サヴィナは今日も平和だった。
 このところ、アリステア帝国、ツェザーニャ公国、クリストファーム王国などといった強国がしのぎを削って世界制覇への道を進んでいるのだが、サヴィナにはまったく無縁の話だった。
 サヴィナは陸の孤島である。
 同じ大陸にある港町ランシュークから、ひたすら山を上って山頂で一泊ーーーーしかも、宿屋などという気の利いたものはないので、テント(耐魔物仕様)持参だ。その後、平らに見えるが実際は少し登っている道を半日歩いて、やっと到着する。
 サヴィナには何もない。
 酪農と農業が主体の、小さな国だ。
 遥か昔、栄華を極めた国で活躍していた戦闘部隊の者達が、その国が滅びるときに山奥に逃げ延びたのが、サヴィナの起源だとされている。
 国民達は今は戦いから遠のいた暮らしをしているが、日々の生活も修行と見なし、自らの心身を鍛えることに熱心である。たまに、国を出てフリーランサーとして戦場を駆け回る若者もいる。
 一応軍隊もある。ランシュークまで食料を運ぶ人を護衛したり、山から国に入ってくるモンスターを退治したりするためだ。
 数年前、海を荒らしまわっていた海賊をことごとく退治したのも、サヴィナ軍のメンバーだった。だから未だに、この世界の海には海賊はいない。海の男達は彼等を《ポセイドンの遣い》として崇めているようだ。
 だが、一般的な知名度からいえば、サヴィナは全く無名の国である。お陰で国が平和であるのを、国民達は喜んでいる。この先もそうあれかしと願っている。
 しかし、中には退屈をもてあます若者もいてーーーー
「…ヒマだな」
 呟いたのは、黒髪を逆立てた凛々しい顔立ちの青年だ。名をカインという。
「ヒマだね」
 応えたのは、軽くウェーブがかかった茶髪に、口元のほくろが印象的な美少年。玲人だ。
「まあまあ、それだけ平和だってことだよ」
 金髪を後ろで結わいた穏やかな青年が、取り成すように言った。彼はエリックという。
 彼等はサヴィナ軍の兵士だ。本日の鍛錬を終えて、クールダウンしているところだ。カインは牧場の柵の上に腰掛け、愛用の槍の手入れをしている。エリックは柵に凭れて座っている。玲人は、2人に向かい合うように芝生に腰を降ろしている。
「世間じゃ、帝国だのツェザーニャだのがのさばってるっていうのにな」
 柵の上で、カインがバランスよく伸びをした。空が抜けるように青い。柵の中では、ヒツジやヤギ、ウシがのんびりと草を食んでいる。実にのどかな光景だ。
「帝国とか、攻めてこないかな」
 玲人が物騒なことを言い出した。冗談なら質が悪いが、彼は本気だった。と、いうのも、それだけ自分の腕に自信があるからだ。こう見えて、彼はサヴィナで1,2を争うほど腕が立つのである。この国で彼が敵わないのはただ1人ーーーー
「僕と晶で再起不能にしてやるのにな。ーーーーねえ、晶」
 玲人は横を向いて、隣に寝転がっている人物に話し掛けた。
「ーーーーん、なに?」
 まさに寝ていたらしく、のんびりとした声と共に、その人物は体を起こした。
 所々蒼い毛の散らばった黒髪、大きな紅茶色の瞳。あどけない顔をした、玲人と甲乙つけがたいほどの美少年である。
 そして、彼こそ、玲人が唯一敵わない人物だった。
「何の話?」
 呑気にあくびをしながら、晶は訊いた。
「アリステア帝国のことだよ。うちには来ないのかなって」
「こんな田舎の国、知らないんじゃないの」
 晶は笑った。実に邪気のない、子供のような笑顔である。
「確かにな」
 カインも笑いながら頷く。
「つまらないな」
 玲人が、少しすねたような顔をした。
「いいじゃない。お陰で平和なんだから」
 晶が、さっきのエリックと同じことをおっとりと言った。
「平和すぎて体が鈍っちゃうよ」
 顔に似合わず好戦的な玲人はぼやいた。
「もっと戦える国に行こうかな」
 その台詞をカインが聞き咎めた。
「フリーランサーになるってことか? ーーーーまあ、おまえならどこに行ってもやって行けるだろうけどさ」
 苦い顔をして腕組みしながら、
「アイリン姫はどうするんだ?」
 責めるような口調で詰問する。しかし、玲人には通じなかったようだ。大きい目を更に見開いて、
「姫? どうしてここに姫が出てくるの?」
「いや、どうしてって、おまえーーーー」
 呆れたカインの言葉に被せて、
「姫には晶がいればいいだろ。ーーーーそれよりさ、帝国とツェザーニャと、どっちがいいと思う?」
 玲人は話を戻した。無邪気な様子で問うてくる。
「ーーーー好きにすれば!」
 ふてくされてすっかり投げやり口調のカインの膝を、エリックが苦笑いしながら、慰めるように叩いた。
 晶は聞いているのかいないのか、茫洋と遠くーーーー国の入り口にある門の方を眺めていたが、
「帰ってきた」
 と一言、立ち上がった。
「ーーーーえ?」
 見ると、牧場主と護衛の兵士が揃ってやってくるところだった。2人ともこちらに気付いて手を振っている。
 晶も手を振り返しながら、
「フリーランサーもいいけど、玲人、その前にやることやっちゃってからでないと」
 2人の方に歩き出す。玲人も晶の横に並んで、
「やること?」
「明日はおまえの当番だろ」
 サヴィナではランシュークに食料を輸出している。山道は危険なので、兵士が護衛につくことになっている。それは持ち回りで、明日は玲人の番なのだ。晶は、それを言っているのである。
「モンスター相手に、存分に暴れておいで」
「そうだね」
 玲人はつまらなそうに答えた。そのまま、晶の横顔を伺う。
「ーーーーなに?」
 晶が玲人の方を向いた。紅茶色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめる。産まれたときから一緒にいるというのに、玲人はこの視線に未だ慣れない。心の奥まで見透かされるようで落ち着かなくなる。
 玲人に限ったことではない。晶の純粋な瞳の前では、誰もが自分の存在に疑問を持つ。まるで、裁かれるために天使の前に引き出された人間ーーーー悪人でもなく、さりとて善人でもない、ごくごく凡庸な人間になってしまう。そして、その穏やかな瞳に救いを求めて縋りたくなる。それが晶という存在だ。
 玲人が、フリーランサーになると言いつつ国から出られないのも、大部分は晶のためであった。
「おまえはどうなの? 晶」
「どうって?」
「フリーランサーになる気はない?」
「ぼくはこの国で充分」
 晶は陽だまりのように笑った。
「それに、おまえとぼくと、2人ともいなくなっちゃったら、いざというとき困るだろ」
「そうだけど…」
 玲人が不満げに呟く。晶は聞こえたのかどうか、相変わらず呑気に、
「2人とも、お帰り」
 と、丁度行き会った牧場主と兵士に声をかけている。
「おう! ただいま、晶」
 兵士が嬉しそうに返事をした。
「頼まれてた魚、仕入れてきたぜ」
 新聞にくるまれた物を差し出す。かなりの大物だ。
「ありがとう」
「随分大きいな!」
 後から追いついてきたカインとエリックが目を瞠っている。
「漁師がさ、《ポセイドンの遣い》のためだからって、一番でかくて活きのいいのを選んでくれたんだ。それも、格安でさ」
「それはありがたいな」
 晶は嬉しそうに受け取って、
「今夜は鮭のマリネとムニエルね。あと、あら汁と」
「美味そうだな!」
 兵士が腹を押さえながら笑う。
「聞いてるだけで腹が減ってきた。うちに帰るよ」
「お疲れ様、ガイ。ベティさんに宜しく」
「おう。ーーーーあいつも料理は巧いんだが、やっぱり晶には敵わないんだよなー。城のみんながうらやましいよ」
「さりげなく惚気るなよ」
 カインが苦笑した。
「おれ達も戻ろう。そろそろ日も暮れる」
 エリックが言って、皆歩き出した。
 西に傾きかけた日差しが木々の隙間からこぼれている。鳥達がさえずりながら巣に飛び去って行く。4人は長く伸びた自分達の影を追うように、城へと向かって行った。
 晶は魚をくるんだ新聞の記事を、なんとなく読んでいた。
「何か面白い記事がある?」
 玲人が横から覗き込む。
「うん。『《黒髪の天使》、帝国兵を追い払う』だって」
 《黒髪の天使》あるいは《黒い悪魔》。本名デイヴィ・キーン。今世界で最も有名なフリーランサーである。世界広しといえども、通り名を二つ持つのは彼以外にいない。味方は彼を《天使》として称え、敵は《悪魔》として恐れる。ゆえに自然と二つの名で呼ばれるようになった。
 彼がどちらにつくかで戦局は大きく変わる。各国は多大な報酬を持って彼を呼び込もうとするが、彼が動くのは金ずくではないとされている。現に今回も、金のある帝国ではなく、攻め込まれた小国についている。
「絵が載ってる」
 晶は新聞のしわを指で伸ばしつつ、
「噂通り、綺麗な人だね」
 その茫洋とした口調に何を感じたのか、玲人は顔を顰めた。
