「ーーーー変だな」
 キャラカが呟いた。
「シラクサのいそうな場所は全部捜したのに、なんで見つからないんだろう?」
 自分で捜す他にも、出会った住人達にもキャラカはシラクサの行方を尋ねてみた。といって、元々住人の多くない島らしく、小一時間ほど彷徨っても出会ったのはたった2人だったのだが。その2人とも、シラクサを見たと言ってそれぞれ違う場所を教えてくれたので、順に廻ってみた。だがそのどちらにも、彼はいなかった。
「俺が知るかよ」
 デイヴィは吐き捨てるように言った。晶がさらわれてから大分経つ。さすがに焦ってきた。
「いそうな場所にいないなら、いそうもない所にいるのかな?」
「だから、俺が知るわけねえだろ。おまえの友達なんだからーーーー」
 デイヴィはそこで言葉を切った。キャラカが顔を上げたためだ。
「おい…」
「しっ」
 キャラカはじっと虚空を見つめていたが、
「ーーーーこっちだな」
 いきなり歩きだす。デイヴィは後を追った。
「どうしたんだよ?」
「シラクサがこっちにいるんだ」
「なんで判るんだ?」
「調子の外れた鼻唄が聞こえたからね」
「ーーーー?」
 デイヴィは首を傾げた。彼の耳には何も聞こえなかったのだ。それでも、妙にキャラカが自信ありげなので、取り敢えずついて行った。
 暫く歩いて行くと、確かにデイヴィにも聞こえたのだった。
「…シラクサ」
 キャラカがその歌の主に声を掛けた。
「よう、キャラカ」
 髪も瞳も燃えるように赤く、健康そうに日焼けしたその少年は朗らかに言った。
「よう、じゃないよ。今までどこにいたんだ」
「ああ、おまえが捜してるっていうからさ、見つからないように隠れてたんだよ」
「…おいおい」
「でも、デイヴィさんも一緒だって聴いて、こりゃあ只事じゃないなって…」
「只事じゃねえよ」
 デイヴィが不機嫌に言う。
「文句の1つも言ってやりたいけど、今はそれどころじゃない」
 キャラカも少し疲れた表情で、溜息混じりに呟く。
「は? なんの話だ?」
 事情を知らないシラクサは当然戸惑った。
「それよりシラクサ、おまえ、ノクフ山には詳しいよね?」
 キャラカが本題に入る。
「え? ああ、勿論。あそこは俺の庭だぜ! なんせ、毎日行ってるからな」
 シラクサは胸を張って答えた。
 ここで、デイヴィは不審に思った。ノクフ山はモンスターでさえ避ける場所なのに、『毎日行ってる』?
「おい、ちょっと…」
 デイヴィが疑問を質そうとすると、
「ーーーーイプラギの奴がそんなことを?」
 シラクサが叫んだ。どうやら、デイヴィが考え込んでいる内にキャラカが事件を説明したようだ。
「よし、俺がデイヴィさんを山に連れてってやる!」
 力強く胸を叩く。
「頼むよ、シラクサ」
「任せろ!」
「いや、任せろって、おまえ…」
 デイヴィは口を挟んだ。すっかり混乱している。
「口で説明するより見た方が早いよ」
 それに気づいて、キャラカが言った。
「少し退がって」
 自分も退りながら、デイヴィに手を振る。
 取り敢えず、デイヴィは言われた通りにした。
 シラクサがその場に跪いた。その体がどんどん膨れ上がっていって、遂には大きな赤いドラゴンに変化した。
「……………」
 予想外の光景に言葉のでないデイヴィに、
「シラクサは竜人族なんだよ」
 キャラカが説明する。
 竜人族とは、その名の通り竜の血を引く一族のことだ。産まれた時にはほぼ人間の姿だが、性徴が現れ始める時期に体内の竜の血も目覚める。この時期を『覚醒期』と呼び、その間は竜の姿に固定される。『覚醒期』が終われば、竜型にも人型にも変幻自在になる。シラクサのように、普段は人間の姿でいる者が多いが、希に竜のままで過ごす者もいる。
「ーーーーなるほどな…」
 デイヴィは総てを理解した。
 キャラカが大きな鞍を持ってきた。竜の背中を覆うほどで、5人座れるようになっている。竜用の一般的な物だ。デイヴィも手伝ってシラクサの身体に装着した。
〔さあ、乗って〕
 火竜と化したシラクサが、首を曲げて自身の背中を示す。竜になっても人の言葉を話せるのが、竜人族と普通の竜の違いだ。
「ああ。宜しくな、シラクサ」
 デイヴィは従った。鞍の一番前に座って、そこから出ている手綱を掴む。
 シラクサは背中の、コウモリのような翼を羽ばたかせて浮き上がった。風が木々をざわめかせる。
「ーーーー気をつけて」
 帽子を押さえつつ、キャラカが声を掛けた。
〔任せとけ!〕
 シラクサは頼もしく応じて、ノクフ山目指して飛び立った。

