デイヴィと晶は同時に足を止めたが、デイヴィが警戒しているのに対し、晶はこわごわという感じだった。 デイヴィは息を潜めて音源を睨んだ。一体何が出てくるのか。反射的に剣の柄に手がかかる。こんな不気味な山なら、自分達と、晶の言う『師父』以外に人間はいなそうだし、人間以外のものなら物騒な奴に違いない。『師父』も物騒かもしれないが、少なくとも言葉は通じるだろう。 またさわさわと茂みが揺れた。さっきは木々の奥の方だったが、こんどはずっと道側だ。明らかに、何かが出てこようとしている。連続的にがさごそがさごそ、ときて、小枝を踏みつける小さな音もした。 柄にかかるデイヴィの右手に力が入った。全身が戦闘に向けて準備する。今回は、晶も護る、という熱い思いに燃えているので、いつもの3倍は気合が入っている。 がさがさ。もう敵が出てくるはずだ。ざわざわ。殺気が吹きつけてきた。肌がちくちくする。凄い気だ。ーーーー望むところだ。早く出てきな。 「ーーーーあ?」 デイヴィは思わず間の抜けた声を出した。茂みを抜けた音がした。殺気も相変わらず感じる。なのに、目の前には誰もいないのだ。 「誰もいねえのに…」 混乱して、デイヴィは半歩後ろにいる晶を振り向いた。 「ーーーー?!」 晶はデイヴィを見ていなかった。蒼ざめた顔に、あの不思議な紅茶色の瞳で、じっと前を見つめている。 「あ、晶…」 「視えないの?」 「何がだよ?」 晶は何も言わずに前を指さした。 デイヴィはつられてもう1度見た。別に何もない。何もないが、なんとも言えない妙な気配はずっと残っていて、しかも、だんだん大きく膨れ上がってきている。 「ち、近づいてきてるよ!」 晶が叫んだ。殆ど泣き声に近い。普段冷静なーーーー晶の場合は茫洋なだがーーーー人が我を忘れると周りの者も動揺してしまうが、まさにデイヴィはその状態だった。一種の興奮状態は伝染してしまい、判断力を鈍らせる。 「くそっ!」 剣を抜いたのは、戦士として培われてきたデイヴィの本能の成せる技だった。それは幾度となく彼と彼の戦友達を救ってきた。そして、今回も例外ではなかった。 剣から光が迸った。迸る、という表現ではおとなしすぎる勢いで、光は山に溢れ、山を包み込んだ。それは火山の噴火のように、一度空に向かって吹き上げてから空中で向きを変え、幾つもの筋となって降り注いだ。 永遠とも思える時間だったが、恐らくは瞬間的な出来事だったろう。デイヴィは剣を胸の前に構えたまま呆然と立ち尽くし、晶は眼を丸くして座り込んでいた。彼らにとってもこれは不意打ちだったのだ。何が何やら理解不能で、思考も麻痺しているため、暫くは自分達の周りに起こった変化にさえも気が行かないほどだった。 先に我に返ったのはデイヴィだった。彼が真先にしたのは、自分の愛する人物の無事を確かめることだった。晶の傍らに跪き、 「晶、大丈夫か」 「うん…」 晶はまだ点目状態で、 「何やったの? デイヴィ」 「俺に訊かれても…」 デイヴィは辺りを見回し、ここでやっと変化に気付いた。 さっきまでの深い霧は爽やかな風の精によって遙か彼方まで運ばれていったに相違なく、今は生い茂った木々の葉の隙間から明るい光が差し込み、鴉のような声も梟の陰気な嘆きも、優しく気の小さな小鳥たちの賑やかな歌声に取って変わられていた。地獄への入口のようだった山は、もはやどこから見ても普通のーーーーいや、神々が住まう天上の神殿と化していた。 デイヴィと晶は顔を見合わせた。自分達の他にもう1人同行者がいるのを思い出した。彼は実体ではないけれど、その能力は実体であるデイヴィと晶を遙かに凌ぐものだった。なにしろ、彼は神なのだから。 「…私の仕事は気に入ってくれたかな?」 涼やかな声がした。光溢れる場所に相応しい姿がそこに浮かんでいた。 「ゼウス様…。勿論です」 デイヴィはやっと自分を取り戻して、いつもの笑顔で答えた。 「お蔭様で、助かりました」 晶も同様に、のんびりと言った。 ゼウスは優しく頷いて、 「ガニュメデスには、あれが視えないようだったからな」 「『あれ』…?」 不審げなデイヴィを、ゼウスは慈愛のこもった瞳で見た。 「視えぬなら、知らないでいた方がいい。その方が幸せだろう」 晶は、うんうん、と頷いている。 とにかく、『あれ』とやらが何であっても、視えないなら関係ない。確かなのは、際どい状況にあったこと、そして、ゼウスがそれから救ってくれたということだ。 「ありがとうございます、ゼウス様。ーーーー本当に、いつもいつも」 デイヴィは真剣に言った。自分達のために、あの大神ゼウスが心を砕いてくれるなんて、本当に有り難いことだ。 デイヴィの口調からその想いを読み取ったのか、ゼウスは笑って、 「おまえ達は本当に珍しいタイプだ。今まで私が力を貸した者達は、得意になり驕り高ぶっていった。私は幾度となく苦い思いを味わったものだったが」 ゼウスは2人の頭に手を置いた。 「おまえ達のような者のためなら、苦労のしがいもあろうというものだ。ーーーーとはいえ、大して苦労はしてないのだがな」 「でも…。ありがとうございます。本当に助かりました」 晶は真剣に言った。彼には『あれ』が視えていたから、その恐ろしさをデイヴィよりもよく理解している。 ゼウスは優しく微笑むと、そのまま剣の中に消えていった。ーーーー照れているのかもしれない。 すっかり明るい気分で、デイヴィと晶は山を登っていった。 「師父も今頃びっくりしてるんじゃないかな」 この山に入った時とは別人のように、晶は楽しそうに言った。 