一方、帝国城では《ガーディアンエンジェルス》歓迎の準備のため、上を下への大騒ぎだった。 誰もが駆け回っているなか、大広間の入口に立って一人のんびりと高みの見物を決め込んでいる男がいた。彼は人々に何を指示するでもなく、本当に『ただ立っている』だけだった。 それでも、誰も文句を言わない。それどころか、彼の傍を通る時には「お疲れさまです」と声を掛けていく。忙しく働いている者達がだ。 それもそのはず、彼はアリステア帝国皇帝の右腕、将軍アベルなのだ。彼はその性質と体格から《マッド・ベア》と呼ばれている。身長は2m程、体重は100Kg強。短く刈り込んだ銀色の髪に灰色の瞳。鷲鼻と割れたがっしりとした顎。頸も腕も胴も脚も、大木のようにどっしりとしている。 アベルは、人々の働くさまを感心しつつ眺めていた。しかしそれは彼らが良く働くことにでも、《ガーディアンエンジェルス》に相応しい豪華さにでもなかった。皇帝が昨夜のうちからこれらの準備をさせたことに対して、だった。 更に皇帝は、帝国内に《ガーディアンエンジェルス》来訪のふれをだし、表向きには歓迎の意を表した。同時に各国の新聞社にも連絡をしていた。ヒークベルトの港に人々が詰めかけたのはそのせいだ。 新聞社から《ガーディアンエンジェルス》の無事を知らされた時、皇帝は彼らが帝国に来ることを予想していたのだ。いや、そもそもあんなコメントをしたのは、彼等をおびき寄せるためだった。皇帝の口から直接そうとは聞いていないが、付き合いの長いアベルはそれを承知していた。 ーーーーとにかく、《ガーディアンエンジェルス》の奴らはこちらの裏をかいたつもりらしいが、総てはアリステアの計算通りなんだからな! アベルはほくそ笑んだ。そして、大広間の奥、皇帝の玉座の後ろのドアを奇妙な目つきで見つめ、ゆっくりと歩きだした。 大広間の真上は、皇帝アリステアの部屋になっている。 どの国の王の部屋も及ばないような豪華な調度品の数々は、さすが、今栄華を極める帝国皇帝のものだけはある。 当の皇帝は、床から高い天井にまで設えられた本棚の前に立っていた。その姿は初めて彼を見る者をして、これが本当にあの帝国皇帝か、と驚嘆せしめるものだ。 小柄で華奢な体型は、まだ年端の行かない印象を与える。 確かに、皇帝は、アベルやもう一人の将軍クリスのように戦う術を持ってはいなかった。しかし、彼らを始めとする屈強な兵士達を、自分の手足のように扱う才能を持っていた。そして、それこそが偉大な力となりうる。 事実、本を眺める彼の、切れ長の一重の目に嵌め込まれた金色の瞳は、油断なく冷静な光を放っている。 皇帝は本を読みながら部屋を縦断し、机の所に戻った。しかし、座り心地のいい椅子には座らず、机の前に軽く腰を凭れさせて立っていた。 ノックもなしでドアが開き、アベルが顔を出した。 「ノックぐらいしろ」 本から顔を上げず、皇帝は言った。 「俺とおまえの仲ではないか」 アベルは肩を竦めてそう言い、それから笑いだした。 「ーーーー何が可笑しい?」 やっと本から目を離して、皇帝はアベルを見た。 「いや、思い出したのさ。前にも、同じことを言ったな」 アベルは部屋を横切って、皇帝の前に立った。 「覚えてるか? アリステア」 皇帝は答えなかった。 皇帝は机の前に凭れて立ち、机上の地図を見ていた。 帝国城がある場所に星印が描かれ、その他、小さな黒丸が点々と記されている。それを書いたと思われる羽根ペンが、ある国に先を向けられて置かれていた。そこにもう間もなく新しい印が付けられることは、99%間違いなかった。 ノックもなしでドアが開き、アベルが顔を出した。 「ノックぐらいしろ」 地図から目を離さず、皇帝は言った。 「俺とおまえの仲ではないか」 アベルは肩を竦めてそう言い、重い足音をたてて皇帝の前まで来た。 「何の用だ?」 俺とおまえの仲、などという言葉にも眉一筋動かさず、皇帝は重ねて訊いた。 「ーーーー退屈なんだ」 言うなり、アベルは皇帝を抱き締めた。そして、そのまま唇を奪う。皇帝は抵抗しない代わりに、格別な反応も示さなかった。 「アリステア、何故、俺をサヴィナに遣ってくれなかった?」 アベルが咎めるように囁く。 「馬鹿なことを」 皇帝は冷やかに言った。 「…サヴィナごときにおまえをーーーー私の右腕であるおまえを遣れるか。もう少し待て。クリスがサヴィナを落とせば、そこからランシューク、更にツェザーニャへと攻め込む。その時こそおまえの出番だ」 皇帝の金色の瞳が、妖しい光を放ってアベルの瞳を捉えた。逆らいがたい何かを感じて、アベルは再び皇帝にキスし、机の上に押し倒した。 「ツェザーニャの《プリマ・ドンナ》、カテリーナか…。相手に不足はない。ーーーー楽しみだ」 そう呟きながら、アベルは皇帝の服のボタンを外していく。 弾けるように扉が開けられ、 「大変です、皇帝! ーーーーひっ!」 