 暑い。
 なにしろ火山である。
 晶の全身にまとわりついている鞭は、なんの素材で出来ているのか、この暑さにもかかわらずひんやりしていた。だが、拘束されているという事実は、それだけで人を息苦しくさせ、苛つかせる。
 更に、鞭が巻き付いていない首から上はどうしても暑い。
 晶の出身地サヴィナは標高が高いので、夏でも最高気温が20度ほどまでしか上がらない。故に、晶は暑さに滅法弱い。
 ここまで悪条件が揃えば、いかな晶といえどもそう泰然自若とはしていられないだろうーーーーと思いきや。
 晶は眠っていた。さすがに寝苦しいのか、少し眉間に皺が寄っていたが。
 この鞭はどうやっても緩みそうにないし、なら動けないのだから、この暑さで無駄に体力を消耗しないようにしよう、と実に合理的な判断によるものだった。暑すぎて眠れないかも、とちらっと考えたが、杞憂だった。デイヴィのお陰で寝不足気味だったからだ。何をして、なのかは追及するだけ野暮というものだ。とにかく、晶の睡眠欲は暑さに打ち勝つらしい。
 晶は気配を感じて目を開けた。この辺はさすがに戦士だ。
 すぐに部屋のドアが開いた。
「ーーーー呼んでないんだけど」
 入ってきたイプラギに、晶は寝惚けた声をかける。
「ーーーー眠ってたのか?!」
 さすがに、イプラギは面食らったようだった。
「こんな状況で、よく眠れるね」
「こんな状況だからこそ、休めるときに休んでおかないと」
 晶は応じて、
「何の用?」
「喉が渇いただろうと思ってね」
 なるほど、イプラギの手には、飲み物の入ったグラスを乗せた盆があった。グラスは大きめで、細かく砕かれた氷が入っている。この暑さのせいか、既に水滴がつき始めていた。
 晶は確かに喉が渇いていたが、そんな、何が入っているか判らない飲み物を飲むつもりはなかった。
「いらない」
 イプラギは溜息をついた。
「判らない子だな。ーーーー俺としては、君に脱水症状を起こされるのは不本意なんだよ。君だってそうだろう?」
「ぼくはどっちでも構わない」
 晶の答に、イプラギは眉を寄せた。意味が判らなかったのだ。
「ーーーーなんだって?」
「あんたの世話になる気はないってこと」
 つまり、このまま自分を監禁し続けるつもりなら、ハンガーストライキも辞さないというわけだ。それはイプラギを拒絶するという意思表示である。
 さて、イプラギは既に明らかな通り、かなりなサディストだった。実はこの飲み物もわざと落としてみせて、失望する晶の姿を見ようと思っていたのだ。
 このように、イプラギはどちらかというと精神をいたぶるのを好んだ。可愛いものや美しいものが好きなので、外面をーーーー肉体を傷つけることはしなかった。晶を戒めている鞭も特殊な素材で出来ているため、彼の身体に跡を残すことはなかった。むしろ、拘束することで相手の精神を弱らせるのが目的だった。
 そうして弱った相手を思うさま陵辱するのが、イプラギの趣味であった。しかも、相手が泣き叫んだり抵抗すればするほど、彼は喜んだ。逆に、相手がイプラギを怒らせないように従順になったり、媚びを魅せたりすると瞬時に醒めた。
 そういうかなり特殊な性的嗜好の持ち主なので、全く平然としている晶の様子に、イプラギは苛立ちを覚えた。
「君は可愛いけど、つまらないな。ーーーー何故絶望しない? 何故泣き叫んで助けを乞わないんだ?」
「絶望する理由がないから」
 自力では出られない場所に監禁され、全身を拘束されて動けない状態でなお、晶は希望を持っていた。彼自身の前向きさもあるが、何よりデイヴィが来てくれるからーーーーこれに尽きる。
 イプラギも、それに思い当たった。
「そんなにあの男を信じてるのかい? 来ようにも、どうしようもなくて立ち往生してるかも知れないのに」
「デイヴィが? まさか」
 晶は笑った。もう、信じる信じないのレベルではない。解っているのだ。デイヴィが来るということは、晶の中では決定事項なのである。
 ここで晶が笑うとは思ってもみなかったので、イプラギは更に苛立った。いや、苛立ちを通り越して怒っていた。こうまで自分の思い通りにならない相手は初めてだ。それでも、最後の質問をしてみた。これでも駄目なようならーーーー
「ーーーーなら、俺が彼を殺してしまったら? そのときはさすがに君も絶望するだろうね?」
 晶は静かにイプラギを見つめた。その紅茶色の瞳には、怒りの最中にあるイプラギさえもたじろぐ『光』があった。
「あんたに彼が倒せるとは思えないけど。ーーーーでも万が一そうなったとしても、ぼくも彼と一緒に『終わる』だけだ」
 晶の覚悟は実に判りやすいものだった。デイヴィと一緒に生きる。それが出来なければ一緒に終わる。全く後ろ向きに聞こえるかも知れないが、実際はそうではない。この2人が共に生き続けられないというのは、本当にもうどうしようもない状況ということだ。そして、この2人が共にいる限り、そんな状況には決してならない。どんなことでも乗り越えていく2人だからだ。つまり『終わる』ことなどあり得ない。
「…やっぱり、君は可愛いけどつまらない」
 イプラギは静かに言った。晶の余裕のある言葉を、最初の内は楽しんでいたのは、それがやがて打ちのめされて追いつめられ、消えて無くなると思っていたからだ。そのギャップを、イプラギは何より好んでいた。強がっていた者が段々と弱音を吐いていく、その過程を見るのが好きだった。
 だが、晶は全く追いつめられない。そうなると、最初は可愛いと思っていた余裕も鼻についてくる。
「仕方ないな。今回は、早々と黙らせるか…」
 イプラギは呟いて、自らの羽を一本引き抜いた。
「君のこのしなやかな身体を味わえないのは残念だけど、全く抵抗されないと俺もつまらないしね」
「何のこと?」
 晶が訝しげに眉を顰める。
「俺の羽に刺されるとね、みんな仮死状態になるんだ。ああ勿論、俺の気が向いたときには時々起こしてあげるけどね。これで君も、俺の『コレクション』の仲間入りさ」
 イプラギは、晶の顎を羽の先でくすぐった。
「ーーーー次に君が目覚めたとき、それは俺が邪魔者を倒したときだ。そのときにも、君は今みたいに余裕でいられるかな?」
「……………」
 晶は答えなかった。馬鹿馬鹿しすぎて答える気にもなれなかったからだ。
「まあ、いい。ーーーーおやすみ」
 イプラギは、羽の根本を晶の首筋に突き立てた。

 イプラギが晶の身体をベッドに運んでいるところに、例の高窓からヒクイトリが入ってきた。その名の通り火を好む真っ赤な鳥だ。そのままイプラギの肩に止まって、ガラガラした声で鳴く。
「ーーーー来たのか」
 イプラギは少し目を見開いた。それから晶を見て、
「君が余裕でいたわけだ。俺は信じてなかったんだけどね」
 そう声をかけると、窓に向かって飛び立った。