護るべき人間がいなくなってしまってちょっとがっかりしたデイヴィだったが、晶が元に戻ったことの方がより重要なので、今にもステップを踏みそうなぐらい軽い足取りで歩いていた。 「その師父って、なんであんな陰気だった山にこもってんだ?」 「他に適当な山がなかったから」 晶は身も蓋もない答え方をして、 「それに、師父がこもった時には、あんな風じゃなかったんだ。ここまで爽やかだったとは言えないけど、まあ、普通の山だった」 「…それって、師父のせいであんなになった、って意味か?」 「…それはなんとも…」 「……………」 デイヴィは再び不安になった。サヴィナの風習に馴染みの薄い彼にとっては、『仙人』などというものがよく解らない。晶の口から語られる言葉を元に推測するしかないのだ。よく知らない人のことを、会う前からなんだかんだと評価するのはデイヴィの主義に反するものの、今まで受けた印象と言えば『胡散臭い』の一言に尽きる。 ーーーーとにかく、会ってみなきゃ解らねえんだから、それまでは心を無にしよう。 デイヴィは自分に言い聞かせた。 「ーーーーほら、あれだよ、師父の家は」 晶が前を指した。50メートルほど先の坂の上に小さな木の小屋が建っている。 「質素な家だな」 「だって、世俗の欲に囚われないのが仙人だもん」 「なるほど…」 その家から、背の高い人物が出てきた。こちらを向いて立っている。顔は見えないが、日の光を受けた長い髪が金色に輝いているのは遠目にも判る。 「師父!」 晶が手を振ると、向こうも振り返してきた。 「ーーーーお久しぶりです、師父」 晶は坂を登り切ると、師父の元まで駆け寄った。 「元気そうだな、晶」 応えた師父の顔を見て、デイヴィは呆気に取られた。『師父』だの『仙人』だの、煩悩に囚われず世俗との関わりを絶っているだのという言葉から、彼はいい歳をした老人というイメージを作っていたのだが、とんでもない。どう多めに見積もっても、30代半ばの若い男だ。 しかも、外見だって結構なものだ。長い金髪に、湖のような深い青い瞳、高い鼻、薄めの整った唇。こんな山奥に潜んでいるのが勿体ないほど、師父はハンサムだった。 「君がデイヴィだね? 晶が色々世話になっているようだな」 師父は、優しい笑顔でデイヴィを見た。 「ーーーーそれほどでも」 礼儀上必要なだけの愛想で、デイヴィは答えた。理由は勿論いつものやつだ。 「晶、彼に話さなかったのか?」 師父は楽しそうな口調で、 「彼は、私とおまえの仲を誤解しているらしい」 「……………」 図星を刺されて、デイヴィは紅くなった。初めてのことだ。 晶はくすくす笑って、 「デイヴィ、師父はぼくの叔父さんなんだよ」 「そう、私は晶の母の弟だ。改めて、宜しく」 師父は手を差し出した。 「ーーーーそれは失礼しました」 デイヴィはその手を握った。 「いや、焼き餅妬きなのは知っていたからな」 師父が笑って言って、デイヴィは再び顔を紅くした。 「魔導の研究の方はどうですか? 師父」 晶が尋ねる。 「順調だよ。ーーーーそうそう、この山を浄化して下さったゼウス様に、ありがとうございます、と伝えてくれ」 デイヴィは眼を丸くした。 「浄化されたのは判るとして、何故それがゼウス様のお陰だとーーーー」 「それが仙人の能力ってやつだよ。ここにいながらにして、総てを把握できる」 晶が代わりに答えて、 「でも、師父、この山があんな状態だったのは何故です?」 「研究のために、かなり怪しい呪文も唱えていたからな。それに引き寄せられて、瘴気が集まってきてしまったのだ」 師父は決まり悪そうに、 「浄化の呪文でも駄目だった。仙人といえども神ではないから、出来ないことだってある。まあ、私はそんなもの平気だったから、構わないで放っておいたのだよ」 「ぼくは平気じゃありませんでした」 晶はのほほんと文句をつけた。 「そうだったな。来るたびに真っ蒼になっていたものだった」 師父は真面目な顔で頷いた。 「修行が足りんな」 「違います。師父みたいに鈍くないだけです」 「相変わらずだな。私を苛めるために山を登ったのではないだろう?」 師父が苦笑する。 「そうでした。ーーーー回復魔法を教えてください」 「それだけか? 攻撃魔法や補助魔法もあるが」 「そんなもの唱えてる暇があったら、敵を倒した方が早いですよ」 晶は肩を竦めて、 「でも、回復は必要です。ーーーーあんな思いは二度とごめんですから」 後の方は殆ど呟きに近い。 「おまえは元々魔力が強いからな。回復魔法も最上級をいきなり覚えられよう。普通はまず『ハーブ』を教え、後は本人の修行によって上級を覚えていくのだが」 「『ハーブ』、『ハービー』、『ハービア』ですね。でも、『ハーブ』で治る怪我なんて怪我のうちに入りません」 師父とデイヴィは同時に吹き出した。デイヴィは楽しそうな笑い声と共に、 「まったく、いかにもおまえの言いそうなことだぜ」 「そんなにウケなくても」 晶は茫洋と2人を睨んだ。迫力不足なのは言うまでもない。 「まあ、おまえの気持ちは解った。要するに『ハーブ』は覚えたくないのだな?」 ひとしきり笑った後、師父は言った。 「そうです。『ハービア』だけ覚えればいいです」 「…いいだろう」 師父は、晶の頭を軽くポン、と叩いた。 「…?」 晶はきょとんとして、 「あの、師父、それで…」 「うん?」 「教えてくださいよ」 「もう覚えている」 「ーーーーご冗談を」 「私は冗談は言わん。試してみるといい」 師父は憎らしいほどあっさりと答えた。 