兵士が顔を出し、その場に凍りついた。顔のすぐ横に、唸りをたててナイフが突きたったためだ。 「ノックぐらいしろ!」 アベルが振り返って怒鳴る。ナイフを投げたのは勿論彼だ。 「人のことが言えるのか?」 皇帝は揶揄するようにアベルを斜交いに見上げ、彼を押し退けて起き上がった。乱れた金髪を細い指で梳いて、 「どうした?」 と、呆然としている兵士に訊く。 「…は、クリス将軍がお戻りになりました」 兵士は我に返った様子で報告した。 「そうか。では、サヴィナが落ちたんだな?」 服のボタンを嵌めながら、皇帝は確認する。 兵士は蒼くなって暫く沈黙した後、言いにくそうに口を開いた。 「ーーーー…いえ、…それが…」 皇帝の眼が、すうっと細まった。 大広間には、2人の人間が立ち尽くしていた。 1人は、帝国の《疾風将軍》クリスで、彼女は落ちつかない様子だった。それもそのはず、彼女は帝国兵になって初めての敗北を味わったばかりなのだ。 クリスは恐怖を込めた眼差しで、今は主のいない玉座を眺めた。彼女の胸中は様々な感情が渦巻いていた。 予想外の敗北。それから引き起こされる皇帝の怒り。それこそ、クリスの胸から屈辱感を拭いさって有り余るほどの恐怖だった。そして、なによりも、それさえをも凌駕するもの。思い出すたびに心が凍るものーーーーサヴィナでの、あのーーーー どたどたと階段を駆け降りてくる足音が聞こえてきたかと思うと、ドアが勢いよく開き、弾みで壁にぶつかって大きな音をたてた。クリスは身を固くする。しかし、恐怖の最中にあっても、皇帝がこんな無粋な音をたてるはずがない、と気付いていた。 案の定、駆け込んできたのはアベルだった。 「どういうことだ?!」 語気も荒く、アベルはクリスに詰め寄る。 「……………」 クリスは黙っていた。報告すべき相手はこの男ではなかった。それに、幼なじみというだけで、必要以上に皇帝に取り立てられているこの男を、彼女は気に入らなかった。勿論、実力は認めてはいたが。とにかく、皇帝より先にこいつに説明する必要はないのだ。 クリスが黙りを決め込んだのを見て、アベルはムカついた。大体、女のくせに自分と同じ将軍である彼女を、彼は気に入らなかった。いや、アベルの場合、女自体が嫌いだったのだが。 「おまえに付けたのは、帝国兵士の中でも精鋭中の精鋭だぞ! それを、サヴィナなんぞの田舎兵士30人にやられるとは、なんと申し開きするつもりだ?!」 「……………」 「捕虜はたった一人か。こんな奴捕まえて、一体どうするんだ?」 アベルはもう1人の方を見た。背の高い少年で、戦場では目立ちそうな紅い鎧を着け、右腰に剣を携えている。なかなかの美少年で、どうでもいいことだが、アベルの好みだった。 「お言葉だけど」 美少年は、秋風のように冷たく口を開いた。 「僕は捕虜じゃない。自分で付いてきたんだ」 「ーーーーどういうことかな?」 冴え冴えとした声が響く。入口に皇帝が姿を見せていた。 クリスは身を固くして俯いた。恐れていた時がとうとう来てしまった。 しかし、皇帝がクリスを見るよりも早く、美少年が動いた。皇帝の前に跪き、 「皇帝陛下、僕を使ってください」 判決を待つように頭を垂れる。 皇帝は美少年を一瞥して、アベルに目を移す。アベルは頷いた。 「ーーーーそう言うからには、それなりに強いんだろうなあ?」 アベルの口調には、からかいと馬鹿にした調子が含まれている。 それに気付き、美少年は好戦的な目つきでアベルを睨み付ける。アベルは思わずぞくっとした。それを抑えて、 「おまえみたいな顔した奴なら、こっちの方がーーーー」 アベルが美少年に向けて伸ばした手の下を光が交錯し、アベルはその場に固まった。 「…見かけで人を判断しない方がいい」 炎さえ凍るように冷やかに、美少年は言い放った。 アベルは唾を飲み込んだ。喉元に突きつけられた剣よりも、その少年の美しさが彼の心を捉えたのだ。怒りのオーラを全身から発して自分を見上げる黒い瞳の輝き。 「見事だ」 暖房の効き過ぎた部屋に吹き込むすきま風のような皇帝の声が、アベルの頭から煩悩を振り払った。 「不意を突かれたとはいえ、アベル将軍が一本取られるとは」 「恐れ入ります」 美少年は剣を鞘に納めると、再び跪いた。 「名前はなんという?」 「紫苑玲人」 「…豪華な名前だ」 皇帝は楽しそうにちょっと笑って、 「歳は?」 「19です」 「まだ若いな。それであの腕か…。ーーーーいいだろう。これからは、その力を私のために使ってくれ」 「はい。ありがとうございます」 玲人は深々と頭を下げてから立ち上がった。 「ーーーーさて、次はおまえの話を聴かせてもらおうか、クリス」 皇帝がクリスを見た。今までと同じ静かな口調なのに、クリスは背筋が凍るような気がした。 「……………」 「どうした? 話してみろ。