 群がってくるヒクイトリを、デイヴィは剣の一振りで総て落とした。騎乗で戦うのは初めての経験ーーーー竜は元より馬に乗っても戦ったことのないデイヴィだが、そこは一流の戦士である。すぐにこつを掴んだ。シラクサの勘がよく、デイヴィの動きを読んで動いてくれることもあった。
 前方から、青い羽で飛んでくる人物がいた。まさに探し求めていた男だ。
「イプラギだな。晶を返してもらいに来たぜ」
 男を見つめて、デイヴィは言った。口調は静かだ。今はまだ、怒りを開放させる時ではない。冷静に状況を判断し、相手を観察する。相手がどの程度の実力の持ち主かーーーーデイヴィは自分が『強い』ことを知っている。だからといってそれを過信することはない。まずは相手のことも、自分と同等かそれ以上の能力を持っていると想定する。決して侮ったりはしない。そうして対峙しているうちに、大体相手の力が見えてくる。
 相手の男ーーーーイプラギは、まずは落ち着いた様子に見えた。
「こんな山まで来られるとは思ってもみなかったよ! シラクサが一緒だということは、キャラカに遇ったんだね? 運がいいな。あの子はこの島一番の物知りだからね。ーーーー俺のことは色々聴いたかな?」
「ああ。ーーーーヒクイトリの突然変異種で、400年生きて人間に化けることを覚えた妖怪、だそうだな」
 デイヴィの答えに、イプラギは微かに片眉を上げた。
「まったく、あの子は…。どこでどうやってそんなことを調べ上げたのやら」
 とげとげしい声で唸るように言う。この島の人間が自分のことで判っていることといったら、草木も生えずモンスターさえ生息しない魔の火山に住みついた有翼の人間、くらいの情報だろうとイプラギは考えていたのだ。まさか、名前はおろか正体まで判明しているとは思ってもみなかった。
「ちなみに教えてくれないか。何故キャラカが俺のことをそこまで知っている?」
〔俺が見たことを、あいつにちょっと教えてやったんだ〕
 シラクサが答えた。
〔あんた、前に鳥のまんまの姿で飛んでただろ〕
 その話を聴いたキャラカは、何か引っかかることがあって色々な書物を調べてみた。すると2年前に発行された『世界の怪異−最新版−』という本に、ここより東の大陸の記録として、イプラギと呼ばれる巨大な蒼いヒクイトリの話が載っていた。以下に内容を述べる。

 ーーーー400年の昔から、その火山には巨大な蒼い鳥が棲んでいた。落ちていた羽を調査すると、ヒクイトリであると判明した。突然変異種であろう。
 麓の村では、その巨大なヒクイトリの変種は悪魔の遣いとされ、現地語でその意味を持つ『イプラギ』と名付けられた。
 『イプラギ』は人の頭上すれすれに飛んだり、襲いかかる振りーーーーあくまで振りだったーーーーをしたり、収穫前の果物を羽風で木から落としてしまったりなど、質の悪い悪戯ばかりしていた。
 それでも村人は祟りを恐れて、されるがままになっていた。村では『イプラギ』は禁忌として、姿を見ても追い払ったり、ましてや傷つけたりしないよう言い伝えられてきた。禁忌を破ると村に災いが起こると信じられていた。
 ところがほんの3年ほど前、『イプラギ』に恐るべき変化が起こった。いつものように勢いよく飛んできたかと思うと、村人の目の前で人間の姿になったのだ。驚いている人々の顔を見て、人間になった『イプラギ』は高笑いしながら火山の方に飛び去っていった。
 村人達はますます『イプラギ』を恐れた。悪魔の遣いなどではなく悪魔そのものだ。
 ある日、村の娘数人が道を歩いているところに、『イプラギ』が人の姿のまま飛んできた。娘達は恐れをなして立ち止まった。その中の1人に『イプラギ』は鞭を巻き付け、連れ去った。
 残された少女達はパニックになりながらも、村長に報告に行った。村の自警団は会議を開いたが、どうしていいか解らなかった。村に伝わる禁忌に縛られていたし、なにより『イプラギ』が棲む火山へは危険すぎて人間は入り込めない。
 業を煮やした娘の父親は自分だけでも火山に行くと言って、人々が止めるのを振り切って出ていった。半日後、全身に酷い火傷を負って、息も絶え絶えに戻ってきた。これを見て、村人はすっかり尻込みしてしまった。
 3ヶ月後、為す術もなくただ嘆くことしかできない村人を嘲笑うように、『イプラギ』は次は18歳の少年をさらっていった。
 若者達はなるべく外に出ないように、やむを得ないときは『イプラギ』が飛んでいないことをよく確かめるように、と言い聞かされた。1人で外に出ないこと。外にいる間は常に空を確認し、『イプラギ』の姿を認めたら建物の中にはいること、近くに建物がない場合は木に抱き付くこと。そうすれば鞭に巻かれることはない。
 村人達と『イプラギ』の根比べは、半年も続いた。
 やがて村人達は疲弊してきた。農作業で生計を立てているこの村では、外での作業が殆どだ。絶えず空に注意を向けるのは効率が悪いし、作業に夢中になればつい怠ってしまう。
 倦み疲れて油断した頃、ついに3人目がさらわれた。
 とうとう村人達は蜂起した。タブーを破って、悪魔『イプラギ』と対決する決意を固めた。悪魔を捕らえるためにあらゆる策が講じられた。
 『イプラギ』は人間の知恵を持っているため、その策をことごとく退けた。悪魔と村人達の攻防は1年も続いた。『イプラギ』はその間も毎日村に姿を現し、村人を挑発した。更には青年を1人さらったりもしてみせた。
 万策尽きた人々は諦めかけた。しかし、青年がさらわれた日を最後に、『イプラギ』は姿を見せなくなったのだ。
 村人は戸惑った。これも奴の作戦だろうか。油断させておいて、致命的なダメージを与えるつもりだろうか。だが、一月経っても半年経っても、『イプラギ』は姿を見せなかった。本当にいなくなったのでは、と村人は希望的観測を含んだ意見を囁きあうようになった。
 戦々恐々と村人達は1年を過ごし、やっと『イプラギ』が火山から去っていったことを信じられるようになった。とても手放しでは喜べなかった。さらわれた人々は戻ってきていないからだ。
 あなたが巨大な青い鳥を見たら、それは悪魔の鳥『イプラギ』かもしれないーーーー

