メディオンがフラガルドに滞在するようになってから、2週間が過ぎた。
 この頃になると、いつベネトレイムから呼び出されるか不安なメディオンが、
「シンビオス、ベネトレイム殿からは、まだなにも?」
 とシンビオスに訊ね、
「何もないですよ。少し落ち着いたら如何ですか、メディオン王子」
 苦笑まじりにシンビオスが答えるのが日課となっていた。
「だけど、気が気じゃないんだ」
「ベネトレイム様は気の長いお方だと言ったでしょう?」
 のんびり言うシンビオスを、メディオンは些か不本意そうに見つめた。
「君は不安じゃないのか?」
「先の見えない未来のことで、今を台無しにしたくないのですよ」
 シンビオスは、結わえられたメディオンの髪を手に取って、自分の唇に寄せた。
「領主になってから、ぼくはつくづく感じるようになりました。今日できることを確実にやっていけば、その積み重ねが明るい未来を導くのだと」
 理屈はそうだ。だが、頭で解っていてもそう簡単に割り切れないから、人は悩むのである。メディオンはどちらかというと(ベネトレイムほどではないが)悲観主義的だった。生い立ちからここに至るまでの経緯を思えば、仕方ないだろう。
 まだ納得しかねる顔のメディオンにシンビオスは笑いかけ、軽くキスした。それからふと真顔になって、
「その明るい未来のために確認したいのですが、王子。帝国に戻られる気はおありですか?」
「いや。全くない」
 メディオンは簡潔に、しかしきっぱりと言い切る。
「本当に? ----あんなことがあったとはいえ、貴男の故郷ですよ?」
 探るように自分を見つめる緑色の瞳を、メディオンは優しい空の瞳で受け止めた。
「確かに、生まれた場所という意味では、あそこは私の故郷だが。でも、故郷の定義はそれだけではないよ、シンビオス」
「…どういう意味でしょう?」
「自分にとって大切な人がいる所が故郷なのだと、私は思うんだ。親であったり、懐かしい友であったり、愛する人であったりね。…私の母や友人達はみなここに来ているし…」
 メディオンはシンビオスを抱き寄せた。
「なにより、愛する君がいるから、ここが私の故郷だよ」
 そして、納得させるべく、優しく口付ける。
「…貴男のお気持ちは良く解りました」
 シンビオスは嬉しそうに微笑んで、
「では、貴男を返せと皇帝が乗り込んできても、追い返してしまって構いませんね?」
「そのときは、私も手伝おう」
 メディオンは真面目な顔で答えた。

 ある日の午後。
 光の満ちた応接室のソファに並んで座り、シンビオスとメディオンは本を読んでいた。
 彼らの後ろ、中庭に面した窓からは、もはや初秋の到来を告げる涼しげな風が、レースのカーテンを膨らませて入り込んできている。
 最近は、メディオンは勿論ダンタレスとキャンベルもシンビオスの仕事を手伝ってくれるので、こうして読書したり、剣の稽古をする余裕がある。
 メディオンは長い指でページを繰っていたが、ふとシンビオスの持つ分厚い本に目を落とした。それからシンビオスの横顔を見つめると、
「休憩しよう、シンビオス」
「今日中に、この本を読まなきゃならないんです」
 本から目を上げずに、シンビオスは答える。
「でも、君、さっきから同じページを30分も読んでいるよ? いつもなら10分もかからないで読めるはずだ」
 こういうことに、メディオンは本当によく気付く。
「……………」
 狼狽したシンビオスの手から、メディオンはすかさず本を取り上げた。
「あ!」
 小さく声を上げて、取りかえそうと手を伸ばしてきたシンビオスの体を、メディオンは柔らかく受け止める。
「王…子」
「無理しても疲れるだけだよ」
 メディオンは囁くと、シンビオスにキスしてそのまま押し倒した。
「…王子、ここでは…」
 シンビオスの抗議は再び封じられ、その唇が首筋に、喉に、胸に強く押し当てられる。シンビオスは声を堪えた。何しろ、窓が開いているのだ。
 いつもと違うメディオンの荒々しさは、シンビオスを混乱させていった。