「そんな絵なんて、当てにならないよ。絵師が手心を加えたのかもしれない」
「そんなことしてなんになるのさ」
 晶がのんびりと反論する。
「そりゃあ…、絵を見て綺麗だって騒がれて、名前が知れるじゃないか」
「そんなことしなくたって、彼は充分有名だろ」
 カインが突っ込む。
「そうだけど…」
 口篭もる玲人の代わりに、エリックが、
「まあまあ。ーーーー玲人の言いたいことも解るよ。この絵、あんまり綺麗過ぎて現実とは思えないからな。実物は、まあ噂では綺麗らしいけど、これほどじゃないんじゃないかな」
「それもそうだな」
 カインも納得げに頷いた。
「………………」
 晶はただ、自分の指先を見ている。
「晶、どうしたの?」
 何か徒ならぬ雰囲気を感じて、玲人が訊いた。
「ん? ーーーー指が黒くなっちゃったな、って」
 眠たげな口調で、晶は答える。
 玲人はなんとなく溜息をついた。
 ーーーーサヴィナは今日も平和だった。
 この平和が間もなく壊されることを、晶はまだ知らない。

 その夜、デイヴィは珍しく独りでーーーーつまり、女性を同伴せずにーーーーカウンターの一番端に着いて、酒を呑んでいた。イカナという町の、雰囲気のいい酒場だ。
 アリステア帝国の港町ヒークベルトまで、船で半日。ついでに、帝国を観光でもしようかな、などどデイヴィは考えていた。ほんの数日前にその帝国と一戦交えてさんざん負かしておいて、である。このデイヴィという男、そういう点ではまったく一筋縄ではいかなかった。
 もっとも、本人にしてみれば、世界中を旅していながらまだ帝国には行ったことがないので、近くに来たついでに足を伸ばしてみよう、位の気軽さだった。もしそれで襲われても、そのときは応戦すればいい。相手が何もしてこないならーーーー怖じ気づいてか、面倒を避けてかはともかくーーーーデイヴィの方からも仕掛けるつもりはない。ただ観光するだけだ。
 などという大胆かつ自分勝手なデイヴィの思考を、酒場の入口のベルが遮った。
 少し頭の禿げた、小柄な男が入ってきた。見覚えがあった。昼間、街角に座っていた男だ。テーブルの前に、『情報なんでも売ります』と、手書きの紙を下げていた。
「お、ジョン、なんかいいネタがあったのかい?」
 5人グループで、中央のテーブルを占領していた中の1人が声を掛ける。その場にいたのは、カップルが2組、女性の2人連れに、デイヴィの反対の端には女性客。後、男だけ3人組が、その女性達を気にしているのかちらちらと目をやっていたが、今はジョンと呼ばれた情報屋に注目している。
「おう、帝国がサヴィナに攻めいったぜ」
 ジョンは、そのグループの空いている椅子に座った。
「へえ! サヴィナみたいな田舎に、なんだってまた…」
 グループの別の男が、ずり落ちた眼鏡を上げて言った。
「サヴィナは食料が豊富だかんな。数年前までは不作続きだったけど、今はやっと立ち直った。そこを落として食料の確保をしたら、山を越えてランシュークを落とし、船でツェザーニャに攻め込むんだろ」
 ジョンが一気に説明する。デイヴィも同感だった。
「兵力は?」
 今度は、3人組の1人が尋ねる。
「サヴィナは30人だ。対する帝国は、なんとあの《疾風将軍》と、100人の精鋭だぜ!」
 自分のことでもないのに、ジョンは自慢げに言った。
「約3倍か…。サヴィナなんかの田舎にも、手を抜かないんだな、皇帝は…」
 カップルの男が、恐ろしげに呟いた。
「いやねえ。その内、ここにも攻めてくるのかしら」
 相手の女が顔を顰める。
「まさか、こんな国にか? 俺は『来ない』に、デート中の喫煙権を賭けるね」
「だって、サヴィナにも行ったのよ? だから、私は『来る』ね。ーーーー当たったら旅行に連れてって」
 さっきまで恐ろしげな様子だった女は、もう立ち直って言い出した。
 なんとも不謹慎な話ではあるが、この、すぐになんでも『賭ける』のはこの国の人々の習慣だ。「俺はもう賭け事は止めた! 本当かどうか賭けるかい?」が、彼らの口癖であった。他人は元より自分の幸運も、更に不幸でさえも賭け事に転化してしまう。
「《疾風将軍》もだけど、《マッド・ベア》なんて、戦場で相当残虐なことをしてるらしいじゃない。どっちも来ないでほしいわ。だから、『来ない』に賭けたいわね」
 もう1組のカップルーーーーこちらは熟年だーーーーの女が不安げに、若いカップルの賭けに割って入った。彼女の台詞からも窺えるように、彼らの『賭け』には、希望を叶えたいと願い、不幸を避けたいと祈るという意味も持っていた。ーーーー無論、ただ騒ぎたいだけ、という面もなきにしもあらずだが。
「サヴィナをクリス将軍が…。ってことは、アベル将軍がツェザーニャを攻めるのか」
 最初にジョンに声を掛けた、バンダナを巻いた男が言った。
「そりゃあ、壮絶な戦いになんだろうな。《マッド・ベア》対《プリマ・ドンナ》なんてよ。ーーーーアベル将軍は女嫌いだから容赦せんぜ、きっと」
 ジョンが頷きつつ応じる。
「レディには優しくしてほしいわ。ーーーー例えば、《黒髪の天使》みたいに」
 カウンターの女が、憤然と言って腕を組む。突如自分のことが出て、ちょうど酒を口に運んでいたデイヴィはちょっとむせた。
「《マッド・ベア》対《プリマ・ドンナ》か。ーーーーどっちが勝つと思う?」
 眼鏡の男が言いだすのを、
「ーーーーおっと、その前に、帝国対サヴィナが先だ」
 ジョンが遮って、紙を掲げた。
「さあ、どっちが勝つか? 1口5千ギニーだ」
「帝国に3口」
 早速、眼鏡の男が札を出した。
「同じく、帝国に2口!」
 バンダナが叫んだ。
「じゃ、じゃあ、帝国に…、給料前だから、1人1口…」
 と、3人組。
「帝国に、2人で6口」
 カップルが微笑み合う。
「お、豪気だねえ。ーーーーそちらさんは?」
 ジョンが、熟年カップルを見る。
「よし。帝国に10口だ!」
 負けじと、男の方が1万ギニー札を5枚上げた。
「帝国に4!」
「あたしも、帝国に4!」
 2人連れの女性が口々に言う。
「あたしも帝国に…、そうねえ、6口にしとくわ」
 カウンターの女が微笑んだ。
「ーーーーおいおい、帝国ばっかじゃ、賭にならんぜ」
 ジョンは呆れ顔で、
「誰か、サヴィナに賭けてくれよぉ」
「そんなこと言ったってなあ」
 バンダナが笑って、
「金を捨てるようなもんだぜ」
「そうそう。ーーーーよし、俺も帝国に6口!」
「5口、帝国に!」
「右に同じ!」
 5人グループの残りの男達も、次々に賭に乗る。
「だからあ」
 ジョンの力ない言葉を、
「じゃあ、サヴィナに」
 デイヴィが遮った。
「ーーーーへ?」
 ジョンが思わず素っ頓狂な声を出す。
「賭になんねえんだろ?」
 さっきバンダナが言ったように金を捨てるような行為だ。それでなくとも本来デイヴィは、こういう賭け事はあまり好きではない(ただ、この国の国民性は弁えていたので、それについてとやかく言うつもりはなかった)。
 ならば何故賭けに乗ったかといえば、ひとえにデイヴィの人の良さゆえである。困った人を見捨てるのにはためらいがあった。それにどうせ金は余っているーーーーここに来る前に、傭兵として一仕事済ませてきたばかりなのだ。
「気前いいのね、あなた」
 カウンターの女が、デイヴィの方に歩いてきた。彼を注視して、
「見とれちゃう綺麗な顔、うっとりするような声、それに、その見事な黒髪…。あなた、《黒髪の天使》ね」
 皆が、ため息ともつかない声を上げる。薄暗い照明の下でも、デイヴィの美貌は輝いて見えた。
「ーーーー初めまして」
 デイヴィは澄ました顔で、わざと大げさな身振りで頭を下げてみせた。その雰囲気はまったく砕けた空気感を漂わせていた。
 女はつい吹き出して、
「ーーーーごめんなさい。でも、楽しい人なのね、あなたって」
 他の客も、愉快そうに笑っている。
「ーーーーサヴィナに賭けるって?」
 ジョンも、デイヴィが見かけに拠らず気さくな男だと判ったのか、気楽な声で、
「あんたがそう言うってことは、サヴィナが勝つって確実な情報でもあんのかい?」
 皆が不安げに顔を見合わせる。
「あんたが知らねえことを、俺が知ってるわけねえだろ」
 デイヴィはちょっと手を振って答えてから、
「ただ、賭にならねえっていうからさ。幸い、俺には金があるしな」
「へえー! 女好きのあんたが、男を助けてくれるとはねえ!」
 ジョンは大げさに眼を丸くしてみせる。デイヴィは笑いながら彼を睨んだ。
「別に、助けてほしくねえんなら、助けなくてもいいんだぜ」
「いや! 助けて下さい、《天使》様!」
 ジョンが芝居がかった動作で、床にひれ伏す。それを見て皆は楽しく笑った。
「じゃ、サヴィナに、ーーーー帝国に賭けられた分だけ、だ」
 改めて、デイヴィは言った。
「はいはい、ちょっと待ってくんな。ーーーーと、なると、54口、27万ギニーになるぜ」
