3回輪をかき、南へと飛び去っていった。
「よかった…」
 上を向いたままユナは呟いた。朱雀のことと晶のこと、両方を言っているのだ。
「これで、白虎から眉間の毛が貰えるわね」
「そうじゃ、わしは一足先に帰るぞ。おぬしの『大切な人』の様子を見ておらんとな」
 長老が、からかうようなお茶目な笑いを見せた。
「早く戻ってくるのじゃぞ」
 晶は頷いてユナと共に西の森へ向かった。

 西の森では白虎が待ち構えていた。
〔よくやったな〕
 彼はにこりともせずに言ったが、口調は表情を裏切っていた。
「やっぱり、あなたも朱雀のこと、心配してたんだ」
 意外というより確認といった口ぶりの晶に、白虎は肩を竦めた。
〔そりゃあ、同じ四聖の仲間ーーーーじゃなくて! 俺はその朱雀の羽を手に入れたことを言ったんだ!〕
 本音を吐いてしまった後で、いくら取り繕っても無駄だ。案の定、晶は意味ありげに笑って、
「そういうことにしておこう」
〔……………〕
 白虎は苦虫を噛みつぶしたような表情をした。
「さあ、約束通り朱雀の羽を持ってきたんだから、あなたの眉間の毛を1房貰うよ」
〔勝手にしろ〕
 文字通り、白虎は言い捨てた。
「じゃ、失礼して」
 晶は白虎の頭に手を置いてちょっと撫でると、
「いい毛並みをしてるね」
〔うるさい〕
「…ひょっとして、紅くなってる?」
〔うるさい。さっさと持っていけ〕
「はい」
 素直に返事をして、晶は優しく白虎の毛を抜いた。
〔! ーーーーおい、何をする?!〕
 おまけにキスしたのだが、お気に召さなかったようだ。
「いや、痛かったかな、と思って」
〔余計なことを…〕
「また紅くなってる」
〔…喧しい! さっさと行け!〕
 相手は神様なので敬意を表していないわけではないが、白虎が本気で気に障っていないのは誰の目にも明らかだ。だがさすがにこれ以上は失礼かな、と思って、そっぽを向いている白虎の前に朱雀の輝く羽を置いて、立ち上がった。
「どうもありがとう」
 頭を下げて丁寧にお礼を言って、今までのやりとりに和んでいいのか笑っていいのか戸惑っているユナを促し、晶は北目指して歩きだした。
〔…待て〕
 数歩行ってから、白虎が呼び止める。怒ったふうではない。
 どうせならもっと早く呼び止めてほしい、と心の中で呟きつつ、晶は戻った。
「なに?」
〔これは俺が持っていても、なんの役にも立たん。おまえが持っていろ〕
 白虎は半ば強引に、朱雀の羽を晶に押しつけた。
「でも」
〔確かにおまえは朱雀の羽を持ってきた。その証拠はこの目で見た。だからもういらん〕
「そう? なら、遠慮なく」
 晶は羽をしまって、
「ありがとう」
〔いや。ーーーーところで、俺に似てるという奴のことだが〕
「え?」
〔そんなに似ているのか?〕
 白虎の探るような眼に、晶は明るく笑って、
「そりゃあ、もう。ーーーー優しいところとか」
〔優しい? 誰がだ〕
「たまに素直じゃないところとか」
〔……………〕
「勇ましくてカッコいいーーーー」
〔解った! もう言うな!〕
 今度こそハッキリと顔を紅くして、白虎は晶の言葉を遮った。
〔言われ慣れてないことを聴いてると、恥ずかしくなっちまう〕
「そうそう、変なところでシャイなのも」
〔解ったってば!〕
 白虎は大声で吠えた。それから大きく息を吐くと、
〔まったく、おまえと話してると調子が狂っちまう〕
 晶は面白そうに微笑んだ。
 白虎は晶を力なく睨んで、
〔…その男、目が醒めたら連れてこい。どれほど似てるか確かめてやる〕
「言われなくたって、そうするつもりだった」
 晶はウィンク1つして答えると、再び歩きだした。
 玄武の待つ北の湖へ。


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