共和国にも桜の季節がやって来た。 あれだけ積っていた雪も殆ど融けて、陽射しも大分力強くなってきた。 白樺やポプラの緑も濃くなりつつあって、桜の薄紅色とよく映える。 雪の銀世界から、雪融け時期のくすんだ灰色と茶色の世界を経て、ようやく活き活きとした色が付きはじめた。 あの長く厳しい冬があるからこそ、その後に訪れる春をみな熱望する。 「この世に春がなかったら、生きる甲斐がないでしょうね」 とマスキュリンが言ったが、大袈裟でもなんでもなく、春がなければ本当につまらない世の中だろう。 さて、北の地では春はまだまだである。冬に飽きたからか、約束通りジュリアンがフラガルドにやって来た。今回は一人でではなく、ジェーンとアーサーも一緒だ。 アーサーは、ここより東の世界で有名な傭兵だったが、いつの間にかこの北の地に来ていた。10年前、彼はイボリューションの儀式でイノベータになり、劣性ヒュードルによる千年王国復興を阻止していた。そのときにまだ子供だったジュリアンと会っている。 ジュリアンはどうやらアーサーに憧れていた節があるらしい。北の地に行ったのも、半分は彼に会うためだとかいう噂もあるし、ジュリアンも否定していなかった。 ともかく、そういう人物が来るというので、シンビオスは色々気を遣って準備をしていたのだが。 アーサーは、拍子抜けするくらい気さくな人物だった。若く見えるが、これは未だにスピリットを保有しているからで、彼はイノベータのままだったのだ。つまり、不老不死、である。 ともかく、アーサーとは、初対面の相手にいきなり、 「君がシンビオス君か。結構華奢だね。もっと鍛えた方がいいよ」 などと言うようなタイプの人だった。 シンビオスが曖昧に、はあ、とか返事をしていると、 「ところで、ここには忍者がいるんだって?」 続けて質問してきた。 「え、ええ。いますけど」 「ちょっと、会わせてくれないか?」 「いいですけど」 なんでだろう、と思いつつ、シンビオスは育ちがいいので顔には出さなかった。 「…ハガネ」 普通の声で呼ぶ。ハガネはすぐにどこからか現れた。 「お呼びですか」 「うん。この人が君に会いたいって…」 シンビオスが説明している間にも、アーサーはハガネを、頭の天辺からつま先まで眺め廻している。 さすがにハガネも動揺して、助けを求めるようにシンビオスをちらちらと見た。しかし、シンビオスにしてもどうしたものか判らず、首を傾げるしかできなかった。 「…うん、よく判ったよ。ありがとう」 何がよく判って、なんで礼を言われるのか謎だったが、どういうわけか訊いてはいけない気が、シンビオスもハガネもしたので、黙って頷いた。 「…えーっと、じゃあ、私は職務がありますので、これで失礼します。アーサー殿、どうぞご自分の家のようにお寛ぎください」 「ありがとう、シンビオス君」 微笑むアーサーにお辞儀をして、シンビオスは執務室に行った。 こちらではジュリアンが、メディオンやダンタレス、キャンベルと談笑している。 「ジュリアン、ジェーンはどうしたの?」 「ん? マスキュリンとかグレイスと一緒だろ」 「さっき、花見に行くとか言って出て行ったようですよ」 キャンベルが答える。 「そうですか」 「…シンビオス、どうかしたのかい?」 妙に覇気のないシンビオスの様子に気付いて、メディオンが訊ねた。 「そういえば、お顔の色がすぐれませんよ? 季節の変わり目で、風邪でもお召しになりましたか?」 ダンタレスも心配そうに言う。 「…感染すなよ」 薄情なことを口にしたのはジュリアンだ。以前ここに来たときに寝込んだので、もう真っ平なのだろう。 「いや、別に風邪じゃないんだけど」 シンビオスは軽く頭を振って、 「どうも気分がスッキリしないんだよね」 「いけませんな。今日は休みますか、シンビオス様」 ダンタレスの言葉に、 「いや、大丈夫だよ」 シンビオスは微笑んでみせた。 