「…なるほど。俺がそこまで有名だとは自分でも知らなかったな」
 面白くない、という気持ちをあからさまに声に乗せて、イプラギは言った。自分が意図していないのに、自分のことが知られている。それは彼にとって不愉快なことだった。
 人は、得体の知れないものに恐怖を覚える。
 サディストであるイプラギは、相手が自分に対して抱く恐怖感を楽しんでいた。それがこんなふうに知られてしまっては、その恐怖も半減してしまう。
 そもそもイプラギが人間に化けられるようになったのは、前述の本にもあった通りほんの5年前のことだ。400年も生きていれば自然とその程度の妖力が身に付く。ヒクイトリの乱暴な性質に人間の知恵が加わって、イプラギは『怪物』となった。歪んだ本能の命じるままに人をさらい、『コレクション』する。
 生まれた地である東の大陸を去ったのは、その土地での『コレクション』が完成したためと、人々がイプラギに対して抵抗を始めたため、だった。恐怖で人々を支配したい彼にとって、これは不本意だった。
 そこで、イプラギは彼を知らない土地に移動した。その地に1年ほど滞在して『コレクション』を充実させた。それ以上は、前の土地の二の舞になると踏んだのだ。
 続いてこの島に来た。僅か3ヶ月前のことだった。
 それから、イプラギは夜となく昼となく、島の周りを飛び始めた。大抵は人のままだったが、たまに鳥の姿のこともあった。何のためかといえば、彼の『コレクション』になりうる人物ーーーー男でも女でもーーーーを物色するためと、なにより自分の存在を島の住人に知らしめるためだった。
 誰でも、突然見知らぬ者が土地に現れたら不審に思うだろう。しかも、その人物は誰も立ち入ることの出来ない火山に住んでいる。その正体に不安を抱くはずだ。やがて誰かがさらわれるーーーーその姿をなるべく多くの島民に見せつける。そうすれば、イプラギは恐怖の対象となる。精神的に優位な立場に立てるわけだ。それが彼のやり方だった。
 そして、イプラギが最初にさらってきたのが、たまたま通りがかりに目に留まった晶だった。
「だけど、こんなことなら当初の予定通り、キャラカを先にさらっておけばよかったよ」
 投げやりな口調で言い捨てるイプラギの言葉を、シラクサが聞き咎めた。
〔キャラカを? どういうことだ?〕
「あの子は《月猫》だろう? すっかり絶滅したものと思ってたんだけどね。珍しいから俺のコレクションにぴったりだ」
「〔ふざけるな!」〕
 デイヴィとシラクサが同時に叫んだ。
「人は『物』じゃねえ。おまえの勝手もここまでだ」
 デイヴィは『怒り』を開放し、闘志に転化させた。頭は冷静なままだ。刻一刻と戦況が変化する戦場では、この冷静さが勝敗を分ける鍵となる。激情型に見えても、デイヴィは戦いの場では感情をセーブできる方なのだ。それでなくては、一流の戦士とは言えない。
 こんな時ながら、イプラギはデイヴィの美しさに見とれた。全身から溢れる闘気、凛と輝くエメラルドの瞳。逞しい竜に跨って武器を構える姿は、伝説の戦神のようだ。
「…ああ、君も欲しくなったよ。シラクサとセットでね。そのままで彫刻のようだ」
「できるもんならやってみな」
 デイヴィは不敵に笑った。