「了解」
 デイヴィが札を出す。ジョンは指に唾を付けて、それを数えた。
「ーーーーはい、確かに受領しました」
「じゃ、もういいわけね?」
 カウンターの女が、デイヴィを濡れる瞳で見つめて、
「どうせ結果はすぐに出ないわ。それまであたしの部屋で呑みなおしましょ? ーーーー2人きりで」
「喜んで」
 デイヴィは立ち上がると、料金を女の分も払い、彼女の腕を取って酒場を後にした。

 翌朝、カウンターの女ーーーーという名前では勿論なく、イザベラと名乗ったーーーーが作ってくれたブランチを食べ、親密で丁寧な挨拶を交わしてから、デイヴィは彼女の家を出た。
 もう昼に近い時間なので、街にも人が歩いている。デイヴィはジョンの所へ足を向けた。戦の結果がでていると思ったのだ。聞かなくても判っていたーーーーとその時は思っていたーーーーが、念のためだ。
「よ、大将! ゆんべは楽しかったかい?」
 早速、ジョンが声をかけてくる。
「ああ。お蔭様で」
 デイヴィはつらっと答えて、
「結果はでたか?」
「でたよ」
 ジョンは意味ありげにニヤッと笑って、懐から厚い封筒を取り出した。
「なんだ、こりゃ」
 受け取って、デイヴィは中を見る。そこに入っていたのはーーーー
「! ーーーーこれは!」
「賭はあんたの勝ちだよ」
 呆然と札束を凝視するデイヴィに、ジョンはニヤニヤと言った。
「ーーーーまさか」
 デイヴィはやっとの思いで呟いた。
「まさかもまさかさ。もう、町中ーーーーいや、世界中がその話題でもちきりだぜ。サヴィナが帝国に勝ったってな」
「一体、なんで…」
「こいつさ」
 ジョンは、今度は新聞を差し出した。
「綺麗な男だろ? あんたといい勝負だ」
「ーーーーサヴィナの《キラーパンサー》…?」
 その絵から、デイヴィは目を離せなくなった。その美しい青年の瞳がデイヴィの心臓を掴んだ。
「聖(ひじり)晶、弱冠20歳。…大人っぽいぜ。ーーーー勿論、他のサヴィナ兵も予想以上に強かったが、なによりそいつの活躍が目ざましかった。そこに書いてあんだろ?」
「『ーーーー彼の姿を目にした途端、半数近くの帝国兵が我を忘れて逃げだし、残りの兵士は戦意を喪失してただ立ち尽くすのみだった。《キラーパンサー》は、まるで鬼神の如く帝国兵を倒しーーーー』ーーーー」
 一気に読んで、デイヴィは息を吐いた。
「ーーーーなんてこった」
「まったく、なんてこった、だよな」
 ジョンも首を振って、
「そんな戦士がサヴィナにいるなんて、さすがの俺も知らんかった。勉強不足だな」
「そもそも、あんな田舎にそんな戦士がいるなんて、神様だって気付かねえさ」
 デイヴィがジョンの肩を叩く。デイヴィに励まされると殆どの人は立ち直る。その美しい顔と声のせいだ。
「そうだよな!」
 ジョンも例外ではなかった。
「立ち直ったところで1つ。ランシューク行きは何時だ?」
「あと30分ってとこだ」
 ジョンは時計を見て、
「ーーーー行くのかい? …いや、当たり前のこと、訊いちまったな。あんたが、そんな強い戦士をほっとくわけがない」
「その通りだ」
 デイヴィは頷いて、新聞をジョンに差し出す。
「いや、餞別代わりだ。持ってっていいぜ」
「そうか? ーーーーじゃあ、しっかりな」
「あんたも、いい旅をな」
「サンキュー」
 デイヴィは笑顔で答えて、港へと急いだ。

 ランシュークへは船で2日半。着いた時にはもう夜だったから宿屋に泊まる。更に山の上で一泊。半日で道を進み、サヴィナに到着した。
 大きな門が開け放たれ、そこには誰もいなかった。
「物騒だな。モンスターでも出たらどうする気だ」
 デイヴィは呟いて、1歩足を踏み入れる。途端に異様なムードが彼の全身を包み込んだ。
「ーーーーまさか」
 デイヴィは町の様子を眺めた。どの家も窓を閉め切り、道路にも猫の仔1匹姿を見せない。
 間違いない。どこかが攻めてきたのだ。
 無理もねえ、とデイヴィは考えた。あの帝国の《疾風将軍》を撤退させた戦士だ。誰だって欲しがるに決まっている。
「冗談じゃねえ」
 デイヴィは、遠くに見える城へと急いだ。

 そのサヴィナの城は、混乱の極みにあった。
 次々と怪我をした兵士達が運び込まれてくる。王は絶望的な気分になった。姫を筆頭に手の空いている者達が看護をしているのだが、怪我人の数の方が多いときている。
 実はこの国には1人だけ、回復魔法を使える程レヴェルの高い魔導師がいるのだが、今は他国に行っていて留守であった。薬草なども高価すぎて買えないため、人の手による必死の看護でしか、傷ついた兵士達を癒す術がない。
「晶! 晶はおるか!」
 王は叫んだ。と、今は臨時の救護室として使われている広間の、入口のカーテンを開けて、
「お呼びですか、王様」
 晶が出てきた。今は純白の鎧に身を包んでいる。
「そんな所で何をしておるのだ! 敵は?」
 自分で呼んでおいてなんだが、まさかこの非常時に城内にいるとは思わなかった。城の護りは大丈夫なのだろうか?
「城門で敵とやり合ったときにエリックが負傷したので、運び込みました。ーーーーあ、当座の敵は勿論蹴散らして、扉も閉めて、念のためポールとガイに任せてきました」
 晶はいつものようにのんびりと答えた。
「そ、そうか…」
 彼がいつもと変わらないので、王は取り敢えず安堵した。しかし、怪我人がどんどん増えていくのが心配だ。
「ーーーーどうだ? 戦況は。…いや、気休めはいらん。正直に正確に伝えてくれ」
 これこそ王が晶に訊きたかったことだった。今こそ覚悟を決めるときなのか知りたかった。無様な真似だけは晒したくない。
「残念ながら、絶望的です」
 晶は目を閉じ、やけにあっさりと、正直に正確に答えた。
「ツェザーニャの《プリマ・ドンナ》、将軍カテリーナのおかげで我が軍はほぼ全滅…。まともに戦えるのは5・6人、後はもう動けないといった状態です」
 晶の口調はこんなときでも呑気なため、一瞬大したことではないと錯覚してしまいそうになる。が、内容は絶望的だった。
 王は、蒼ざめながらも凛然とした口調で、
「そうか。ーーーーいよいよ『そのとき』が来たか」
 敵の手にかかって惨めなを死を迎えたり、あるいは敵に捕らえられて生き恥を晒すよりはいっそ、と覚悟を決めて頷く。
「いえ、王様。まだ早いですよ」
 晶は王の肩を弾むように叩いた。
「え? ーーーー晶よ、何か良い策でもあるのか? この期に及んで?」
 希望と不審がごちゃ混ぜになった表情で、王は晶を見る。
「まだぼくがいます」
 晶は茫洋と言った。いつもよりは少しだけ力強く聞こえる。更に彼は続けた。
「それに、『人事を尽くして天命を待つ』って言うじゃありませんか」
「え?」
 王は思わず訊き返した。
 晶は胸に手を当てて天を仰ぐと、
「神様は頑張ってる者の味方です。今にきっと何か助けが来るでしょう。たとえば、天使様の援軍を遣わして下さる、とか」
 能天気な口調で言った。
 知らない人が見たら、この苦しい状況で遂に頭が変になったのか、と思ってしまうだろう。しかし、王はこれが平常運転の晶だ、と承知しているので、
「人事を尽くして、か…」
 しみじみと呟く。確かに、皆よくやってくれている。もし他の国が同じ目に遭ったなら、もっと早くに負けているだろう。これだけ踏ん張っているのだから、運命がーーーー天が味方してくれるかも、と期待を抱いてもいいかもしれない。
「そうだな…。…もう少し待ってみるか」
 王がやや力強く頷いたとき、
「ーーーーその天使なら、ここにいるぜ」
 まさに、天使のものとしか思えない美しい声がした。
 晶も王もクエスチョンマークを飛ばして、辺りを見回す。晶が出てきたカーテンの脇の柱に、黒い男が凭れて立っていた。
「な、何者だ?」
 王は焦った。サヴィナの兵士でないことは一目瞭然だ。とうとうツェザーニャ兵がこの城内部まで進入して来たのか。それならばとりもなおさず、城門を護っていた兵士もやられてしまった、ということになる。
 王の動揺に気付いたデイヴィは、穏やかに微笑んで見せた。
「デイヴィ・キーンだ」
 手を軽く上げながら2人に近づく。敵意がないことを示すためだ。
「デイヴィ…って、ーーーーひょっとして、《黒髪の天使》?」
 晶の口調は、質問より確認に近い。彼の名は子供でも知っているのだ。
「なに?! 兵士50人を3分で倒したという、《黒い悪魔》か!」
 王が驚愕する。自分達で呼んだ覚えがない以上、敵に雇われている可能性がある。そうだとしたら、もうサヴィナは終わりだ。
「よせよ。それは敵が使う名前さ。味方にとっちゃ、俺は《天使》だよ」
 デイヴィは苦笑しつつも優しく言った。
 この言葉で、王の心配は杞憂だったことが判った。それなら別の疑問が湧く。
「なんで、こんな所にいるの?」
