フラガルドの短い夏が終わろうとしている。
 シンビオスが領主となってから、一月余りが過ぎようとしていた。
 その責務は彼が想像していた以上で----勿論、父コムラードのやり方を見てきたり、剣の稽古と併せて色々勉強したりはしていたのだが、実際にやってみるのとでは大違いだ。
 しかし、シンビオスには甘えは許されなかった。何しろ、彼がため息一つでも洩らそうものなら、必要以上に心配する者達が周りにうようよしているのだ。それはそれで有り難いのだが、心配をかけると悪いし…、と思ってしまうのが、シンビオスの生真面目なところだ。
 特に、ダンタレス、マスキュリン、グレイスの三人には気を遣った。幼い頃からシンビオスに仕えている彼等は、シンビオスの些細な変化も見逃さない。三人に心配をかけないようにするには、それこそ細心の注意を払わなくてはいけない。
 彼等三人もまた、そんな気遣いをする主人に対して何も言えなかった。こちらが心配している素振りを少しでも感じさせようものなら、シンビオスは無理して平静を装うに違いない、と判っている。それではシンビオスが疲れるだけだ。もどかしさを感じながらも、ただ見守るしかないのだ。彼等は自分の無力さを呪った。
 シンビオスは、彼等が時折見せる不安げな表情に気付いていながら、敢えて知らない振りをしている。お互いの気の遣い合いで、妙な緊迫感がフラガルドの城を包んでいた。
 そうして無理して普通に過ごしてみせている内に、それがシンビオスにとっての「日常」になってしまっていた。そしてそれは確実に、彼の体と心を静かに蝕んでいた。

 その日。
 午前中の仕事が思ったより早く片付いたので、シンビオスは昼食までの時間を休息に当てようと、自室に向かっていた。
 とにかく、独りになりたかった。
 無言で心配そうにこちらを見つめる幾つもの瞳に、彼はややうんざりしていた。
 少し俯き加減で部屋のドアを開けたシンビオスの耳を、
「----お疲れさま、シンビオス」
 懐かしい声がくすぐった。
「???」
 一瞬、シンビオスは混乱した。ここはフラガルドで、あの人はアスピアにいるはずで…。逢いたい余りの幻聴だろうか? それとも、ドアを開けたらそこはアスピアだったとか…?
 顔を上げるまでの数秒間に、これだけのことが、やや支離滅裂にシンビオスの頭を飛び交う。真実を求めて目を上げると、その人は確かにそこにいた。
 日ざしが差し込む窓辺に、金の髪を光に透かして、遠い空を映した優しい瞳でこちらを見つめている。
「…メ、メディオン王子…」
 やや呆然と呟くシンビオスに、メディオンは微笑みを返した。
「…どうして、ここに?」
「君のことが気になってね」
 メディオンは朗らかに説明した。
「ベネトレイム殿に許可をもらって、様子を見に来たのだよ」
 共和国に亡命中の身である彼は、その動きを規制されている。何処に行くにも、代表国王であるベネトレイムの許しが必要なのだ。
「お一人で?」
 シンビオスの問いに、メディオンは立てた親指で窓の外を指した。そこは中庭になっている。
 シンビオスが窓辺に近付くのと同時に、外から笑い声が聞こえてきた。それは久しぶりに聞く、本当に楽しそうなダンタレスの笑い声だった。
「ダンタレス…、…キャンベル殿」
 窓に顔を押し付けるように外を見やったシンビオスは、小さく呟いた。
「…ありがとうございます、メディオン王子。ダンタレスのあんな顔、久しぶりに見ました。…最近はいつも眉間にしわを寄せてましたから」
「それは…」
 君も同じだろう、と言いかけて、メディオンは口を噤んだ。この、真面目で手を抜くことを知らない友の性格を、彼はわきまえている。本当に、部屋に入ってきたシンビオスの顔を見たとき、メディオンは胸を衝かれる思いがしたのだ。しかしそれを押し殺して、
