西に傾きかけた日差しの中、玄武は日向ぼっこをしながら居眠りをしていた。晶が声を掛けようかどうしようか迷っていると、その気配に気付いて目を開けた。 〔あーぁ、良く寝たわい。ーーーーおや、晶にユナ。ご苦労じゃったのう〕 「具合はどう?」 晶は優しく尋ねた。 〔おお、大分良くなったぞい〕 「良かった。ーーーー白虎の眉間の毛を持ってきたんだけど」 〔おお、ありがとうよ〕 玄武は甲羅に潜ってもぞもぞとやっていたが、やがて出てきた時には手に小さい壺を持っていた。 〔これに、半分だけ入れておくれ〕 「半分でいいの?」 〔充分じゃ〕 晶は言われた通りに、白虎の毛を半分だけ壺に入れた。途端に煙が吹き出して、驚いて尻餅をついてしまった。 「晶、大丈夫?」 ユナが駆け寄る。 「うん。ちょっと予想外だったから」 晶はのんびり言うと、起き上がって埃を払った。 その間に、玄武は壺を器用に両手で持つと、中身をくいーっとやった。 〔ふぅ。生き返った気がするわい。ありがとうよ、晶、ユナ。ーーーーこのことも、朱雀のこともな〕 「いいんだよ。乗りかかった船だし」 晶は朗らかに応えた。デイヴィを助けるために必要な行程だったので、彼の中では感謝されるほどのことでもないのだ。 〔さ、わしの身体から苔を持っていくといい。甲羅のてっぺんの奴が一番いいじゃろ〕 「そう? ーーーーじゃ、失礼して」 晶は玄武の甲羅に登ると、てっぺんに生えている碧々とした苔を採った。 「じゃ、ありがとう、玄武」 ひらりと飛び降りて、晶は玄武の甲羅をさすった。 「お大事に」 〔おまえさん達も、気を付けてな〕 玄武は眼を細めて言った。 〔おまえさんの大事な人が早く目が醒めるように、祈っとるでな〕 「ありがとう」 晶はもう一度お礼を言い、嬉しそうに笑った。 そう、これでやっと、デイヴィが目醒める。輝く瞳で自分を見つめ、美しい声で名前を呼んでくれる。ーーーーあと、一息で。 晶は喜びで胸を弾ませながら、東の山へ向かった。 ーーーー彼の希望を叶えてくれるはずの、蒼龍の許へ。 自分の家に戻ってくるなり、長老は微かな違和感を覚えた。 勿論鍵を開けて出たが、といって、泥棒をするような人物はこの村にはいない。その証拠に僅かな家具類や道具類などはちゃんと元の位置に留まっているし、デイヴィは眠ったままだ。 …眠ったまま? 長老は慌てて駆け寄った。確かにデイヴィは眠ったままだ。しかし、手の位置が変わっている。鳩尾の上で組み合わされていたはずなのに、右腕はそのまま、左腕が体の脇に落ちてしまっている。 「誰か…、入ったのか…?」 呟いた長老の目の前で、驚くべきことが起こった。デイヴィの右腕が、蝸牛が這うようにのろのろと、しかし確実に動き、左腕と同じように脇へと落ちたのだ。それは、明らかに意図的な動きだった。 長老は息を呑んだ。蜃に噛まれた者は永遠に眠り続けるはずだ。自分で目醒めたり、ましてや動くなど不可能のはずだーーーー絶対に。 血の気を失った唇で、長老はやっとの思いで呻いた。 「…《黒い悪魔》…」 長老が《黒い悪魔》の名の意味を胸に深く刻んでいる頃、黄昏に覆われた山道を、晶とユナは山頂目指して登っていた。 「…ユナは登山が苦手?」 それまで黙々と登っていた晶は、ふいに口を開いた。 「…え? …ど、どうして?」 ユナは、質問の意味が良く呑み込めなかった。 「最初に登った時は顔が紅かった。でも、今は真っ蒼だ。大丈夫? ーーーーもしなんなら、先に戻っててもーーーー」 「だ、大丈夫よ!」 ユナは慌てて答えた。彼女の顔色が悪かったのは、晶とデイヴィのことを考えていたからだ。勿論、晶のためにデイヴィが目醒めるのは嬉しい。でも、やはり心の奥底では辛かった。だからといって、デイヴィの目が醒めなきゃいい、などとは微塵も思っていなかったーーーーそんなこと考えるのはユナの性質ではなかったし、実際考えつきもしなかったが、なんて厭な娘なんだろうと、ユナは自分を呪った。 「なら、いいんだけど」 安心したように微笑む晶に、ユナもなんとか笑い返した。 〔良くやった〕 星が明るく輝きはじめた山頂で、蒼龍は厳かに言った。 「それって、朱雀のことを言ってるの?」 ちょっと考えてから、晶は訊いた。 「ひょっとして、最初からそのつもりだった?」 〔そうだ〕 「あらら」 あっさりと答えられて、晶は思わず拍子抜けした。 〔どのみち、おまえの想い人を救うには、おまえが手にいれてきた物が必要だったのだ。玄武の苔、白虎の毛、そして朱雀の羽ーーーーもしおまえがイリヤを倒さねば、1つも手に入らなかったものだ。そして、我はおまえならなんとかできると思い、鱗を託した〕 蒼龍はにやりと笑うと、 〔それすらも、我がおまえを気に入らなければ叶わぬことだったろう。自分に感謝するといい。その風変わりで純粋な魂にな〕 「風変わり…」 晶は複雑な思いをもろ顔に出して呟いた。 「とにかく、これでデイヴィを救うことができるのですね?」 ユナが無表情で訊いた。 