 晶が尋ねた。神出鬼没なのは噂で知っていたが、まさかこんな田舎まで来るとは思わなかった。幻か偽者かとも思ったが、ほんの一月ほど前に新聞で見たあの絵と同じーーーーいや、それ以上に綺麗な顔を見ると、まさに本物だ。
 まさか、《黒髪の天使》が自分に興味を持っているなどとは思いもしない晶であった。
 デイヴィはといえば、この目の前の可愛らしい少年が《キラーパンサー》だとは夢にも思わなかったので、
「城の前を通ったら、『怪しい奴』って言われて捕まっちまったんだ」
 晶の質問の意図とは少し外れた答え方をした。ちょっと顔を顰めているのは、敵ではないことをきちんと説明してから城に入れてもらうつもりだったからだ。なのに、その前に有無を言わさず捕らえられた。暴れるわけにはいかないので大人しくされるがままになったが、曲者扱いを受けるとはさすがに面白くない。
 晶と王は顔を見合わせた。
「そ、それは済まなかったな。後でよく言い聞かせておこう」
 王がややひきつった顔で言った。機嫌を損ねたらただじゃ済まないことは、聞こえてくる噂だけでも充分に解る。
「いや、それは構わねえよ」
 デイヴィはあっさり言って、
「ーーーーそれより、苦戦してるみたいだな」
 そう言っているそばから、彼らの後ろを、担架を持った者や薬を抱えている者が駆け回っている。晶も沈んだ顔でそっちを見た。
「ツェザーニャの《プリマ・ドンナ》相手じゃね」
 それからデイヴィに目を移し、
「あんたも知ってるだろ? 5年前、彼女の幼い子供が敵の人質になって、代わりとして城の明け渡しを要求された時の話」
  ーーーーカテリーナは城壁の上に立った。眼下には敵兵が取り囲んでいるという状況の中、彼女はいきなり鎧を脱ぎだした。
 戸惑いざわつく敵兵に、彼女は言った。
「新しい跡取が必要でしょ? 誰か手伝ってくださらないかしら? 勿論、ただの男じゃダメ。とびきり強い人じゃないとね。ーーーー皆さんの中で、誰が一番強いのかしら?」
 それからが大混乱だった。鎧を脱ぎ棄てたカテリーナに目を奪われる者、彼女の言葉に発奮し、仲間同士で小競り合いする者達も出てきた。
 その背後から、密かに近づいていたツェザーニャ軍が攻め込み、敵軍は総崩れ。カテリーナの子供も無事に救出された。その時から、カテリーナは《プリマ・ドンナ》ーーーー女傑ーーーーと称され、讃えられるようになったのだ。
「ーーーーそんな女性に、この状況で勝てるかどうか…」
 晶は目を伏せた。王にはとても言えないことも、同じ戦士のデイヴィなら理解してくれると思ったのだろう。今までの呑気さはどこへやら、一気に弱気になる。
 びっくりしたのは王である。晶のこんな情けない台詞を聞いたのは、初めてだったからだ。まだ晶がいる、とどこかで安心していたし、そもそも、さっき晶自身も呑気に構えていたではないか。王は一気に蒼ざめた。
「おいおい、晶。おまえにまでそんな、弱気になられては…」
「晶、だって?」
 今度はデイヴィが面食らった。晶といえば《キラーパンサー》の本名だ。同名の別人なのか、それとも…。
「おまえが…、サヴィナの《キラーパンサー》か?」
 晶をまじまじと眺めて、デイヴィは尋ねた。
「そうだけど。ーーーーどうかした?」
「どうかした、って、なあ。ーーーー全っ然そうは見えねえんだけど」
 あの新聞の絵では20歳過ぎに見えたのに。比べると、目の前の少年はどう見ても16・7がいいところだ。それに、全身を取り巻くこの雰囲気。まるで春の陽だまりのようだ。新聞の記事に書いてあった戦士と、どうしても結びつかない。
「うん。よく言われる」
 晶は呑気に笑った。
「そうだろうな」
 これからどうするか、とデイヴィは考えた。あの新聞記事はガセだったのか、それともこの少年は本当に強いのか。《キラーパンサー》を求めてこんな田舎まで来たのだ。確かめてやらないと気がすまない。
「ーーーーよし、俺がなんとかしてやるよ」
 まさに《天使》の金言。これで勝利は間違いなくサヴィナのものだ。本来なら大喜びして飛びつくはずの王と晶は、しかし顔を見合わせた。
「お気持ちはありがたいが、サヴィナは貧乏でな。おぬしに払う報酬は出せん」
 王が暗い顔で言った。
 そもそも、サヴィナで暮らしていくのに金は必要ない。なんでも皆で共有するからだ。作物でも加工品でも、自分達に必要な分だけ確保したら、後は他の国に売る。得た金で、国にない物を買う。それを皆で分け合う。残った金は王宮に納められるが、大した金額ではない。
 勿論、その年によって作物の出来不出来があるので、よその国に売るどころか自分達の分でさえ足りないときがある。念の為の蓄えはしているが、不作が続くとどうしようもない。実に数年前まではそうだった。ゆえに、サヴィナは貧乏なのである。
 もとよりデイヴィは金を貰うつもりはなかった。なので、
「ああ、別にいいよ、金なんか」
 と深く考えずに言った。
 再び、王と晶が顔を見合わせた。王が静かだか決然とした口調で、
「確かに我が国は貧乏だが、誇りまで失ってはおらん。ーーーー恩人に礼も出来ないとなれば、末代までの恥だ」
 自分の何気ない発言が相手の自尊心を傷つけたと知って、デイヴィは慌てた。
「いや、すまない。悪かった」
 と素直に頭を下げて、
「言葉が足りなかったな。俺がここに来たのは金が目的じゃなかったんだ」
「どういうこと?」
 訝しげに訊く晶に、
「これさ」
 デイヴィは懐から例の新聞を出して渡した。
「……………」
 晶は茫洋とその記事を眺めている。
「俺はおまえに会いに来たんだ、晶」
「ぼくに?」
「そうだ。ーーーーその絵を見ておまえに一目惚れしたんだ」
「ーーーーはいぃ?」
 晶は、驚きのあまり声が裏返ってしまった。それもそうだろう。こんな田舎にも、デイヴィの噂は入ってくる。綺麗で強くて、女好きで稀代のプレイボーイ。そんな男が、新聞の絵を見て一目惚れとは。しかも男に。
「………………」
 王も目を丸くして絶句している。
 2人の様子にデイヴィは苦笑して、
「そんなに驚くなよ。…といっても、自分でも驚いてるんだけどな」
「そうだろうね」
 晶がぼんやりと呟く。
「おまえに会って、場合によっちゃ一緒に連れてくつもりだったんだ。ーーーーああ、勿論おまえの意思は尊重するつもりだ」
「はあ」
「まさかこんな事態になってるとは思わなかったぜ」
 デイヴィは軽く溜息をついて、肩を竦めた。
「お陰で俺はタダ働き決定、ってわけだ」
「どういう意味?」
 小首を傾げて晶が尋ねる。確かにデイヴィじゃなくても心を動かされる可愛らしさだ。
「金が要らないんだったら、他に欲しいものを言ってくれればーーーー」
「俺が欲しいのはおまえだけだ」
 晶の言葉を遮って、デイヴィがきっぱり言う。
「………………」
 晶が黙り込んでしまったのを見て、
「と、言いたいとこだけどな」
 デイヴィは真面目な顔で言葉を続けた。
「そんな、弱みに付け込むようなマネ、みっともなくてできるかよ。それこそ、末代までの恥だ」
 そう。これがデイヴィという男だった。自分のものになれば助けてやる、なんて卑劣なことは彼の性質ではない。ただ手を貸したいからそうする。見返りは求めない。だからこそ彼は、《天使》なのだ。
「だから、報酬はいらないって?」
 晶はデイヴィを見上げた。デイヴィのその性質を、晶は正確に感じ取った。紅茶色の瞳の奥に、不思議な光が宿っている。その光がデイヴィのエメラルドの瞳と重なったとき、2人の魂は確かに共鳴した。
「あんた、さっき、ぼくの意思を尊重するって言ったね?」
「ああ」
「じゃあ、あんたの望む報酬を受け取るといい」
 あまりにあっさりした口調だったので、デイヴィは最初その意味が解らなかった。
「ーーーー本気か?」
 やっとそう訊き返したのは、たっぷり30秒は経ってからだ。
「冗談でこんなことは言わない」
 今になって恥ずかしくなったのか、晶は頬を染めて言った。
「そ、そうか」
 デイヴィもつられて照れてしまった。咳払いをして気を取り直すと、
「ーーーーそうと決まれば、早いとこ片付けちまおうぜ」
 晶は力強く頷いた。
「O.K.ーーーーじゃあ、王様、行ってきます」
 デイヴィと晶が戦場へと向かう。その後姿に王は励まされた。きっとこの2人ならやってくれる。そう確信した。
「ああ。信じておるぞ」
 王は穏やかに声を掛けた。

 城門では、サヴィナ兵が必死にツェザーニャ兵を退けていた。
 門を護っていたのは2人。そのうち1人は既に倒れてしまってい、残された兵士ーーーーあのガイだったーーーーも満身創痍であった。それでも何とかツェザーニャ兵を1人斬って倒す。そこまでが限界だった。敵はまだ20人ほどもいるのだ。
 敵がガイの頭上に剣を振り降ろす。痺れた腕はどうしても上がらない。観念して目を閉じる。
 ーーーー?