 デイヴィとシラクサを見送ったキャラカは、思うところがあって自分もノクフ山に行こうと思い立った。
 シラクサと同じ火竜である彼の母ポプラを訪ねて、事情を説明すると、彼女は快く応じてくれた。
 火山に到着すると、シラクサに乗ったデイヴィと、丁度窓から出てきたイプラギの姿が遠目に見えた。
「…お母さん、彼らに見つからないように、遠回りしてイプラギの家に向かってください」
〔解ったわ〕
 ポプラは迂回して、イプラギの家の裏に廻った。晶が連れ込まれた窓の丁度反対側だ。こちらにも高い位置に窓があった。
「問題は、ここから入って、どうやって出るかだな」
 キャラカが考え込んでいると、
〔あら。わたしが壁の下の方に穴を空けてあげるわよ〕
 ポプラがとてつもない提案した。
「壁に? …いや、さすがにそれはちょっと…」
 割と常識人であるキャラカは言い淀んだ。
〔あら。だって、あの窓の大きさじゃわたしは入れないし、なら他にどうしようもないんじゃない?〕
「…それはそうですが」
〔じゃ決まりね。ーーーーあなたはその窓から先に中に入って、晶さんを捜しなさいな。その間に、わたしは下の方に穴を空けて待ってるから〕
 ポプラは高窓に近づいて、そのままホバリングした。仕方なく、キャラカは窓に身軽に飛び移った。部屋の中を見下ろすと、ソファやテーブルが置いてある。どうやら居間のようだ。
 そのとき、家が揺れた。ポプラが外壁に攻撃を始めたようだ。弾みでキャラカは窓から足を滑らせた。くるくると回転しながら、床に着地する。
「…お手柔らかに頼みます」
 キャラカはそっと呟いた。
 居間から続いて奥にある部屋はキッチンらしい。
「料理なんてするのかな、あの男」
 さすがにこんな火山では、水なんて出ないーーーー出たとしても熱湯だろう。キャラカは保冷箱を開けてみた。ガラス瓶に詰められた水が並んでいる。火を食べるヒクイトリは水に触れると死んでしまう。だが、人型でいるときには平気なようだ。でなくては、こんなふうにわざわざ水を蓄えておかないはずだ。
 キャラカは一瓶取り出すと、蓋を開けて直接瓶から水を飲んだ。火竜の背中にいるときには、彼らが火も熱も吸収してくれるため快適に過ごすことが出来るのだが、離れると途端に暑さが襲いかかってくる。キャラカは帽子を脱いでそれで仰いだ。熱風である。
「参ったな。晶さんは大丈夫だろうか」
 キャラカは保冷箱から水瓶を3本ばかり取りだして、キッチンを出た。居間を通って、ドアの一つを開ける。
 ベッドに誰かが寝ている。キャラカは駆け寄った。その人物の顔を覗き込むと、正に新聞の絵で見た晶に相違なかった。
「晶さん!」
 声をかけて、身体に巻き付いている鞭に触れる。
「冷たい。…そうか、これは外さない方がいいな」
 キャラカは部屋を見回した。テーブルに、半分ほど飲み物が入ったーーーー飲んだのではなく、暑さで蒸発したのだーーーー大きなグラスと、蒼い羽が置いてある。
 キャラカは本で読んだことを思い出した。ヒクイトリの羽には、人を仮死状態にする毒が含まれている、と。それを解除するにはーーーー
「解除するにはーーーー、ーーーーああ、もう! 暑くて頭が回らない!」
 キャラカはテーブルに持ってきた瓶を置くと、その内の一本を開けた。中の水を掌に注いで、額や頬にかける。それを、瓶が空になるまで繰り返した。
「もうぬるくなってる。ーーーーああ、そうだ。羽を水に溶かして飲ませるんだ」
 律儀なことに、キャラカはグラスの中身を空き瓶に空け、そのグラスに新たな瓶から水を注いで、テーブルの羽を入れる。羽はすぐに融けて消えてしまった。
 晶の身体を抱き起こして、グラスを口元に宛った。程なくして晶の喉が動く。そのままグラスの中身を全部飲んでしまった。余程喉が渇いていたらしい。
 やがて、晶は目を開けた。
「ーーーー君は?」
 茫洋とキャラカを見やる。
「オレはキャラカ。デイヴィさんと一緒に、あなたを助けにきたんだ」
 と言って、キャラカは簡単に事情を説明する。
「ーーーーそうだったんだ。色々どうもありがとう」
 晶は頭を下げた。
「どう致しまして。ーーーーこの鞭、一旦外すね」
 幾ら涼しいとはいえ、いつまでも拘束されているのは辛いだろう。キャラカはポケットからナイフを出して、鞭に切れ目を入れた。
「ありがとう。ああ、すっきりした」
 晶は大きく伸びをしたり、腕を廻したりしていたが、
「ーーーーそれにしても、暑いね」
「この鞭、冷たかったからね」
 キャラカは細切れになった鞭のかけらを拾って、
「これを、首とかに巻いたらいいよ」
 早速、2人は鞭の破片を、首や腕や頭に巻き付けた。キャラカは帽子の中にも忍ばせた。
「だいぶマシになった」
 晶は息をついた。
「ところで、デイヴィは?」
「今頃、イプラギと戦ってるとこだと思うよ」
 キャラカの言葉尻に重なるように、
「〔ふざけるな!」〕
 外から2人の声が聞こえた。
「あの声…。デイヴィと、もう一つは君の友達のーーーー」
「シラクサだ。相当怒ってるな、2人とも」
「あいつ相手じゃ無理もないけど」
 色々思い出して、晶は顔を顰めた。
「ここから出よう。デイヴィさんの助太刀をするんだよね」
 キャラカは言った。ポプラの、壁への攻撃は止んでいる。つまり、もう穴が開いたということだ。
 しかし、晶はのんびり微笑んだ。
「あいつ相手なら、デイヴィ1人で大丈夫」
 それからふと真顔になって、
「それよりも、気になることがある」
「気になること?」
 訊きながら、キャラカも思い出していた。自分がここに来た目的を。晶を助けるためもあるが、もう一つ、『気になること』があったのだ。
 それは、イプラギにさらわれた人々のことだった。ヒクイトリは名前通り火しか食べない。人型になったイプラギが何を食べるかまでは解らないが、人を食べたりはしないだろう(と思いたい)。しかも、羽で人を仮死状態に出来る。以上の事柄から鑑みて、さらわれた人々は生きている、という仮説をキャラカは立てたのだ。
「イプラギは、ぼくを『コレクション』に加えるって言ってた。この家のどこかにその『コレクション』があるはずだ」
 晶のこの言葉に、キャラカは自分の仮説が正しかったことを知った。頬を紅潮させて、
「そういえば、この部屋の他にもう一つ、ドアがあったんだ」
「ーーーー行こう」
 晶が頷いて言った。

 晶の言葉通り、イプラギはデイヴィの敵ではなかった。
 空を飛ぶ、という厄介な性質を持つものの、今回はデイヴィも空中にいる。しかも、シラクサはデイヴィの望む通りに動いてくれた。人馬一体ならぬ人竜一体だ。
 イプラギは強力な火炎魔法の使い手だが、『ゼロ』であるデイヴィにも、火竜であるシラクサにも通じない。
 デイヴィの剣が、イプラギの右腕を斬り飛ばした。
 バランスを崩して、イプラギはよろめいた。傷口から蒼い血が噴き出す。血と共に力も流れ出していく。とうとう彼は人間の姿を保っていられなくなった。
 前屈の姿勢になり、腕と脚が融合する。そのまま2mほどもある蒼い鳥に戻っていった。右足の蹴爪部分が無くなっている。
「本性を現しやがったな」
 呟いて剣を構え直すデイヴィに、鳥に戻ったイプラギが突っ込んでいった。弾丸のようなスピードだ。
 だが、シラクサは素早くそれを回避した。避けながら、デイヴィの剣が、今度はイプラギの左足を付け根から斬り落としていた。
 イプラギは辛うじて空中に留まっていた。彼は最後の奥の手を出した。翼を激しく羽ばたかせて、大量の羽を飛ばしてくる。鳥族にとって羽を失うのは命を失うことだ。もう勝ち目はないと悟った彼は、デイヴィとシラクサを道連れにすべく正に捨て身の攻撃に出たのだった。
 悲しいかな、その最後のあがきもデイヴィには通じなかった。
 デイヴィは剣を振ってその羽をなぎ払う。
 シラクサは炎を吐いて燃やし尽くそうとした。だが、ヒクイトリの羽は炎では燃えない。また、体の大きい彼は絶好の的だ。
 イプラギの羽が、数本シラクサの身体に刺さった。
 途端に、シラクサの身体は硬直した。重力によって落下していく。
「…くそっ!」
 咄嗟に、デイヴィは雷神の剣を投擲した。剣は真っ直ぐに、大量の血液と羽を失って疲労困憊しているイプラギの心臓に突き刺さった。
「ギャァアアアアア!」
 イプラギはのけぞり、絶叫と共に墜ちていく。
 先に地面に着いたのはシラクサだった。凄まじい地響きが起こる。
 デイヴィはシラクサから降りて、
「…おい、シラクサ! 大丈夫か?!」
 ぐったりと目を閉じている耳元に呼びかけた。
〔…まあ! シラクサ!〕
 シラクサが落ちたときの音を聞きつけて、ポプラがやって来た。
〔何があったの? しっかりしてちょうだい!〕
「イプラギの羽に刺されたんです。奴の羽には、生き物を仮死状態にする毒がありますからね」
 デイヴィが説明する。
〔なんてこと! ーーーーああ、申し遅れたわね。シラクサの母のポプラです〕
「そうでしたか。息子さんにはお世話になりまして、ありがとうございます」
 デイヴィは丁寧に頭を下げて、
「ーーーーところで、お母さんがどうしてここに?」
〔ええ、キャラカにーーーー〕
 ポプラが答えかけたとき、イプラギの家からそのキャラカと、晶が出てきた。
「今の音ーーーー、シラクサ!」
「晶! 大丈夫か?」
 キャラカがシラクサに駆け寄り、デイヴィは晶の許に走った。
「ーーーー来てくれてありがとう、デイヴィ」
 長い長いキスの後、晶は言った。
「当たり前だろ。ーーーーどこも怪我してないか?」
「うん。ずっと縛られてたけど、柔らかい素材の鞭だったし」
「そうか…。とにかくよかった」
 再びキスする。
 その間に、キャラカはポプラから事情を聞いていた。
〔…ねえ、キャラカ。シラクサは大丈夫なの?〕
「心配ありません、お母さん」
 キャラカは力強く請け負って、イプラギをーーーー蒼い巨大なヒクイトリを見た。
「イプラギの羽を水に融かして飲ませれば、イプラギもみんなも目覚めます」
〔みんな?〕
「イプラギは、人をさらっては彼らを仮死状態にして、『コレクション』にしていたんです」
 キャラカの説明に続けて、
「奴の家の一室に、彼らは閉じこめられてます」
 晶が茫洋と言った。
 デイヴィが優美な眉を顰めて、
「酷いな。早く助けてやろうぜ」
「うん。その為にはイプラギの羽を毟らないと」
「丸裸にしてやる」
 忌々しげに、デイヴィは吐き捨てた。