「それは…、良かったね」
 メディオンは少し間の抜けたことを口にする。
「ええ。本当に」
 シンビオスは振り向いて、メディオンを見上げた。その顔に心からの笑みが浮かんでいるのを見て、
 ----自分がこんなときなのに、君は他人のことをまず気にかけるのか…。
 メディオンはますます切なくなった。
「…あ、王子、こちらへどうぞ」
 シンビオスは、隣の部屋にあるテーブルの方にメディオンを導くと、椅子を引いて、
「お掛けください。すぐにお茶をお持ちしますから」
「だけどシンビオス。…仕事は?」
「午前中の分は終わったので」
「私に構わず、休んでいいんだよ?」
「私は貴男と話がしたいんです」
 シンビオスはメディオンの肩を押し付けて、半ば強引に椅子に座らせた。
「待っていてください。ハガネからもらった珍しい茶葉があるんです」
「…解ったよ」
 メディオンは大仰に息を吐いてみせた。
「まったく、君にはかなわない」
 シンビオスは嬉しそうに笑うと、部屋の奥にあるちょっとしたコンロでお湯を沸かしはじめた。
 メディオンは部屋を見回した。テーブルと椅子のセットの他には、本棚とチェストが一つづつ。枕元に小さな鉢植えが乗ったベッドが窓際に置かれている。窓辺に纏められているカーテンは、ベッドカバーと同じアクアブルー。実に質素な部屋だ。
「----ここは、君の自室だね?」
「ええ。公的なお客さまは、さっきの応接室でもてなすのですが」
 沸いたお湯をポットに移しながら、シンビオスは答えた。
「格式張った感じがして、あまり好きではないので」
「確かにね」
 メディオンは、開いているドアからその部屋を見た。まん中に、木目調のテーブルとソファ。左右の壁にはそれぞれ、高級食器が入った棚と、分厚い表紙の本がずらりと並んだ本棚が、でかい顔をして鎮座している。今は火が入っていないが、しっかりした造りの暖炉もある。
「王子ほどの方なら、あちらの部屋の方が良かったかもしれませんね」
 シンビオスが、銀のトレイに茶器一式とスナックを乗せて運んできた。
「そんなことはないよ。…それに、私はまったくのプライベートな用事でここに来たんだから」
 メディオンはちょっと肩を竦めた。実は、ベネトレイムから書類を幾つか預かっているのだが…。後にしよう、と彼は考えた。
「…どうぞ」
 シンビオスはメディオンの前に、薫り立つお茶を置く。メディオンはその緑色を眺めて、
「これは…、なんというお茶だ?」
「緑茶、というものです。ハガネやムラサメの国で常飲されているそうで…。これでも、紅茶と同じ種類の葉からできているんだそうですよ」
「へえ」
 メディオンは呟いて、一口飲んだ。ほろ苦く、微かに甘い。
「どう、ですか?」
 シンビオスがじっとメディオンを見る。
「ああ、美味しいよ、シンビオス」
「良かった」
 シンビオスは微笑んだ。そのあどけない顔に、隠しようのない微かな陰がついているのに気付いて、これは何とかしなければ、とメディオンは痛切に思った。
 シンビオスは自分もお茶を飲んで、
「…ところで、アスピアでは皆さん如何ですか?」
 この質問を期に、知り合いの近況報告が始まる。このときばかりは、二人は屈託なく語り合った。
 二杯目のお茶を飲み干したところで、シンビオスは時計に目をやり、
「まだ昼食まで間があるな…。----王子、フラガルドは初めてでしたよね? よければ御案内しますよ」
 二人は立ち上がったが…。
 部屋を出ようとしたシンビオスの腕を、メディオンは衝動的に掴んだ。
「…メディオン王子?」
 驚いた顔で自分を見上げるシンビオスをメディオンは引き寄せて、腕の中にくるみ込む。
「お、王子…」
「…黙って」
 メディオンはシンビオスに口付けた。
「……ん…」