ーーーー帝国の精鋭兵士100人が、サヴィナの田舎兵士30人に何故敗れたのかを、な」 皇帝の口調はむしろ優しめだったが、クリスは恐怖で体が震えた。 「…何か言いたそうだな? 玲人」 不意にアベルが口を挟んだ。玲人が不満げに顔を顰めるのが目に入ったためだ。 「ーーーー確かにサヴィナは田舎ですけどね。でも、だからって、クリス将軍を責めるのは酷ですよ」 玲人は思いも寄らぬことを言い出した。 「どういう意味だ?」 アベルは不審げに尋ねた。皇帝も玲人に目を移す。クリスは、思わぬ味方が出てきて少しばかりホッとしたのか、小さな安堵のため息をついた。 「帝国に《マッド・ベア》と《疾風将軍》が、ツェザーニャに《プリマ・ドンナ》が、そしてファルーヤに《黒い悪魔》がいるように、サヴィナにもいるんですよ。守護神が」 「まさか、自分がそうだ、なんて言うつもりか?」 玲人の言葉に微かな自慢を聞き取って、アベルは冷やかすように言った。 玲人は暗い眼をして、 「僕じゃない。…あいつは、僕よりも強い…。僕はどうしてもあいつを超えられない…」 と呟いた。寂しげで、苦々しい、それでいてどこか嬉しそうな口調だった。玲人にとって、晶が強くいてくれることは悔しくもあり誇らしくもあったのだ。 「『あいつ』とは誰のことだ?」 少しばかり興味を込めて、皇帝は訊いた。 「聖晶。サヴィナの《キラーパンサー》と呼ばれる男です」 「どんな男なのか聴かせてくれ」 皇帝は玉座に腰を下ろした。 玲人は頷いて、静かに話しだした。 「晶は僕の親友で、小さい頃から兄弟のように育ちました。歳は僕より1つ上なんですが、童顔なんで16・7ぐらいにしか見えなくて…」 「可愛いのか?」 アベルが口を挟む。やはり一番の関心はそこらしい。 「ええ、かなり。僕といい勝負でしょう」 玲人はぬけぬけと答えた。 「ーーーー続けろ」 皇帝は静かに促す。 「…で、可愛い上に、年がら年中日向ぼっこしてるみたいな風情の奴で、ーーーーなんですか?」 「いや、なんでもない」 皇帝は緩んだ頬を引き締めた。玲人の表現がお気に召したらしい。 玲人はそれこそ『可愛く』首を傾げると、話を続けた。 「ーーーーとにかく、滅多なことじゃ怒らないから、天使みたいに温厚だってみんな言ってます。それに、あの紅茶色の瞳で見られると、自分の犯した罪がどんな小さなものまでも思い出されて、自分が恥ずかしくなってしまう…。ーーーーあいつをどうこうできるのは、同じ天使か悪魔だけでしょうね」 「それで本当に強いのか?」 皇帝は半信半疑だ。 「そこなんです。ーーーー一度刀を抜くと、まるで鬼神のような気迫を出すんです。顔つきも怖いぐらいに綺麗になって…。そうなると、もう誰にも止められません」 玲人は目を伏せた。 皇帝は、本当か? と言うように、クリスに目を向けた。 クリスは頷いた。 「本当です。彼の姿を見た途端、我が軍の兵士は半分近くが逃げだし、残りの者は戦意を喪失しました。ーーーーあいつは殆どの兵士をたった一人で…」 クリスは身震いした。皇帝の怒りよりも痛く彼女の心を凍らせるものーーーーそれは、今まで感じたことのないもの、即ち、《キラーパンサー》の冷たい殺気だった。 「解った。もういい」 皇帝は思いがけず優しい声で言った。 「まあ、損失は甚大なものだが、おまえだけでも生きて帰ってきてよかった。それに得難い戦力も手に入ったことだしな」 皇帝は立ち上がってクリスの前まで来ると、その震える肩に手を置いた。 クリスが顔を上げる。皇帝は優しく微笑んで、 「今日のところは疲れただろう。もう休め。明日からまた働いてもらう」 「…勿体ないお言葉…。痛み入ります」 クリスは再び俯いた。自然と溢れ出る涙を誰にも見られぬようにそっと拭うと、立ち上がる。 皇帝は、これ以上ないほどの仏頂面をしているアベルに目を移して、 「アベル、おまえも暫く待機していろ」 アベルは何か言いたげに口を開いたが、皇帝の一睨みで言葉を封じられ、 「ーーーー了解」 不機嫌に言い放つ。 「ついでに、玲人を部屋に案内してやれ」 皇帝はさっさと背を向けてしまう。 仕方なく、先に歩きだしたクリスを追うように、アベルは玲人を促して大広間を出ようとした。出口で何気なく振り返ってみると、皇帝は玉座に深く腰掛け額に手を当てて俯いている。いつになく頼り無げな姿だった。 アベルの胸に忘れていた欲望が沸き上がったが、取り敢えず玲人を部屋に連れて行く方が先だ。 大広間を横切ったドアを出て廊下を渡り、突き当たりにある階段を上る。すぐ目の前のドアがクリスの部屋だ。 「じゃあな」 クリスの素っ気ない挨拶に、 「ああ」 もっと素っ気なく答え、アベルは玲人と共に奥に進んだ。一つドアを通り越し、次のドアの前で止まる。 「ここを自由に使うといい」 アベルはドアを開けた。 「鍵は中にある。…隣は俺の部屋だから、何かあったら…」 「何かって?」 