 言葉通りデイヴィと晶がイプラギの羽を根こそぎ毟っている間に、キャラカがグラスに水を入れて持ってきた。羽を融かしたそれを、シラクサの口に注ぎ込む。
 シラクサは目を開けた。
〔…あれ? 俺、どうしたんだっけ?〕
〔シラクサ! よかった…!〕
〔母さん、何でここに…〕
 話し合う親子をその場に残して(体が大きすぎて家には入れないので)、デイヴィ、晶、キャラカの3人は、毟ったイプラギの羽をそれぞれ抱えて家の中に戻った。キッチンによって保冷箱とグラスを取って、件の部屋に向かう。
 窓のない薄暗い部屋に、18〜30歳位の間の男女7名が、椅子に座らされていた。
 前に3人後ろに4人、後ろの人は前の人の間から顔が見えるように、2列に並ばされている。それに向き合う真ん中の位置に、空っぽの椅子が一つ置かれていた。その意味を悟って、デイヴィは胸がむかむかしてきた。
 3人は手分けして、人々を目覚めさせていった。
 目が覚めたときの条件反射なのか、パニックになって怯える人もいた。しかし、3人が優しく宥め、丁寧に事情を説明すると、皆やっと落ち着きを取り戻した。デイヴィの美しさと晶の可愛らしさにほだされたのもあるだろう。
 更にキャラカが、
「取り敢えずこの山を出ましょう。今日はもう遅いけど、明日になったらシラクサに頼んで、皆さんを故郷まで送りますから」
 と具体的な話をする。皆は沸き立った。
「ありがとうございます!」
「もう諦めていたのに…」
「みんなにまた逢えるのね!」
「本当に、なんとお礼を言っていいか…」
「ありがとうございます、ありがとう…」
 泣きながら口々に礼を述べる。
「んなこと気にすんなって」
 デイヴィは手を振って、優しく答えた。

 家の外に出ると、捕まっていた人達は口々に、イプラギの死体を確認したい、と言った。
「あいつが本当に死んだのを確かめたいんです。でないと、いつまで経ってもどこに行っても、あいつが追いかけてくるような気がするんです」
 そこでデイヴィは、彼らをイプラギの所へ連れて行った。両足を斬られ、羽を毟られて惨めな姿を晒している巨大な鳥の所へ。
「ーーーーこれが、イプラギ…」
 7名の被害者達は、ぼんやりとその鳥の死体を眺めていた。
「そういえば、何度か鳥の姿になって襲いかかってきたことがありました」
 最初は人間の姿でいて、突然鳥に変わったりする。そうして人々の恐怖心と嫌悪感を煽っていたのだ。一度に数回変化するのを見せつけられた人もいる。
「本当に死んでるんですよね?」
 女性の1人が恐る恐る尋ねた。こんな状態で生きているとは思えないが、心と身体に刻まれた恐怖がどうしても消えずにいるため、つい懐疑的になってしまうのだ。
「間違いねえ。ーーーーどうしても不安なら、首を斬って土の下に埋めようか?」
 デイヴィが優しく言う。
「お願いします」
 皆が一斉に頷いた。
 そこで、シラクサとポプラが3mほどの深い穴を2つ掘った。デイヴィはイプラギの首をはねて、それぞれの穴に頭と身体を放り込んだ。上から大量の土を被せて、最後に竜の体重でしっかりと踏み固める。
「ありがとうございます」
 7人の男女は、全員涙を流しながら頭を下げた。意識して泣いているのではなく、自然に流れてくるようだ。涙を拭いながら顔を見合わせて、軽く笑い合ったりしている。
「さあ、こんな山にこれ以上長居は無用だ。さっさと帰ろうぜ」
 デイヴィが微笑んで、歌うように言った。
 竜には一度に5人乗れる。さらわれた男女7人とキャラカ、それにデイヴィと晶で丁度10人だ。彼らはシラクサとポプラに5人ずつ分乗して、忌まわしい魔の火山から飛び去った。