〔朱雀の羽、玄武の甲羅に生えた苔、白虎の眉間の毛、そして我の鱗ーーーー〕 蒼龍の声が重々しく響いた。 〔ーーーーまだ1つ足りぬ。蜃に噛まれた者を目醒めさせるには、もう1つ必要だ〕 「え」 晶は茫洋と呟いた。言いようのない不安が胸中を覆っていく。 「…それは、一体…」 ユナも力なく質問した。 蒼龍は晶を見つめた。その金色の眼が光を帯びた。 〔おまえだ、晶。ーーーーおまえの命だ〕 「まさか! そんな、馬鹿なことが…」 長老は叫んだ。それからがっくりと肩を落とす。 長老は寂しそうにデイヴィを見た。そして2度目の驚愕。デイヴィの顔がこちらを向いている。何かを訴えるかの如く、美しい顔が閉じられた眼で長老を視ていた。 長老は歩み寄った。デイヴィの指が、ぎこちなく寝台を叩いている。咄嗟に解った。苛立っているのだ。デイヴィが目醒めれば晶は彼のために命を捨てなくて済むのに、どうしても起き上がれない。そのもどかしさ。 「ーーーーわしには、どうすることもできぬ。すまんのう…」 長老は辛そうに呼びかけた。その眼にはうっすらと涙が滲んでいた。 「すまんのう…、すまんのう…」 水晶玉を抱きしめ、長老はいつまでもその言葉を繰り返していた。 〔さあ、どうした。おまえが命を差し出せば、おまえの想い人は目醒めるのだぞ〕 「………………」 晶は黙って蒼龍を見ていた。 「あ、晶…」 ユナが色を失った顔で声を掛けても、身じろぎ一つしなかった。 〔さあーーーー〕 蒼龍の呼びかけを、晶はきっぱりとした口調で遮った。 「それはできない」 〔なんだと?〕 蒼龍はハッキリと驚きを声に乗せた。 ユナは息を殺して晶を見つめた。 〔何故だ。おまえは、愛する者を助けたくないのか?〕 「ぼくの命で? ーーーーそんなの無意味だ」 晶は燃える瞳で蒼龍を見返した。それは蒼龍が誰の眼にも見たことのない強さを秘めていた。 〔無意味、だと? …何故だ〕 「だって、ぼく達は共に生きると誓ったから」 静かに、的確な言葉で晶が答えたその瞬間、彼を待つスリーピング・ビューティが指の動きを止めたが、勿論彼が知るはずもなかった。 しかし、蒼龍は知った。もしデイヴィと晶の立場が逆で、同じ質問をデイヴィにしたとしたら、同じ答が返ってくることを。 ユナは今になって、晶の覚悟を知った。彼は最初からそのつもりだったのだ。デイヴィを目覚めさせるために、自分に出来得ることを総てする。それでも彼を目覚めさせることが出来なければ、そのときはーーーー、という覚悟だ。 ユナは理解した。晶の愛情の深さを。いや、今までも理解していた。そして今、彼女は納得したのだ。その結果、彼女の胸を支配していた辛さや哀しさが昇華していき、心からの感動の気持ちが爽やかに溢れた。 「愛する人のいない世界で、自分だけ生きていきたいとは思わない」 蒼龍が黙っているのを見て、晶は言葉を繋いだ。 「どうしてもデイヴィを助けられないのなら、ーーーーもういい」 と言い捨て、踵を返した。その後ろ姿にユナは不吉な恐ろしい予感を感じて、呼び止めようとしたが声が出なかった。だから、蒼龍が彼を呼び止めた時にはホッとした。 〔ま、待て! そんなことはないぞ!〕 蒼龍は慌てて叫んだ。 〔実は、命がいる、と言ったのは、おまえの愛情を試すためだったのだ〕 「ーーーーはあ?」 晶は思わず気が抜けた。抜けすぎて怒りも湧かないほどだった。 「そんな! 酷すぎます、蒼龍! ーーーー晶は真剣だったのに!」 代わりにユナが蒼龍を責めた。晶の想いを踏みにじられた気がした。晶はデイヴィと共に死ぬ覚悟だったのだ。それなのに。 「じゃあ、材料が1つ足りない、っていうのも、嘘?」 どうでもいい様子で、晶が尋ねる。 〔いや、それは本当だ。おまえの命ではなく、おまえの愛が必要だったのだ。そのためにあんなことをいった。ーーーーすまぬ〕 蒼龍は素直に謝ってから、優しく微笑んだ。 〔相手のために自分の命を差し出すのも愛。おまえのように、共に生きられぬのなら共に死ぬ、というのも愛。どちらが正しいかなど、誰にも決められぬ。ただその愛の深さがどれほどのものなのか、我は知りたかったのだ。ーーーーおまえは見事だったぞ、晶。その全身から溢れるほどの愛、確かに受け取った〕 「ありがとう」 晶は微笑んだ。デイヴィに対する愛の深さは本物だと自分でも解ってはいたが、他人にもそうと認められるのは嬉しい。 「じゃあ、デイヴィは助かるんですね?」 ユナが素直に喜んだ。もう胸は痛まなかった。 〔これを飲ませるといい〕 蒼龍は小さな巾着を差し出した。 「ありがとう」 晶は嬉しそうに笑って、恭しくそれを受け取った。 〔それにしても、おまえの想い人も大した男だな。蜃に噛まれた者は誰でも目醒めようともがくが、奴は実際に動いた。眠りながらな。そんなことをしたのは奴だけだ。我は心底恐ろしくなったぞ〕 「そりゃあ、彼は《黒い悪魔》だからね」 晶は得意気に言い、蒼龍にもう1度お礼を言ってから山を降りた。 