「試せって言われても…」 晶が珍しく狼狽していると、 「デイヴィ、私を斬りたまえ」 師父はまたさらりと口にした。 「…はあ?」 デイヴィはぽかんとして、 「悪い冗談はやめて下さい」 「本気だが」 「なら、尚更悪いですよ。俺は、理由もなく人を斬ったりしません」 勿論、以前ラルゴを斬ろうとしたのは理由があったからーーーーというのはともかく、憤然と言うデイヴィを、師父は好もしげに見つめた。 「ほう、見上げた男だ。ーーーーでは、仕方ないな」 師父は目を閉じて胸の前で手を合わせ、呪文を唱えはじめた。 「ーーーー転岩」 師父が手を伸ばす。その手が2mにも膨れあがったと思うと、それは岩で出来た手に変わり、デイヴィの身体を握り込んだ。 「ーーーーっ」 デイヴィは苦しげに息を吐いて、そのままぐったりとうなだれる。 岩の手が開いて、消えた。デイヴィは地面に崩れ落ちた。 「デイヴィ!」 晶は急いで駆け寄った。デイヴィは俯せたまま、身動き一つしない。 「師父! なんてことを!」 晶は師父を睨み付けた。さっきよりもずっと迫力がある。 「回復してあげなさい」 師父は幾分優しげに言った。 「……………」 晶は師父の魂胆が読めた。しかし、なにもこんな乱暴なやり方をしなくてもいいだろうに。よほど文句をつけてやろうと思ったが、それよりもデイヴィを回復させる方が先だ。しかし魔法は初めてなので、どうすれば発動させられるのか解らない。 「…どうすればいいんですか?」 「まず目を閉じて、口に出さず心の中で『ハービア』と唱えてみなさい」 晶は言われた通りにしてみた。 「ーーーーあ、なんか変なーーーー記号? いや文字かなーーーー頭に浮かんできました」 「それが、『ハービア』の詠唱魔法だ」 「…こんなの読めませんよ」 「読まなくていい。おまえの魔力ならば、発動呪文を唱えるだけで、詠唱した時と同等の魔法力を発動呪文に込めることが出来る。上級魔術師や魔導師による、『スペルレス』の原理はこれだ」 「はあ」 「その“変な文字”を頭の中に浮かべたまま、今度は口に出して『ハービア』と唱えてみなさい」 晶は頷いた。イメージを消さないように集中して、 「ハービア!」 と唱える。優しい光がデイヴィを包んだ。 「ーーーーあー、死ぬかと思ったぜ」 デイヴィが頭を振り振り立ち上がる。 師父はデイヴィに優しく笑いかけて、 「すまなかったな。一応手加減はしたんだが」 「あれはなんです? 魔法なら俺には効かないし…」 「仙術だよ。魔力とは違う源を使った力だから、魔力には関係なく効くのだ」 「物騒な真似は止めてください」 晶は顔を顰めた。それでなくとも、蜃に噛まれ、アベル将軍に斬られと、デイヴィは散々な目に遭ってきた。立て続けに起きるデイヴィへの災難に、晶も寿命が縮む思いを味わってきた。今度が3回目だ。そろそろ心安らかに過ごしたい。 「すまない。ーーーーだが、ちゃんと覚えていただろう? 疑ったおまえも悪い」 「…さっき言われた通り、師父を斬ればよかったわけですね」 「そうだ」 師父は静かに答えた。皮肉の通じない人らしい。もっとも、晶の口調がいつものごとく全然皮肉めいていないせいもあった。 晶はため息をついた。この浮世離れした仙人には何を言っても無駄だ、と身に沁みて理解していたからだ。 「ーーーーとにかく、ありがとうございます、師父」 気を取り直して、晶は頭を下げた。結局、彼はこの自分の叔父が好きだし、デイヴィのことさえなければ、素直にお礼を言えることをしてくれたのだ。 師父は晶の肩を叩いて、 「いくら回復できるからといって、無茶はいかんぞ。あくまで慎重にな」 と優しく言った。 「はい」 晶は素直に頷いて、 「…それにしても、こんな簡単に魔法を覚えられるなら、やっぱり魔導師になってもよかったかも知れません」 しかし、師父は苦笑しつつ首を振った。 「今回は特別だ。このやり方は、私が疲れる」 「そうなんですか?」 「そうだ。なにしろ、本来なら自力で覚えるべきものを、魔法で直接脳に書き込んだのだ。相当な魔力を使う」 「…それは失礼しました」 軽く頭を叩かれただけだと思っていたのだが、実はあの瞬間に魔法が発動されていたとは。つくづく、師父は凄い、と晶は思った。 「いや、構わん。これも『フル』である私の役目だ。それよりーーーー」 師父はふと空を仰いだ。 「早く下界に戻った方がいいようだ。さっきの浄化の光に国民達が戸惑っている」 ここで晶に目を戻して、 「それに、城の兵士達がおまえ達を心配して、仕事やデートを放り出してまで、この山に登ってきているぞ」 「あの3人か」 デイヴィはしみじみ首を振った。 「あいつらが騒ぐと厄介だ。晶、早く降りようぜ」 「うん。ーーーーじゃあ、師父、お世話になりました」 師父は再び晶の肩を叩いて、 「達者でな」 叔父の口調になっていた。 「はい。ありがとうございました」 晶とデイヴィは元気に頷いて、山を降りていった。 ーーーー一方、少し時間を遡って…。 あの凄い光を目にした国民達は戸惑っていた。嫌な感じはしなかったものの、異変は異変だ。何かの前触れかもしれない。特にあの山はそれでなくても異様なムードを醸しだしていたし、仙人まで住んでいる。事態を重く見た王は兵士達を招集した。彼はデイヴィと晶があの山に登っていることを知らなかった。 「山に異変が起こったようだ。誰か、様子を見に行ってくれる者はいないか?」 王は兵士達を見回した。 待ってましたとばかりに、手が2本挙がった。勿論、玲人とカインだ。