 そして、----メディオンは起き上がると、乱れた服を整えながらシンビオスを見下ろした。顔を横に向けてぐったりしている様子に、微かな罪悪感を覚える。
 いつベネトレイムに呼び戻されるか不安なメディオンとは裏腹に、シンビオスはやけに呑気に構えていて、それがメディオンを知らず苛立たせていたらしい。しかし----
 ----これはまったくの八つ当たりだ。
 メディオンは自分が情けなくなった。
「…シンビオス」
 メディオンがそっと声をかけると、シンビオスはうつろに目を開けて、ゆっくりと身を起こした。俯き加減で服のボタンを留めはじめる。
「怒ったのか…?」
「……………」
「シンビ…」
 再度の呼び掛けを遮るように、
「…本」
 シンビオスは口を開いた。
「…え?」
「返してください。パルシス様にお返ししなければならないんです」
 抑揚のない口調で続ける。
「ああ。…すまない」
 メディオンはシンビオスに本を差し出した。
 シンビオスはすぐに読みはじめる。この間、メディオンの方を見ようともしなかった。
 その横顔を少しの間見つめてから、メディオンもまた自分の本を開いた。
 静かな応接室に、ページを捲る音だけが響く。
 自棄気味ともいえるスピードで文字を追っていたシンビオスの肩に重みがかかった。頬を柔らかなものがくすぐる。
「?」
 見ると、開いた本を膝に乗せたまま、メディオンがシンビオスの肩に凭れて眠っている。その額にかかる金の髪を、シンビオスは指で持ち上げてみた。
 長い睫は頬に触れんばかりで、薄く整った唇はほんの少し微笑んでいるようにも見える。
 あまりに平和的なその寝顔を眺めているうちに、シンビオスはなんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。----メディオンのことが、ではなく、メディオンに対して腹を立てていることが、である。
 シンビオスは特大のため息を一つつくと、メディオンの頭を自分の膝に導いた。そして再び本の世界へと戻っていった。

