フラガルド城の中庭には、白樺やポプラや桜、松やイチョウやカエデといった見事な樹木が沢山ある。
 中でも一際立派なのが、中央にある柏の木だ。
 20年前のフラガルド城建立の際、この柏の木が中庭の一番いい位置に来るように設計された、ということから判る通り、当時からかなり堂々とした大木だった。
 そして、優しい雰囲気を持った木であった。
 フラガルド城の人々は、皆この木を愛した。
 側に設えられたベンチで、領主の妻は幼い娘と共に本を読んだり、昼食を取ったり、お茶の時間を過ごすのが好きだった。
 領主も、職務に疲れたときにはこの木の側で休んだ。
 従者達も、庭の手入れの時や、あるいは稽古のあとなどに、この木の側で疲れた体を癒した。

 ある晩秋の黄昏時、領主の妻が、彼女独特の踊るような弾む足取りで、すっかり葉を落とした柏の下にやって来た。太い幹に腕を廻して、
「自分では間違いないと思うの。でも、検査を受けてはっきりしてからじゃないと、誰にも言えないわ。----ああ、黙っているのが辛いの。あなたは口が堅いと思うから、私と秘密を共有してちょうだい」
 領主の妻は大きく息をついた。ほんのりと頬を染めて、
「子供を授かったみたいなの。----夢みたいな気分よ! 今度はどっちかしら----女の子は経験したから、男の子を育ててみたいわ。----でも、とにかく無事に産まれてきて欲しい----あなたも、見守っていてね」
 数週間後、今度は幼い娘がやって来た。
「今度、妹か弟ができるの! 今まで一人っ子だったから嬉しいわ----本当は、お兄さんかお姉さんが欲しかったのだけど、今からじゃ仕方ないものね」

 それからすぐに雪が降り始めた。
 中庭も当然雪に埋もれ、噴水も、ベンチも、木々の根元もすっかり覆い隠された。
 まだ目立たぬお腹を愛おしそうに撫でながら、領主の妻は暖かい部屋の中で、中庭の雪景色を眺めて過ごした。

 フラガルドにも、ようやく春の気配が感じられるようになってきた。
 すっかり大きくなったお腹を抱えて、領主の妻はすっかり雪の消えた中庭を散策し始めた。
 クロッカスの芽を見つけてははしゃぎ、桜のつぼみを確認しては目を細める様は、まるで若い娘のようだ。
 ゆっくりと、しかし確実に春は訪れる。
 ようやく、中庭の梅や桜、パンジーなどが咲き始めてきた。木々の枝からも、若い芽がおずおずと頭を伸ばし始める。
 そんなある夜明け前、城の中がにわかに騒がしくなった。
 女達が、廊下をばたばたと行き交う。
 領主がそっと中庭に出てきた。
 腕を組んで、落ち着かなげに柏の前をうろうろする。
「----こんなとき、男は無力だな」
 柏の幹に右手を当てて、領主は呟いた。
「待って、祈ることしかできん。どうか無事に産まれてきてくれ----」
 語尾に重なるように、元気な産声が聞こえてきた。弾かれたように、領主は城の中へと駆け込んでいった。

 城中----いや、街中が、新しい命と共に訪れた幸せに酔いしれている。
 赤子を抱いた領主の妻が、今や姉となった娘と共に中庭に出てくるようになった。
 以前よりも透き通るように白く、幾分ほっそりとしたようだが、その顔には喜びが溢れている。
 やがて冬を越し、再び春が訪れると、赤子はつかまり立ちができるまでに成長していた。そして夏には、母と姉に手を引かれて、覚束ない足取りながらも歩き始めた。そして、たどたどしく話し出す。
 ----この数年間が、この城で一番幸せなときだっただろう。

 悲しみは突然やって来た。
 初秋の頃から、領主の妻は中庭に出てこなくなった。
 代わりに娘と、3人の従者が、幼い息子の遊び相手になっていた。彼らはとびきり明るく振る舞っていたが、子供のいない所では一様に暗い表情を見せた。
 夜更けには、柏の側のベンチに、領主がただ黙って座っていることが多くなった。

 雪が降り始めると、幼い息子に付き合って、姉や従者達は雪遊びを始めた。
 だが、この年の冬はいつにも増して吹雪の日が多く、気温も低い日が続き、遊びたい盛りの子供も家の中で過ごすことが増えた。
 そしてある夕方----
 晴れている分、気温の下がった日だった。
 街に、追悼の鐘が響き渡った。
 姉は、まだ頑是無い弟を抱き締めて泣いた。
 弟は、そんな姉の様子に不安を感じて泣き出した。
 逞しいケンタウロスが弟を抱き上げ、優しいキャントールとエルフが、自分も涙を流しながら姉を抱き締める。
 そして領主は、冷たい妻の手を握り続けた。

 真夜中、悲しみに沈んだ城の中から、領主は雪深い中庭に出た。
 月明かりが雪に反射して白く輝いている。
 腿の辺りまで積もった雪を踏み分けながら、領主は柏の下に行った。
 幹に腕を当て、額を押しつける。肩が震えた。
 小一時間ほど経っただろうか。寒さが身に凍みる。しかし、領主は動かなかった。もうどうでもいい、と思った。このまま冷え切って、凍りついてしまえたら----
「----コムラード様」
 ケンタウロスが、雪を踏み分けてやって来た。そっと、領主の肩に手をかけて、
「お体に障ります。どうか、中へ…」
 今の立場では、それも叶わぬ身であった。領主は頷いた。
 肩を落とした領主を支えるように、ケンタウロスは歩き出した。