玲人も素っ気なく尋ねる。 「ーーーー判らないから、『何か』なんだ」 アベルはうろたえつつ答えた。質問の内容にではなく、玲人の視線と可愛い顔のせいだった。 「ふーん」 玲人は無関心な様子で呟き、部屋に入っていく。光に引き寄せられる蛾のように、アベルもふらふらと付いていった。 「さすが帝国。広い部屋だ」 玲人はあちこち歩き回って、 「ここがバスルームで、こっちがベッドルームか。ーーーー寝心地良さそう」 ベッドを押して、スプリングの具合を確かめる。 その後ろ姿をぼんやりと眺めながら、アベルは、いっそこのままベッドに押し倒して、などと不届きなことを考え、正に実行すべく動こうとした。 だから、その前に玲人が不意に振り向き、 「ーーーーねえ」 と声をかけてきた時には、心臓が跳ね上がるほどびっくりした。 「な、なんだ?」 「僕、少し休みたいんだけど」 玲人は冷たく言った。 「出てってくれない?」 「お、おお。わ、悪いな…」 アベルは素直に応じた。強引で乱暴な彼を知っている者なら、驚きの余り眼を剥きかねない。ーーーーあのアベル将軍が謝った! アベルが外にでたところでドアが閉められ、鍵のかかる音までした。 「…なーんか、調子狂うな」 アベルは肩を竦めてぼやき、自分の部屋へ戻るーーーーかと思いきや素通りして、階段を降りはじめる。さっきの皇帝の様子を思い浮かべつつ、彼は廊下を歩いていった。 入口から覗くと、玉座は空っぽだった。 拍子抜けしつつ、アベルは階段を昇り、再びノックもせずにドアを開ける。 「なんの用だ?」 今度は椅子に腰掛けて地図を広げていた皇帝が、冷やかに訊く。 「アリステア、大丈夫なのか?」 予想外の反応にうろたえつつ、アベルは逆に尋ねた。 「大丈夫って、何がだ」 再び木枯らしのような声。 「何がって…、ーーーーなんだろうな」 アベルがぼんやりと呟く。 「用がないなら部屋に戻れ。これからが大変な時だ。休んで力を蓄えておけ」 皇帝はアベルを見つめた。 「ーーーー期待しているぞ」 「おお。任せておけ」 アベルは力強く胸を叩いてみせる。 皇帝は微かに微笑むと、 「私も少し休む。ーーーーでは、お休み」 そのまま寝室へと消えた。 アベルはそのドアを見つめた。いつものことだが、皇帝は自分独りで精神ダメージをさっさと回復したらしい。 「『では、お休み』か…。まったく、おまえらしいぜ」 アベルも少し笑うと、自分の部屋へと引き上げていった。 それから3日間は何事もなく過ぎた。 皇帝は地図を眺め、各国に兵士を送り込んだ。勿論、アベルはその中でも一番大きな街で能力を発揮した。 クリスは、サヴィナで失った戦力を補充しようと昼夜を問わず東奔西走し、世界中から兵士をかき集めた。しかし、失った元の兵士達が素晴らしかっただけに 100%回復というわけにはいかず、せいぜい8割程度という手痛い結果に至った。 玲人は取り敢えず帝国に残って訓練を受けていたが、師範である兵士を軽くあしらってしまうほどの腕前を見せた。 明けて4日目。 昨夜戻っていたアベルと、兵士集めに一段落したクリス、いつでも出陣O.K.状態の玲人は、朝早く皇帝に呼ばれた。 「朝っぱらからなんだ?」 ゆうべ遅くまで部隊の兵士達と酒盛りしていたアベルは、文句たらたらだった。 「皇帝、一体…?」 クリスが不安げに訊く。 皇帝は一同を見回して、寒々とした声で告げた。 「ツェザーニャがサヴィナに攻め込んだ」 「ーーーーえ?!」 玲人が声を上げた。 「ーーーーあの女狐め」 アベルは苦々しく吐き捨てた後、 「兵力は?」 「サヴィナは以前と同じだ。《キラーパンサー》他29名。…いや、玲人がいないから28人か。ツェザーニャは、…《プリマ・ドンナ》プラス300人」 「300?!」 アベルは驚愕した。 「10倍か…。こりゃあ、いくら《キラーパンサー》といえども、一溜まりもないな」 「…晶」 玲人が呟く。 「ーーーーそれほどの戦力をツェザーニャがサヴィナに送り込んだ理由は、1つしかないだろう」 皇帝は口を開いた。 「…《キラーパンサー》の捕獲…」 クリスが呆然と言った。 「なるほどな! 確かに、帝国の《疾風将軍》に勝った奴となりゃあ、どの国も喉から手が出るほど欲しがるに決まってる。厄介だな」 アベルは皮肉めいた口調で言って、クリスを横目で見た。 「おまえが手に入れてりゃ、こんな面倒なことにはならなかったんだがな」 クリスは悔しげに唇を噛み、アベルを睨んだ。 「ーーーー今となっては仕方がない。第一、《キラーパンサー》のデータは私の元にもなかったからな」 皇帝は冷たく言った。 「ふん。…で、どうする?」 アベルは面白く無さそうに訊いた。 「結果を待つ。300人という兵士はツェザーニャの半分の戦力だ。それでもなお《キラーパンサー》相手には容易には勝てまい。かなりの被害が出るだろう。