 重ねた唇の間からシンビオスの声が漏れる。そのしなやかな体が震えた。
「----いけない人ですね、貴男は…」
 恥ずかし気にメディオンの胸に顔を伏せて、シンビオスは少し掠れた声で言った。
「こんなにいけない人だなんて、思ってもいませんでしたよ」
 メディオンは微かに微笑を浮かべて、シンビオスの紅く染まった耳に囁いた。
「君が、悪いんだよ」
 え? と顔を上げたところにまたキスして、
「シンビオス。君が、とても、魅力的、だから」
 言葉の合間に何度も唇を触れさせる。
「…メディオン王子…」
 シンビオスは結局、ここから一番近い場所にメディオンを案内した。----即ち、彼のベッドへ。

 彼の胸に頭を預けて眠るシンビオスを、メディオンは見下ろした。あどけなさを残すふっくらした頬を何度も指先で撫でる。しかし、目を覚ます気配はない。
 肌を重ねるのは初めてにも関わらず、シンビオスはメディオンに縋り付くように身を任せ、彼を受け入れた。それは普段の、思慮深く静かなシンビオスとは違っていて----メディオンの胸を哀しみが覆った。
 ----君は…、そこまで疲れていたんだね、シンビオス。
 メディオンはそっとため息を洩らした。どうして、いつも独りで抱え込むのだろう。こんなになってしまうまで。
「約束、したのに」
 だが、彼を責めることは、メディオンにはできなかった。
 本当はもっと早くにここに来たかったのだが、シンビオスが新しい状況に慣れるまで待った方がいい、とベネトレイムに止められていたのだ。
 手紙のやり取りはしていたが、それで総てが判るはずもない。
 ----ベネトレイム殿に逆らってでも、私はここに来るべきだった。
 再び息を吐いたメディオンの耳に、ノックの音が届いた。自室の向こう、廊下に面した応接室のドアを、誰かが叩いている。
 体に廻されたシンビオスの腕をそっと外して、メディオンは彼を起こさないようにベッドからでた。脱ぎ散らかした服の中から自分のを選んで素早く身に着け、応接室に向かう。シンビオスの自室とを隔てるドアを閉めてから、
「今、開けます」
 メディオンはノックの主に声をかけた。
 立っていたのはダンタレスだった。
「ああ、メディオン王子…」
「ダンタレス殿。何か…?」
 訊ねるメディオンの襟元に目をやったダンタレスは、一瞬なんとも言えない表情を浮かべたが、すぐに普通の顔に戻って、
「昼食の用意が整いましたが…。食堂にいらっしゃいますか? それともこちらに?」
「キャンベルは?」
「食堂にいますが」
「じゃあ、私達もそちらに行きましょう」
「はい」
 ダンタレスは頷いて、ふと真剣な眼差しでメディオンを見た。
「メディオン王子。シンビオス様をお願いします」
 メディオンは、この忠実なケンタウロスを無言で見つめた。彼がどれほどシンビオスのことを大切に想っているか知っている。その彼が、他人であるメディオンにこんなことを言うのは、メディオンのことを信頼してくれているからに他ならない。
「私にできる限りのことをします」
 メディオンは優しく言った。それから、こう付け加えた。
「ありがとう、ダンタレス殿」
 聡いダンタレスは、メディオンがなんのことで礼を言ったのかすぐに悟った。彼は深々と頭を下げると、身を翻して去っていった。
 その足音を聞きながら、メディオンはドアを閉めた。シンビオスのいる部屋に戻ると、彼がまだ眠っているのを確かめて、メディオンは奥にある浴室に入った。
 汗を流して出てきても、シンビオスはまだ目覚めていない。可哀想な気がしたが、このまま寝かせておくわけにもいかないだろう。メディオンはカーテンを開けた。眩い光が部屋に満ち、ベッドのシンビオスを照らす。
「…んん…」
 シンビオスは軽く身じろぎして、ゆっくりと上体を起こした。