他の兵士達は彼らの勇気に感心したが、彼らだって晶が行っていると知れば立候補しただろう。言い換えれば、玲人もカインも、晶が行ってなきゃ行こうなんて思わないのだ。 「行ってくれるか。しかし、2人ではーーーー」 「私も行きます」 後ろから声がした。皆は振り返った。 「エリック! ーーーーしかし、おまえは今日は非番だったろう?」 王は眼を丸くした。 「こんな異常事態に、呑気に休んでいられません」 エリックがきっぱり言う。またもや兵士達は感心したが、エリックだって晶のことがなければ呑気にデートしていたのは言うまでもない。 「では、頼んだぞ」 王は、勇敢な部下を持って幸せだ、という表情をしていた。 「はっ!」 3人は敬礼して、先を争うように走っていった。 「ーーーーリズはどうしたんだよ?」 誰もいない廊下に出て、カインはエリックに訊いた。 「そうだよ。こんな時こそ、彼女の傍にいてあげるべきなんじゃないの?」 玲人が口添えする。 「玲人、おまえ、人のこと言えるのか」 エリックはまず釘を刺してから、 「だって、気になるじゃないか。あの山には晶が…」 「リズに、それを言ってきたの?」 玲人が皮肉っぽく言う。 「まさか! そんなこと言ったら、リズだって晶のために山に登るって言い出すさ! ただ、『おれが様子を見てくるから、心配しないで待ってな』って言ってきたんだ。彼女、『勇ましいのね』って、すっかり感動しちゃってさ」 と、エリックは一人でにやにやしている。 「おめでとう」 カインは言ってやった。 山の中腹で、2人と3人は出会った。 「晶! 無事だったのか!」 「良かった、良かった!」 「どうしようかと思っちゃったよ」 口々に言って、晶を取り囲む。 「ごめん、心配かけて」 晶はのんびりと微笑んだ。 いつも通りの愛らしい笑顔に、3人はすっかり安心したらしい。 「いいんだよ、無事なら」 カインが頷いて、晶の手を握る。デイヴィはわざとらしく咳払いした。 「あ、デイヴィ、いたのか」 カインは真顔で言った。 「ーーーーにしても、一体何が起こったの?」 玲人は辺りを見回して、 「この山…、全然雰囲気が違うけど…。あの光のせい?」 「そもそも、あの光はなんだったんだ?」 エリックも不審げだ。 「あれは…ーーーー」 晶が説明する。 「ーーーーへえ! じゃあ、デイヴィには『あれ』が視えなかったってわけ?」 玲人が眼を丸くする。 「羨ましいな」 「『あれ』は確かに、気持ちのいいもんじゃなかったなあ」 カインが何度も頷きつつ、 「オレなんて、視た晩は必ずうなされたぜ」 「何度試しても、斬れなかったしね、『あれ』は」 エリックが苦笑した。 「おかげで、こっちは自信ガタガタだったよな」 これを聴いて、デイヴィは、やっぱり視えなくて幸せだ、とつくづく思った。 「でも、もう出ることもないはずだ」 晶は安心しきった口調だった。 「これで、今までよりずっと気楽に師父の所まで行けるね」 と、玲人。 「でも、陰気なムードはなくなったけど、モンスターは相変わらず出るぜ。油断してたらやられちまった」 カインは腕を上げた。左手首から肘にかけて巻かれた布に、赤い血が滲んでいる。 「うわ、痛そう。大丈夫? カイン」 「同情なんてしなくていいって、晶。カインってば、寝てるサーベルウルフを槍先でつついたんだよ。襲われて当たり前だと思わない?」 「うるさい、玲人。おまえが、寝てるかどうか確かめたら、なんてそそのかしたんじゃないか。可愛い顔してキツいんだからな」 「だからって、槍でつつくか? 普通。いや、つつくなんてもんじゃなかったな、あれは。思いっきり突き刺してんだもん、眠り姫だって起きちゃうぜ」 「よく言うぜ、エリック。おまえがオレの腕を押したんだろうが」 「あれは不可抗力だ。蚊がおまえの腕に止まったから、はたき落とそうとしてーーーー」 「なにが『不可抗力』だっ!」 「カイン、落ち着いて」 「でも、晶…」 尚も何か言いたげなカインの腕に、晶は優しく手を触れた。カインの顔が忽ち紅くなる。意外と純情なようだ。当然、デイヴィと玲人とエリックは、面白くない表情でそれを見ている。 「あ、晶…」 「ハービア」 柔らかい光が溢れる。サヴィナのトリオは眼を瞠った。 「ーーーー晶、回復魔法を覚えたんだね」 玲人が感心した口調で言った。 「『ハービア』だけだよ。大したことない」 カインの布を外しながら、晶は少し照れ気味に答えた。 「それに、自力で覚えたわけじゃーーーー」 「いや、大したことだ」 カインは布ごと晶の手を再び掴んで、 「オレのために、晶…」 「んなわけねえだろ」 「解ってるよ、勿論。言ってみただけだ」 晶の手を離して、カインは肩を竦めてデイヴィを横目で見た。寂しい言葉とは裏腹に、楽しそうな表情をしている。どこまで本気でどこから冗談か判らないキャラクターだ。 なんだかんだ言いながら5人が麓まで降りてみると、そこにはサヴィナ兵達が勇敢な仲間を待っていた。 「あ、ヤバい」 エリックが呟いた。 「あー、晶! この山に登ってたのか?」 早速、兵士の一人が叫んだ。 「そうか、カインも玲人も、いやにあっさり立候補したと思ったら…」 「『この異常事態にのんびり休んでいられません』だあ? よく言うぜ。感動した俺が馬鹿だったよ!」 「まったく、油断も隙もないな、おまえ達なら!」 「晶、俺だっておまえが行ってると知ってたら、山に登ったぜ! おまえのためならたとえ火の中水の中…」 「そうだとも!!」 兵士達は一斉に頷いた。 