そこを突けば《プリマ・ドンナ》でもお終いだ。《キラーパンサー》も簡単に手に入る。そして、万が一ツェザーニャが敗れた時はーーーー」 皇帝は薄く笑った。 「その場合はもっとたやすい。要は、どちらの傷も癒えぬ内に攻め込んでしまえばいい。ーーーー漁夫の利だ」 「なるほど。さっすが、皇帝陛下。よく先を読んでいらっしゃる」 アベルは真面目くさった口調で言った。 皇帝はちらりとアベルを睨み付けて、 「結果は今日中に出るだろう。それまで自室で待機していろ」 「はい」 3人は頷いて、大広間を後にした。 しかし、事態は、皇帝にさえも予想不可能な方向へと進んでいた。運命の歯車は一度狂ってしまえば取り返しがつかない。気付いた時に嘆いてもどうにもならないのだ。そして、それは今まさにゆっくりと回り始めていた。 自分の部屋に入ろうとする玲人を、アベルは呼び止めた。 「何か用?」 相変わらず素っ気ない玲人に、 「やっぱり、気になるのか?」 アベルは気にせず、むしろ楽しそうな口調で尋ねた。 「判りきったこと、訊かないでよ。サヴィナは故郷なんだから」 玲人はいらいらと答える。 「いかんなあ、そういうことじゃ」 アベルは首を振りつつ、 「おまえはもう、帝国の人間なんだぞ。故郷だろうが友人だろうが家族だろうが、皇帝が命令したら殺さなきゃならん」 「……………」 玲人は何も言わず、ただアベルを睨んだ。 アベルは動じない。それどころか、惚れ惚れと玲人を眺めた。怒ると言いようもなくセクシーな少年なのだ。わざとちょっかいをかけたくなる。 「怒ったのか?」 アベルはニヤニヤと言った。 「あんたが怒らせるようなことを言うからだよ」 玲人の方はにこりともしない。 「悪気はないんだ。機嫌直せよ」 アベルは玲人の肩に手を置いて、 「なあ、これから同じ国で、仲間としてやっていくんだ。仲良くしようぜ」 「仲良く、ね」 玲人がアベルを見上げる。 「そうだ。ーーーーこんなふうに」 アベルは、ぐいっと玲人を抱き寄せた。 「仲良くーーーーぐっ!」 急所に玲人の膝がめり込む。アベルはさすがに、その場に崩折れた。屈み込んでうんうん唸る彼を冷たく見つめ、玲人は、 「甘く見るな」 と言い捨てて、自分の部屋に入っていった。 夕方、再び招集がかかった。 アベルがドアを開けると、玲人が前を駆け抜けていくところだった。 「おい!」 アベルの性格から言って、あれぐらいの拒絶など拒絶の内に入らないから、慌てて後を追う。 クリスの部屋の前で、丁度出てきた彼女と会う。なんとなく並んで階段を降りながら、 「サヴィナが落ちたらしいな。まあ、俺なら半分の兵力と時間で落とせるがな」 アベルは忘れず厭味を言った。反応を窺うように見ると、クリスの顔に浮かんだものは怒りでも屈辱でもなく、ーーーー皮肉な笑みだった。 「おい…」 驚いて、アベルは思わず足を止めた。 「…おまえは知らないからな」 クリスの声にはハッキリと侮蔑が込められている 「…なんだと!」 思いがけない反応にアベルはキレた。詰め寄って腕を掴む。 「てめえ…」 その時、ドアの放たれる音がした。玲人が大広間に着いたようだ。 アベルは舌打ちすると、クリスを放して駆けだした。クリスも腕を摩りながら後に続く。微かに動いた口は、馬鹿力め、と言っていた。 アベルとクリスが着いた時、玲人は皇帝の所に駆け寄って、 「サヴィナは…」 縋るように尋ねていた。 皇帝は冷たい目線を玲人に送り、入口に立つ2人に目を移した。 「早く来い」 「早くたって遅くたって、結果は同じだろ?」 「そうでもない」 「? ーーーーどういう意味だ?」 「ツェザーニャがサヴィナから撤退した」 皇帝はあらゆる感情を排斥した声で言う。他の3人は驚きの余り声も出なかった。99%あり得ない事態が起こってしまったのだ。 「----サヴィナが勝つとはな…。しかし、無事では済むまい…」 アベルはやっとの思いで声を出した。 「サヴィナの被害は、6名が死亡、22名が重傷。《キラーパンサー》は無傷だった」 皇帝は淡々と告げた。まるで教科書を朗読しているかのような口調だ。 「300人相手に無傷…」 呆然とアベルが呟く。クリスのさっきの言葉が脳裏を過った。 「やっぱり…」 これはクリスだ。 「晶…」 玲人は息を吐いた。 「それで、ツェザーニャの方は?」 訊きながら、何か厭な予感がアベルの胸に広がっていく。 「《プリマ・ドンナ》は、生き残った33人の兵士と共に逃げた」 「逃げた? 33人も無事な兵士がいて、か?」 アベルは思わず叫んだ。 「馬鹿な! 敵は《キラーパンサー》一人なのにーーーー」 ハッと言葉を切り、皇帝を見る。 「ーーーー一人なら、まだいい」 皇帝の全身から蒼い炎が噴き上がる。 3人は凍りついた。髪が逆立つような感覚。恐怖だった。皇帝の怒りが3人の心臓を鷲掴みにしている。 