ジュリアンはシンビオスを見て、 「…ひょっとして、アーサーのことか?」 と、思いも寄らないことを言った。 「え?」 「いや、俺もなんだか気になってんだよな。アーサーと話してると、変な違和感を感じるんだ。なんて言うのかな…」 ジュリアンは言葉を探しているようだ。難しい顔で考えながら、 「…そう、何か上の空っていうか、魂がどっかに行っちまってるっていうか」 「無関心っていうか」 シンビオスも呟いた。さっきの会話でも、アーサーはシンビオスのことを「華奢だ」だの「体を鍛えた方が」だの言ったが、どうでもいいような口調だった。もしシンビオスが、ダンタレスやキャンベルのような逞しい体つきだったら、同じ口調で、「あまり若い内に体を鍛えない方がいい」とでも言っただろう。 ただ、『忍者』のことを訊ねたときだけ、やけに真剣だった。だがそれもそのときだけで、礼を言ったときには無関心に戻っていた。 「そうなんだよな。…10年前はあんな風じゃなかったのに」 言いながら、ジュリアンは内ポケットを探っていたが、ハッとしたように手を戻した。 「ジュリアン、禁煙してるのか?」 ダンタレスが揶揄するように訊く。 「ジェーンに言われたんだろう」 「女性は煙草の煙を嫌うからな」 キャンベルも人の悪そうな笑みを浮かべている。 「…『敷かれてる』とか思ってんだろ、おまえら」 ジュリアンは、一同の顔を睨み廻しながら、 「残念ながらそうじゃねえんだ。----これもアーサーのせいさ」 「彼は嫌煙家なのか?」 メディオンの質問に、ジュリアンは首を振った。 「いや、自分でも吸ってる。だけどな、俺が吸ってると、妙な目で見るんだよ」 「妙な目って?」 「なんか、俺を通り越して、別の誰かを見てるみたいな。こっちもいたたまれなくてさ、アーサーの前じゃ吸わないようにしてるんだ。でも、持ってるとつい吸いたくなるし」 「で、持たないようにしてるのか」 「そういうこと。----シンビオス、煙草ないか?」 「私は吸わないから。応接室に来客用のがあるよ」 「貰っていいか?」 「勿論。でも、吸い過ぎないようにね」 「ジェーンみたいなこと言うな」 ジュリアンは苦笑しつつ出て行った。 ----やっぱり、結構敷かれてる…? と、みな思ったが、口には出さなかった。 「----それにしても、気になるな。そのアーサー殿の態度」 メディオンが言った。 「話を聴いていると、グラシア様のことを思い出しませんか、メディオン様」 キャンベルが腕組して、 「あの方も、初めて出会った頃には、なんというか無気力でしたなぁ」 「そういえば、いつも暗い表情だったね」 「後はメディオン様、貴男も王宮に来たばかりの頃はそうでしたよ」 「そうかもしれない」 メディオンは懐かしそうに微笑んだ。 「でも、私がお会いしたときには、メディオン殿もグラシア様も、そう無気力な感じとはお見受けしませんでしたが」 大きい目を瞬かせるシンビオスに、キャンベルは笑いかけた。 「貴男とお会いしたときには、メディオン様もグラシア様も、本当に大切なものを見つけていたからですよ。そうすれば自然とやる気も出ます」 ここでキャンベルは片目を閉じて、 「グラシア様はともかく、メディオン様の大切なものは何か、シンビオス殿、後で訊ねてごらんなさい」 「はあ」 「…キャンベル」 メディオンは苦い笑いを浮かべて、 「私のことより、アーサー殿のことだ。おまえの理論からいくと、彼は大事なものを見つけていないことになる」 「見つけたものの、それを失ってしまったとも考えられますな」 ダンタレスが言葉を繋いだ。 「どちらにしろ、辛いことでしょう」 なんのため、または誰のために生きているのか、見定められないまま日々を過ごすのはやり切れないだろう。