「ありがとう。その気持ちだけで嬉しいよ」 晶はそよ風のように微笑んだ。兵士達の心に温かく優しく吹き込み、脳まで蕩けさせる。この少年の得意技だ。ただし、本人は意識してやっていない。もって生まれた長閑な性格と可愛い顔が自然に行っていることだ。 この様子を見ていて、デイヴィは複雑な気分になった。晶は、姫と並んでサヴィナのアイドルなのだ。怪我をして寝ている兵士達に断ることなく、デイヴィは晶を連れ出してしまっていた。反対する者がいなかったから、晶がこの国にとってどれほど重要な人物であるかに彼は気付かなかった。兵士達の意識が戻った時、自分達の大事な人物が連れて行かれてしまったと知ったら…。ーーーーデイヴィは申し訳ない気分になった。 でも、晶だって子供じゃないんだし、無理やり連れて行かれたのならともかく、自分の意思でデイヴィに付いていったのだから、デイヴィが罪悪感を感じることはないのだが。彼は変に気を回す男だった。 「ーーーーデイヴィ? どうしたの?」 晶が不思議そうに尋ねる。デイヴィが我に返った時には、兵士達は国民や王に異変の原因を知らせに散らばっており、玲人とカインも仕事に戻り、エリックも彼女の許へ帰っていた。 「あ、いや、別に…」 「? そう?」 晶はちょっと首を傾げてから、思い直したように微笑んで、 「ね、早く戻ろう。お腹減っちゃった」 デイヴィの腕に自分のを絡める。 「そうだな…」 殆ど引っ張られるようにして、デイヴィは歩きだした。 「もうやること無くなっちゃったから、明日にでもファルーヤに行こうか」 「…晶…、おまえ、いいのか?」 「え?」 「もう少しいたいんじゃ…、いや、ずっとここにいたいんじゃねえのか?」 デイヴィの真剣な美しい顔を、晶はまじまじと見た。 「ぼくのいたい所は、デイヴィの隣だよ」 「……………」 「得心いった?」 晶は楽しそうにくすっと笑う。 「…ああ」 デイヴィも微笑んで、晶の肩を強く抱いた。極端なもので、もう罪悪感はどこかへ吹き飛ばされてしまっている。くよくよしないのも、デイヴィの性質だった。 この2人にとっては、お互い以外のものは必要ないのだった。 昼食の後、晶とデイヴィは王に報告に行った。 「なんだ、もう行ってしまうのか」 王は残念そうに呟いた。 「すみません。でも、長くいればそれだけ離れるのが辛くなりますから」 晶は顔を伏せた。 「謝ることはない。おまえの決めた道なら、誰にも止めることはできん」 王はちょっと笑って、 「だが、たまには顔を見せにきてくれよ」 「はい」 「で、今すぐ発つのか?」 「いえ、明日の朝にします。両親の墓にも参りたいですし」 「そうだな。いろいろ報告することもあろう。今回のことなどは、きっと彼らも喜んでいるに違いないぞ」 王の言葉に、晶は照れたような笑顔になった。 「デイヴィよ、晶を頼むぞ。本来なら、ずーっと晶にはここにいてもらいたいのだが、晶はおまえの傍がいいという」 王はからかうような笑いを見せて、 「おまえ以外の者なら許さぬところだぞ」 「光栄です」 デイヴィは艶やかに微笑んだ。 日の傾きかけたサヴィナの街をデイヴィと晶は並んで歩き、街中の視線を集めていた。彼らは理想のカップルであり、仲良く話しながら道を行く姿は微笑ましくもあり、羨望と憧れの的でもあった。 2人は公園に隣接されている共同墓地に向かっていた。墓場という暗いイメージはなく、清潔に整備されて花の溢れる素敵な場所だった。こんな所で永遠の眠りにつきたいと誰もが思うような墓地だ。 晶は城の庭で摘んできた花束を供えると、目を閉じて心の中で色々語りかけた。デイヴィも同じようにしていた。最初に晶をサヴィナから連れ出す時にはここには来なかったから、やや後ろめたいような恥ずかしいような気持ちで、デイヴィは事後報告をしていた。 「ーーーーじゃあ、またその内来るから」 目を開いて、晶は呟いた。 「もういいのか? まだ、花が残ってるけど」 「ああ、これ?」 晶は手にした花束を掲げて、今度は隣の墓の前に跪いた。そこにその花束を捧げて、 「ここは、玲人のご両親の墓なんだ」 「玲人の…」 「サヴィナを出る前の晩、あんたの所に行く前に、ぼくは両親にそのことを告げにきて、それから玲人のご両親に約束したんだ。玲人を必ず連れて戻るからって」 「そうか」 後半部はともかく、前半の方にデイヴィは照れた。 「…なんで紅くなってるの?」 「いや…。おまえ、なんて報告したんだ? ーーーーその…、おまえの両親にさ」 「あ…」 晶も頬を染めて、 「『デイヴィと一緒に行くから』って…。後はまあ、色々…」 「色々って?」 「ーーーー忘れた」 晶はデイヴィから目を逸らし、再び墓の方を見た。耳まで紅くなっている。ちゃんと覚えていて、かつ、かなり照れくさいことを言ったらしい。 デイヴィは晶の肩を抱いた。晶はその手に自分のを重ねて、顔をデイヴィの方に向けた。それからーーーー ーーーー少なくとも、晶の両親は、彼らの仲のよさを理解したに違いない。 翌朝、デイヴィと晶はサヴィナを発った。 余りに早い出発に、サヴィナ兵達は案の定大騒ぎした。しかし、晶にとってそれが一番幸せなことであり、兵士達はそれをいつも願っているから、涙を呑んで見送ってくれた。 一方の晶も別れに際する寂しさを感じていたが、傍らに立つ背の高い美しい青年のお陰で、山を越えてランシュークに着く頃には、なんとかいつもの調子に戻っていた。結局、もう二度と会えないわけでもないし、いつでも帰ってこれるのだから。 