 シラクサとポプラは、彼らをこの島唯一の温泉宿まで運んできた。
 この島の温泉は知る人ぞ知る秘湯だった。様々な効能があり、殆どの宿泊客が一ヶ月以上の長逗留だった。リピーターの数も多い。その為宿は綺麗で快適で、サービスも隅々まで行き届いている。
 皆が背から降りると、シラクサとポプラは人に戻った。
「お疲れ、シラクサ。それにお母さんもありがとうございました」
 キャラカが声をかける。7人の男女も、口々に2人に礼を言った。
 デイヴィがシラクサの肩を叩いた。
「サンキュー、シラクサ。お陰で晶を助けられたよ」
 晶ものんびりと微笑んで、
「本当にありがとう」
 シラクサの手を強く握る。
「気にしないでくれよ。俺も、デイヴィさんや晶さんの役に立てて嬉しかったよ」
 2人からの熱烈なお礼に、少し頬を紅くしてシラクサが応える。
 デイヴィはポプラの方を向いて、
「ポプラさんも、お世話になりました」
 手を取って口付けた。
「あら、こんなこと何年ぶりかしら」
 ポプラは少女のように微笑んだ。
 皆は宿屋の中に入った。キャラカがフロントに行き、女将に事情を説明した。気っぷのいい女将は、7人の境遇に瞳を潤ませて、
「そういうことなら、お代は入らないわ。ゆっくり温泉に浸かって心と身体をいやしてください」
 と言ってくれた。
 デイヴィと晶もタダでいいと言われたが、気持ちだけ有り難く頂くことにして、きちんと代金を払った。勿論一番いい部屋だ。豪華な内風呂付きのスイートルームである。
 いつもなら大食堂に行って皆と食事をする社交的な2人だが、今日は違った。2人きりでいたい気分だったのだ。あんなことの後だから無理もない。デイヴィはやっと取り戻した晶を一時も離したくなかったし、晶もまた、離れるつもりはなかった。
 だから、部屋で二人っきりで食事をし、一緒に内風呂に入り、ベッドではしっかり抱き合った。ーーーーこれはいつものことであるが。

 翌朝。
 前の晩に抜かりなく『ドント・ディスターブ』の札をかけておいたので、目を覚ましてからも暫くベッドで色々していたデイヴィと晶だったが、さすがにお腹が空いてきた。
 シャワーを浴びて身支度し、モーニングティを飲みながら、さて今朝はどこで食べるかと話し合っていると、ドアが控えめに叩かれ、
「…あの、…起きてらっしゃいます?」
 これまた控えめな声がした。
「起きてますよ。どうぞ」
 その声が、例の7人の中の女性のものだと気付いて、デイヴィが愛想よく応えた。
「失礼します」
 ドアが開いて、女性と男性が1人ずつ姿を見せた。
「おはようございます」
 揃って頭を下げる。
「おはようございます」
 デイヴィと晶も挨拶を返した。
「…あ、あの、私達今日故郷に戻るので、その前にもし宜しければ朝食をご一緒に如何かと思いまして…」
 頬を赤らめて、女性が囁くような小声で言った。
 デイヴィと晶は顔を見合わせて頷き合った。
「喜んでご一緒しますよ」
 デイヴィが朗らかに微笑む。
「ありがとうございます!」
 女性は嬉しさに弾んだ声で言った。後ろの男性もほっとしたように笑う。
 デイヴィと晶は、2人と一緒に大食堂に向かった。

 他の5人は既にテーブルに着いていた。デイヴィと晶の姿を認めて一斉に立ち上がる。
「昨日はありがとうございました」
 勢いよく頭を上げる。デイヴィ達を呼びに来た2人も、彼らの後ろでお辞儀している。
「もういいって。ーーーーそもそも俺は、晶がさらわれたからあの火山に行って、その犯人を倒しただけだよ」
 デイヴィが応じた。本音であったが、照れ隠しでもあった。ただ、偶然からだとはいえ、彼らを助けられてよかったとデイヴィは思っていた。
 デイヴィと晶は席に着いた。朝食のメニューは1種類のみなので、注文するまでもなくすぐに全員の分が運ばれてくる。
 食事をしながら、7人の男女はぽつりぽつりと話し出した。
 彼らは昨夜眠らずにいたらしい。眠れなかったのだ。昨日イプラギの死体を確認したにもかかわらず、目が覚めたら再びあの男がいるのではないか、という恐怖から抜け出せずにいた。相当なトラウマになっている。無理もないことだった。
 7人は望んで皆同じ部屋にしてもらっていた。独りでいたくなかったからだ。眠れない夜を皆で色々話しながら過ごした。
「家族にも手紙を書いて、夜のうちに至急便で出しておきました。今、きっと私達が戻ってくるのを首を長くして待ってくれていると思います」
 一番年上の男性が、懐かしそうな表情で言った。
「それを思うと、生きていこうという気持ちが湧いてきました。みんなそう思っています。ここで挫けてしまうのは、あの男に負けたことになる。だから我々は生きていきます」
 デイヴィと晶は何も言わず、ただ優しく微笑みながら頷いた。
 一番最後にさらわれた人でも1年以上前なので、7人の男女は《ガーディアンエンジェルス》のことも、2人の活躍も知らなかった。デイヴィは有名人なので皆知っていたが、晶のことは知らなかった。また、デイヴィも晶も自慢する性質ではないので、自分達のことは全然話さなかった。
 なので、朝食の席では7人の故郷のことや家族のこと、帰ったら何をしたいかとか、これからどうするとかーーーーやっと人生を取り戻した彼らが次々語るのを、デイヴィと晶は相槌を打ちながら聴いていた。

 食事が終わる頃、キャラカとシラクサ、それにポプラがやって来た。昨日キャラカが言った通り、7人を故郷に送るためだ。
 挨拶を交わして、キャラカ達3人も食後のお茶に付き合いながら、打ち合わせすることになった。
 最初の村でさらわれたのが4人、次の村で3人である。最初の村は遠いので、若くて体力のあるシラクサが行くことになった。
「ーーーー慌ただしくてすいませんが、もう出発したいと思います」
 年長の男性が言った。
「早く、家族や村のみんなを安心させたいんです」
「勿論です。ーーーーお気をつけて」
 晶が穏やかに微笑んだ。
 皆は席を立った。
 フロントに立つ宿屋の女将に好意で泊めてくれた礼を述べ、7人は外に出た。デイヴィと晶、キャラカも続く。シラクサとポプラは先に外に出ていて、竜の姿になって待機していた。
「ーーーー本当にお世話になりました。ありがとうございました」
 7人の男女は、次々にデイヴィと晶、そしてキャラカと握手を交わした。
「家族やみんなに逢えるのが楽しみだな」
「故郷でのんびりしてね」
「お元気で」
 皆は微笑しながら力強く頷いて、シラクサとポプラにそれぞれ分かれて乗った。
「すいません。お願いします」
〔しっかり掴まってね〕
 一番前の者が手綱をしっかり握り、後ろの者達は前の人の身体に腕を廻す。
 シラクサとポプラは飛び立った。竜の上から皆が手を振る。地上の3人もそれに応えた。
 2・3度その場を回った後、シラクサとポプラはそれぞれの目的地へと飛び去った。

