レモテスト。古の都。
 ブルザム教徒が溢れるこの街で唯一エルベセム本拠地だけが、光の軍勢にとって心安らぐ場所のはずだ。
 だが、光の使徒シンビオスの顔は暗かった。彼は中庭の階段に腰掛け、メディオンが降りていった遺跡の入り口を眺めていた。薄紅色の唇から白い息が長々と吐き出されて、無意識のうちに自分が溜息を漏らした、と気付いた彼は苦笑を浮かべた。
 アスピアでメディオンと再会してからというもの、シンビオスは自分の心に違和感を感じていた。かの地では軽く言葉を交わしただけで慌ただしく進軍したから、そうはっきりとは気付かなかったのだが…。この北の都で再びメディオンを見たとき、シンビオスはなんだか奇妙な感覚に襲われたのだ。
 あの、遠い空を映したようなメディオンの瞳が自分を見、優しい声が自分の名を呼ぶ。そのたびにシンビオスはいたたまれなくなる。心が体から浮遊してしまいそうな感じ、というのか。
 アスピアでのことを気にしているのだろうか、とシンビオスは自分に問うてみた。そんなはずは…ない。どうしてメディオンがあんなことをしたのか知った今では、自分の存在が彼を苦しめたのかと逆に心を痛めたほどだ。それに、あのときには自分もかなりむごいことを彼に言ってしまった。それでおあいこ、というのは違うかもしれないが、とにかく気にしてはいないはずだ。
 思い余ったシンビオスは、ダンタレスに相談してみた。忠実なケンタウロスは一瞬奇妙な表情を浮かべた。が、シンビオスがそれを疑問に思うよりも先に、ダンタレスは口を開いた。
「それは…、やはりアスピアでのことが気にかかってらっしゃるのでしょう、シンビオス様」
「ダンタレス。でも私は…」
「仰りたいことはよく判っております。ですが、シンビオス様。人の心とは不思議なもので。本人も気付かない奥底に、どうしようもない想いというものがあるのですよ」
「…私が心の奥底で、メディオン王子を否定している、と?」
「…まあ、そういうようなことでしょうな」
 いつになく端切れの悪いダンタレスを、シンビオスは珍しく苛立たしげに見上げた。
「そんなはずはない!」
 ダンタレスは困ったように顔を伏せてしまった。あるいは、シンビオスらしくない語気の荒さに驚いたのかもしれなかった。
「…ごめん。…ありがとう、ダンタレス。相談に乗ってくれて」
 シンビオスはいつもの冷静な口調に戻って、
「後は、自分でなんとかするよ」
 ダンタレスの返事も待たずに部屋をでた。メディオンの所に行くつもりだった。
 自分の気持ちがダンタレスの言う通りだとしても、メディオンにそれを悟らせてはならない。きっと、あの優しい王子は気に病むに違いないからだ。自分が本当に気にしていないということを、そして、あのとき彼を疑ってしまったのが本心ではないということを、メディオンに判らせなくてはならない。
 そうして、シンビオスはメディオンの傍に常にいることで、それを表わそうとした。元々言葉の少ない彼のこと。はっきり口に出さずとも気持ちは伝わると信じていた。その甲斐あってか、メディオンも嬉しそうにシンビオスに話しかけ、微笑んでくれる。
 しかし、やはり…何か変だ。メディオンに話しかけられ微笑まれる度に、シンビオスの胸は疼く。一体、何が違うのだろう? 自分は何か間違っているのか。
 今日も、遺跡に潜るメディオン軍の見送りにやってきて、メディオンに「気をつけてくださいね」と言葉をかけて送りだして…。無事に戻ってくる姿を見るまでは落ち着かない。こんなに心配するほどなのに、どうしてもシンビオスはメディオンに対して、他の誰か----たとえばダンタレスやジュリアン----に接するのと同じような気持ちになれないでいる。
「…はぁ…」
 再び溜息をついたシンビオスの背中に、
「悩みごとか?」
 男らしい声がかかって、その主がシンビオスの横に腰をおろした。
「…ジュリアン」
「辛気臭えツラしてんな」
 ジュリアンは悪戯っぽいアイスブルーの瞳をシンビオスに向けた。
「おまえ、よくもまあ、そんなにいつもいつも悩めるよな」
「いつも悩んでなんてない」
 不満げに唇を歪めるシンビオスに、ジュリアンはにやりと笑ってみせた。
「まあ、領主様だもんな。あんまりお気楽でも困るか」
 と冗談ぽく言って、タバコに火を点ける。
「…喫っていいか?」
「もう喫ってるじゃないか」