「ーーーーキャットは元気かな」 デイヴィが呟いた。ラルゴは、と言わないところが彼らしい。 「ちょっと寄ってみようか。折角だから」 晶が応えた時、 「ええ、ぜひ寄ってって頂戴」 後ろから弾んだ声が掛かる。2人は振り向いてーーーー 「やあ、キャット」 ランシュークの義賊は、2人ににっこり微笑んだ。 「久しぶりね! 会いたかったわ」 「俺もさ」 デイヴィはキャットの手を取って、口付けた。 「ラルゴはいるの?」 晶が訊くと、キャットは首を振って、 「残念ながら、海に出てるわ。商船に乗ってね」 「そっか、残念。デイヴィとの漫才が聴けると思ったのに」 「なんだそりゃ」 「あはは、あたしも聴きたかったんだけど、仕事じゃ仕方ないものね。ラルゴも残念がってると思うわ。2人に会いたがってたから」 「あいつは晶だけに会いたいだろうよ」 デイヴィは苦笑して、 「さて、折角こうやって再会できたんだ。キャット、お茶でも飲もうぜ」 「それよりも、あたしん家に来てよ。丁度美味しいお菓子を作ろうと思って、材料を買ってきたところなの」 デイヴィと晶は有り難くお言葉に甘えることにした。2人はキャットの荷物を手分けして持ってやり、彼女の家に向かった。 舌が蕩けそうな美味しいお菓子を頂きつつ、旧交を充分に温めてから、デイヴィと晶は港にやって来た。ランシューク⇔ファルーヤ間の運航は1日1往復しかない。 「でも、これからはもっと増えるでしょうね。皆、デイヴィの故郷を見たがってるもの」 キャットが朗らかに言った。 「見たがったって、なんにもないけど」 晶が澄まして応える。 「サヴィナと同じでな」 デイヴィは逆襲した。 「でも、今流行ってるのよ。『自然の中で子供をのびのび育てよう』っていうのがね」 キャットは楽しそうに、 「ほら、あなた達2人とも田舎出身でしょ? だから、そういう環境のがいいんじゃないかって、わざわざ辺鄙な所に引っ越す親が多いんだって」 デイヴィと晶は顔を見合わせた。そんなところにまで影響が出るとは思ってもみなかった。全く、世の中不思議なことばかりだ。 出航の合図のドラが鳴った。 「おっと、もう出航か。ーーーーじゃあ、またな、キャット」 「ラルゴに宜しく言っておいて」 「解ったわ。ーーーーまたね!」 2人を乗せた船は、ゆっくりと大海原を進んでいった。 キャットの言葉を裏付けるように、ファルーヤ行き中型船は満員だった。中には、《ガーディアンエンジェルス》が帰郷すると聞いて一緒の船にした、という不純な輩もいた。彼らはそういう行動をとるだけあって、熱狂的且つ無遠慮なファン集団であったため、船酔いにさえならなければ、一日中英雄達にひっついて彼らに迷惑を掛けたに違いなかった。 しかし、ランシュークを離れるやいなや彼らは自分達の船室から一歩も出られなくなってしまい、やっと起き上がれるようになった頃には、肝心の英雄達の方が船から姿を消していた。ある冒険のためである。 デイヴィはずっと甲板にいて、飽きることなく海を眺めていた。その紅い唇からは知らず知らず歌が漏れている。海を見ると自然に浮かぶのだ。彼は海が好きだった。島国ファルーヤでは海は国民達の生活の殆どを占めている。デイヴィも生まれた時から海の声を聞き、毎日その表情を見ていた。絶えず変化し同じ姿は2度と見せず、魅力的な魂を覗かせる顔である。その大きさ、威厳、存在感、そして時折見せる荒々しさーーーー以前その腕に抱かれて命を落としかけたにも係わらず、いや、だからこそ、デイヴィは強く心魅かれていた。 今日の海は穏やかで優しく、祖母のような慈しみを見せていた。走る船の横では人懐っこいイルカ達が撥ね、跳ね上がった飛沫が日光にきらめいて、小さな虹を幾つも生んだ。 弾けるような明るい笑い声が響く。見ると、晶がイルカと戯れていた。彼の差し出す手にイルカが鼻先で触れたり、大きく海水を撥ね飛ばしてからかったりしている。デイヴィの瞳に浮かぶ優しさが増した。いつになく平和な時が流れていく。 しかし、この2人のいる所、いつもなにかしら事件が起こってしまうのはご承知の通りである。今回は何が持ち上がったのかというとーーーー この時、楽しそうな晶の様子を愛しげに見つめていたのは、デイヴィだけではなかったのだ。2人は海にばかり気を取られていて、空から近づく影にさっぱり気づかなかった。 イルカのジャンプに合わせて晶が腕を挙げた時、デイヴィの顔にもう1頭のイルカが水を撥ねた。彼が晶からイルカに眼を移した瞬間、晶の手に何かが音を立てて絡みついた。 「ーーーーデイヴィ!」 その叫びにデイヴィが振り向くと、長い濃藍色の髪を靡かせて背中に青い翼を生やした男と共に、晶は空中に浮かんでいた。その身体は長い鞭で拘束されている。 「晶!」 デイヴィは叫ぶしかなかった。攻撃しようにも届かなかったし、届いたとしても、それでは晶が落ちてしまう。雷神の剣は船室に置いてきてしまっていた。 「貰っていくぞ!」 男はハスキーな声で言い置くと、東にある島に真っ直ぐ飛んでいった。 「ーーーーくそっ!」 デイヴィは船室に戻ると、自分と晶の荷物を掴んで飛び出し、通りかかった船員を捕まえて、 「ボートを出してくれ!」 「ーーーーは?」 いきなりそんなことを言われたのと、その相手がデイヴィだったのに圧倒されて、船員は間の抜けた表情で訊き返した。 「ボートだボート! 救助ボートがあんだろ?!」 デイヴィは辛抱強く繰り返す。 「だ、誰か落ちたんですか?」 船員は蒼くなった。 「そんなとこだ。ーーーー早く降ろしてくれ!」 