或いは、一度手にしたものを失ってしまったら。 暗く沈んだ雰囲気を振り払うように、 「----さあ、今はともかく、我々のすべきことをしよう」 シンビオスは力強く言った。 「仕事は待ってくれないからね」 「折角お客様がいらしてるんだから、早く終わらせてしまおう」 メディオンも頷いて、みな目の前の書類に取り組みはじめた。 決裁の判を押しながら、 ----だけど、どうして『忍者』なんだろう。 シンビオスは考えた。 ----案外、その辺に答があるのかも。 後で本人に訊いてみようと思い付いて、シンビオスはいつもよりもハイペースで仕事をこなしていった。 午後のお茶の時間には、仕事は終わってしまっていた。執務室でお茶を飲んだ後、シンビオスは、裏庭にいたアーサーの所に行った。 裏庭に植えられた桜はまだ殆どが5分咲きだったが、一本だけ既に満開の桜があって、風に揺られてはらはらと落ちている。アーサーはまだ咲き切っていない桜の根元に座って、花びらが散る様子を眺めている。 声をかけるのも憚られて、シンビオスは少し離れた所で立ち止まった。後にしようかと迷っていると、 「----シンビオス君、何か用か?」 気配を感じたのだろう。アーサーから訊いてきた。 「…ちょっとお話があって」 躊躇いがちなシンビオスの言葉に、アーサーは彼を見上げた。 「何かな? ----ああ、その前に、その桜の下に立ってみてくれるか?」 満開の桜を指す。 「はあ」 シンビオスは戸惑いながらも、断る理由もないので従った。 「思った通りだ。君は桜が似合うね」 アーサーは目を細めてシンビオスを眺めた。 「その鳶色の髪、緑の瞳、紅い唇。そうしていると、桜の精のようだ」 「はあ」 「今にも消えてしまいそうな、儚げな危うさを感じる」 「はあ」 「まるで幻に触れているようだ。この世のものとは思えない程魅力的だよ、君は」 「はあ」 「…もっと違うリアクションをしてほしいんだが」 「はあ。…あの…」 シンビオスが言いかけたとき、 「…アーサー!」 「シンビオス!」 それぞれに声がかかって、その主達が凄い勢いで駆けてきた。 「おい! 何やってんだ、アーサー! ちょっと来い!」 ジュリアンがアーサーを引っ張って、城の中に連れて行く。 「シンビオス、君もちょっとおいで」 メディオンも、シンビオスの肩を押して、建物から死角になる木陰に入った。 「シンビオス、君はあのまま彼に口説かれるつもりだったのか?」 「は? 口説く? 彼がぼくを?」 シンビオスはきょとんとして、それから、 「----まさか! 貴男の考え過ぎですよ、メディオン」 と笑い出した。 メディオンはため息をついて、 「君はどうやら、自分の魅力を過小評価し過ぎているようだね」 その口調に、シンビオスは笑うのをやめた。 「…メディオン、もしかして、怒ってます?」 「私は君が思ってる程心の広い人間じゃないんだ。殊に、君に関しては」 メディオンは苦い顔で、 「それに、君は隙が多すぎる。少しは気を付けてほしいものだな」 畳み掛けるようにそれだけ言うと、メディオンは踵を返して行ってしまった。 「…そんなつもりじゃなかったんだけどな」 シンビオスは呟いた。 「それに、口説くっていったって…」 アーサーはシンビオスを見ていなかったのだ。シンビオスを通して違う誰かを見ていた。煙草を吸うジュリアンのときと同じだ。彼は「いたたまれない」と言っていた。シンビオスもそう感じた。あの瞳----あんなに無気力で、哀しみを湛えた瞳は見たことがない。思いの外、アーサーの苦悩は深いのだろう。 「…もう。それを説明する前に行っちゃうんだもん」 シンビオスは頭を掻いた。今はまだメディオンも頭に血が昇っているだろうから、暫く待ってから謝った方がいい。そのときに、ちゃんと説明しないと。 「厄介な人だな、まったく」 と言って、シンビオスは笑った。 