寝る前に紅茶を飲んだのが、間違いの元だった。
 しかも、2杯も飲んでしまった。
 ベッドに入ったシンビオスは、一向に訪れない眠りをじっと待っていた。しんとした部屋に、時計の音だけがやけに耳に付く。
 シンビオスはベッドの中で右を向いたり左を向いたり、もぞもぞと寝返りばかり打った。眠れない、眠れないと神経質になり出すと、却って目が冴えてきてしまう。
 こんなに眠れないのは紅茶のせいでもあり、他の理由もあった。
 明日は休みなので、アスピアに滞在中のメディオンが、フラガルドまで遊びに来てくれる。遠征が終わってから会うのは初めてだ。それゆえ、シンビオスは妙に緊張し、また興奮もしていた。
 メディオンが来ると決まった日からシンビオスはそわそわしだし、とうとう明日に迫った今日は、朝からずっと落ち着かなかった。
 そんな主の様子を見たマスキュリンが、
「シンビオス様、まるで恋人を待ってるみたいですね」
 と言ったものである。
 シンビオスは、自分でも不思議に思うぐらいうろたえた。
「こ、恋人、って、マスキュリン、なんでそんな別に私は…」
「ほら、シンビオス様も覚えてらっしゃるでしょう? プロフォンド将軍のこと。帰りの船で、すごく浮かれてたでしょう。----あのときの将軍と、今のシンビオス様の様子がそっくりなんですもの」
 マスキュリンは楽しそうに笑う。
「だ、だけど、恋人って…」
 真っ赤になってしまったシンビオスをフォローするように、
「シンビオス様にとっては、メディオン王子はそのくらい大切なご親友、ってことなんですわ、きっと」
 グレイスが優しく言ったのだが…。
 一度意識してしまうと、どうしても頭から離れない。
 ----そりゃあ、王子のことは好きだけど…。
 同性のシンビオスの目から見ても、確かにメディオンは素敵だった。優しいし、品があるし、スマートだし、知識も豊富だ。それに何より、彼には何度も助けてもらっている。シンビオスの中には、いつも彼に対する感謝の想いがあった。
 ----でも、恋人っていったって、ぼくも王子も男だし…。
 マスキュリンの考えすぎだ、と無理矢理結論付けて、シンビオスは目を閉じた。----眠りの神はまったく訪れてこない。いったい、どこでさぼっているのだろうか。
 終いには溜め息をつきつつ、シンビオスは起きあがった。ベッドサイドの明かりを付けて、買ったばかりの本を手に取る。
 買ったものの忙しくて、まだ1ページも開いていない本だった。どうせ眠れないなら、読んでしまおう。そのうちに眠くなるかもしれない。
 しかし、これも失策であった。
 その本は、とても面白かったのである。
 続きが気になって、やめるにやめられない。どんどんページを捲っていくうち、結局は最後まで読んでしまった。ふと気が付けば、明けるのが遅い冬の夜は時間の彼方に去ってしまい、白々と空が明るくなっている。
 ----しまった! 上・下巻の本なんて読むんじゃなかった。
 いささかピントのずれた後悔をしたシンビオスは、結局一睡もしないまま友人を迎えることになってしまった。

 それでも朝のうちは、全然眠くならなかった。
 朝食を採った後、シンビオスは自室の掃除をすることにした。
 とはいえ、そこは几帳面な彼のこと。改めて掃除するまでもなく部屋は綺麗だったのだが、シンビオスは妥協しなかった。納得のいくまで、部屋の隅々を磨き上げる。グレイスが用意してくれた花を飾ったり、マスキュリンが作ってくれたお茶菓子を準備したりしているうちに、メディオンの来る時間が迫ってきた。
 シンビオスは慌てて上等な服に着替え、玄関まで迎えにでた。いつの間にか、ダンタレスが背後に控えている。
 待つほどもなく、メディオンとキャンベルが城門をくぐって来た。
「メディオン王子、キャンベル殿、ようこそいらっしゃいませ」
 シンビオスは頭を下げて出迎えた。