 シンビオスは笑った。ジュリアンと話すと、心が軽くなる気がする。傭兵の彼はあらゆるしがらみに縛られないから、シンビオスにも対等に接してくれる。『コムラードの息子』としていつもみなに遠慮がちにされるシンビオスにとってはありがたい存在だった。
「今度はどんな悩みだ?」
 ジュリアンは煙を吐き出しながら、気楽な調子で訊いてくる。シンビオスは自然に白状した。
「メディオン王子のことで…」
「あん? セクハラでもされたか?」
「は? …何言ってるんだよ。王子がそんなことするはずないだろう。紳士なんだから」
「っていうか、押しが弱いんだろ」
「そんなこと…。ねえ、真面目に聴いてくれないかな」
「俺はいつだって真面目だぜ?」
「どうだか。…とにかく、変なんだよ」
 シンビオスは一切を打ち明けた。その切々たる告白は、ちょうどタバコ一本分。
「----へえ。ダンタレスはそんなこと言ったのか」
 腰掛けた石段にぎゅっとタバコを押し付けて、ジュリアンは呟いた。
「うん。だけど、やっぱり違うと思うんだ」
 シンビオスは膝を抱えて顎を載せ、遺跡の入り口を見つめている。ひどく幼く頼り無げに見える。
「そりゃあ、違うだろうな」
 ジュリアンの訳知り顔の言葉に、シンビオスは彼に顔を向けた。
「判ったの?」
「勿論」
「なに? 教えて」
 深い緑の瞳が真剣にジュリアンを見つめる。その視線を楽しそうに受け止めながら、ジュリアンは答えた。
「それは、恋だ」
「こい?」
 シンビオスは頬に手を当ててあどけなく首を傾げると、
「…吸い物が美味しいよね」
 考えるより先にジュリアンは手がでていた。
 ----ごんっ!
「ベタなボケ、かましてんじゃねえっ!」
「…何も拳骨で殴らなくても〜」
 シンビオスは頭を摩りつつ、長い睫の下から瞳を潤ませて、斜交いにジュリアンを見上げる。
「その『こい』じゃなくて! …つまり、おまえは王子が好きなんだよ!」
 ジュリアンは苛立たしげに叫んだ。
「…え? そりゃあ、好きだけど」
 当たり前のことをなんでこんな風に怒るように言うのか、シンビオスには理解できない。王子のことは好きだ。友人なのだから当然だ。
 シンビオスの心を読んだのだろう。ジュリアンは呆れたように首を振った。
「…つくづく鈍い奴だな、おまえは。俺の言ってんのはそういう意味じゃねえ」
「どういう意味?」
 ここまで鈍いと、短気なジュリアンは腹が立つ。シンビオスの可愛い顔でさえ救いにはならない。それでもなんとか辛抱強く、
「つまり、こういうことだ」
 シンビオスの耳にあることを囁いた。この方が、普通に告げるより効果的だと思ったのだ。案の定、シンビオスはみるみる真っ赤になった。
「…な…っ…。ま、まさか…」
 呆然とジュリアンを見る。
「俺の豊富な経験からいって、まず間違いねえ」
 ジュリアンが重々しく頷くと、シンビオスは頭を抱えた。
「…どうしよう…」
「どうしよう、って、男らしく王子に言ったらどうだ?」
「そんなこと! できるはずないだろう」
 シンビオスは鋭くジュリアンを睨んで、
「君、男に告白されて嬉しい?」
「ごめんだな」
 ジュリアンは冷たく答えたが、心の中では『相手にもよるけど』とこっそり付け加える。
「だよね…。----ああ、王子に軽蔑される…」
 却って喜ぶんじゃねえか? とは、ジュリアンは言わなかったので、シンビオスは果てしなく落ち込んだ様子で、ふらふらと立ち上がった。
「…どこ行くんだ?」
「部屋。独りで考えてみる」
 シンビオスは夢遊病者のように、それでも律儀に、
「ありがとう、ジュリアン」
 と礼を言って、建物の中に消えていった。
 ジュリアンは再びタバコに火を点けて、含み笑いを漏らした。
「…まったく、育ちがいい分単純だよな」
 ジュリアンの一言であっさり信じたのは、シンビオス自身薄々自分の気持ちに気付いていたからだろう。しかしあの生真面目さが、それから目を逸らさせていた。
 ----これで、シンビオスはメディオン王子を避けるだろう。王子もあの通りの奴だし、アスピアでのことがあるから強い態度に出られねえはずだ。…ダンタレスはやり方を間違えたんだ。
 誰よりも長くシンビオスの傍にいて、彼のことを理解しているはずのダンタレス。シンビオスとメディオンを遠ざけようとして言ったことが、却って彼らを近付けてしまった。普段のダンタレスなら間違えなかっただろうが。
 ----恋は盲目、ってやつか。
 ジュリアンは声を出さずに笑った。俺はそんなへまはしねえ。後は、せいぜい優しくシンビオスを慰めてやるだけさ。