「すっかり夜になっちゃったわね」 ユナは空を見上げた。 「見て、綺麗な月」 「ほんとだ」 晶も見上げて、大きな満月をしばし観賞した。 「…良かったわね、晶」 暫くして、ユナが口を開いた。 「うん。ありがとう。ーーーーユナのおかげだよ」 「そんな。私は大したこと、してないわ。総てあなたの力よ」 「ううん。そもそも、君がいなきゃ蒼龍に会えなかったわけだし、それに、君のおかげで途中挫けずに済んだ。ーーーーありがとう」 晶は優しく言って、優しく微笑んだ。 「晶…」 ユナは晶をじっと見つめ、 「ーーーーあなたのお役に立てて、本当に嬉しいわ」 心からそう言って、ユナはにっこりと明るく笑った。 ドアを開けようとすると向こうから開き、長老がしわくちゃの顔を更にしわくちゃにして出迎えた。 「おお、ご苦労だったのう。良くやった」 「デイヴィの様子は?」 寝台に歩み寄りながら、晶は訊いた。 「ご覧の通りじゃ。蒼龍も言っていたが、自分で動きおった。ほんに恐ろしい男じゃ」 長老の言葉に、晶はデイヴィを見ながら嬉しそうに笑った。 「さあ、晶」 ユナが差し出す水を受け取って、晶は蒼龍にもらった巾着から丸薬を取り出し、デイヴィの口に入れた。それから水を口に含むと、デイヴィに口移しで飲ませた。 デイヴィの喉が動いた。晶は唇を離すと、彼を見つめた。デイヴィの瞼が微かに震え、やがて瞬きを2・3回して、目を開けた。 不思議なことに、そのエメラルドの瞳を見ても、暫くは晶の胸になんの感慨も湧かなかった。美しい声で名前を呼ばれた時も同じだった。恐らく、今まで気を張っていた反動で麻痺状態になっているのだろう。いつもにもまして茫洋とした瞳でデイヴィを眺めた。 「どうじゃ? 具合は」 晶の後ろから、長老が声を掛ける。 「ああ。なんか頭がぼーっとしてるが、後はなんともねえ」 デイヴィは体を起こして、長老とユナを見た。 「そうか。ま、あれだけ眠れば無理もない。とにかく、良かったのう」 我がことのように喜ぶ長老の隣で、ユナも嬉しそうに頷く。 「いろいろ、ありがとう」 デイヴィは美しく微笑んだ。途端に、長老とユナの頬が染まる。 「い、いや、わしらは何もしとらんよ」 手を振る長老と、その傍らに控えめに佇んでいるユナをデイヴィは優しく見つめ、 「そんなことはないさ。2人には世話になった。ーーーー特にユナ、戦士でもない女の子の君を、いろいろきつい目に遭わせてすまなかった。本当にありがとう」 丁寧に頭を下げる。 やっぱり、晶の愛した人は素敵な人だった、とユナは思った。 「どう致しまして。ーーーー目が醒めてよかったわ」 ユナは穏やかに微笑んだ。 デイヴィは晶に目を移した。 「晶も、心配かけたな」 優しく掛けられた声に、晶はただぼんやりと首を横に振った。 「…良かった…、デイヴィ…」 ほんの少しだけ感情を取り戻した声で呟く晶の背後で、ドアの閉まる音がした。 「ーーーーさて、今日はおまえの家に泊めてもらうよ、ユナや」 2人を残して部屋を出た長老は、ユナに目配せした。 「この歳で、お邪魔虫にはなりたくないからの」 「…ええ」 ユナはちょっと笑って、長老と共に家を出た。 「夢を、見てた」 デイヴィがぽつりと言った。 「…え?」 晶が訊き返すと、デイヴィは眼に愛しさを浮かべて彼を見つめ、 「おまえが、龍とか亀とか虎とかと話してる夢だ。それから鳥に乗って飛んで、魔女を倒して、また龍と話して、俺の所に戻ってくる。ーーーー夢かと思ってたんだけど」 デイヴィは言葉を切ると、呆然としている晶を抱きしめた。 「夢じゃなかったんだな。ーーーー晶、ありがとう。ごめんな、心配かけて。…ありがとう」 晶はデイヴィの温もりを感じた。力強い腕にくるまれるのを感じた。今まで堪えていたもの、押さえつけていたものが爆発して、気が付くと涙を流していた。 晶はデイヴィにしがみついた。 目が覚めた晶は、隣に寝ているデイヴィを見て、言いようのない幸せを感じた。もうこれは目醒めない眠りじゃない。晶はデイヴィにキスした。条件反射のようにスリーピング・ビューティは目を開ける。 「…晶? もう朝なのか?」 「ただキスしたくなっただけ。もう少し寝たら?」 「昨日あれだけ眠ったんだから、もう充分だ」 「それもそうだね」 晶はもう1回キスした。もう1度。もう1回。 結局2人が起きだしたのは、もう日も高くなってからだった。 服は船に置きっぱなしになっているので、仕方なく鎧を着けた。デイヴィのマントはびりびりになっていたので外した。そのため、デイヴィは落ちつかない様子だった。 2人が寝室から出て居間に行くと、丁度長老とユナも家の中に入って来た。 「おお、起きたのかい。良く眠れたか、などと野暮なことは訊かんよ」 からかうが如き長老の口調に、デイヴィも上品にニヤリとして、 「そうしてくれ」 その答えに、純情なユナは紅くなり、長老は思わず笑ってしまった。 「やはり、おまえはただ者じゃないのう。