「ア、アリステア…」 「《黒い悪魔》だ」 皇帝の声は地を這うように流れた。 「《黒い悪魔》?! 《黒い悪魔》が《キラーパンサー》に加担したんですか?」 思いがけない名前だった。クリスは驚きの余り恐怖も忘れた。 それはアベルも同様だったようで、いつもの調子で、 「デイヴィ・キーンか。あの女好きが」 いまいましく唇を歪め、 「《プリマ・ドンナ》に手を貸すなら解るが、なんで《キラーパンサー》に…」 「理由はどうでもいい。問題は結果だ」 皇帝は冷やかに言い、1枚の紙を取り出した。 「読んでみろ」 アベルが受け取り、三つ折りになっているその紙を開いた。クリスと玲人が両脇から覗き込む。 「『デイヴィ・キーンと聖晶は、尊敬するサヴィナ王のため、《ガーディアンエンジェルス》を結成する』ーーーーなんだって?」 アベルは声を上げた。慌てて先を読む。 「『今後、サヴィナ国及びその国民に対し不当な行い等をした者については、《ガーディアンエンジェルス》の名においてしかるべき処置を与えるものとする』ーーーーって、こりゃあ…」 皇帝は頷いた。 「名実共に最強のコンビだ」 「晶が《黒い悪魔》と…」 玲人がぼんやりと呟く。 「厄介だな。よりによって《黒い悪魔》と《キラーパンサー》がつるむとは…」 アベルは顎に手を当てて考え込んだ。 「いや、そうでもない。《黒い悪魔》は一匹狼だ。世界征服の野望もない。《プリマ・ドンナ》や、その他の国の手に渡るよりも良かったかもしれん」 皇帝もいつもの冷静な口調で言った。 「それに、奴の国のファルーヤ王国も中立国だ。自衛の軍隊はあるが、こちらから手出ししない限り、おとなしくしているだろう」 「しかし、いずれは手出しするおつもりなのでしょう?」 クリスが訊く。 「そうだ。そのためには兵力がいる。ーーーークリス、おまえはクリストファームに行って以前申し込んであった同盟を結んでこい」 皇帝は悪魔的な笑みを見せて、 「《ガーディアンエンジェルス》には及ぶべくもないが、防波堤ぐらいにはなってくれよう」 「畏まりました」 クリスも冷たく微笑んで、一礼して出ていった。 皇帝は玲人に目を移し、 「玲人、2日やろう。イカナを落としてこい」 「1日で充分です」 玲人は不敵に笑って答えた。 「そうか。では1日だ。ーーーー行ってこい」 「御意に」 玲人も風のように去っていく。 「アベル、おまえはーーーー」 「俺は、おまえを慰める役、だろ?」 アベルは手を伸ばして皇帝を抱こうとしたが、皇帝はするりと抜け出して、 「そんな気分ではない」 窓に向かって歩き、外を眺める。 「気に病むことはない。《黒い悪魔》も《キラーパンサー》も、俺が倒してやる。誰にもおまえの邪魔はさせないさ」 言いながら皇帝の様子を窺ったが、その後ろ姿は微動だにしない。アベルは肩を竦めて踵を返した。 2・3歩行った所で、背中に熱いものが張りついた。頭を巡らせると、肩ごしに、こちらを見上げる皇帝と目が合う。 「…おい」 「…気が変わった」 皇帝は囁くように言い、アベルの頭を引き寄せて自ら唇を押し当てる。こうなると、アベルにNOはない。 2人は皇帝の部屋へと階段を昇っていった。 クリスは無事にクリストファームの王と同盟を結び、玲人は言葉通り1日でイカナを落としてきた。 しかし、予定通りに行ったのはここまでだった。《ガーディアンエンジェルス》は思ったよりも目障りな存在になったのだ。 ランシュークで、彼らは最強の武器を手にした。 ムーンベクトでは邪魔された。あの、無能な国王の代わりに国を乗っ取ろうとした大臣は、帝国の息がかかっていたのだ。彼は手柄を取ろうと焦る余り真っ向から《ガーディアンエンジェルス》に歯向かい、見事に敗れた。ムーンベクトは平和になってしまった。 クリストファームも、またしかり。同盟を結んだ王は、前王の娘と大臣の息子に殺された。ここでも《ガーディアンエンジェルス》が力を貸したのだ。 それでも、希望が見えた時もあった。彼らが嵐に巻き込まれて行方不明になったというニューズが、世界中を駆けめぐった時だ。 しかしそれも、その日の内に無事が確認された。 こうなれば、やることは1つ。《ガーディアンエンジェルス》の抹殺だ。 結成された時から、皇帝はこれを考えていたに違いない。しかし、実行に移そうと決めたのは、ふざけた新聞記者が彼らの無事に対するコメントを、よりによって皇帝に求めてきた時だろう。 《ガーディアンエンジェルス》が自分の親友か同志であるかのようなコメントを、皇帝は発表した。 思慮のない浅はかな者達はこれに喜び、少しは世界を知っている者達は首を傾げ、そして、ごく僅かの、深く物事を見通せる者達は戦慄した。 これはいわば、帝国の宣戦布告だった。 《ガーディアンエンジェルス》はこれを受けた。 無謀だという声もあったし、快哉を叫ぶ者もいた。 自分の本拠地に呼び寄せたからには、皇帝も容赦はすまい。