「目が覚めたね、シンビオス」
 メディオンはベッドに歩み寄ると、黄金の頭をかがめてシンビオスにキスした。
「昼食の用意ができたそうだよ」
「……………」
 シンビオスは頬を染めてメディオンを見上げる。
「…あ、はい。えっと、す、すぐに支度します」
「それがいいだろうね。ダンタレス殿がお待ちだし」
「ええ…」
 シンビオスは顔を伏せて、
「あの、王子、その…」
「うん?」
「…向こうの部屋で、待っていて頂けますか?」
 恥ずかしいのだろうということはメディオンにも判ったが、敢えて、
「どうして?」
 と訊いてみる。
「どうして…って…」
 シンビオスは途方に暮れたような顔をした。
「ああ、ごめん。…じゃあ、待ってるからね」
 あまりからかうのも可哀想だ。メディオンは優しく微笑んでシンビオスの頭を撫でた。部屋を出てドアを閉めると、豪奢なソファに腰をおろす。
 10分ほどして、シンビオスが出てきた。
「お待たせしました、王子」
「なに、構わないよ」
 メディオンは立ち上がって、
「じゃあ、行こうか」
 シンビオスの腕を取る。
「はい。----あ」
 シンビオスの目線はちょうどメディオンの首の辺りだ。自然とそこに目がいった彼は、
「王子、…襟をとめた方がいいかと…」
 躊躇いがちに呟く。
「?」
 メディオンは不審な顔をした。意味が判らない。そこにあった鏡を覗いて、
「ああ…」
 やっと彼は納得した。襟に隠れるかどうか微妙な位置に、紅い痕がついている。さっきのダンタレスの顔を思い出した。
「私は構わないよ。君に愛された証だからね」
「!!」
 みるみる真っ赤になるシンビオスの頬に柔らかく唇を付けて、メディオンは彼を促して部屋を出た。
 人気のない廊下を歩きながら、
「そういえば、メディオン王子。いつまでこちらに滞在なさる予定ですか?」
 やっと落ち着いたのか、シンビオスが訊いた。ああいう仲になっても態度や口調を変えることがないのが彼らしい。
「うん。まだ決めてないんだ。ベネトレイム殿には、『暫くの間』と言ってきたんだが」
 メディオンはちょっと考えて、
「君に追い出されるまでの間、ということにしよう」
「私はそんなことしませんよ」
 シンビオスは苦笑した。
「だから、一生ここにいなくてはなりませんよ? メディオン王子」
「私はそれでも一向に構わないが」
「それでは、ベネトレイム様がお困りになるでしょう」
「そうか。----じゃあ」
 これで解決、といった会心の笑みをメディオンは浮かべて、
「ベネトレイム殿が、焦れて呼び戻してくるまで、というのは?」
 シンビオスも、例の悪戯っぽい笑顔でメディオンを見上げ、言った。
「それがいいでしょう。ベネトレイム様は気の長いお方ですからね」

 食事を終えたシンビオスは、午後の職務に取りかかった。メディオンが持ってきたベネトレイムの書類に目を通す。いつもと違って、すんなり頭に入ってくる。午前中までの重い気分が嘘のようだ。
 ----メディオン王子のお陰、かな。
 シンビオスは考えて、頬を染めた。さっきの自分はまるで自分じゃないようだった。体が勝手に動いてあんなふうに…。
 ぶるぶると頭を振って妄想を振り払うと、シンビオスは再び書類に目を落とした。

 午後の仕事も早く片付いた。
 シンビオスは図書室にいたメディオンを誘って、フラガルドの街に出た。コムラードの墓に参りたい、とメディオンが望んだからだ。
 墓地の一角、領主のものにしては質素な造りの墓にメディオンは花を添え、頭を垂れる。
 その後ろ姿を見ながら、シンビオスは彼と初めて会ったときのことを思い出していた。
『帝国でも、貴男のお父上は英雄ですよ』