いいコンビじゃ」 「ありがとう」 「ーーーーところで、大変なことになっとるぞ」 長老は真顔になると、テーブルの上に新聞を広げた。 デイヴィと晶は覗き込んで、 「げっ」 「ヤバい」 と言った。 『《ガーディアンエンジェルス》行方不明!』 でかでかとした見出しが付いている。 「『《ポセイドンの娘》号のキャプテンによると、船がオクトラパトスに襲われたが、偶然乗り合わせていた《ガーディアンエンジェルス》が退治してくれた。しかし2人は海に落ちてしまい、船長をはじめとする船員達の決死の捜索にも係わらず、残念ながら発見できなかった。その晩は激しい嵐で海も大荒れだったため、2人の生存は絶望視されている』だって」 晶は記事を読み上げて、デイヴィを見た。 「参ったね」 「まったく、もう死んじまったような口ぶりじゃねえか、その記事」 デイヴィは憮然として、 「失礼な奴らだな」 しかし、あの状況ではそう思われるのも仕方がないだろう。 その他にも、サヴィナ王やファルーヤ王をはじめ、デイヴィの家族のコメントも載っていた。一様に、『2人は生きていると確信している、と暗い表情で力なく語った』となっていた。 「やっぱり、どんなに『信じてる』って言っても、心の奥底じゃ皆不安なようね」 ユナがしみじみと言うと、晶が悪戯っぽい笑いを見せて、 「でも、これを読んで喜んでる人もいるよね。皇帝とか」 「そりゃ、大喜びだろうぜ。お祝いする、なんて言って踊ってんじゃねえの?」 デイヴィも面白そうに応じて、 「じゃ、地獄に突き落としてやるか」 記事の最後は、『彼らを見かけた方は、どんな些細な情報でも宜しいですので、是非下記の場所までご連絡下さい。勿論、ご本人様からもお待ちしています』と結んであり、2人の絵も載っていた。 「これって、カールが描いた絵だよ」 晶が指さす。 「本当だ。まさか、こんな時にこんな風に使われるなんて、想像もしてなかったよな」 「うん…。カールも複雑だろうね」 「早く無事を知らせてやらなきゃな」 「うん…」 晶は新聞社の連絡先を眺めていたが、 「…ああ、この新聞社、ぼくのいとこがいる所だ」 と言い出した。 「いとこ?」 デイヴィが訊く。 「うん。彼女ならぼくの字も知ってる。手紙を至急便で送ろう」 晶の言葉を聴いて、長老がレターセットとペンを持ってきてくれた。 家族にも連絡しようということで、晶は新聞社とサヴィナの王に、デイヴィも家族と王城宛に書き始めた。自分達が無事なこと、今はツィーリンという小さな村にいること。更に、確実に本人であると証明するため、内輪の話を念のために書き添えておく。 「ついでに、《ポセイドンの娘》号のキャプテンに、船に置きっぱなしの俺達の荷物を届けるように伝えてもらおうぜ。晶、書いておいてくれ」 晶が頷いて、追伸として書き加える。 計4通の手紙が書き上がった。 ここで、晶が肝心なことに気付いた。 「至急便はいいけど、ーーーーお金がない」 「あー、財布も船の中か」 デイヴィが舌打ちする。 「だったら、私が通信局についていくわ。みんな顔見知りだから、事情を話せば、お金も後回しにしてくれると思う」 ユナが言った。 「お願いできる?」 晶がほっとしたように言う。 「ええ」 「ありがとう。ーーーーじゃあ、ちょっと行って来る」 「気を付けてな」 「大丈夫じゃ。通信局は隣じゃからな」 長老が笑う。 「なんだ。なら安心だな」 「小さな島ですもの」 ユナも笑って、 「じゃあ、行ってきます」 晶と共に出て行った。 海を越える通信には、船便、空便、そして魔法便の3種類がある。空便というのは、人に懐いて頭が良く、両翼を広げると最大のもので3mにもなるモンスター、モモイロタカを使った空輸だ。 魔法便というのは、時空を越える能力を持った魔法生物、ミミナガリスを使う。 ミミナガリスは、耳が長くしっぽが大きく、掌に乗る程の小さい生物だ。小さいが故に手紙しか運べないが、時空の狭間を通って、一番距離のある通信局間でも片道5秒で行き来が出来る。これが、いわゆる『至急便』のことだ。 ただ、ミミナガリスは生息数が少ないため、各通信局に1匹しかおらず、魔法生物ゆえ飼育も手間がかかるので、料金がかなり高い。 その魔法便で、晶は4通の手紙を順次送った。ユナのお陰で、お金は後でもいい、と、通信局の人は言ってくれた。晶は礼を言って、長老の家に戻った。 それから、4人は食事をした。 昨日1日食事をしなかった晶は当然のこと、眠りっぱなしだったデイヴィまでもが自分の10倍もの料理を平らげるのを、ユナも長老も呆然と見ていた。 それにしても、こうやって改めて明るい日差しの下でデイヴィをじっくり見て、確かに素敵な人だ、とユナは思った。眠っている時には顕れなかったものーーーーデイヴィの周りを取り巻く、気品、人柄、魅力ーーーーそういったものを間近で感じ、ユナの胸は無意識にときめいた。 だからといって、ユナを格別惚れっぽいとか、気が多いとかと責められない。何故ならデイヴィとはそういう男なのだから。