 来るべき衝撃が来ず、顔を上げる。敵兵の剣は、刀によって受け止められていた。晶である。彼がガイの後ろに立ち、敵の剣を防いでくれたのだ。
「ーーーー晶!」
 晶は敵兵の剣を押し返した。相手がよろけたところにすかさず刀を入れる。ツェザーニャ兵は倒れ伏した。
「ガイ、大丈夫?」
 刀を構え、敵に対峙したたまま、晶が訊く。
「ありがとう。俺は大丈夫だ。ーーーーただ、ポールが…」
 ガイは倒れている仲間を残念そうに見つめた。
「ポールが…、…そう…」
 苦しげに呟いた後、晶は力強い口調で、
「ガイ、ここはぼくと彼に任せて」
「彼?」
 ガイは初めて、晶の隣に黒い鎧をつけた男がいるのに気付いた。その美貌、長い黒髪。
「あ…、《黒髪の天使》…、ーーーー本物だったのか!」
 さっきデイヴィを捕らえたのは他ならぬガイだった。あの時はとにかく『怪しい奴』を捕らえるのに夢中で、その人物の素性にまで気が廻らなかったのだ。
 《黒髪の天使》という言葉に、ツェザーニャ兵も激しく反応した。顔を見合わせて囁き合っている。そのうち、1人がその場を駆け去っていった。
「頼んだぞ、二人とも」
 ガイも、剣を支えにして城の中へ歩んでいく。
 デイヴィは剣を抜いてはいたが、構えもせずにだらりと下げたままだった。彼は敵の動きを正面に見ながら、晶のことも視界の端に入れていた。とにかく晶がどういう戦いをするのか確かめたかった。
 ツェザーニャ兵達はデイヴィの間合いを避けるように動いている。《黒い悪魔》を恐れているのだ。晶の方にじわじわと迫っていく。
 その足がぴたり、と揃って止まった。
 デイヴィが晶を振り向いた。
 晶の全身から、凄まじい気が噴き出したのだ。紅茶色の瞳が輝きを増し、あの、可愛らしいとさえいえたあどけない顔が、別人のように引き締まっている。
 ーーーーこれだ、とデイヴィは思った。嬉しさでぞくぞくする。ーーーーこれこそが《キラーパンサー》。デイヴィが心を奪われた瞳の戦士だ。
 晶はしなやかにツェザーニャ兵に飛び掛ると、瞬く間に5人を斬って倒した。
 目の前で仲間を倒されたツェザーニャ兵達の間に動揺が走る。彼等は恐怖に支配されていた。じりじりと後退さる。しかし、晶は容赦しなかった。
 晶から逃げてデイヴィの方に向かってくる者もいた。パニックの余り、《黒い悪魔》のことを失念しているらしい。勿論、デイヴィがそれを逃すはずもなかった。

 サヴィナの町は、ツェザーニャ軍に占領されていた。将であるカテリーナ・コルツァーノは野蛮なことを好まないため、一般市民には手出ししないよう、部下に命令していた。彼女の目的はサヴィナの国を手に入れることではなかった。
 ツェザーニャの全軍の半数という300人を率いて来たが、それでも容易に勝てないことは予想していた。事実100人の兵士を失っていたが、サヴィナも残るは《キラーパンサー》のみだ。もう勝ったも同然だった。
 サヴィナには宿屋などという気の利いたものはないので、民家を借りている。全員入りきれるほどの広い家はない為、数軒に分散して兵士達が詰めている。各家の家主達は当然かなり抵抗したが、やはり軍隊には敵わない。兵士に見張られつつ彼等の雑用をこなしている。
 カテリーナがいる『本部』は国で一番大きな民家だった。2階の一部屋を彼女は使っていた。この家の、嫁いだ娘の部屋である。質素ながら上品な調度品が、カテリーナの気に入った。テーブルと椅子、タンス、ドレッサー。部屋の隅には収納のための、小部屋ほどのスペースがあって、カーテンで仕切られている。西向の窓にはレースのカーテンがかけられ、窓の外は長閑な田舎の風景が広がっている。
 その景色を楽しみながら、カテリーナはワインを呑んでいた。
「もうすぐね…」
 と呟く。間もなく彼女の望みが叶う。多大な犠牲を払ってまで手に入れたかったもの、それがーーーー
 部屋の入口でガタン、と音がした。
「誰?」
 カテリーナが振り向く。
 兵士が蒼い顔で立っていた。先程、城門から走り去った兵士である。彼はまず、待機していた兵士達に《黒い悪魔》の来訪を告げて仲間の応援に向かわせた。それからカテリーナへ、総ての事態を報告に来たのだ。
「将軍、大変です!」
「なにごと?」
 兵士のあまりの狼狽振りに、カテリーナは椅子から立ち上がった。
「あ、《悪魔》が…。《黒い悪魔》が現れて、我が軍は…。ーーーーぐふっ」
 兵士はその場に崩折れた。その後ろに、人影が湧いた。
「ーーーーあら、生きてたのね」
 カテリーナはその人物に声を掛けた。
「…久しぶり、マダム」
 デイヴィだった。少し親しげに微笑んでいる。
「相変わらず、お美しい」
「ありがとう。あなたもよ」
 カテリーナも笑顔になって、グラスを少し掲げて見せてから、中身を飲み干した。
「ーーーーそんな所に立ってないで、お座りなさいな」
「じゃ、遠慮なく」
 何の警戒もなくデイヴィは部屋の中に入ってきた。カテリーナが示す椅子に腰掛ける。
 カテリーナは棚のワインラックに収納されているワインの中から一本取りだして、テーブルに置いた。
「ワインでもいかが? ーーーー今グラスを用意するわ」
 食器棚の扉を開ける。
「いや、結構だ。喉は渇いてねえ」
 デイヴィが止めた。それから苦笑いする。カテリーナはそれに気付いて、
「あなたは“あのとき”のことを思い出しているのね?」
 冷やかすような、からかうような、悪戯っぽい笑みを見せた。
「安心して。このワインは“大丈夫”よ。ーーーーただ、とても美味しいワインだからあなたと一緒に呑みたかったの」
「それはどうも。ーーーーでも、遠慮しとくよ」
 デイヴィは穏やかに断った。
 カテリーナは気にした様子もなく、自分の分だけグラスを取りだし、むしろ楽しそうに、
「付き合いが悪いと、長生きしないわよ」
 デイヴィは応えず、肩を竦めただけだった。
 カテリーナはワインの封を切ってグラスに注いだ。次に冷蔵庫を開け、皿に盛られたチーズを取りだした。
「じゃあ、チーズはどう? サヴィナ産の上物よ」
「貰おう。腹が減ってたんだ。ここのチーズは最高だからな」
 デイヴィは今度は素直に1切れ取った。
 カテリーナもチーズを1口食べた。それからワインも呑んで、
「チーズだけじゃないわ。ここの食べ物は美味しい物ばかり。ーーーー農業と酪農が取りえの、ちっぽけな国ですもの」
「まったくだ」
 頷きながら、デイヴィは早くも2切れ目に手を伸ばす。
 カテリーナは彼の隣に屈んで、彼の首に腕を廻した。
「そのちっぽけな国に、あなたが加勢してるのはなぜ?」
「成り行きさ。強いて言えば報酬かな」
「嘘。いくら貰ったの?」
 カテリーナの手が、デイヴィの美しい顔を撫でた。取り込もうとする意図と、その美貌に触れていたいという願望、両方が彼女の中にあった。
「内緒だ。誘惑されたら困る」
 デイヴィは構わず、もう一切れチーズを食べた。
「あら、誘惑したら寝返るの?」
 ここぞとばかりに、カテリーナはデイヴィにしなだれかかった。物は試し、というわけだ。デイヴィが自分の方に付いたら、一気に目的を叶えられる。それに、デイヴィ自身も手に入れられる。彼女はまだ自分が充分魅力的であり、デイヴィにその力を振るうことが出来ると知っていた。
「確かに、あなたは魅力的だよ」
 カテリーナの心を読んだかのようにデイヴィは言い、カテリーナの頬にキスした。しかし、続けて、
「だけど、今回ばかりはその魅力に屈するわけにはいかねえのさ」
 彼女の肩に手を置いて、優しく自分から引き離す。
「あら、ずいぶんな物言いね」
 人よりプライドの高いカテリーナは内心かなり憤慨していたのだが、それを態度にすっかり表してしまっては年上としての権威が崩れてしまうと思い直して、努めて冷静な声を出した。
「でも、どうせたいした金額じゃないでしょ。こんな小国なら」
 それでも、腹いせにちくりと厭味を言うのだけは忘れなかった。
 彼女の複雑な女心には取り合わず、
「なあ、さっきから小国、小国って言うけど、あなたはなんでそんな国に攻め入ったんだ?」
 デイヴィはさっきから気になっていることを訊いた。
「こんな国には興味は無いわ」
 カテリーナは嘲笑しつつ言い捨てた。
「解るでしょう? 私が欲しいのは、この国でしか手に入らない人物…」
「ーーーーじゃあ、やっぱり…」
「そう。《キラーパンサー》よ」
 カテリーナは探るようにデイヴィを見つめて、
「あなただって、こんな国まで来たのは、それが目的なんでしょう?」
「ああ」
 デイヴィは正直に答えた。お互いこんな田舎の国に、山越えしてまでやって来ているのだ。そんな価値のあるものといったら《キラーパンサー》以外にはない。ごまかすだけ無駄である。
「あの、帝国の《疾風将軍》に勝ったくらいですもの。彼がいれば、同じ帝国の《マッド・ベア》だって怖くないわ。世界征服だって夢じゃない」
 カテリーナは目を輝かせている。相変わらず危険なレディだな、とデイヴィは思った。昔から、自分が勝たないと気が済まない女(ひと)だった。そして、そのためには手段を選ばない。
「そう、巧く行くかな」
 デイヴィは呟いた。別に彼女の夢に水を差す気はない。ただ、そんなことに全く興味のないデイヴィにしてみれば、カテリーナといいアリステア帝国といい、世界征服とやらになんでそんなに夢中になれるのか、理解に苦しむだけだ。
 一方カテリーナは、デイヴィの言葉を牽制と取った。彼が敵に廻っては勝ち目がない。ならやはり誘惑するしかない、というわけで、