 ----誰かが髪を撫でている。
 夢の中で、メディオンはぼんやり感じた。昔、幼い彼が眠りにつくときに母がしてくれたように、彼の髪の中に指を潜らせて優しく梳く。
 ----…じゃあ、食堂にみんなを集めておいてくれ、ダンタレス。
 ----はい。承知しました、シンビオス様。
 そんな会話が、覚醒しかけたメディオンの耳に遠く聞こえる。
 バタン! と扉が閉まる音で、メディオンは完全に目覚めた。目を上げると、シンビオスが書類を読んでいるのが見えた。空いた方の手で、ほとんど機械的にメディオンの髪を撫でている。
「…シンビオス…」
 メディオンが声をかけると、シンビオスは彼に目を移してにっこりした。
「ちょうどよかった。今起こそうと思ってたんです。夕食の支度ができたので」
「そ、そうか…」
 豹変したシンビオスの態度を訝りながら、メディオンは体を起こした。
「シンビオス。怒ってないのか?」
「…怒っちゃいませんが」
 シンビオスはちょっと顔を顰めて、
「もうしないで頂きたいですね。恥ずかしいので」
「もうしないよ」
 重々しく頷くメディオンに、シンビオスは、ふ、と表情を緩めた。素早く唇を寄せて、
「愛しています、メディオン王子」
 と微笑む。
「…シンビオス?」
 メディオンはますます混乱した。普段の彼がこんなふうに言ってくるのは初めてで、そりゃあ嫌いと言われるよりは嬉しいのだが。人がいつもと違うことをすると、それがどんなにいいことでも不安になるのが、悲観主義者なのである。
「…何か、あったのかい?」
 しかし、シンビオスは例の魅力的な笑みを浮かべて、
「内緒、です」
 とだけ答える。そしてメディオンの腕を取って、
「行きましょう。みんなが待ってますから」
「ああ…」
 釈然としないまま、メディオンは殆ど引っ張られるようにして歩き出した。
 食堂に入ると、大勢の人にまず驚かされる。
 いつもシンビオスとメディオンに同席するのは、ダンタレス、キャンベル、マスキュリンにグレイスだけなのだが、今夜は、僅かながら城にいる使用人、それにシンビオス軍のメンバーも勢揃いしている。隠密行動を信条とするハガネの姿もなぜか見える。
 メディオンは内心首を傾げながらも、いつもの場所----即ちキャンベルの隣に腰掛けた。
「メディオン様、おめでとうございます!」
 すぐに、キャンベルが声をかけてくる。
「…なんのことだ? キャンベル」
 不思議そうに訊き返してくる主を、キャンベルは驚いて見つめ、
「え? …まさか、聴いてらっしゃらないのですか?」
「だから一体…」
 このとき、シンビオスが立ち上がった。
「食事の前に、皆さんに聴いて頂きたいことがあります」
 ざわめきが消え、みながシンビオスに注目する。
「以前から、メディオン王子とキャンベル殿がこの町にご滞在なのは、皆さんも承知のことと思いますが…」
 シンビオスはゆっくりと、居並ぶ人々の顔を見回して、
「この度、ご両人に対してベネトレイム様から、フラガルドへの永久滞在の許可がおりました」
 メディオンは唖然としてシンビオスを見上げた。それに気付いて、シンビオスは片目を閉じてみせる。
「おめでとうございます、王子!」
「キャンベル殿も、おめでとうございます!」
「これで、お二方ともこの町の住人ですな」
「これからも宜しくお願いしますね」
 あちこちから声がかかる。
「あ、ああ。ありがとう、皆さん」
 メディオンはなんとか立ち直って、言葉を返した。
「…では、この我々の新しい友人達のために乾杯しましょう」
 シンビオスの言葉に、全員がグラスを手に立ち上がった。
「お二人のこれからの、フラガルドでの幸せを願って。----乾杯!」
「かんぱーい!」
「おめでとうございます!」
 グラスの触れあう涼やかな音が満ちる。
 シンビオスとメディオンもグラスを重ねた。
「おめでとうございます、メディオン王子」
 悪戯を成功させた子供、みたいに嬉しそうに微笑むシンビオスに、
「まったく、君ときたら…」
 メディオンは苦笑を返した。
「文句は後で伺います」
 シンビオスは言って、
「…では皆さん、ごゆっくりお食事をどうぞ」
 椅子に座った。みなもそれに倣い、すぐに楽しげな会話が飛び交う。
「----それにしても、ベネトレイム様のお許しが出て本当によかったですね、シンビオス様」
 ダンタレスは我がことのように喜んでいる。シンビオスは笑って、
「何を言ってるんだ、ダンタレス。君のお陰だろう?」
「な、ななな何のことですか?」
 ダンタレスは惚けようとして失敗してしまった。
「まさか、ダンタレス様がベネトレイム様に?」
 グレイスが訊ねる。
「嘆願書を出してくれたんだよ。ねえ、ダンタレス?」
 シンビオスを始め、メディオン、キャンベル、グレイスにマスキュリンの合計10の瞳に見つめられて、ダンタレスは真っ赤になった。ちょっと咳払いして、
「し、しかし、シンビオス様。なぜそれを…?」
「嘆願書を届けるのに、ハガネを遣っただろう。彼が気を廻して、私に見せに来たんだよ」
「…あの野郎」
 思わず、ダンタレスは苦々しく呟く。
「ムラサメだったら、黙ってベネトレイム様に届けただろうけどね」
 シンビオスは楽しげに笑って、
「まあ、ハガネも悪気があったわけじゃない。私の知らないところで事が起こらないようにと気を遣ってくれたんだから、責めないでやってくれないか、ダンタレス」
「しかしですね」
 ダンタレスは不満そうに、
「まるで、私がシンビオス様を謀っているみたいじゃないですか、それじゃあ」
「でも、私はちゃんと君を信じてるよ。ダンタレス、それじゃあ駄目かな?」
 緑色の瞳でひたむきに見つめられてこんな言葉を言われたら、怒りなんてたちまちどこかへ行ってしまう。従って、
「シンビオス様がそう仰るなら…」
 ダンタレスも顔を少し紅潮させて答えた。
「本当に君には感謝してる。なんてお礼を言ったらいいか解らないよ」
「ありがとう、ダンタレス殿」
「ここにいられることになって私も嬉しいよ、ダンタレス」
「さすがダンタレス様ですね!
「素晴らしいですわ」
 どれが誰の台詞なのか、いっぺんに言われて、とにかく食事も喉を通らないほど照れまくるダンタレスだった。

「…どうして、前もって教えてくれなかったんだ? シンビオス」
 部屋に戻って、メディオンは早速文句を言った。しかし、怒っている口調では、勿論ない。
「さっきのお返しです」
 シンビオスがそう言うと、さすがに苦い顔になる。
「それに、ぼくも、さっきベネトレイム様からの返事を受け取ったばかりだったんです」
「それは…、私が眠っているときに、君が読んでいたのがそうだったのか?」
「ご明察」
 シンビオスは微笑を浮かべて、メディオンにその書類を見せた。
「はっきりした返事が戻ってくるまでは、と思ったんです。ぬか喜びさせては申し訳ないので」
「なるほど」
 呟くメディオンに、シンビオスはふんわりと抱きついた。
「…あまり、喜んでらっしゃらないようですね?」
「そんなことはないさ。シンビオス、とても嬉しいよ」
 メディオンもシンビオスを抱き締める。
「これで、ぼくは本当に貴男のものです」
 シンビオスはメディオンの耳に囁いた。
「もう離しませんからね」
「君にならずっと捕まっていたいよ」
 メディオンはシンビオスに口付けた。
「シンビオス、愛してる」
「メディオン王子…」
 シンビオスはメディオンを見つめて、
「…今度はベッドで。…ね?」
 と可愛らしく微笑んだ。


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