彼は総ての女のーーーーそして、彼にしては本意ではないが、たまには男のーーーー胸に忍び込み、妖しい欲望をかきたてる。その証拠に、天使のように純粋な晶の心も、神であるゼウスさえも虜にしてしまったではないか。その魅力が《天使》のものなのか《悪魔》の力なのかは、永久に明かされない謎だろう。 「ーーーー御馳走さま。美味かったぜ」 「生き返ったよ」 やっと箸を置いて、デイヴィと晶はユナに言った。 「お粗末さまでした」 ユナは答えて、 「それにしても、凄い食欲ね」 「体力勝負だから。それに、船の中じゃ食料は限りあるだろ? 余り食べられないし」 当然、と言った感じで、晶は言った。 「昨日はそれどころじゃなかったしのお」 長老が笑って、 「しかし、一日中駆け回っていた晶はともかく、一日中寝てたデイヴィまでそんなに食っていいんかい」 「太るって言いたいのか? ーーーーいいんだよ。これから運動するんだからな」 デイヴィは剣を手に立ち上がった。 「行くぜ、晶」 「は? 何処に」 つられて立ち上がってから、晶は訊いた。 「四聖の所だよ。礼が言いたい」 そう言って、さっさと出て行く。 「ちょっと待って」 晶も慌てて刀を掴むと、 「じゃ、夕刊の時間までには戻ってくるから」 唖然としているユナと長老にそれだけ言うと、デイヴィを追いかけて出ていった。 残された2人は黙って椅子に座っていたが、 「全く、あいつらと付き合うには並の神経じゃ保たんわい」 と、長老が呟いた。 「どこが一番近いんだ?」 デイヴィの問いに、晶は首をちょっと傾げて、 「うーん、どこも同じ位だけど」 「そうか、じゃあ、こっちから行こう」 デイヴィはすたすたと歩きだす。晶もついて行った。 暫く歩いてから、 「ところで、こっちってどこに行くんだ?」 真面目な顔でデイヴィが訊く。晶は吹き出した。 「まったく、あんたらしいね。ーーーー東だから、蒼龍の所だ」 「蒼龍…。ドラゴンか」 「ドラゴンとはちょっと違う。ドラゴンって、ほら、体が短くて翼の生えたトカゲみたいだけど、龍は蛇に手足と角と髭を付けたような…」 「そうだよな。それに、ドラゴンは悪魔だけど、龍は…」 「神様だもんね」 「ーーーーでも、丁度良かったぜ。やっぱり、最初に蒼龍に礼を言いたかったもんな。我ながら、大した勘の良さだ」 「やっぱり、野性の勘ってやつ」 晶がぽつりと言う。 「んん? なんだって?」 「さすがデイヴィだなって」 疑わしい目で見ているデイヴィに、晶はにっこりと笑ってみせた。 山に入ると、途端にモンスターが襲ってきた。 「そうか。蒼龍の鱗はもうないから、怖がらないんだ」 晶は納得顔で呟いた。 「しかし、倒されるのが解ってるくせに、どうして襲いかかってくるんだろうな」 倒した赤色熊を眺めて、デイヴィは素朴な疑問を発する。 「頭、悪いんじゃない?」 晶はあっさりと答えた。 「それに、全部が全部倒されるってわけじゃない。逆に人間を倒すことだってあるだろうし」 「面倒だな。こんな弱い奴らじゃ、食後の運動にもなりゃしねえ」 「でも、昨日よりは数が減ってる。やっぱり、デイヴィに恐れをなしてるんだ」 「そうかな。ま、こんなザコじゃ無理もねえか。勇気だけは認めてやるさ」 などと言いつつ、ずんずん山を登る。ユナは女の子だったのでかなりゆっくり登ったが、デイヴィは戦士だ。それも、かなり体力のある。おかげで、半分ほどの時間で蒼龍のいる頂上に着いた。 〔良く来たな〕 蒼龍の声が響きわたる。 「お蔭様で、すっかり元気になったぜ。ーーーーありがとう」 デイヴィは頭を下げた。 〔礼には及ばぬ。我はただ薬を作ってやっただけだ。晶の集めた材料でな。だから、礼なら晶にするといい〕 「ちゃんとゆうべのうちにしたよ」 〔そうか。ーーーーしかし、おまえも大した男だ。蜃に噛まれて動いたのだからな〕 「俺のために晶が苦労してるのに、のんびり寝てられるか、って思ったんだ。でも、どうしても起き上がれなかった。体が言うことを聞かなくて、手を動かすので精一杯さ」 〔それで充分だ。大体、絶対に動けないはずなのだ。事実、今まで噛まれた者で動いた者はいない〕 「昨日から気になってたんだけど」 晶が口を挟む。 「蜃に噛まれた人って、そんなにいるものなの?」 〔人知れず噛まれている者は結構いる。何しろ、蜃が目を醒まして活動するのは嵐の夜だし、そんな時には船が難破するものだ。海で噛まれて眠りに落ち、ツィーリンに流れ着いた者は、デイヴィ以外には今までに1人しかいなかった。よっぽど運がいいのだろう。後はそのまま沈んでしまう者ばかりだ。そして、夢の中で自分がどこでどうしているかを視る。しかし、動くこともできずに死にゆくのだ〕 「怖い話。ーーーー良かった、デイヴィが無事で」 晶は息を1つ吐いて、デイヴィを見た。 「確かに、海を漂う晶と自分の姿は視た。じゃあ、あれも現実だったのか」 デイヴィは1人でぶつぶつと言っている。 「あれって何?」 不思議に思って晶は尋ねた。 