 そうメディオンは言ってくれた。何の地位も持たない民衆ならともかく、帝国の王子がそんなことを言うなんて思いもよらなかった。皇帝を始め、帝国上層部では、父は裏切り者として忌み嫌われているのを、シンビオスは知っていた。だから、メディオンの言葉は本当に嬉しかった。
「…生きているうちに、お会いしたかった…」
 メディオンがひっそりと呟く。
「父も、きっとそう思っているでしょう」
 メディオンの傍らに同じように跪いて、シンビオスは優しく言った。
「体調を崩されていたとはいえ、あんなことがなければ…」
「ええ。残念です。…でも、父は『これでやっと眠れる』と言いました。だからきっと…、本当に安らいでいると思います」
 シンビオスは小さく吐息を洩らした。
「…そう思うのですが…。…やっぱり、もう少しだけ…生きていてほしかった…。生きて…私を導いてほしかった、と…」
「……………」
 シンビオスの独白を、メディオンは黙って聴いている。
 そのうち、シンビオスの大きな目に涙が溢れてきた。それを拳で拭って、
「す、すいません。こんなつもりじゃ…。…父に、笑われてしまいますね…」
 メディオンは何も言わずにシンビオスの体を抱くと、その背中をそっと叩いた。
 それが、『我慢しなくていいんだよ』と言ってくれているようで、シンビオスはメディオンの胸に頭を押し付けて、声も出さずに静かに泣いた。

 一通り街を回って城に戻ったシンビオスとメディオンを、たまたま玄関先にいたマスキュリンが迎えた。
「お帰りなさい、シンビオス様、メディオン王子。お疲れになったでしょう? ちょうど夕食の用意ができたところですよ!」
「ああ、ありがとう、マスキュリン」
 自分を見つめて穏やかに微笑むシンビオスを、マスキュリンはまじまじと見つめた。
「な、なに?」
 やや戸惑って、シンビオスが訊く。
「シンビオス様。目が赤いですよ?」
 そう言って、マスキュリンは、今度はメディオンの方を見た。微かに…、ほんの微かにその瞳に宿る不審なものを見つけて、メディオンは苦い笑いを浮かべた。
「王子! 貴男がついていながら、シンビオス様を泣かせるなんて!」
 案の定、マスキュリンは噛み付いてきた。
「それとも、貴男が泣かせたんですか?!」
 エルフの魔法使いというのは、どうして誰も彼もこう気が強いのだろう。
 メディオンは込み上げる笑いを堪えて釈明しようとしたが、それより早く、
「マスキュリン、違うんだよ」
 シンビオスが口を開く。
「王子のせいじゃないんだ。私が勝手に…」
「そうですか〜?」
 マスキュリンはまだ半信半疑だ。何しろシンビオスは我慢強くて、小さい頃から傍にいた彼女でさえ、彼が泣いているところを数えるほどしか見ていない。
「本当だってば」
 なおも言い募るシンビオスに、マスキュリンもどうやら納得したようだ。
「まあ、信じてあげましょう」
 と明るく笑って、
「あ、そういえば、シンビオス様。ダンタレス様がご用事だそうですよ。執務室で待ってます」
「そう、ありがとう。行ってみるよ」
 シンビオスはメディオンに目を移して、
「申し訳ありませんが、メディオン王子、先に食堂で待っていて頂けますか?」
「勿論だよ」
 メディオンは頷いた。
 シンビオスが角を曲がって消える。それを見送ってから、メディオンとマスキュリンは並んで食堂に向かった。
「----メディオン王子」
 さっきの勢いはどこへやら、おずおずとマスキュリンが声をかけてくる。
「なんでしょう? マスキュリン殿」
「さっきは…、失礼なことを申し上げてしまって…」
 俯くオレンジ色の明るい髪を、メディオンは優しく見つめて、
「気にしてませんよ。貴女が本当にシンビオス殿のことを心配しているのは、痛いほどよく判りますから」
「そう言って頂けると…」
 マスキュリンはぎこちないながら、ほっとしたような顔になった。