 こんな単純な手で巧くいくと思うほど、ジュリアンは浅はかではない。巧くいけば儲けもの、失敗してもくよくよするほどシンビオスに執着しているわけでもない。ジュリアンにとっては退屈しのぎのゲームだった。
 ----種は蒔いた。どんな花が咲くか楽しみだ。
 ジュリアンは先に潰した吸殻を拾い上げて自分の痕跡を消すと、咥えタバコでその場を立ち去った。

 ジュリアンの予想通り、シンビオスはメディオンを避けた。顔を合わせると持て余すこの感情が暴走しそうで恐かった。訪ねて来られると逃げ場がないので、なるべく自分の部屋にいないようにした。ダンタレスやジュリアンの協力を得て、大半は彼らの部屋に入り浸った。もしかしたら王子が自分を捜し当てるかもしれないと、幾ばくかの期待を込めて恐れていたのだが、ただの杞憂に終わった。こんな態度を取る自分に呆れたのだろう。きっと嫌われたに違いない。だけど、王子に対する邪な想いを告げてもやっぱり嫌われるには変わりないのだから、とシンビオスは苦々しく考えた。

 決戦前夜。
 シンビオスはやはりジュリアンの部屋にいた。ジュリアンが振る楽しい話題にも微かに微笑むだけで、おとなしく紅茶を飲んでいる。
「…大丈夫か、シンビオス。そんなんで、明日ちゃんと戦えるのかよ」
 ジュリアンは優しく声をかけた。自分が仕組んだこととはいえ、ここまで憔悴されるとさすがの彼も胸が痛む。だが、少しばかり下心が含まれているのは言うまでもない。
 シンビオスはそれでも、健気に笑顔を見せた。
「心配ない。務めは果たすよ」
「だといいけどな」
 ジュリアンはにやりと笑って、
「…なあ、元気付けてやろうか?」
「え?」
 子猫のように目を真ん丸くするシンビオスに、ジュリアンは手を伸ばしたが。
 ----コンコンコン。
 背後で控えめなノックが響いた。邪魔が入って面白くないジュリアンは軽く舌打ちすると、誰何もせずに、
「遠慮はいらねえぜ」
 無愛想に応えた。
 静かにドアが開く。
「----!」
 シンビオスが息を呑む。その様子に、ジュリアンも誰が来たのか気付いた。…少し遅すぎたが。
「…王子、どうしたんだ? こんな時間に」
 ジュリアンは座ったまま、顔だけを後ろに向けて訊いた。
「シンビオスに話がある」
 メディオンは妙に静かな口調で言った。
「ジュリアン、悪いが外してくれないか」
「おい、王子…」
 言いかけて、ジュリアンは口を噤んだ。メディオンの視線は有無を言わせぬほど強いものだった。
 ジュリアンは肩を竦めて、
「…手短かに頼むぜ」
 懇願するように自分を見るシンビオスを敢えて無視して、部屋を出た。
 シンビオスは顔を伏せて、膝の上で手をぎゅっと握り合わせた。何日も合わなかった分だけ、自分の中の想いが膨らむようで恐い。
「…シンビオス」
 メディオンがそっと名を呼んだ。
「何か言ってくれないか」
「……………」
 一体何を言えばいいのだろう。口を開けば取り返しのつかないことを口走りそうだ。シンビオスは唇を噛み締めた。
「ここのところ、私を避けていたね? どうしてだい?」
 メディオンの声はあくまでも優しい。
「…さ、避けてなんか…」
 シンビオスは掠れた声で、やっとそれだけ言った。
「そうかな? いつ訪ねても部屋にいないし、食事の時間もずらしていただろう。ダンタレス殿やジュリアンに訊いても、知らないと言うばかりだった。…君が二人にそう言うように頼んだんじゃないのかい?」
 こうやって他人の口から聞かされると、自分がどんなにひどいことをしたのか改めて思い知らされる。王子が怒るのも無理はない。シンビオスはこのまま消えてしまいたかった。
 永遠とも思える沈黙が部屋を満たす。居心地の悪い空気は、メディオンの微かな溜息によって乱された。
「----すまない。君が私を嫌うのは当然だ。父の命令とはいえ、あんなことをしてしまったのだから。…君が許してくれたものと思っていたのだが、私の勘違いだったようだ」
 優しく、しかし哀しみを込めてメディオンが言い放った言葉を聴いたとき、シンビオスの中で何かが弾けた。かれは椅子が倒れるのも気にせずに立ち上がると、ドアに向かったメディオンのマントを掴んで引いた。
「待って! …ごめんなさい! 違うんです! こんな風に貴男を傷つけるつもりじゃなかったんです…!」
 止め処もなく溢れる涙を拭うのも忘れて、シンビオスは叫んだ。