「晶と俺が海の中でゆらゆらしてたら、誰かが腕を掴んで引いてくれたんだ」 〔誰かとは誰だ? 晶…ではないな?〕 「ぼくは知らない。やっぱり気絶してたから」 「なら、他にはいねえ。ーーーーあのお方以外には」 デイヴィは剣を抜いて目の前に掲げた。 「あなたですね、ゼウス様」 まばゆい光が剣から迸り、やがてまばゆい姿を作りだした。 〔おお…、ゼウス殿〕 感慨深げに蒼龍が呟く。 〔久しぶりだ、蒼龍〕 ゼウスが頷いた。 「お知り合いなんですか」 晶が茫洋と訊く。 〔天空の統治者、大神ゼウスを知らぬ者はいない〕 蒼龍は答えた。 「あなたが、晶と俺をツィーリンまで運んで下さったんですね。ありがとうございます」 デイヴィは跪き、恭しく頭をたれた。 〔礼には及ばん。おまえ達をポセイドンにくれてやるのは惜しいからな。勿論、ハデスにもだ〕 「俺の祈りは総てあなたに捧げます」 艶やかに笑うデイヴィに、ゼウスも優しく微笑んで、彼の頬に手を当てた。 〔ガニュメデス、私がおまえを護ろう。どんな時でも〕 「ありがとうございます」 デイヴィに静かに口づけると、ゼウスは剣に吸い込まれた。 〔なるほどな。あの時動いたのは確かにおまえ自身の力。ーーーー大神ゼウスさえもおまえの虜になるわけだ〕 蒼龍は驚きを隠せない様子で、 〔まったく、世の中には恐ろしい人間がいるものだな〕 「それって、褒めてんのか?」 〔勿論だ〕 「そうか。サンキュー」 デイヴィは笑ってウィンクした。 魔除けにと蒼龍がくれた鱗を持って、2人は今度は北に向かった。 「北はなんだっけ?」 「玄武だよ。大きくて優しい亀さん」 「亀か。冷え性なんだっけな」 「北だし、水に漬かってるから」 「大変だな。でも、薬を飲んだんだろ?」 「うん。だから、もう大丈夫だと思う」 晶の予想通り、玄武はすっかり元気になっていた。 〔おお、良く来たの〕 「玄武か? ーーーー今度のこと、いろいろありがとう」 早速、デイヴィがお礼を言う。 玄武は眼を細めて、 「なに、わしゃあなんもしとらんよ。晶の頑張りがあったからこそ、おまえさんは目醒められたのじゃ」 デイヴィは頷いた。 〔なるほど、晶が懸命になるだけあって、とても素晴らしい男じゃの。外見は勿論、中身も輝いておる〕 「い、いや、それほどでも」 デイヴィは照れ、 「そうだろ?」 晶は嬉しそうに笑った。 〔いいコンビじゃて。2人とも優しいし、美しいしの。ーーーーそうそう、礼を言うのはこっちの方じゃったな。晶のおかげで、冷え性の薬も手に入ったしの〕 「大したことじゃないよ。ーーーーどう? 調子は」 〔絶好調じゃ。今までのだるさやなんかが嘘のように爽快じゃて〕 「よかった。顔色もずっといいね」 晶が優しく声を掛けるのを、デイヴィが横から聞き咎めた。 「顔色がいい? 良く判るな、そんなこと」 「判るよ。デイヴィは判んないの?」 「判んねえよ。おまえだっていい加減に言ってんじゃねえの?」 「そんなことない。甲羅だって艶がよくなってるし」 「そうかあ?」 「眼がどうかしてんじゃない?」 「なんだと?」 〔まあまあ。2人とも、わしのことで喧嘩するのは止しなされ〕 玄武が笑って仲裁に入った。 「あ」 「ごめん」 2人はきまり悪そうに頭を掻く。 〔まあ、尤も、『喧嘩するほど仲がいい』と、昔から言うがの〕 と言って、玄武は楽しそうに笑った。 「まあ、それは言えるかな」 晶はあっさりと答えて、 「でも、良かった。玄武が元気になって」 「そうだな」 デイヴィも頷いて、甲羅をさすった。 「血色もいいし」 「本当に判ってるの?」 晶がすかさず茶々を入れる。 「いや、あんまり判んねえ」 「正直で宜しい」 晶はしかつめらしく言って、それから3人で顔を見合わせて笑った。 西の森は、相変わらず眩しいほど綺麗だった。 「いい場所だな」 デイヴィが感嘆のため息を吐く。 「小説にでも出てきそうだよね。ヒロインが歌いながら歩いて、王子様がその声に誘われてふらふらと現れたりする」 「確かに。ーーーーで、ここには白虎が棲んでんだっけ?」 「そう。綺麗で勇ましい虎。デイヴィみたいな」 デイヴィはちょっと笑った。 「いつもならこの辺にいるんだけど」 晶は辺りを見回した。 「いないね。洞窟に棲んでるっていうから、そこにいるのかな」 「どこにあるんだ?」 「さあ。この森のどこかじゃないの」 「この森の…」 今度はデイヴィが360度見回す。木漏れ日の輝く明るい森は、果てしなく続いているように見えた。 「……………」 「……………」 「…随分広い森だな。こんなとこ捜し回ってたら、夜になっちまう」 デイヴィがぼやいた。 「でも、どうするの?」 晶の問いに、デイヴィはにやっとして、 「さっき言っただろ?」 「え?」 「誘い出すんだよ」 「は…」 可愛らしく首を傾げている晶に微笑んで、デイヴィは突然歌いだした。 その妖しく美しい声に、木々はざわめき、鳥達は囀るのを止めて聞き惚れ、動物達は暫し夢に浸った。 勿論、知られざる洞窟の中の白虎の耳にも届いた。 