 食堂の入り口まで来ると、マスキュリンは足を止めた。メディオンもそれに倣う。二人は向かい合った。マスキュリンは真摯な瞳でメディオンを見上げ、
「メディオン王子。シンビオス様をお願いします」
 そう言って頭を下げる。
「私達じゃ駄目なんです。悲しいですけど…。私達ではシンビオス様をお助けできないんです。…だから…」
「マスキュリン殿」
 メディオンは、顔を伏せたままのマスキュリンの肩に手を置いた。
「そんなことはありませんよ。シンビオス殿は本当に、貴女達を頼りにしているはずです」
 マスキュリンは激しく首を横に振った。メディオンは彼女の顔を覗き込むようにして、
「私は思うのですが…。もし貴女やダンタレス殿、それにグレイス殿がいなければ、シンビオス殿はもっと早くに参ってしまっていたでしょう。貴女達が傍にいてくれることを、彼はきっと心強く思っているでしょう」
「…そう、でしょうか…」
 マスキュリンは掠れた小さな声で呟く。
「誰かが傍にいて自分を見守ってくれていると感じるだけで、人は本当に安心できるものですよ」
「王子…。ありがとうございます」
 マスキュリンは涙を拭いてメディオンを見上げると、やっと彼女らしい笑顔になった。
「シンビオス様が貴男の前で泣いたわけが、解りました。貴男の言葉が優しいから…。胸に染み込んでくるからですね」
 メディオンは笑って、この小柄なエルフの髪を撫でると、連れ立って食堂に入った。
「メディオン様!」
 キャンベルがすかさず気付いて、自分の隣の椅子を引く。メディオンは礼を言って腰掛けた。
 料理を運ぶために厨房に入ったマスキュリンと入れ違いに、グレイスが、淡い色の液体で満たされたグラスを二つ運んできた。
「食前酒ですわ。お二人には物足りないかもしれませんが」
「ありがとう、グレイス殿」
「シンビオス様とダンタレス様も、すぐに来ると思いますから」
 もう少しご辛抱くださいね、と言いおいて、グレイスも奥に消える。広い食堂に、メディオンとキャンベルだけが残った。
「…キャンベル、今日はどう過ごした?」
 軽い口当たりの発泡酒を一口飲んで、メディオンは訊いた。
「ダンタレスと稽古をしました」
 キャンベルは豪快に笑って、
「お陰で腹が減りましたよ」
「それは大変だ。フラガルドの食料なくなってしまうな」
 メディオンも笑う。
 キャンベルはふと真顔になって、
「メディオン様は、その…、…シンビオス殿と…?」
 昼食のときにはみな一緒だったので、訊けなかったのだ。でも、メディオンとシンビオスの様子から、キャンベルはなんとなく察していた。
 メディオンは頷いた。
「私はどうしてもシンビオス殿を放っておけなかったんだ、キャンベル。あのままだと、彼の心が壊れてしまうような気がして…」
「貴男がいい加減な気持ちでそのようなことをなさる方ではないことは、このキャンベルが一番よく知っておりますよ。…本当にシンビオス殿のことを大切に想っていらっしゃることも」
「ありがとう、キャンベル」
 キャンベルは顎鬚を撫でた。照れ隠しである。
「それに、昼食の後でダンタレスが、私にこう言ってましたよ」
『キャンベル。私は今にシンビオス様が…、コムラード様のように倒れてしまうか、ご自分を見失ってしまうんじゃないかと不安で堪らなかったんだ。でも、メディオン王子が救ってくださった。本当に、なんとお礼を言っていいか解らないよ』
「まあ、なにより、シンビオス様が一番、貴男に感謝しているのではないですかな?」
 からかうような口調に、今度はメディオンが照れくさそうな笑みを浮かべる番だった。