一方、ジュリアンとアーサーの方は。 「…あんた、一体どうしちまったんだよ」 ジュリアンは寧ろ寂しそうにアーサーを見た。 「昔はそうじゃなかったはずだ。もっと、何もかもに一生懸命だっただろ」 「…ジュリアン、10年も経てば人も変わるさ」 アーサーはくす、と笑って、 「君だって、あのときは随分可愛らしいボーヤだったね。今じゃ違うけど」 「…何があったんだ?」 「君には解らないよ、ジュリアン。解らない方が幸せなんだ」 アーサーは思いがけない程優しい瞳でジュリアンを見つめた。 「俺のことは放っておいてくれ」 「……………」 ジュリアンは苦しげに眉を寄せて、 「…勝手にしろ」 と言い捨てて立ち去った。 「…すまない、ジュリアン」 アーサーだって、ジュリアンの気持ちは理解できる。自分が憧れていた人物が、別人のように情けないさまになっていたら、裏切られた気分になるだろう。 だが、アーサーにはどうにもできなかった。 絶えず耳に付いて離れない言葉がある。 ----不老不死とは、自分だけ取り残されることだ---- ガルムが以前に言った言葉だ。もう10年も過ごすうちに、これが現実として感じられるようになってきた。 それでも、誰かがいてくれれば、少しは違ったかもしれない。たとえ残りの永い時間を独りきりで過ごすことになっても、ほんの短い間でも傍にいてくれる「誰か」がいたなら。 「…おまえ、今どこにいるんだよ…」 アーサーは呼び掛けた。哀しげに、溢れる想いを込めて。 夕食の席は、息苦しい雰囲気が満ちあふれていた。 何しろ、シンビオスとメディオンは必要最低限の会話しかしないし、それにつられて、彼らの従者達もあまり口を開かない。ジュリアンは不機嫌だし、アーサーは相変わらず上の空だった。 重いムードに耐え切れず、敢えて離れたテーブルに着いていたマスキュリン、グレイス、それにジェーンは、気遣わしそうにそれを見ていた。 「あそこのテーブルだけ、妙に空気が重いわね」 マスキュリンの言葉に、グレイスが頷いて、 「あんな雰囲気の中食事したら、消化に悪いんじゃないかしら」 と、少々ずれたことを心配している。 「シンビオス様とメディオン殿ったら、どうなさったのかしら」 マスキュリンの心配ももっともで、あの二人、食べ始めてから交わした会話と言えば、 「塩を取ってくれないか」 「はい、どうぞ」 「ありがとう」 これだけである。 「喧嘩なさるなんて珍しいわね」 グレイスが首を傾げる。 「ジェーン、ごめんなさいね、変な雰囲気で。いつもはもっと和やかなのよ」 「本当に、折角お客様がいらしてるのにねえ」 「いいのよ、二人とも。たまにはこういうこともあるでしょう。楽しいばかりが人生じゃないんですもの」 さすがにジェーンはものを解っているようだ。微笑みながらそう言った。 「それに、ジュリアンもアーサーも機嫌が悪いみたい。こちらこそもてなして頂いてるのに、なんだか悪いわ」 「…ねえ、ジェーン、一つ訊きたいんだけど」 マスキュリンが更に声を潜めて、ジェーンの方に身を乗り出した。 「あのアーサーっていう人、一体どういう人なの?」 「どういうって?」 「なんだか、不思議な感じの人だから。起きてるのか寝てるのか、いつもぼんやりしてない?」 「まあ、マスキュリンたら、あまりよく知らない人に対して、そんな評価は失礼だわ」 グレイスが静かに窘める。 「でも、グレイスもそう思わない? なんだか心ここにあらず、って感じじゃない? あの人」 「…確かに、何かに悩んでるような感じではあるけれど…」 グレイスも控えめながら、マスキュリンの主張を認めた。 「そう。アーサーはいつも悩んでるの」 ジェーンが寂しげに頷いた。 「でも、誰にも相談しないのよ。あたし、それが辛いわ。