「…あ、来た来た。王子様が」 晶が悪戯っぽく笑った。 〔なんのことだ〕 「こっちの話さ」 デイヴィも歌を止めると、 「あなたが白虎か。おかげで助かったよ。ありがとう」 〔構わぬ。ーーーーおまえがデイヴィか〕 白虎はデイヴィの頭のてっぺんから足の先まで眺め回した。 「どう?」 晶が楽しそうに訊く。 〔ふん、どうも何も、俺の方がよっぽどいい男だ〕 晶は吹き出した。デイヴィが何か言いたげな顔をしているのが目に入ったためだ。 〔何を笑ってーーーー〕 「ーーーーんだよ?」 白虎とデイヴィが同時に同じ言葉を吐いて、2人で顔を見合わせる。晶はどうしても笑いが止まらず、また止めようともせずに腹を抱えて笑い転げた。 〔ふん、勝手にーーーー〕 「ーーーー笑ってろよ」 今度も見事にシンクロする。2人はまた見つめ合った。 〔……………〕 「……………」 暫く呆然と相手を見つめていたが、やがてニヤリと笑い合う。 「ーーーー気が合ったみたいだね」 やっとの思いで笑うのを止めた晶が、涙を拭きながら言った。 〔確かに、この男の中には俺と同じものがあるらしい〕 白虎は素直に認めた。 「でも、俺の方がいい男だ」 と、デイヴィ。 〔何を言う。俺の方がーーーー〕 「まあまあ」 晶は2人の頬にキスして、 「2人とも、同じぐらいいい男だよ」 と笑った。 「後は、南だけか」 歩きながら、デイヴィが言った。 「朱雀だね」 晶が頷く。 「そういえば、良くやったな」 「ーーーー? なんのこと?」 「なんだ、忘れちまったのか? ーーーーおまえが助けたんだろ、あの鳥」 「あぁ、そんなこともあったっけ」 晶はそもそも手柄を自慢する方でもない。もう彼にとっては“過去の出来事”となっていたので、この反応である。 「しょうがねえなー」 デイヴィもそんな晶のことを解っていて好もしく思っているから、 「ま、そこがおまえのいいとこで、俺は好きだけどな」 とそのまま告げた。 「ありがと」 晶は可愛らしく微笑んで、デイヴィを見上げた。 最初にそれに気付いたのは、デイヴィだった。 「どうやって登るんだ?」 2人の目前には、怒濤の如く流れ落ちる滝が広がっている。 「魔法で…」 晶はぼんやりと答えた。 「俺は魔法なんて使えねえぜ」 「ぼくも」 2人は力なく滝を見上げた。 「……………」 「……………」 「…こんなことなら、モンスターを斬り殺す練習じゃなくて、焼き殺す修行でもしとけばよかった」 晶が呟く。 「しょうがねえ。またあのお方にお願いするか」 「え?」 訊き返す晶にウィンクして、デイヴィは雷神の剣を抜いた。 〔ガニュメデス、どうした?〕 光と共にゼウスが姿を現す。デイヴィは事情を説明した。 〔なんだ、そんなことか〕 「恐縮です」 決まり悪そうに頭を掻くデイヴィを、ゼウスは親のような愛情溢れる眼で見つめ、 〔それは構わん。ーーーー大体、おまえは私を頼らなすぎる〕 と笑った。 「すみません」 〔まあ、おまえ達なら私の力を借りずとも、大抵のことは自分達で出来るだろうがな〕 ゼウスは手を差し出した。 〔さあ、掴まれ〕 デイヴィと晶はゼウスの手を片方ずつ掴んだ。 ゼウスの背中から、太陽よりも輝く黄金の翼が現れた。それを1回羽ばたかせると体が浮かび上がり、次の羽ばたきで滝の上に着いた。 「ありがとうございます」 晶がお礼を言う。その頭を撫で、ゼウスは再び剣の中へ消えた。 〔待ってましたよ。良く来てくれました〕 梧桐の枝から、朱雀が2人に声を掛けてきた。 「朱雀! どう? 調子は」 〔ええ。力を吸い取られ続けたのでまだ本調子とは言えませんが、大分元気になりました。あなたのお陰です、晶〕 「いや、そんなこといいよ。こっちこそ、あなたの羽のおかげでデイヴィの目が醒めたし」 〔ーーーーこちらがデイヴィですね?〕 晶の隣に立つデイヴィに朱雀は目をやった。 〔とっても素敵な人ですね〕 デイヴィは照れ笑いしながら、 「いやあ、それほどでもねえけどよ」 〔でも、言葉遣いは下品みたいですけど〕 「…下品…か?」 デイヴィは複雑な顔で呟いた。 「でも、ぼくはそういうところも含めて、彼の総てが好きだけどね」 晶が明るく惚気る。普通なら周りも照れてしまうような言葉も、晶の口から出ると爽やかさを感じさせる。 〔そうですか。なら、私には何も言うことはありません〕 朱雀も笑った。 「…とにかく、ありがとう、朱雀」 デイヴィは改めて礼を言った。 〔それはこちらの台詞です。ーーーー何かお礼がしたいのですが。私にできることならなんでもしますよ〕 「いいんだよ。羽も貰ったし」 晶が優しく応える。 〔でも、それだけじゃ、私の気が済みません〕 朱雀の心からの訴えに、デイヴィはちょっと考えて、 「そうか? そこまで言うなら、一つ頼みたいんだが」 〔なんでしょう?〕 デイヴィは期待で瞳を輝かせて言った。 「背中に乗せてくれないか。一度、飛んでみたかったんだ」 〔喜んで〕 朱雀は嬉しそうに笑うと、2人の前に舞い降りた。 