 自室に戻ったシンビオスは、すっかり眠る支度をし終えてからも、夕食の間に届けられていた手紙の返事を書いていた。最初は淀みなくすらすらとペンを走らせていたが、はたと手を止める。微妙な問題なので、表現に困ったのだ。これじゃあ曖昧すぎるし、あれじゃあ押し付けがましい。かといって、こう書いたら失礼だし…。
 などと考え込んでいるところに、メディオンがアイスハーブティのグラスを持って戻ってきた。テーブルの、邪魔にならない所にそれを置いて、
「眠る前にまで大変だね、シンビオス」
「ああ、すいません、王子」
 シンビオスは恐縮しながらグラスを取って、中身を一気に半分ほど飲んだ。
「眠いせいか、どうも巧い表現が見つからなくて」
「どれ」
 メディオンはシンビオスの後ろから、彼の肩に腕を廻して覗き込んだ。
「もう、王子! 重いです」
 シンビオスは言ったが、その声は笑いを含んでいるし、腕を払い除けることもしない。
 メディオンは相手の手紙と、シンビオスが途中まで書いた返事とを見比べた。そして、ペンを握ったままのシンビオスの手を掴んで、続きをしたためはじめる。
「----これで、どうだろう?」
「あ! ああ、なるほど! こういう表現がありましたね」
 シンビオスは子供のように手を打って喜んだ。
「まあ、途中から筆跡が変わって、相手がなんだろうと首を傾げるかもしれないが」
「そうですね」
 二人は笑い合った。
「----本当に、ありがとうございます、メディオン王子。貴男には助けられてばかりですね」
 シンビオスはそう言って俯いた。こういうときの彼は、相手に感謝すると同時に自分の不甲斐なさを苦々しく思っていることが多い。メディオンはちゃんとそれを承知していた。
 メディオンはシンビオスのうなじに口付けた。
「! お、王子…」
 シンビオスがうろたえている間に、メディオンの手は彼の寝間着のボタンを外して内側に滑り込み、滑らかな肌を摩っている。
 シンビオスは微かな吐息を洩らした。
「…椅子が、邪魔だな」
 メディオンはシンビオスの耳にキスして、囁いた。
「シンビオス、君と一つになりたい」
 シンビオスが黙って頷く。
 メディオンは彼をベッドに横たえると、軽く開かれた唇に自分のそれを重ねた。シンビオスは体を硬くして、大人しくしている。その彼らしい反応に安心しながら、メディオンはシンビオスの肌を唇で覆い、彼の強張りを優しくほぐしていった。

「----覚えているかい? シンビオス」
 心地よい疲れにとろとろしていたシンビオスは、メディオンの呼び掛けに、彼の方を見た。レースのカーテン越しに入ってくる月明かりが、周りのものの輪郭をぼやけさせている。
 非常事態に備えて部屋を真っ暗にするな、と父はシンビオスに教えた。暗闇では思うように行動できないから、と。
 曖昧な光は、さっき愛し合った相手の姿さえ、夢幻のように感じさせる。それが一層、シンビオスの中の彼に対する感情を強めさせた。
「…なんでしょう、王子」
 どこかぼんやりした声で、シンビオスは訊いた。
「切り替えポイントで、君が私に言ったことだ」
「…ああ…」
 ----二人の思いは過去に飛んだ。

 共和国のベネトレイム代表国王に、帝国皇帝誘拐拉致容疑がかかった。
 事の真相を確かめるため、ベネトレイムを護衛しているシンビオス軍を、メディオン軍は追い掛けた。
 切り替えポイントでの共闘後、両軍は対峙した。
「…では、父を誘拐したのは、貴方達ではないのですね?」
「仮面の異教徒達の仕業です。あのベネトレイムは偽者だったのです」
 冷静なベネトレイムの答えに、メディオンは天を仰いだ。好感を抱いたシンビオスが関わっていないのは良かったのだが、得体の知れない仮面僧が父をさらったとなると、ますますその安否が気遣われる。
 そんなメディオンの様子を見て、シンビオスが声をかけた。
「メディオン王子。ドミネ−ト皇帝はきっとご無事ですよ」