「は、はいぃっ!」 人命救助の理念よりもデイヴィの迫力に押されて、船員は慌てて走りだし、記録的なスピードで救助ボート(耐魔物仕様)を海に降ろした。 ボートに飛び乗ったデイヴィは、これまた驚異的なスピードで島へと漕ぎだした。あの男がどういう理由から晶をさらったのかは明白だ。急がなくては。 デイヴィは島に到着した。永遠に着かないのでは、と彼には思えたのだが、実際には普通にかかる時間よりもずっと早く着いていた。 ボートを木に繋ぎ、デイヴィは周りを見回した。緑の芝生と明るい花々、背の高い木々がバランス良く並んでいる。何もない時ならばゆっくり散策したいところだが、残念ながら今は駄目だ。 デイヴィはまずここの島民を捜すことにした。あの憎き男がどこに住んでいるのかを突き止めなければ、晶を助けに行きようがない。デイヴィはずんずんと道を進んでいった。小鳥の声を聞く余裕も、爽やかな風を楽しむ余裕もない。彼の心中はただただ怒りが渦巻いていた。それは勿論、晶をさらったあの男に対するものであり、また、何もできなかった自分にも向けられていた。 そうやって歩いているうち、分かれ道に出た。どっちに行けば人がいるかな、と思案していると、一方の道から帽子と本がやって来た。ーーーーいや、本を読みながら歩いている帽子を被った人物なのだが、本が大きいためその真上から帽子が出ている状態になっていて、デイヴィは一瞬、本の顔をした人が歩いているのかと錯覚してしまった。 しかも、その人物は、周りが見えているとは到底思えないのに、頭上の木の枝や足下の石などを器用に避けている。さすがのデイヴィも、声を掛けるのをためらった。しかし、晶のことがある。他の誰かにいつ会えるかさえ予測できないのだ。 「ーーーーあの、ちょっと失礼」 デイヴィが声を掛けると、本人間は彼の数歩前でぴたっと止まり、本から顔を上げた。小柄で細身の少年だった。 あ、普通の奴だ、とデイヴィは安堵しつつ、 「あんた、この島の奴か?」 「そうだよ、…デイヴィさん」 「…俺を知ってるのか?」 「あなたを知らない奴なんて、今じゃこの世界にいないんじゃないかな」 「ーーーーあ、そうか」 「でも、こんな島に来るとは思わなかったけどね」 少年は鳶色の瞳でデイヴィを探るように見て、 「ーーーーひょっとして、晶さんを捜してる?」 「…なんでそれを?」 デイヴィは恐ろしいくらい静かに訊いた。こんなことを尋ねるには何か心当たりがあるはずだ。まさか、晶をさらった奴の仲間なのかーーーー 少年はデイヴィの疑惑に気づいているのかいないのか、冷静な口調で、 「なんでかって、2人はいつも一緒にいるって話なのにあなた1人しかいないし、それにーーーー見たからね。イプラギが誰かを抱えて山に戻っていくのを」 「イプラギ?」 「長い青い髪で、青い翼を生やした男だよ」 「そいつだ! どこにいるんだ?」 デイヴィは少年に詰め寄った。 少年は思わず後ろに退却しながら、 「この島で一番高くて険しい山だよ。人間が登るのは無理だろうね」 「無理だって? そんなもん、やってみなきゃ判らねえだろうが」 デイヴィはきっぱりと言い切った。覚悟を決めた人間には独特の美しさが宿るが、デイヴィの全身からは今まさに、この世ならぬ輝きが迸っていた。 「ーーーー噂以上だな」 少年は半ばうっとりと、半ば感心したように言った。 「そこまで言うなら…、方法がないわけじゃない」 「本当か?」 少年は頷いて、 「オレの友人に頼んでみよう。あいつなら行けるだろうからね」 そこは妙に天井の高い家だった。入口は遙か上につけられた窓1つだけで、晶はここから連れ込まれた。中にあるのは小さな丸テーブル1脚と椅子が2脚、それからベッドだけだ。その向こうにはドアがあったがーーーー外に通じてるわけないな、と晶は思った。 男は椅子に晶を座らせた。身体に巻き付いた鞭はそのままだ。 「俺はイプラギという。ーーーー我が家へようこそ、晶」 身の丈もある青い髪に、くすんだ黄色の瞳のその男はそう言うと、自分も向かいの椅子に座った。晶を見て嬉しそうに微笑んでいる。 しかし、晶はにこりともせず、黙ってイプラギを睨んでいた。心の中では、 ーーーー自分でさらっておいて、『ようこそ』もなにもないだろう。 と、毒づく。 イプラギの方もそう思ったのか、 「悪かったな、手荒な真似をして」 と弁解じみたことを言って下手に出てきた。しかし、こんなもので懐柔されるほど、晶はーーーー見かけほどーーーー甘くはない。いつになく素っ気ない口調で、 「悪いと思ってるなら帰してほしいんだけど」 「それは出来ないな」 「そう言うと思った」 晶はため息をついた。全身に巻き付いた鞭を目で追って、 「せめて、解いてくれない?」 「それも出来ない。君は強いからね。戒めを解くのは、君が俺に心を開いてくれてからだ」 「じゃあ、一生このままか」 晶が茫洋とぼやく。 イプラギは楽しそうな声を上げて笑って、 「君は実に可愛いな。その顔も声も言うことも、何もかも可愛いよ。俺はそういったものが好きでね」 「さらって自分のものにしたくなるほど?」 「その通りさ。君がいくら名のある戦士でも、君のパートナーがいくら勇気のある男でも、この山が相手では手も足も出ないだろう」 イプラギは、今度は残酷な笑みを見せて、 「言うまでもないが、君がさっきから見ているあのドアは、外には通じていないよ。従って、ここまで来られるのは、俺のように翼のあるものだけだ。さっさと諦めて、おとなしく俺のものになるといい」 「断る」 晶はきっぱり言った。 