「…シンビオス」
 メディオンがシンビオスの肩を抱いて、大きな手が頭を撫でる。それに勇気づけられて、シンビオスはとうとう胸の内を呟いた。
「----好きなんです…。でも、どうしても言えなかったんです…。嫌われるのが恐くて…」
「…随分勝手だな、君は」
 頭の上でメディオンが言った。やけに平坦な口調だった。
「ごめんなさい…」
 シンビオスはメディオンの肩に顔を押し付けて呻いた。
 メディオンは再び息を吐いて、
「親しく話しかけてきてくれたから、許してくれたのだと安心していたんだ。だけど、この頃は顔を合わせてもくれなかった。やっぱり駄目だったかと思っていたら、今度は突然好きだと言う」
「…ごめんなさい…」
「謝らなくていい、シンビオス。それより教えてくれないか? 結局、君は私が好きなのか嫌いなのか」
 メディオンの声は笑いを含んでいるようにも聞こえた。苦しい告白を既に済ませて観念したシンビオスは、拳で涙を拭うと、
「…最初の方です」
 微かに呟く。だが、メディオンは容赦してくれなかった。頭を撫でていた手が頬に滑ってきて、シンビオスの顔を仰向かせた。
「聞こえないよ、シンビオス」
 空の瞳が見下ろしてくる。目眩を感じて、シンビオスは目を閉じた。
「…好き、です」
「私も君が好きだ」
 言葉と共に強く抱き竦められ、唇が降りてきた。微かに開いたシンビオスの唇から熱い舌が入り込んで内部を蹂躙してくる。落下感に襲われて、シンビオスはメディオンの背中に腕を廻してしがみついた。密接した胸から鼓動が響いて溶け合う。心地よい胸苦しさに全身を覆われてシンビオスが限界を感じたとき、やっとメディオンは解放してくれた。
 息をつくシンビオスの頭を、メディオンは再び抱き寄せて、
「これで許したわけではないよ?」
 熱い吐息と共に耳許に囁く。その意味を理解する理性は、先程の蕩けるようなキスによってシンビオスの中から流れ出してしまっている。ただ、その声の甘やかさに、シンビオスは震えた。
 メディオンは宥めるように何度もシンビオスの髪を梳いて、
「今はやらなければいけないことが残っている。総てはその後だ。…いいね?」
「はい…、メディオン王子」
 シンビオスはただ反射的に頷いていた。

 出てくる気配を感じて、ジュリアンはドアから離れた。頭の後ろで腕を組んで、退屈げにぶらぶらとその辺を歩いていると、すぐにメディオンとシンビオスが出てきた。そこだけ空気が薔薇色に見えるのは、ジュリアンのひがみだろうか。
「話は済んだのか?」
 面白くも無さそうな声で、ジュリアンは訊いた。
「ああ。すっかり済んだ。…悪かったね、部屋から追い出してしまって」
 メディオンはいつもと変わらず穏やかだ。しかし、その傍らのシンビオスときたら。さっきまでのお悩みの様子はどこへやら、だ。ジュリアンは内心苦笑した。
「明日は頼んだぜ」
 ジュリアンはことのほか大きな声で言って、シンビオスの肩を叩いた。
「え? …ああ、聞こえてるよ」
 シンビオスはやっと正気に戻った。目を瞬いて、
「巧くやるよ。心配しないで」
 笑顔と共に見上げてきた瞳は、『君のアドヴァイスのお陰だ』と感謝を告げていた。ジュリアンはもう一度その細い肩を叩いて、
「じゃあ、今日はもうさっさと寝ろ。明日はいよいよ決戦だ」
「きっと、君のために道を開いてみせる。君はジェーンを救い出し、ブルザムを倒してくれ」
 メディオンが力強く言う。
「任せとけ」
 ジュリアンは不適な笑みをみせた。
 肩を並べて去って行く二人の姿を見送ってから、ジュリアンは自分の部屋に戻った。倒れたままの椅子を起こすと、その背もたれを指が白くなるほど強く掴む。予想した以上に心が痛むのを、彼は信じられない思いで感じていた。
 ----少しは本気だったってことか? …あのボーヤに?
 ジュリアンは喉を震わせてひとしきり笑い、溜息をついた。それからまた笑った。自分でかけた罠に自分が掴まるなんて傑作だ!
 ----まあいい。こんなこともあるさ。頼りねえ三男坊だと思ってたが、やるときはやる奴だったんだな、王子は。見直したぜ。…今回は俺の負けだ。
 ジュリアンはタバコに火を点けた。このやるせなさを、明日のブルザム戦にぶつけてやる。
 決意を胸に、ジュリアンはほろ苦い煙を吐き出した。


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