「あなたさえ邪魔しなければ」
 再びデイヴィの首に腕を回して、
「どお? 一緒にやらないこと?」
 と耳元に囁く。大抵の男なら一発で落ちそうな色気である。
「残念だけど、そんなことには興味ねえんだ」
 デイヴィは『大抵の男』ではないから、残念ながら落ちなかった。
「…また振られたわね」
 カテリーナは苦笑しつつ離れた。最初のときと違って今回は駄目元でしかけてみたので、あっさりと引き下がった。
 デイヴィはにやりと笑って、
「結婚してるレディには手を出さねえ主義でね。ーーーー前に言わなかったか?」
「あら、私未亡人よ。ーーーー前に言わなかったかしら?」
 カテリーナがからかい気味に応じて、2人は一緒に笑った。
「あれから5年経つのか。…息子さんは大きくなったんだろうな」
「もう12よ。あなたが敵に廻ったと知ったら悲しむでしょう。自分を助けてくれたあなたを慕って、剣の稽古を始めたくらいだから」
 カテリーナは意味ありげなため息と共に言い放った。色気が駄目なら今度は人情、というわけだ。今のデイヴィにはこちらの方が効きそうだ、と考えたのもある。
「そうか。ーーーーでも、まあ仕方ねえさ」
 デイヴィは美しく微笑んで、カテリーナを見た。
「なにせ、あなたは一番ヤバい」
 そう、手を変え品を変え自分を取り込もうとするカテリーナの、執念のようなものをデイヴィはひしひしと感じ取っていた。ここまで拒否されたら、彼女はきっと何か仕掛けてくるはずだ。最後の一撃を。
「そう。なら、ーーーー仕方ないわね」
 カテリーナも微笑んだ。ちょっと種類の違う笑みだ。
 デイヴィが頭を垂れた。少し目眩を感じたのだ。この感じはーーーー
「ーーーー睡眠薬か。チーズだな?」
 その唇は笑っているように見える。この部屋に入ったときから仕掛けられていたとは。カテリーナの用意周到さに感心したのか。或いは、古典的な仕業に引っ掛かった自分を笑っているのだろうか。
「そうよ。そしてこのワインには、その働きを抑える薬が混ざってるってわけ」
 ふらつくデイヴィの上体を支え、カテリーナはむしろ寂し気な口調で、
「だから言ったじゃない。付き合いが悪いと長生きしないって」
「まったくだ」
 デイヴィは糸の切れた人形のように、ことん、とテーブルに突っ伏した。
 カテリーナはナイフを手に取ると、
「ごめんなさいね。でも、こうでもしないとあなたは倒せない…。卑怯だと思うけど、野望を叶えるためにはあなたは邪魔なの」
 かなり勝手な台詞だが、声が少し震えている。
「顔が見えなくて幸いだわ。もしその綺麗な顔を見たら、さすがに決心が鈍るもの」
 カテリーナはデイヴィの上に身を屈めて、艶やかな黒髪を撫でた。そうするうちに落ち着いてきたらしい。今度はしっかりとした声で、
「ーーーーあなたを殺したら世界中の人から恨まれるでしょうけど、構わないわ。私が勝つためだもの。それに、女に殺されるのも、稀代のプレイボーイらしくていいかもね」
 とうとうナイフを振り上げたとき、
「いや、それはどうかと思います」
 のんびりした声が掛かった。
 カテリーナは戸惑いつつ振り向いた。入口に、白い鎧を着けた少年が立っている。純粋な瞳で彼女を見ていた。
 確かに人の気配を感じなかったのに、と、カテリーナは思いつつ、
「あ、あら、可愛い戦士さんね。いらっしゃい」
 動揺を隠して声を掛けた。手にしていたナイフを何となく後ろに隠す。そういう物騒なものを彼に見せてはいけないような気がしたのだ。
「失礼します」
 晶は行儀よくお辞儀をして、中に入った。
「椅子をどうぞ」
 デイヴィが寝ている隣の椅子を指す。
「いいえ、結構。座った途端に兵士が飛び出してきてグサリ、なんてごめんです」
 こういうことを普通の笑顔でのんびり言うのも、晶らしいと言える。
「ーーーー顔に似合わず、怖いこと言うのね」
 カテリーナはちょっと困惑した。こんな答が返ってくるとは思わなかったのだ。これは一筋縄ではいかないかもしれない、という考えが脳裏を掠めたが、すぐに否定した。目の前の少年は、戦士らしい格好はしているが、どう見ても『子供』だ。きっと、戦いにも参加していなかったに違いない。だって、どこも怪我した様子がないではないか。
 カテリーナのそんな思いにはまったく頓着せず、
「…話は全部聴きました」
 晶は相変わらず茫洋と言った。
「あら、立ち聞き? いけないボーヤねえ」
 今やすっかり晶を侮っているカテリーナは、からかうように言う。そんな彼女を晶は哀しげに見つめた。
「この国に攻め入ったのは、本当に《キラーパンサー》のためだけ?」
「ええ、そうよ」
 反省のかけらもない様子で、カテリーナは頷いた。反省する必要などないではないか。《キラーパンサー》を手に入れることが、自分の、引いてはツェザーニャの勝利に繋がるのだから。
「そんなことのために、攻めてきたっていうの?」
 途端に晶は強い口調になった。今や彼は悲しみ、憤慨していた。
「死んだ仲間達に一体なんて謝ればいい? ーーーー彼らにも、家族や恋人がいるんです。余計な哀しみを増やして…、ーーーーそんなことのために…」
 体を震わせて顔を伏せる。
 この少年をこんなに落ち込ませるなんて自分はなんて悪い女なのかしら、と、カテリーナはつい思ってしまった。しかし、すぐに気を取り直す。敵にいちいち情けをかけていていては世界征服など出来ない。戦争とはそういうものだ。
「ーーーー私にとっては、《キラーパンサー》を手に入れる方が大事なのよ…。解ってとは言わないけど、悪かったとは思うわ」
 前半は本心で、後半は詭弁だった。《キラーパンサー》以外のサヴィナ兵なんて、本当はどうでもよかったのだから。
「こんなことをしたら、《キラーパンサー》は手に入らない。絶対にね」
 晶がきっぱり言う。
 カテリーナはちょっとむっとした。こんな子供に何が解るというのか。
「あら、そんなこと解らないわよ? ーーーー条件によっては…」
 カテリーナの文句を遮って、
「本人が言うんだから、間違いない」
 晶は自分の正体を明かす一言を言った。彼女が自分を当の《キラーパンサー》だと思ってもいないのは解っていた。そんなことはどうでも良かった。晶にとって、彼女がしたことは決して許されることではない。そして、自分が彼女のものになるつもりはないことは、しっかり解らせないといけない。
「……………」
 カテリーナが目を見開く。
「…嘘。ーーーーあなたが…」
 茫然と呟きながら、改めて晶を見る。この可愛らしい少年が《キラーパンサー》?
「ーーーーぼくのせいでこんなことになった。その片をつけさせてもらう」
 晶が刀を抜き、カテリーナを睨んだ。その瞳は、確かにカテリーナが新聞で目にしたのと同じ輝きを持っていた。だが、少し違う。目の前の少年は穏やかすぎた。所詮はこんなものなのか、とカテリーナは失望した。これならーーーー“いらない”。
「…どうしても、私のものにならないつもりね」
 カテリーナもナイフを構えた。
「なら、あなたもそこの役立たずも、まとめて葬ってやる。2人の墓碑銘は私が刻んでやるわ」
 晶はちらりとデイヴィに目をやって、
「敵を全部倒してくれたんだから、あなたの言うほど役立たずじゃないけど。肝心な時にはそうかな」
 擁護しているのか貶しているのか、恩知らずにもそう答えた時、デイヴィの身体がほんの僅かに動いた。
「ーーーー言いにくいことを、はっきり言う奴だな」
 彼以外の誰にも出せない美しい声がした。
「ーーーー!!」
 2度目の驚愕に襲われ麻痺したカテリーナの手首を、下から伸びた逞しい手が捉えた。
 カテリーナの手からナイフが落ちる。デイヴィはそれを拾い上げた。カテリーナのことはすぐに解放する。別に捕らえている必要はない。デイヴィと晶の前では彼女は赤子のようなものだ。このうえ手荒な真似をすることはない。
「何故?! 後1時間は眠っているはずなのに!」
 放された手首を擦り、蒼ざめた顔でカテリーナは叫んだ。
 晶はといえば、
「別に、言いにくくない」
 と、誰にも聞こえない小声で呟いた。この少年の、人を食ったところだ。
 デイヴィは気の毒そうにカテリーナを見つめた。
「俺に毒や睡眠薬は効かねえよ。ーーーー忘れたかな?」
 以前、敵国に雇われていたデイヴィを取り込もうとして失敗したカテリーナは、ならば殺(け)してしまおうと、毒入りのワインを送ったことがあった。だがデイヴィは生きていて、最終的にはある事情からカテリーナの方についたのだ。先ほどの、ワインを挟んだやり取りはそういう過去があってのことだった。
「…あなたはあのとき、あのワインを呑まなかったって言ってたから…、…信じた私が馬鹿だったのね」
 カテリーナは肩を落とした。そこを確認しなかったのは自分のミスだ。
「あなたに本当のことを教えるほど、俺もお人好しじゃねえさ」
 チーズを食べたとき、ほんの微かな苦みをデイヴィは感じた。効かなくても、どんな種類のものかは判別できる。毒ではなく睡眠薬だと判断し、後は効いたような演技をした。デイヴィに毒等が効かないことを知ったら、カテリーナは今度は違う手で攻めてくるだろう。それは正直言って面倒くさい。それに、晶が部屋の外にいる気配を感じていたので、彼に任せようと思ったのである。
 デイヴィは椅子から立ち上がると、そのまま晶の隣に立った。
「でも、少しは効いたんじゃない? 声が眠そうだ」
 晶が囁く。
 デイヴィは晶の方を見て、