「ぼくは品物じゃない。自分の意思で生き、自分の意思で人を好きになるんだ。そして、その相手はあんたじゃない」 「そういうと思ったよ」 イプラギは、さっきの晶の言葉をそのまま呟いた。あんなことを言われたら怒るか失望するものなのに、むしろ楽しそうだ。 「解ってるならーーーー」 晶の台詞を遮って、 「俺は気が長い方だ。それに君も…、今はそう言ってるけど、ここに何年もいるうちに気が変わるさ」 イプラギは笑った。 「その時が楽しみだな」 「残念だけど、そんなに長い間ここにいるつもりはない」 勿論、デイヴィには大神ゼウスがついているのだ。彼ならばデイヴィをここまで運んでくれるだろうから、こんな厭な場所とはすぐにおさらばできるはずだ。 普段、デイヴィと晶はゼウスのことを敢えて選択肢から外していた。些細なことで彼を煩わせたくないからだ。自分達で出来ることは自分達でするのが、デイヴィと晶の信念だった。 今までそうやって数々のピンチを切り抜けてきたが、今回ばかりはどうしようもない。デイヴィも晶も空を飛べないのだから。だから心苦しいがゼウスに頼るしかない、と晶は考えていた。 「大神ゼウスだね?」 と言ったイプラギの口調と表情には、晶を不愉快にさせるものが含まれていた。こちらが希望を見いだした時になってそれを打ち砕くため、切り札を敢えて隠しておくーーーー残酷なサディストのすることだ。それを証明するように、 「この山をご覧。いたる所から絶えず炎が噴き出してるだろう? 確かに大神ゼウスはデイヴィをここまで運んでこれるだろう。でも、そこまでさ」 イプラギは楽しくて堪らないといった口調で説明した。 「そこまで、って、どういうこと?」 晶はぼんやりした口調で尋ねた。 「デイヴィの剣に宿る大神ゼウスは魂の一部に過ぎないんだよ。実体のーーーー本来の大神の能力(ちから)の1/4いや、その1/4の更に1/4の力も持ってないんだ。判るかい? つまり、炎や煙を防ぐなんて、幻にしか過ぎない今の大神には出来ない芸当なのさ。悪霊を追っ払ったり、海から人間を引き上げたりは出来るだろうけどね」 人の神経を逆撫でするようなことを楽しそうに、いや、相手が怒ると判っているからこそ楽しそうに言うのだろう。このイプラギという男は、文句なしのサディストだ。 イプラギを見つめる晶の瞳には、しかし、怒りは感じられなかった。 「それでも、デイヴィは来る。あの人は諦めるってことを知らないし、ーーーー測り知れない力を持った人だから」 晶は静かに言った。 「…めげない子だな」 イプラギはちょっとつまらなそうに、 「まあ、いつまで信じてられるかな?」 晶は答えなかった。イプラギは肩を竦めてドアに向かうと、 「このドアの向こうは俺の部屋だ。気が変わったら声をかけてくれ」 返事を待たずに出ていった。 その少年ーーーーキャラカと名乗ったーーーーの友人の所まで行く間に、デイヴィは同じような説明を彼から受けていた。 「あの山ーーーーノクフ山には、鳥どころかモンスターだって寄りつかないよ。ただ、ドラゴンを除いてはね」 「ドラゴン? ーーーー龍か」 前にも似たようなことを言ったな、とデイヴィは思った。 「あなたが言ってるのは蒼龍みたいな姿のことだね。そうじゃなくて、トカゲに翼と角を生やしたみたいな奴の方だよ」 「ああ、そっちか」 「火竜サラマンダーなら、あんな山でも喜んで行くよ。火が好物だから」 キャラカは笑って、 「どんな炎も飲み込んじゃうんだよ。翼を羽ばたかせれば煙は吹き飛ぶしね。あの山じゃ、あいつの背中は世界一安全な場所だよ」 「ふーん。それならその山にも行けるってわけか」 デイヴィはホッとしつつ言った。その山にさえ行き着ければ、後はーーーー 新たな闘志を燃やしたデイヴィの頭に、ふと新たな疑問が湧いた。 「しかし、ドラゴンなんてそうそういるものなのか?」 「いるよ」 キャラカはあっさり答えた。 「このサツカアヴには、あらゆる種類のドラゴンが住んでるんだ」 「はあー、すげー島だな」 デイヴィは感心した。 「で、おまえの友人のーーーー」 「シラクサ」 「そいつが、ドラゴンのいる場所を知ってんのか?」 「いや、知ってるっていうか…」 「じゃあ、…まさか、飼ってるとか?」 「飼ってるんでもなくて…」 「じゃあ、なんだよ?」 「口で説明しても信じないだろうな。『見ることは信じること』とも言うし…」 「あぁ? なんだそりゃ」 「シラクサに会えば解るよ。とにかく、あいつがいれば晶さんを助けられるから、希望を持ってーーーーって、あんまり絶望してるふうにも見えないな」 不思議そうなキャラカに、 「そりゃあそうさ。何があったって俺はあいつを助ける、って決心してんだからな」 デイヴィは決然と答えた。 「俺が決心して出来なかったことは一つもねえ」 「なるほどね」 キャラカは納得した。 そう、デイヴィの心中には不安も焦りもなかった。ただ、あの男ーーーーイプラギに対する怒りと、晶をこの手で救い出す、という決意だけだった。あと、ほんのちょっと心配もしたが、ーーーー大丈夫。晶は素手でも結構強いから。 「それにしても…」 デイヴィには気になることが1つあった。 「え? なに?」 キャラカが訊く。 「いや、なんでもねえ」 「?」 不審そうに首を傾げるキャラカを見て、 ーーーーそれにしても、晶の時には可愛い女の子(ユナのこと)がついて、なんで俺の時には男(ヤロー)なんだよ。 やはりそこにこだわるデイヴィだった。 |