彼にはあたしの母がお世話になったから、恩返ししたいと思ってるんだけど…」 「何か心当たりはないの? ジェーン」 マスキュリンの問いに、ジェーンは少し躊躇ってから、 「そうね。…ジュリアンと一緒に、彼のいる家に行ったときのことだけど」 疲れたジェーンは先にベッドに入ったが、ジュリアンとアーサーは長いこと昔の話をしていた。ジェーンに気を遣って小声で話していたのだが、突然アーサーが大声を上げたため、うとうとしていたジェーンはびっくりして目が覚めてしまったのだ。 「確か、『ローディが国を?』とか言ってたわ。そのときの口調がなんだか気になって、後でジュリアンに訊いてみたの。10年前にアーサーと一緒に戦った仲間だったんですって。忍者だったんだけど、抜け忍したみたい」 「ローディって、確か…」 マスキュリンが考えながら、 「シンビオス様が捕らえられたとき、あのヤシャって忍者が言ってなかった?」 「そうだったわね。あのとき、ジュリアンもその名前に心当たりがあるようだったから、気になっていたんだけど…」 グレイスはゆっくりと言った。 「…ジェーン、アーサー殿はその人に逢いたがっているのかしら?」 「あたしはそう思う。でも、どこにいるかも解らないから、諦めちゃってるんじゃないかな」 「だったら捜しに行けばいいじゃないの! こんな所で燻ってるよりよっぽどましじゃない」 マスキュリンは憤慨したが、 「そんな無茶言わないの、マスキュリン」 グレイスが半ば呆れたように抑えた。 「世界は広いのよ。捜して捜して、それでも見つからなかったら? 人は希望がなきゃ生きていけないけど、それだけに縋って生きるのも辛いものだわ」 「じゃあ、どうすればいいの? グレイス」 「解らない…。私達の手に余る問題だわ」 グレイスは吐息と共に首を振った。 心弾まない食事の時間が終わると、みなそそくさと食堂を後にした。 メディオンにどう切り出そうか考えていたシンビオスは、少し遅れて席を立った。 静かな廊下を、自室に向かって歩いていると、背後に気配が湧いた。 「…ハガネ?」 「左様で」 「何かあったのか?」 「先程、興味深い話を耳にしました」 シンビオスはハガネを促して、誰もいない部屋に入った。 「----どんな話だ?」 シンビオスに問われて、ハガネは、さっきマスキュリン達がしていた話を語った。どこかで聴いていたらしい。 「…そうか」 シンビオスはやっと得心いった。アーサーが見ていたのは、その『ローディ』なる人物だったのだ。 ならば、次にすべきことは…。 「ハガネ。悪いんだけど、その…」 「もう調べてあります」 ハガネは答えた。差し出された手には畳まれた紙片が乗っている。 「さすがだね」 シンビオスも笑うしかない。 「恐れ入ります」 「君のような部下がいて心強い。これからも宜しく」 「はっ」 ハガネは一礼して、どこかへ消えた。 シンビオスは指に挟んだその紙を振って、 「さて、どうしよう」 と呟いた。 取り敢えず部屋に戻ってみると、メディオンが応接室の方で本を読んでいた。 ----そうだ、まずこっちの問題から片付けなきゃ。 シンビオスはメディオンの隣に、すとん、と腰掛けた。メディオンが本から顔を上げてこちらを見た瞬間に、 「メディオン、ごめんなさい」 間髪いれず、シンビオスは頭を下げた。 「確かにぼくが迂闊でした。そんな気はなかったとはいえ、貴男に嫌な思いをさせてしまいました。本当にごめんなさい」 メディオンは本をテーブルに置いて、 「シンビオス」 優しく呼び掛けた。 「私も少し言い過ぎたようだ。君はそんな人じゃないと解っているのにね。…だけど、目の前であんなことがあったら、やっぱり面白くはないよ」 「貴男の言う通りです。ぼくだって、同じことをされたら怒ります」 シンビオスはメディオンに抱きついて、彼を見上げた。 「本当にごめんなさい。