「なに、おまえがキスしてくれりゃあ、パッチリだよ」
 軽くウィンクしてみせる。
「…後で」
 取り敢えず、晶は答えておいた。
 その言葉にやる気が出たのか、デイヴィは剣を抜いた。
「ーーーーさて、チェックメイトだ、マダム。覚悟しな」
 ずっと刀を構えたままだった晶も、
「カーテンの後ろの、30人の兵士さん達も」
 のんびりと付け加える。
「…!」
 カテリーナの眉が微かに上がった。
「33人だろ」
 デイヴィがすかさず突っ込んだ。
「3人ぐらい、いいじゃない。細かいなあ」
「そういう、いい加減なことじゃ駄目だぜ」
 例の、部屋の隅にある小部屋に、まさにカテリーナは兵士を忍ばせていた。この2人にはやはりそんな小細工は通じなかったようだ。
「…どうやら、今回は私の負けのようね」
 カテリーナは呟いた。声に悔しさが滲んでいる。もう一息だったのに…。どうしても諦め切れなかった。今回は、と言ったのはその思いが強いからだ。何度でも挑戦してやるつもりだった。
 カテリーナの思いを知ってか知らずか、
「このまま、33人の兵士と黙って帰って。そして二度とこの国に来ないで」
 晶は言った。
「ーーーーあら、見逃してくれるってわけ? 殺したいんじゃないの?」
 カテリーナが自嘲気味に言う。同時に、内心の喜びが顔に出ないように苦労する。やはり晶はまだ子供なのだ。ここでカテリーナを帰すことがどういう結果を生むか、読みきれていないらしい。
 デイヴィもまた、カテリーナと同じことを考えた。秀麗な眉を寄せて、
「そうだぜ、晶。甘すぎる」
 と嗜める。
「ここで彼女を殺したら、ツェザーニャは黙っちゃいない。まだ300の兵士が残ってるんだ」
 晶は全くの無表情だった。
「だから、見逃す。ーーーー今回は」
「今回は?」
 カテリーナが訊き返した。
「二度とこの国に来ないで」
 晶は抑揚のない口調で繰り返した。
「ーーーーさもないと」
「どうするって言うの? 殺すって?」
 カテリーナはすっかり晶を甘く見ているらしい。舐めた口調で、
「今殺せないのに、後で殺せるの? ーーーー甘いボーヤ」
 フフッと笑って、ーーーーその笑顔が凍りついた。晶の変化を見たためだ。
「…解らない女(ひと)だね」
 晶は淡々と言った。
「殺せないんじゃない。殺さないでおく、と言ってるんだ」
 晶の体から冷たい風が吹きつけてくるようだった。今までの長閑さは消え去り、別人のような気を感じる。しかし、紛れもなくそれは晶の気だった。
 カテリーナは震えた。目の前の美しい人物こそが、彼女が求めていた《キラーパンサー》だと知った。とても自分の手に負えるようなものではない。まさに野性の美獣だ。
 カテリーナは恐怖で後ずさりした。見えない手で押されるように。少しでもこの恐ろしいものから離れたい、と感じた。泳がせた手がワインの瓶に当たり、床に砕けて大音響をおこした。
 身を縮め、子供のように震えるカテリーナを、晶は無表情に見つめた。
「ーーーー将軍! 大丈夫ですか?!」
 カーテンの後ろから兵士達が姿を見せた。カテリーナの合図があるまで出てこないように命令されていたのだが、バレている今となってはそんなことは言っていられない。この危機を打破しようと、飛び出してきたのだ。
 おかげでカテリーナもなんとか気が紛れた。しかしまだ震える声で、
「どうもしないわ」
「しかし…」
 兵士の目は、カテリーナと、デイヴィと晶、そして床の瓶の間を行ったり来たりしている。
「なんでもないのよ!」
 ややヒステリックに、カテリーナは叫んだ。
「ワインが落ちただけさ」
 デイヴィは素っ気なく言って、それから兵士達にニヤリと笑うと、
「それよりおまえ達、このまま黙って帰れば、殺さねえで見逃してやるぜ? ーーーーどうだ?」
 兵士達は顔を見合わせた。数にものを言わせて戦うつもりで飛び出してきたが、《黒い悪魔》に加え、純白の戦士ーーーー《キラーパンサー》が纏っているすさまじい殺気に、些か怖じ気づいていた。
「どうだ、って…」
「もう残ってるのは、俺達だけだし…」
「《キラーパンサー》だけならまだしも、《黒い悪魔》までいるんじゃ…」
 ざわざわとざわめく。
「今から10数える間に決めて」
 晶はいきなりカウントダウンを始めた。
「10、9、8…」
「お、おい…」
「う、うん!」
 兵士達は再び顔を合わせて、
「逃げろ!」
 晶が4を数える頃には、蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。
「ーーーーあなたは行かないんですか?」
 晶はカテリーナを見ながら言った。
「なんてこと…」
 事の次第を呆然と眺めていたカテリーナは、気丈に晶を睨み返した。さすが、かの帝国皇帝をして、《プリマ・ドンナ》ーーーー女傑ーーーーと言わしめた将軍である。立ち直るのも早かった。
「ーーーーここまで私を追い詰めたのは、あなたが初めてよ。忘れないわ、《キラーパンサー》」
 と捨て台詞まで残して去っていった。
 
「おお、良くやってくれた! ツェザーニャ軍は、あっと言う間に撤退していったぞ!」
 城に戻ったデイヴィと晶を、王は満面の笑みを浮かべて迎えてくれた。
「デイヴィのおかげです」
 晶がのんびりと言った。もう普段の可愛い顔に戻っている。
「なに、俺は最後の一押しをしただけさ。それまでは、晶やサヴィナの兵士達の力だ」
 デイヴィは穏やかに微笑んだ。
「とにかく、我が国は救われた!」
 王は2人の肩を叩いて、
「怪我をした兵士達も、この知らせを聞いた途端に元気になった。そして、命を落とした者達も、これで浮かばれることだろう」
「そうですね」
 晶は目を伏せた。
「まあ、とにかく疲れただろう。今、夕飯の支度をしてるから、できるまで休んでてくれ。後で呼びにやる」
 王の言葉に、2人は頷いた。
「でも、その前にみんなの様子を見たい」
 晶が歩きだした。救護室に顔を出す。
「晶!」
 人一倍よく動いていた少女が、2人に気付いて声を掛けた。
「姫、お疲れさまです」
 晶はにこやかに言った。
 サヴィナの姫、アイリンは、見かけはどうということはない普通の娘だった。美人というほどでもないし、背もあまり高くない。しかし、誰もが彼女を二度見直した。内面の輝きが外に溢れ、後光のように彼女を取り巻いているため、平凡な外見のことなど全く気にならなくなる。彼女がいるだけで周りが明るくなるような、そんな魅力を持った少女だった。サヴィナの国民達は、老若男女問わず彼女を愛した。兵士達の間では、彼女はアイドルとなっていた。
「ツェザーニャは帰っていったんですって?」
 アイリンは嬉しそうに言った。
「ええ。サヴィナのみんなと、彼のおかげです」
 晶はデイヴィを紹介した。
「あなたが《黒髪の天使》様ね! 本当にありがとう!」
「デイヴィです。初めまして、アイリン姫」
 デイヴィはアイリンの手を取り、腰を屈めてキスした。
「あなたのお役にたてて、この身にとってもこの上ない幸せです」
「まあ、お上手ね」
 アイリンは楽しそうに笑った。
「みんなの様子は?」
 晶は、ベッドに横たわる仲間達を優しく見下ろした。
「勝ったことを伝えたら、みんなすごく喜んで…。力が湧いてきたみたい。もう大丈夫よ」
「よかった…」
 晶はベッドサイドに跪いた。
「…晶か?」
 かすれた声がした。
「うん。ーーーーカイン、勝ったからね」
 晶はカインの手に触れた。
「そうか…。そうだよな。ーーーーおまえが…、オレ達が負けるわけないもんな」
 カインは微かに笑った。
「ありがとう、晶」
 晶は首を振って、
「みんなの力だよ」
「そうだな…」
「カイン、みんなも、ゆっくり休んで」
 晶は優しく言って、
「じゃあ、姫、お願いします」
「任せといて」
 アイリンは力強く自分の胸を叩いてみせ、それから笑った。
 晶も少し笑って、デイヴィを促して、救護室を出ていった。
 静かな廊下を歩きながら、2人とも無言だった。晶が話をしたくなさそうだったのでデイヴィも黙っていた。横目で晶の様子を見ながら、どうやら落ち込んでいるらしいことに気付いた。晶にしてみれば、自分のせいでツェザーニャが攻めて来て、自分のせいで仲間達が酷い目に遭ったと思ってしまうのだろう。デイヴィも似たような思いを抱いたことがあるので、よく解った。
 黙々と歩く内、2人は客間に着いた。
「ーーーーじゃあ、ここを使って」
 晶はデイヴィに言って、自分の部屋に行こうとした。
「…ちょっと、待ってくれ」
 デイヴィは呼び止めた。
「少し、付き合ってほしい」
 晶がデイヴィを見る。その警戒心丸出しの目つきにデイヴィは苦笑して、
「いくら俺でも、腹に何も入れねえうちに、おまえをどうこうしようなんて思っちゃいねえよ」
「…そう? じゃあ」
 晶は、デイヴィに続いて部屋に入った。
「へえ。いい部屋だな」
 デイヴィは部屋の中を見回した。
「一応客間だから。他はともかく、お客様にだけは見栄をはらないと」
 晶は笑って、
「でも、お客様なんて来たことないんだ。あんたが初めてだ」
「それは光栄だ」
 デイヴィも微笑んで、革張りのソファに座る。
「ーーーーあのな、おまえもこんな状態のときに国を出るのは心苦しいだろ。だから、ちょっと考えたんだけどさ」
 晶にも座るように手振りで示して、ペンと紙を取り出した。流れるようにさらさらと、何かを書き出す。向かいに座った晶は、じっとその美しい手元を見つめていた。
「とにかく、二度と攻め込まれねえようにしないとな」