逆に言えば、《ガーディアンエンジェルス》にとっても、思う存分暴れられる状況といえる。 一つ確かなのは、この戦いの結果如何で世界の運命が決まってしまう、ということだった。 「ーーーーで、どうする?」 バスルームから出てきた皇帝に、アベルは訊いた。 「迂闊には手は出せんな。なんといっても、相手は『神に愛された世界の勇者』だ」 と答えた皇帝は、床に散らばる服を拾って着けはじめた。 「ふん。何が神だ。何が勇者だ。ただのお節介野郎どもではないか」 アベルはベッドの上でゴロンと仰向けになって、不満げに鼻を鳴らす。 「とにかく、向こうの出方を見よう。何か不審な行動をしたら、即座に仕掛けろ」 「ーーーーもし、不審なことをしなかったらどうする?」 皇帝はアベルを見た。背筋が凍るような笑みが刻まれている。 「その時は、言いがかりでもなんでもいい」 「了解」 アベルもニヤリと笑った。 「ーーーー早く支度をしろ。勇者様が到着なさる頃だ」 「へいへい」 アベルはベッドから出た。逞しい裸身がバスルームに消える。 皇帝は窓から外を眺めた。遠くに馬車が向かってくるのが見えた。冷たく見据え、 「ーーーーそちらが神なら、こちらは悪魔か。…それもいいだろう」 一方、世界の運命を背負った『勇者』達はーーーー 「ーーーー晶、もうすぐ着くぜ」 デイヴィが、晶の頬に優しくキスした。 「…ん…」 晶は目を擦って、 「ーーーーあーあ、よく寝た」 大きく伸びをする。 「呑気だな」 デイヴィは苦笑した。 「ーーーーデイヴィはずっと起きてた?」 「…ちょっと、うとうとしちまったかな」 「じゃあ、人のこと言えないじゃないか」 晶がのんびりと笑う。 世界の勇者たる自覚など、この2人には全くなかった。彼らはただ、自分のしたいように行動しているだけなのだ。正義なんてものはただの主観に過ぎないことを、彼らはよく知っていた。即ち、帝国には帝国の正義があるということだ。そして、帝国を支持する者達にとっては、デイヴィと晶こそが『反逆者』である、ということも承知していた。 「で、どうしよう」 晶がなんの気なしに呟くと、 「まあ、向こう次第だな」 デイヴィも何気なく答える。 「せめて、兵士が何人いるか判ればね」 晶はデイヴィを見て、 「玲人はさっき、デイヴィに見とれてたね。巧くやれば話してくれそうだけど。デイヴィ、あんた誘惑してみる?」 「冗談よせよ」 デイヴィは露骨に厭な顔をした。 「だろうね。ーーーーじゃあ、ぼくがやろう」 どうやるんだ、と訊く間もなく、馬車が止まってしまった。 「ーーーーさあ、どうぞ」 晶の企みなど知るはずもない玲人が、ドアを開ける。晶がまず降り、デイヴィが続く。 幸い、周りにも、扉の前にさえも誰の姿もなかった。馬番に馬車を引き渡して城内に入ろうとする玲人に、晶は、その馬番がいなくなってから、 「ねえ、玲人」 と声を掛ける。デイヴィは思わず身構えた。一体、どう『誘惑』するのだろう。 「ーーーーなに?」 玲人が振り向く。その顔を見つめ、 「今、ここにはどのくらい兵士がいるの?」 晶はいきなり訊いた。 晶らしいとはいえ、デイヴィは呆れた。そんな質問に答えるわけがない。 案の定、玲人は冷たく、 「僕が答えると思ってるの?」 「思ってる」 晶はあっさり頷いた。 「……………」 玲人は晶を見つめた。晶も玲人を見つめている。デイヴィが妬けるほどの時間、2人はそうしていたが、 「…今、クリス将軍が500人連れて遠征中だから、ここには1,500人残ってるよ」 とうとう観念して、玲人はため息まじりに言った。 「そう。ありがとう」 晶はにっこり笑って、 「ついでにもう1つ。クリス将軍はいつ戻ってくる?」 「一昨日行ったばかりだから、まだ暫くかかるんじゃないかな」 玲人はすっかり諦めて、素直に答えた。 「ふーん。残念」 晶が無邪気に呟く。玲人は首を傾げた。晶とデイヴィが帝国と仲良くするために来たとは、勿論思っていない。ならば、兵は少ない方がいいに決まっている。だから、 「残念、って、どうしてさ」 と訊いた。 「うん。彼女には色々言ってやりたいことがあるから」 晶が茫洋と答える。玲人も長い付き合いなので、この『茫洋』がどんな種類のものかすぐに判った。ーーーー怒りである。 「そう」 玲人は落ち着かなげに言った。晶は滅多に怒らないが、一度怒ったとなるとーーーー。ヒークベルトでのやりとりから、晶は既に、玲人に対しても怒っているはずである。これ以上刺激しない方がいい。 「…もういいだろ? 皇帝がお待ちだ」 玲人は話を強引に切り上げて、扉へと歩き出す。 その後ろ姿に、晶は止めの一撃を刺した。 「サヴィナに戻る気はない?」 時間が止まったように思えた。玲人は身じろぎ一つしない。 「みんな、おまえが戻るのを待ってる」 晶の声だけがのんびりと流れる。 