「お招きありがとう、シンビオス殿」
 メディオンが微笑む。いつもと同じ笑顔なのに、シンビオスの胸はなぜだか異常なほど高鳴った。
 ----ほら、マスキュリンが変なことを言ったから、妙に意識しちゃうじゃないか。
 シンビオスは八つ当たり気味にそんなことを考えつつ、誰にも悟られないようにさり気ない様子を装った。
 お客様を、まずは食堂に案内する。
 昼食の席にはダンタレスとキャンベルも一緒にいたので、シンビオスもなんとかいつも通りの態度を取ることができた。
 問題はこの後だ。
 食後のお茶を、シンビオスの部屋で飲むことになっているのだ。----メディオンと二人っきりで。
 意識しちゃいけない、と思うと、却って意識してしまうものである。
 シンビオスは依然緊張したまま、メディオンとお茶を飲んでいた。
 淀みなく話すメディオンの穏やかな声、楽しそうな笑顔、そして、時折見せる真面目な表情----つくづく、素敵だと思う。
 それでも、お茶を飲んでいるうちに、シンビオスの気分はだんだん落ち着いてきた。落ち着いてきたのだが、今度はそれが少しいきすぎたようだ。
 故事に曰く、腹の皮が突っ張れば目の皮がたるむ、という。
 昨夜一睡もしていないシンビオスは、まずいことに今になって猛烈に眠くなってきた。もはや、メディオンの言葉に相槌を打つのもままならない。彼の爽やかな声が、子守歌にさえ聞こえてくる。
 とうとう、メディオンが不安そうに、
「シンビオス殿。私の話は退屈かい?」
 と訊いてきた。
「…い、いえ…」
 シンビオスは、とにかくこの眠気を何とかしようと思った。それにしても、ゆうべは全然来なかったくせなんで今頃、と、眠りの神モルフェウスを恨んだりする。眠くて思考が支離滅裂になっているのだ。
「…あ、そうだ。紅茶をもう一杯淹れますね…」
 茫洋と言って、シンビオスは立ち上がった。お湯を沸かすためだ。とにかく動けば、そして紅茶を飲めば、ゆうべのように眠気も覚めるだろう、と思ったのだ。
「だ、大丈夫かい…?」
 覚束ない様子のシンビオスを心配してか、メディオンも立ち上がった。
「ひょっとして、具合が悪かったのかな? そんなときに来てしまって申し訳ない」
「い、いえ、具合が悪いわけじゃ…」
 シンビオスは慌てて弁解した。焦ったせいか、椅子の脚に足を引っかけてしまう。転びかけたところを、メディオンが咄嗟に受け止めてくれた。
「す、すいません…」
「いや。…気をつけてね」
 耳元で、メディオンの声がする。彼の腕の中はなんて心地いいんだろう、とシンビオスは思った。
 ----駄目だ…。もう限界かも…。
 シンビオスは、メディオンにしがみついた。
「…王子、ごめんなさい…」
「…え?」
 メディオンが訝しげに訊き返してくる。
「ぼく…、すごく…眠くて…」
「えっ?!」
「ごめん…なさ…ぃ…」
 最後まで言い終わらないうちに、シンビオスはすとん、と眠りに落ちた。
「ちょ、ちょっと、シンビオス…殿…」
 メディオンは困ったように声をかけた後、力が抜けて重くなったシンビオスの体を支えて、柔らかいソファに座らせた。自分も隣に腰掛け、シンビオスの頭を肩にもたれさせる。
 ----まったく、人の気も知らないで…。
 気持ちよさそうに眠っているシンビオスの顔を眺めながら、メディオンは小さく溜め息を逃がした。
 ----こんな無邪気な顔で寝られたら、何もできないじゃないか。
 では、起きているときに何かできるかというと、全然そんなことはないのだ。結局、この想いを胸に隠したまま、友人としてシンビオスと対峙してしまう。
 まったく勇気のない自分に再び嘆息しながら、メディオンはシンビオスのふっくらとした唇に、指先でそっと触れた。


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