 手を動かしながら、デイヴィは言った。
「しかし、帝国のおかげで酷い目に遭っちまったな。帝国のクリスが攻めてこなきゃ、おまえの名前も知られることもなく、ツェザーニャも攻めてこなかったのによ」
 晶が顔を上げてこちらを見る気配がしたが、デイヴィの方は敢えて顔を上げず、
「まあ、そうなったら、俺もこの国に来なかったけどさ。ーーーーなんにせよ、おまえはよくやったよ。帝国から国を護ったんだからな」
 デイヴィは手を止めて、
「よし、出来た」
 晶に紙を見せる。晶は目を通した。
 それは宣誓書だった。
『デイヴィ・キーンと聖晶は、尊敬するサヴィナ王のため、《ガーディアンエンジェルス》を結成する。今後、サヴィナ国及びその国民に対し不当な行い等をした者については、《ガーディアンエンジェルス》の名においてしかるべき処置を与えるものとする』
「同意するなら、俺の名前の下にサインしてくれ」
 デイヴィの差し出すペンを、晶は受け取った。
「ーーーーよかったぜ。振られたらどうしようかと思ってたんだ」
 晶が自分の名前を書き込むのを見て、デイヴィは安堵の笑みと共に言った。
「ありがとう、いろいろ」
 晶はデイヴィを見つめた。感謝の気持ちと、ほんの少しだけそれ以上の感情を込めているようにデイヴィには思えたが、確信はできなかった。デイヴィは、だから無言で首を横に振った。
「じゃあ、王様に渡してくるよ。安心させてあげなきゃ」
 晶は立ち上がって、
「ーーーー本当にありがとう。サヴィナのために」
 ドアの所までデイヴィはついていった。ノブにかかる晶の手に、衝動的に自分の手を重ねて、
「サヴィナのためじゃねえ。ーーーーおまえのためだ」
 晶は振り向いた。物問いたげな瞳でデイヴィを見上げる。だから、デイヴィも言葉では答えなかった。
「ーーーー何もしないって言ったくせに」
 晶が悪戯っぽくデイヴィを睨む。言葉ほどには怒っていないようだ。頬が紅く染まっている。デイヴィは優しい笑顔で応じた。
「おまえ、さっき『後で』って言っただろ?」

 晶が王の元に行くと、彼は手紙を読んでいた。晶に気付いて顔を上げる。
「おお、晶。師父から手紙が来たぞ」
 師父というのは、例の回復魔法が使える魔導師のことである。
 魔法を使えるかどうかは、当然ながら魔力があるかどうかによる。
 魔力はおおざっぱに0〜10にランク付けできる。このうち0と10は100年に1人でるかどうか、というレヴェルだ。
 魔力7以上で魔術師を生業とすることができる。回復魔法が使えるのは8以上だ。これは世界に10人程だと言われている。彼らのことを『魔導師』と呼ぶ。
「師父から? なんですって?」
「旅先で今回のことを聴いたそうだ。すぐに戻ってきてくれると。明日の夕方にはこちらに着くという」
「そうですか。なら安心ですね」
 晶は弾んだ声で言った。やはり、怪我をしている皆を残していくのは不安だったのだ。デイヴィに頼んで、少しの間逗留して貰おうかと考えていたところだ。師父が戻ってきてくれれば、その必要もない。
「ああ。だから後のことは心配いらんからな」
 王は父親のような愛情を込めた瞳で晶を見つめた。
「ありがとうございます」
 晶も息子のような気持ちで応える。
「ーーーーしかし、これを言っても詮無いことだが、そもそも最初から師父がいてくれれば、今回のような事態は避けられたのだがなあ…」
 王は苦い口調で言った。
「いや、それを言えば、ーーーー玲人がいてくれたら…」
「………………」
 晶も暗い顔になった。
 玲人は、帝国との戦いの後行方不明になった。フリーランサーになりたがっていたから撤退する帝国軍に一緒に付いていったのだ、という意見と、黙っていなくなるわけがないから帝国の捕虜になってしまったのだ、との意見の二つがサヴィナ兵の間で言い交わされていた。晶は後者だと思っている。あの玲人が捕まるのも信じ難いが、それよりも自分に何も告げずにいなくなる方がありえない。兄弟のように育った2人なのだ。
 それになにより、アイリン姫のことだ。他の兵士達と同様、玲人は姫を敬愛している。そして姫は、ただ玲人1人を思い続けている。これは皆知っていることだ。ただ何故か玲人本人だけは、姫が晶を好きなのだと思い込んでいて、自分は身を退こうとしている。
 あるいはそれが理由でいなくなったのだろうか?
 晶の思考にシンクロするように、
「一体、玲人はどこへ行ったのか…。どれだけアイリンを悲しませれば気が済むのだ、あいつは…!」
 王が溜息混じりに呟いた。
「晶よ。旅先で玲人を見つけたらーーーー」
「ーーーー首に縄を付けてでも連れ戻します」
 晶は茫洋と言った。
「頼んだぞ。玲人がいれば安心だ」
「ああ、そうだ。…王様、更に安心できるものを、デイヴィが書いてくれました」
 晶は本来の用事を思い出した。『宣誓書』を王に渡す。
 王は何度もそれを読んで、
「有り難い…!」
 と感慨深い声で言った。
「ここまでサヴィナのことを考えてくれるとは。《黒髪の天使》の名も伊達ではないのだな」
「ええ。本当に有り難いです」
「誰か来てくれ!」
 手を叩いて王が呼ばわると、傷ついた兵士の代わりに城の雑用をしてくれている町の人が、急いでやって来た。
「これをすぐに複製して、各国や新聞社に至急便で送ってくれ」
「承知しました」
 恭しく受け取って、退がっていく。
 それを見送って、
「ーーーーでは、ぼくも失礼して、部屋に戻ります」
 晶は言った。
「うむ。ゆっくり休んでくれ。食事の支度は心配しなくていい。町の皆が用意してくれている」
「はい」
 晶は敬礼して、王の間を出ていった。

 自室に戻ると、晶はまずシャワーを浴びた。
 上気した肌をバスローブに包み、濡れた髪をバスタオルで拭きながら、晶はベッドに腰掛けた。今日は疲れた。身体的にも、精神的にも。
 晶はベッドサイドに飾ってある小さな額縁に手を伸ばした。中には新聞の切り抜きが入っている。綺麗な男。《黒髪の天使》。不鮮明な絵でも美しいことは判る。だが本物はその10倍も美しい。
 しみじみ眺めながら、晶はさっき客間でデイヴィに言われたことを思い返していた。おまえのせいじゃない、と彼は言ってくれた。玲人がいなくなったのも、ツェザーニャが攻めてきたのも、仲間が傷ついたのも、総て帝国のせい。晶がこれ以上自分を責めないように、代わりの対象を作ってくれたのだ。
 晶は額縁を胸に抱いて、ベッドに倒れ込んだ。そのまま、あっという間もなく眠りに落ちた。

 心づくしの夕食を楽しんだ後、デイヴィは再び客間に戻ってきた。
 晶は、明日の旅立ちの準備を済ませてから来る、と言った。どのくらいかかるのだろうか。
 客室の中を、デイヴィはうろついていた。いつになく落ちつかない気分だった。歩き回ってソファに座り、数分もしない内にまた立ち上がる。デイヴィを知る者が見たら驚愕のあまり卒倒しかねない光景だったが、デイヴィ自身にとってはそれどころではなかった。彼の頭は、我ながらなんでこんなに心臓が高鳴るのか、という疑問で一杯だった。
 ノックの音がした。デイヴィの心は月までも飛び上がらんばかりだったが、表面上はそれを隠して、
「どうぞ」
 やや無愛想な返事になってしまった。
 躊躇いがちにドアが開き、晶が不安げに入ってきた。
「来たな。ーーーーまあ、落ち着けよ」
 自分の方がよっぽど落ち着くべきだと思いつつ、デイヴィは努めて優しく言った。
 晶は頷いた。頬が上気して、瞳が潤んでいる。デイヴィの鼓動がますます早くなった。
「ーーーーあのさ、報酬を貰う前に、確認しときたいことがあるんだが」
 何度も頭の中で繰り返していた台詞だった。
 晶が不思議そうにデイヴィを見る。デイヴィはちょっと咳払いして、
「もし、おまえが、約束したから、とか、借りを返すためだからとか、ーーーー要するに、仕方ないっていう気持ちでここに来たなら、俺はそんな報酬は受け取れねえ。このまま自分の部屋に戻ってくれ」
 この台詞を聞いて、晶の心は却って落ち着いた。やはりデイヴィは晶が思っていたとおりのーーーーいや、それ以上の人だ。
 実は、晶は“初めて”だった。彼はどちらかというと恋愛には淡泊で、誰にも友情以上の『好き』という感情を抱いたことはなかった。
 だから、デイヴィに対して抱いたこの感情も“初めて”ならば、こうやって彼の許に来てこれからすることも“初めて”だった。当然“初めて”ずくしなこの状況に戸惑いがあったのだが、今や迷いはすっかり消え去った。なのできっぱりと、
「そんな簡単な気持ちで、こんなこと出来ない。それだったら、最初から来たりしない」
 デイヴィを見つめて言い切った。
「…じゃあ、いいんだな」
 晶はもう一度頷いた。さっきより強い動作だった。
 デイヴィは晶の傍まで行くと、彼がガラス細工でもあるかのように、そっと腕の中にくるみ込んだ。晶は一瞬身を硬くしたが、すぐに力を抜いた。心地よい胸苦しさを全身に感じながら、デイヴィは腕に力を込めた。こんな気持ちは生まれて初めてだ。その戸惑いさえ、喜びに変わっていく。
 デイヴィは晶の顎を持ち上げた。彼の不思議な紅茶色の瞳に、紛れもないある感情が浮かんでいる。きっと、デイヴィの瞳の中にもそれがあるはずだ。
 デイヴィは顔を寄せた。晶が瞼を閉じる。想いの総てを込めて、デイヴィは晶の唇にキスをした。


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