「勿論、アイリン姫もね」 玲人は勢い良く振り向いた。その表情を見て、デイヴィは驚いた。何気ない一言が、彼に驚くべき変化をもたらしていた。今まで彼の周りを取り巻いていた、秋風のような空気が跡形もなく消え去り、少年らしい素顔が露になった。戸惑いと、ーーーー少しばかりの喜び。 玲人は何か言いたげに口を開き、すぐに噤んでしまった。そのまま黙り込む。 「まあ、よく考えてみて」 晶は優しく微笑み、玲人の肩を叩いた。ここは無理に話を進めるより、一度引いた方がいいと判断したのだ。 「……………」 玲人は再び晶を見つめた。言葉では言い尽くせないような、複雑な目線だった。 それに気付かないのか、晶はいつもの調子で、 「ーーーーじゃあ、皇帝の所に案内してよ」 「…了解」 ほんの少しだけ冷たさを取り戻した声で、玲人は応えた。 玲人の案内で城の中に入った時、デイヴィは心の中で呻いてしまった。あらゆる場所が飾りたてられている。 ーーーーどうやら、俺達が来るのを前もって予想してたらしいな。 不意を突いたつもりが、予定通りの出来事だったのだ。皇帝を甘く見ていたらしいことに、デイヴィは気付いた。いや、下手をすると、自分達は巧いことおびき寄せられたのかもしれない。 『飛んで火に入る夏の虫』ーーーー自分がその状態におかれていることに気付いてしまった者は、一体どういった反応をするだろう。自分の愚かさを呪うか。それとも、限りない不安の中に投げ出されるか。あるいは、死を覚悟するかもしれない。しかし、デイヴィは違った。 ーーーー面白くなってきやがった。こうでなくちゃな。 全身の血が沸き立つのを感じた。彼は《黒い悪魔》なのだった。 隣を歩く晶に目をやると、彼も丁度デイヴィを見た。確かにデイヴィと同じことを考えている顔をしている。2人はこっそりと笑みを交わした。 玲人が大広間の扉を開く。重い音が響き渡った。 中央に、花をふんだんに飾った長方形のテーブルが置かれている。その奥の玉座に、彼は座っていた。 帝国皇帝アリステア。世界を混乱の渦に巻き込んだ張本人が。 その所業に似つかわしくない華奢な体を、皇帝は《ガーディアンエンジェルス》の前に運んだ。 「ようこそいらっしゃいました」 丁寧に頭を下げる。 「お招き頂き、ありがとうございます」 負けず劣らず、デイヴィも優雅に腰を屈める。 「いえ。なにぶん急なことで、たいした準備も出来ず、お恥ずかしいかぎりです」 そつのない皇帝の言葉に、 「とんでもない。ぼく達のためにここまでなさって下さるなんて、感謝の念に堪えません」 晶がにこやかに応えた。 まさに、狐と狸の化かし合い。口先だけの言葉も、ここまでくると真実味を帯びて聞こえてくるから不思議である。役者が勢ぞろい、といったところか。いや、1人だけ、自分に素直な男が残っていた。 「なるほど。あの新聞の絵は出来すぎだと思っていたが、なかなかどうして、巧く描けてたんだな!」 割れ鐘のような声を発したのは、勿論アベルだった。 「それはどうも、アベル将軍」 晶が茫洋と答える。アベルはニヤリと笑って、いかにも好色そうに晶をじろじろ眺める。デイヴィの眉が微かに上がった。アベルの目つきが気に入らないのだ。更になんのつもりか、デイヴィまでもを変な目で見てくる。まあ、これは仕方ないといえばいえる。なにしろこの美貌だ。しかし、男にそんな目で見られてデイヴィが喜ぶはずがない。つい不快感が表情に出てしまって、 「ーーーーなんだ? その目は。何か言いたいのか?」 それに気付いたアベルが、デイヴィを睨んで言った。 「悪いな。生まれつきだ」 デイヴィは軽くかわすが、 「文句があるなら言ってみろ。場合によっては相手になるぜ」 アベルはしつこく絡んできた。 「アベル、よせ」 皇帝が静かに言った。静かながらどこか不気味で、さすがのアベルも従わざるを得なかった。 「ーーーー部下が失礼を。なにぶん血の気の多い男でしてな」 皇帝はデイヴィに頭を下げる。 「いや、そうでなくちゃ、将軍なんて勤まらないでしょう」 デイヴィは穏やかに微笑んだ。 「ご理解頂き感謝します」 皇帝も薄く笑って、 「さあ、晩餐会の用意が整うまで、少しの間お休みください」 皇帝の言葉を受けて、玲人が動く。デイヴィと晶は素直についていった。 3人が出ていくと、 「おい、なんで止めた?」 アベルが早速文句をつける。皇帝は冷たく答えた。 「早すぎる」 長い廊下を歩いていく途中、何人かの兵士やメイドとすれ違った。立ち止まって道を開け、3人が通り過ぎるのを恍惚と見つめる。その姿が見えなくなるまで見送り、やがて頬を染めて息を吐く。誰もが同じ反応をした。 「ーーーーじゃあ、ここを使って」 あるドアの前で、玲人は足を止めた。 「ありがとう」 「じゃ、食事の用意が出来たら呼びにくるから」 玲人はそう言い残して去ろうとした。その腕を晶は掴んで、部屋の中に引っ張り込んだ。 |