これから気を付けますから」 メディオンは、もういいよ、というように、シンビオスの唇を塞いだ。----自分の唇で。 結局、メディオンにアーサーの話をできないまま、朝になってしまった。 どうせならジュリアンにも聴いてもらった方がいい、と、シンビオスは彼を応接室に呼んだ。朝の紅茶を飲みながら、順序だてて話す。 「----なるほどな」 ジュリアンの感想は短かった。 シンビオスは紅茶を一口飲んで、 「アーサー殿は生まれついてのスピリット保有者じゃない。それまで普通の人間として生きてきたのに、いきなりイノベータとして永遠の命を与えられたら…。…何か拠り所がないと苦しいんだと思う」 「それが、ローディ殿か」 メディオンが呟く。 「アーサー殿はずっと彼を求めていたんだな」 「…シンビオス、それ貸してくれ」 ジュリアンは紙片を指して、 「俺がアーサーに持ってく」 「うん。頼んだよ」 シンビオスはジュリアンに託した。それが一番いいはずだ。 ジュリアンは応接室を出て、アーサーの部屋に行った。ノックをして、返事がない内にドアを開ける。 「いつまで寝てる気だ?」 「んん…。ゆうべ遅かったんだ」 アーサーは寝ぼけた声で返事をして、上体を起こした。ぼんやりとジュリアンを見て、 「…もう、口も利いてくれないかと思ったけどな」 ジュリアンは黙ってベッドサイドに歩み寄ると、手を差し出した。 「あんたに、ラストチャンスをやる」 「ん?」 「あんたの大事なものの在り処が、ここに書いてある。世界の果てみたいな場所だ。それでも行くか? 行くなら、もう一度あんたを尊敬してやるよ」 アーサーの、湖の底のような青い瞳の奥に、ある感情が動くのをジュリアンは見た。----そうだ。それでこそ、だ。 「君に尊敬されても、何の足しにもならないな」 アーサーは楽しそうに肩を竦めた。 「だからそんなものはいらない。その紙だけくれ。俺の、気の遠くなるような人生に必要不可欠なもののようだ」 ジュリアンはアーサーの手に紙を握らせた。 「ありがとう、ジュリアン」 「礼はいらないぜ。あんた流に言えば、何の足しにもならねえからな。それより、あの家を貰う。アーサー、あんたどうせ戻ってこねえんだろ?」 ジュリアンは悪戯っぽい笑顔を見せた。 朝食の後、アーサーは旅立っていった。 「随分唐突な出発でしたね」 マスキュリンが目を丸くしたが、どうやらアーサーは居ても立ってもいられなくなったらしい。世話になったのを感謝しながら、慌ただしく出ていった。 「でも、ハガネって随分手回しがいいですね。私達の話を聴いただけで、ローディ殿の居場所を調べただなんて」 グレイスの言葉に、ダンタレスが笑って、 「いや。奴はどうやら、以前からローディ殿に関心があったらしい。忍びの世界では有名な人物だそうだからな。だから実際は、ヤシャの口から出たときに、ムラサメと一緒に調べたらしい」 「それで、か。道理で早すぎると思った」 シンビオスも苦笑を漏らした。 とはいえ、シンビオスに自ら報告した機転は、誉められるべきだろう。 「それにしても、人間、ああまで変われるものなんですなぁ」 嫌みではなく純粋に感動して、キャンベルはそう言った。それほど、アーサーの変化ぶりは劇的だった。メディオンやグラシアのときもそうだったが、人とは弱くも強くもなれるものだと、あらためて教えられた気がする。 「それだけ、アーサー殿にとって大切な存在なんだろうね」 メディオンが微笑む。彼も知っていた。その存在が、生きていく上でどれだけの励みになるかを。 「よかった、アーサーが元気になって」 ジェーンが嬉しそうに言った。 「ねえ、彼は幸せよね? これからもずっと」 「そうだな」 ジュリアンも喜んでいるが、これには他の理由もあった。 「これで遠慮なく煙草が吸えるぜ」 このふざけた台詞に、みなは一斉にため息をついたのだった。 |