 幼い息子は、父や姉、従者達の愛情を一身に受けて、優しく真っ直ぐに育っている。
 最近では学問と、剣の稽古を始めた。
 学問は父の友人である学者から、剣術は父から習っているが、二人とも忙しい身なので、週に1,2回ほどしか相手をできない。従って、それぞれに代理がいた。学問は姉、そして剣術の方はマロリー領主の息子だ。
 この領主の息子は、明るくおおらかな男で、あの日以来静かになったフラガルド城に、楽しい風を吹き込んでくれた。
 そして、年頃になった姉娘が、柏の木の下で彼と愛を語るようになった。
 1年後、マロリー領主が大往生し、彼が跡を継ぐことになった。以前のように、しょっちゅうフラガルドに出入りすることはなくなったが、娘への愛は以前とまったく変わらなかった。
 そしてある日、いつものベンチに睦まじく腰掛けていたとき、若いマロリー領主は娘に永遠の愛を誓った。

 年が変わった頃から、フラガルド城は初夏の婚礼に向けて動き始めた。久々の、明るい話題である。城中が浮き足立っていた。
 本人にとっては長いときが過ぎ、フラガルド中にようやく、初夏を告げるライラックが咲き始めた。
 いよいよ婚礼が明日に迫った日、娘は中庭で花を摘んでいた。母の墓に供えるためだ。
「お母様が生きてらしたら、どんなお言葉をくださるかしら?」
 切なげに呟いて、娘は中庭を去った。
 その日の夜中、やはり眠れないのだろう、娘は再び中庭にやって来た。柏の幹に抱き付いて、
「----ああ、こうしていると、お母様に抱かれているみたい。…勿論、あなたの方がずっと体が固いけれどね」
 風が吹いて、葉擦れの音が優しく娘を包んだ。
「とうとう明日なんだわ----幸せで不安で、嬉しくて寂しいの。新しい生活に飛び込むって、勇気がいるわね。今までの生活を捨てなきゃならない----ああ、こんな気持ちで、明日大丈夫かしら? 気絶するか、逃げ出したくなるんじゃないかしら。----マスキュリンは、『今まで沢山の人が結婚して、なんでもなく普通に生活してるんだから、そんな怖がることでもないんですよ』って言うんだけど…、…彼女だってまだ経験してないことだものね」
 幹に頬を当てて、娘は目を閉じた。葉擦れの音に耳を澄ませているうちに落ち着いたのだろう。大きく深呼吸して、
「----そうよ。トラスティンと結婚するんだもの。なんにも心配することはないんだわ。----これが他の誰かなら…、…いいえ、そんなこと想像もできないわね」
 小さく笑って、娘は柏にキスした。
「----さ、もう寝ましょ。眠れるかどうかは解らないけど…。でも、緊張と寝不足で気絶する花嫁なんて、花婿に嫌われちゃうわ」

 翌日、緊張も寝不足も感じさせないほど美しい花嫁は、逞しい花婿に腕を取られて、懐かしい町を去っていった。
 領主は、妻の墓に報告に行った後、かなり長い時間を中庭のベンチで過ごした。

 それから数年は、平和に過ぎていった。
 領主も、そしてその息子も、相変わらず柏の下で憩いの時を過ごした。特に息子の方は、いなくなった母や姉の穴を埋めるように、この木を愛した。この木は、もう覚えていない母の面影を感じさせてくれる。幹に凭れて昼寝をしているとき、あるいは枝に腰掛けて本を読んでいるとき、まるで母に抱かれているような安らぎを覚えるのだ。

 ある夏の日。
 まだあどけないながら大人の顔を時折覗かせる領主の息子は、憂鬱そうに柏の根元に座り込んだ。
「バーランドが占領された----戦争になるんだろうか? よりによって、父上の体調が優れないこんなときに!」
 息を吐いて天を仰ぐ。生い茂った葉に遮られて柔らかくなった木漏れ日が覗く。気温の高い日でも、この木を巡る風は涼しく、そして優しい。
「ぼくに、父の代わりが務まるんだろうか。----共和国の首脳陣は、ぼくからしたらみんな父親ぐらいの歳だ。----それに、なによりあの皇帝が----」
 領主の息子は頭を抱えて暫く動かなかった。
「……………」
 風が柏の葉を揺すり、穏やかな音を立てながら吹きすぎていく。
「----駄目だ、しっかりしなきゃ。父上の名を辱めることになる」
 決然と立ち上がり、領主の息子は確かな足取りで城に入っていった。

 領主ただ一人が中庭で過ごすようになったある日、フラガルドが邪悪な心に支配された。
 続いて怒りが渦巻き、----最後には悲しみが町を覆った。
 数年前の、あのときのように。
 そして息子は、かつて父がしたように、柏の木に縋って声も出さずに泣いた。

 それから数週間、中庭はひっそりとし、柏は孤独だった。
 それでも、訪れる風は優しく葉を揺らし、心に凍みる音を庭に響かせる。
 ある時、城を守る使用人は、中庭の空気が異様に冷たく重くなったのを感じた。葉擦れの音ももの哀しげに聞こえるようだ。
 後で判明したのだが、このとき領主の息子が生命の危機に晒されていたという。

 領主の息子は----いや、今や父の跡を継いで新しい領主になった----悪しき企みをうち砕き、懐かしい城に戻ってきた。
「ただいま」
 ひっそりと、若き領主は呟いた。
「まったく、なんて日々だったろう。----でも、まだまだこれからも大変なんだ」
 いつものように柏の根本に座って、
「父上も、もういない。…みんなが手伝ってくれるとはいえ----辛いよ」
 幹に頭を押しつけ、空を仰ぐ。
 ふ、と影が差した。
 若い領主の前に、金髪の若い男が立っている。腰を屈めて、手を差し伸べてきた。
 領主は微笑んで、その手をしっかりと握った。


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