「じゃ、失礼して」 デイヴィは、いそいそと朱雀の背に乗った。 「2人乗っても大丈夫か?」 〔10人乗っても大丈夫ですよ〕 朱雀は自信満々に答える。 「じゃあ、来いよ、晶」 デイヴィが腕を差し出す。 「うん!」 その腕に掴まって飛び乗ると、晶はデイヴィの前に、前方を向いて座った。 〔ちゃんと掴まっててくださいね〕 言われ通り、晶は朱雀の首の後ろを静かに掴んだ。朱雀はフワリと浮き上がり、ゆっくりと優雅に空を泳ぐ。 「最高だな!」 デイヴィはご満悦の様子で、晶に話しかけた。 「おまえが飛んでるのを視て、羨ましくなったんだ」 「ああ、あの時ね」 晶はくすり、と笑って、 「あの時は凄いスピードで、楽しむ余裕はなかったけど」 「朱雀もおまえも必死だったもんな。ーーーー朱雀、もう少しスピードを上げてくれ」 〔はい〕 ぐん! と重力がかかる。晶はのけ反り、デイヴィの胸にぶつかった。早速、それを待っていたかのように、デイヴィの腕が背中から晶の体をくるむ。晶は素直に力を抜いてもたれ掛かった。首をちょっと傾けてデイヴィに顔を向けると、タイミング良くデイヴィもこっちを見たところだった。だから、2人の唇も当然のように重なる。 「ーーーー人間が、幸せだと思う時が3つあるんだ」 唇を離して、デイヴィは晶の耳に囁いた。 「キスする前と、キスしてる時と、キスの後さ」 それを実証すべく、また2人の唇が出会った。うっとりと見つめ合い、もう1度キスを交わす。そのまま、デイヴィの腕の中に、溶け込むように晶は抱かれた。 「…本当に、至福の瞬間だ」 微かな吐息とともに、晶は呟いた。 日が沈むまで思う存分空の散歩を楽しみ、2人は長老の家まで送ってもらった。 「じゃあ、ありがとう、朱雀」 「2人でお幸せにね」 〔こちらこそ、ありがとう。ーーーーあなた達も、お幸せに〕 デイヴィと晶は微笑みながら頷いた。 南に帰る朱雀の姿が見えなくなるまで見送り、2人は家に入った。 「おお、お帰り」 「お疲れさま」 長老とユナが優しく迎える。 「ただいま。ーーーー夕刊は来てる?」 「ええ。今来たところ。それに、ご家族からも来てるわ」 ユナがテーブルを指す。畳まれたままの夕刊と、手紙が4通来ていた。 デイヴィと晶は、まず手紙を開いた。どの手紙も喜びに溢れていた。因みに、新聞に絵が載ったカールはその才能を世に知らしめ、《今世紀最高の画家》なんて言われるようになるのだが、それはまた少し後の話だ。 「ーーーーいとこが、取材に来るって」 手紙を読みながら、晶が言った。 「構わないよね?」 「そうだな。おまえのいとこならいいか。おまえが知らせた手紙の内容ぐらいじゃ、この夕刊にも大したことも書けなかっただろうしな」 デイヴィは答えながら、テーブルの上に畳まれている夕刊を開いた。 『《ガーディアンエンジェルス》生還!』 と、見出しがあり、 『正に奇跡!』 と添え書きがあった。 「『奇跡』か。正に、その通りの出来事じゃったのう」 長老がしみじみと呟く。 「『朝刊の記事を読んだ本人達から、我が新聞社に連絡があった。彼らは揃って無事だとのこと。詳しくはこれからの取材によって明らかにしたい。とにかく、我等がヒーロー、《ガーディアンエンジェルス》の生還を心から喜びたい』」 晶は記事を読み上げた。 「ぼく達が生きてるって聞いて、みんなが喜んでくれるなんて嬉しいことだよね? ーーーー残念がられるなんて、考えただけでも堪らないもん」 「まあ、例外はいるだろうけどな」 デイヴィは記事を指して、 「ここに、その例外のコメントが載ってるぜ。新聞社も、愉快なマネをしてくれるな。帝国皇帝にインタビューするなんて」 「ははあ、お茶目じゃのう」 長老も笑った。 「『彼らは世界の勇者であり、彼らを失うことは世界の大いなる損失である。彼らの無事を心より喜び、彼らを連れ去らなかった神に感謝の祈りを捧げたい』ーーーーって、どんな顔して言ったんだ? こいつ」 デイヴィは呆れるのも忘れて笑ってしまった。 「本気で言ってるんじゃねえーーーー本心は全く正反対だって事を俺達は知ってる。そのことを皇帝だって承知してるくせに、よくもまあ、べらべらとここまで言えるな?」 「恥を知らないか、とんでもない狸親父か、ーーーーきっと、両方だろう」 普通の人が言ったらとんでもない厭味に聞こえることを、晶は爽やかに言い切って皆を頷かせた。 「ーーーーでも、ここまで言われたら、感謝の意を表明したくならない?」 「俺も、今そう思ってたんだ」 デイヴィは、意味ありげな微笑みを見せた。 「やっぱり、乗ってやらなきゃな」 2人の会話を聞いていた長老は、ハッとした。 「まさか、おまえ達、アリステア帝国に乗り込むつもりか?」 世間の手前、皇帝はやむを得ずあんなコメントをした。デイヴィの言う通り、お互いの真意が判っているから、無視するのが普通なのだ。だからこそ、あそこまで大げさに言い立てたのだろう。しかし、彼らは普通じゃなかった。 |