 宿屋に入ったデイヴィと晶は、キャラカから衝撃の事実を告げられた。
「ところで、お2人はファルーヤに帰るんだよね? この島には一月に一便しか船が来ないよ。一昨日来たんだ。だから、次は一ヶ月後だけど…」
「…マジかよ」
「マジです」
 キャラカが大真面目に頷く。
「じゃあ、デイヴィは泳いで来たの?」
 晶が訊いた。こちらも大真面目だ。
「まさか。ーーーー救命ボートを降ろしてもらったんだ」
 デイヴィが苦笑しつつ答えた。
「船が来ないんじゃしょうがねえ。またボートを漕いで戻るか」
「それはかなり無謀だと思うよ。ファルーヤまではかなり距離がある。救命ボートでしかも手こぎじゃ一週間ぐらいかかるんじゃないかな。モンスターもまだ出るしね」
 キャラカが冷静に言った。
「この島の周りの海域では水竜が泳ぎ回ってるから、モンスターも出ないけどね。外海は危険だよ」
 そういえば、この島の近くの海域では、船の周りにイルカがやって来ていた。それは水竜の存在が魔物を遠ざけていたからだ。
 ボートは元々耐魔物仕様だから、水竜に関係なく魔物を寄せ付けない。だが、波が高ければ転覆する恐れがある。その前に、そもそもファルーヤまで一週間もかかるんじゃ、幾ら体力のあるデイヴィと晶でも、(交代で漕いだとしても)ボートで帰るのはしんどいだろう。

 ついでに説明すれば、大型船には耐魔物仕様は施されていない。対魔物の呪文(ヒディス)を込めた札を貼るだけで付加できる仕様だが、その呪文を使える魔術師・魔導師の数が限られている。お陰でこれが結構いい値段なのだ。
 しかも、大型の物には複数枚貼らなくてはならない。効果も永久ではなく、5年ごとに貼り替えなければならない。となると、船賃が高くなってしまう。この世界では船が主だった移動手段なので、運賃の値上がりは大打撃だ。
 そのため、大型船は造りが強固ということもあり、戦闘人員を乗せていれば札を貼らなくてもいいことになっている。その方が安上がりなので、殆どの大型船は札を貼っていない。
 テントやボートなどといった小さな物には一枚で足りるし、なによりモンスターに襲われたらひとたまりもないので、耐魔物仕様は必須なのである。

 閑話休題。
 キャラカが2人が帰る術を教えてくれた。
「方法は二つある。水竜にそのボートを繋いで引いてってもらうか、風竜みたいな空を飛べる竜に連れてってもらうか、だね」
「ボートにしよう。あの救命ボートを船に返したいしな」
 デイヴィは即答した。
 前述の理由から、船舶会社にとっては救命ボートも一財産だ。実際に救命ボートが使用される事態になったとき、無事に救助された後にはきちんと回収することになっている。それを承知しているので、デイヴィはそう言ったのだ。
「律儀だね」
 キャラカはほとほと感心した口調で言った。

 宿をチェックアウトして、デイヴィと晶は、デイヴィがボートを繋いだ場所に向かった。キャラカはデイヴィからその場所を聴き、先に行って水竜に話しておいてくれることになっていた。
 穏やかに晴れた日だ。
 昨日は余裕のなかったデイヴィも、今日は島の美しい景色を楽しんでいた。晶も辺りを見回して、
「いいところだね」
 のんびりと微笑んだ。
「そうだな。モンスターも出ねえようだしな」
「やっぱり、竜が住んでるお陰なのかな」
「そうだろうな。海も、水竜のお陰でモンスターが近づかねえっていうし、陸でも空でもそうなんだろう」
「そうだね。モンスターがいなくて、温泉があって、自然が豊かで、人々も穏やかーーーーまさに理想郷だ」
 晶はデイヴィを見上げて、
「もう少しで、そんな理想郷が怪鳥の餌食になるとこだったんだ。ーーーーやっぱり、デイヴィは凄いね」
 デイヴィは晶を見つめて首を振った。
「よせよ。ーーーー俺は、おまえさえ無事なら後はどうでもいいんだ」
 そして晶を立ち止まらせて、優しく口付けた。

 デイヴィと晶がその場所に着いたときには、既にボートは水竜に繋がれていた。
「水竜のコンビーさん。シラクサの伯父さんだよ」
 キャラカが紹介した。
「わがまま言ってすいません。宜しく願いします」
 デイヴィと晶は、コンビーに頭を下げる。
〔いやいや。気にしないでおくれ。キャラカから話は聴いたよ。この島を怪鳥から護ってくれてありがとう。そのお礼だよ〕
「恐縮です」
 デイヴィが微笑んだ。
 キャラカが手を差し出しながら、
「じゃあ、気を付けて帰ってね。ーーーー本当にありがとう」
 朗らかに言った。
 デイヴィと晶は代わる代わるその手を握った。
「こちらこそ、色々世話になったな。ありがとう。シラクサとポプラさんにも宜しく伝えておいてくれ」
「助けに来てくれてありがとう、キャラカ」
「どう致しまして。ーーーーどうかお元気で」
「おまえもな、キャラカ」
 デイヴィと晶はボートに乗り込んだ。
「じゃあ、コンビー伯父さん、お願いします」
〔ああ、任せておくれ〕
 コンビーは水の中を滑り出した。
 ボートが水平線の彼方へ見えなくなるまで見送って、キャラカは自分の家へと戻っていった。


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