 メディオンの眉が微かに上がった。誘拐の知らせを聞いてから、誰も彼もが同じことを彼に言っていた。確証のない慰めに、メディオンは些か辟易していた。しかし、なんとかそれを抑えて、
「シンビオス殿。何を根拠にそんなことを?」
 訊き返す声が少し鋭くなったのは、まあ仕方ないだろう。
 シンビオスはそれに気付いているのかどうか、満面の笑みと共にこう答えたのだ。
「だって、ほら、『憎まれっ子世に憚る』っていうでしょう?」
 その可愛らしい笑顔と思いもかけなかった台詞に、メディオンは思わず、
「ああ、なるほど」
 と納得してしまったのだが…。

「----あの後、ベネトレイム様に酷く怒られたのですよ」
 シンビオスはクスクス笑って、
「『王子が許してくださったからいいようなものの、下手をすれば侮辱罪で処刑させるところなのだぞ』って。ダンタレスからは、次期領主としての自覚が足りないとくどくど小言を喰らうし、ジュリアンにはからかわれるし…」
「それは気の毒だったね」
 その様子を思い浮かべて、メディオンも楽し気に笑った。
「王子も…、本当はお気に障ったでしょう? 失礼なことを言ってごめんなさい」
「そんなことはないよ、シンビオス」
 メディオンはシンビオスの頭に顔を埋めて、いい香りのする柔らかい髪を撫でた。
「あの言葉のお陰で、私達は安心できたんだよ。キャンベルには私の守役としての立場があるし、グランタック殿も軍師としての体面を慮って何も言わなかったが…。シンテシスなどは感心していたよ。なかなか巧いことをいう、とね」
「まさか」
「本当だよ。そして私も、確信できたんだ。父がそう簡単に死ぬはずがないと。あの人はそう簡単に参ってしまう人じゃない。きっと無事だ、と」
 メディオンはちょっと肩を竦めて、
「それが、君にとっては有り難くない結果になったわけだけど」
「それは…」
 シンビオスは言葉を濁した。そのことはあまり思い出したくない。
「ベネトレイム殿の言う通り、下手をすれば自分の身が危険になるにも関わらず、君は私を元気づけようとしてくれた。だから私は…」
「ちょ、ちょっと待ってください、王子」
 シンビオスは慌ててメディオンの言葉を遮った。
「買い被りですよ! 私はそんな…」
 その唇を、メディオンは長い指で押さえて封じると、
「そんなことはいいんだよ、どっちでも。それはただのきっかけであって、私が君に魅かれたのは紛れもない事実なのだから」
「ですが…」
 釈然としない様子で、シンビオスは呟く。メディオンは彼の髪にキスして、
「まだ続きがあるんだよ。…アスピアで詫びた私に、君はこう言ったね?」
『あまりご自分を責めないでください、メディオン王子。母君を救うためだったと、みなは承知していますから。それより、私の方こそ貴男に酷いことを…。貴男は何度も私を助けてくださったのに、その気持ちを疑うようなことを言ってしまいました。どうかお許しください』
 それを聴いたとき、私は君を愛おしく思ったんだ。いつも他人のことを気にかける君を護りたいと」
 メディオンはシンビオスの体を抱き寄せた。
「それは私だけじゃない、シンビオス。ダンタレス殿も、マスキュリン殿もグレイス殿も…。君の周りにいる総ての人達がそう思っているんだよ。シンビオス、もっと私達に甘えてくれないか」
「メディオン王子…」
 そうして腕の中にくるまれているうちに、生まれて初めて心の底からの安らぎを、シンビオスは感じた。
「ありがとうございます」
 そっと囁くその唇に、メディオンは溢れる想いを込めて口付ける。

 ----若い二人にとって夜はまだ長く、新しい世界は始まりを告げたばかりだった。


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