喧嘩するほど仲がいい、という言葉がある。
 メディオンとシンビオスの二人には、まったく当てはまらない言葉だった。何しろこの二人、仲がよすぎて喧嘩など数えるほどしかしていない。
 メディオンがフラガルドで暮らすようになってそろそろ1年が経とうとしているが、二人は相変わらずラブラブなバカップルぶりであった。いや、むしろ1年前よりもずっと激しくなったと言ってよいだろう。
 とはいえ勿論、理性的な二人のこと。他人の前では良識ある普通の恋人として、度が過ぎない振る舞いをしているが、二人っきりになった途端、もうどうしようもなくなってしまうのだった。

 さて、今夜も相変わらず仲のいい二人で----、なにせ、暑い、暑いとは言っても、そこはフラガルドの夏だ。
 シンビオスとメディオンがマロリーから戻って一週間もすると、朝晩の空気に秋の気配が感じられるようになってきた。寄り添って眠っても、さほど不愉快には感じられない。
 メディオンの胸に頬を乗せて、シンビオスは心地よい疲れからくる眠気に身を任せようとしていた。髪を梳いてくれるメディオンの指の感触も気持ちいい。
「----だね、シンビオス」
 メディオンの呼びかけに、シンビオスは眠い目を彼に向けた。
「ん、なに?」
 寝ぼけた声を出す。
「ごめん。寝てた?」
 シンビオスの髪を撫でている手とは違う方で、メディオンはシンビオスの頬を包んだ。
「そうみたい」
 シンビオスはその手を取って、口元に引き寄せた。硬く肉厚の掌に口付けて、
「前半、聞き逃した。もう一回言ってよ」
「うん。『そろそろだね』って言ったんだけど」
「そろそろ? 何が?」
 シンビオスは眠くて頭がよく働かないので、メディオンから教えてもらおうとした。
 だが、メディオンは、
「いや、判らないならいいんだ」
 あっさり引き下がってしまう。
 こういう言い方をされては、シンビオスも気になって仕方がない。何がいいんだ、という感じである。
「よくないよ! ----大体、メディオンのそういう、自分だけ判ってるような態度って、ちょっと気に障るんだよ」
 普段のシンビオスならこんな理不尽なことは言わない。だが今は眠いせいもあってか、つい喧嘩腰になってしまう。
 普通ならここで相手もがっつりと言い返してきて、果てしなく泥沼で不毛な喧嘩が始まるのだろうが、
「うん、そうだね。ごめん、シンビオス。これから気を付けるよ」
 メディオンは素直に謝った。確かにシンビオスの言う通りだと思ったからだ。
 シンビオスも、少し目が覚めてきて冷静になり、強く言いすぎたと後悔した。
「----じゃあ教えてよ。何がそろそろなの?」
 幾分柔らかい口調で尋ね直す。
「うん。…私がフラガルドで暮らすようになったのが、去年の今頃だったよね」
「あ…、そうだったね」
 シンビオスは、今度はちょっと決まりが悪い心持ちになった。というのも、何日か前に彼自身も同じことを考えていたのだ。いくら寝惚けていたとはいえ、そのことにすぐ思い当たらず、しかもメディオンにきつい口を利いてしまった。
「ごめん、メディオン」
「うん? 何が?」
「ん、いや、いいんだ。なんでもないよ」
 曖昧に答えるシンビオスの顎を、メディオンは指で持ち上げて、
「よくない。君だって、自分一人だけで判ってるじゃないか」
「…う…、そう言われれば…」
 ますますシンビオスは恥ずかしくなった。
 メディオンはシンビオスの唇に柔らかく口付けながら、
「じゃあ、話してごらん。なんで謝ったりしたんだい?」
 こうなるといけない。理性までも融かされてしまう。シンビオスは素直に告白した。
「----なんだ。そんなことでいちいち謝らなくてもいいのに」
 メディオンは破顔した。
「本当に君は、律儀というか、真面目というか…」
 ぎゅ、とシンビオスの体を抱き寄せる。
「そういうところが好きだよ」
 こうなるとシンビオスも、先ほどまでの眠気などどこかに飛んでいってしまうのだった。

 日中の二人は、夜の反動からか酷く真面目だ。
 執務室で二人っきりになっても、交わされるのは甘い愛の囁きなどではなく、お堅い仕事の話ばかりだ。その辺り、はっきりとけじめをつけている。
「今年の農作物の生産量は、去年の約1.5倍だって」
「日照時間、気温、雨の量…、総てにおいて完璧と言っていい具合だったからね」
「来年もこうだといいけど…。難しいかな。元々やせた土地だしなぁ…」
 フラガルドはコムラードの時代から農地改革を進めていたためまだましな方だが、それでもここ数年不作が続いている。今までの備蓄があったので何とかしのげたようなものだ。
「そうだね。ここ数年のデータによれば、酷く天候不順のようだ。今年こんなに恵まれた天気だったのは、奇跡に近いかも」
「まったくね。天気はよくても気温が低かったり、長雨続きで作物が駄目になっちゃったり。そのせいで内乱まで起こっちゃうんだもんな」
 シンビオスはうんざりといった様子で呟いた。
「ああ、そうだったね」
 メディオンは書類から顔を上げた。彼にとってはデータ上の情報でしかないが、シンビオスにとっては重くのしかかる実体験なのだ。いや、よく考えたらメディオンにも深く関わっている。なにしろ、皇帝が共和国に攻め入った原因になったのが、共和国の凶作による内乱なのである。
 あの辛かった日々をメディオンは思い返した。あんな思いは二度としたくないし、シンビオスにもさせたくない。そのためにできることは----
「領民のみなさんが安心して暮らせるようにするのが、領主の仕事だもんね」
 シンビオスが先に、答えを口にした。
「みんなが不安にならないように、いつでも最悪の事態を予想して、それに対してきちんと対策を立てておく----心配性の人こそ領主に相応しいって父上がよく言ってたけど、今になってそれがよく解るよ」
 父コムラードのことを、シンビオスは懐かしく思い出した。こっそり執務室に入った幼い頃、シンビオスの目に映ったのは、厳しい表情を貼り付けた父の横顔だった。こんな怖い顔をしてるのは本当の父さま? ニセモノなんじゃ…? シンビオスが不安で泣きそうになったとき、気配に気付いたコムラードがこちらを見た。幼い息子の姿を認めて、優しい微笑が浮かぶ。
『どうした? シンビオス。泣きそうな顔をして。何かあったのか?』
 穏やかな声も間違いなく父のもので、シンビオスはやっと安心してコムラードの許に駆け寄ったのだ。
 シンビオスはそのときコムラードに、父さま、どこか痛いの? とか、苦しいの? とかそんなことを訊いたような気がする。
 コムラードは笑いながらシンビオスを膝の上に抱き上げて、大丈夫だ、と答えた。
「私は一人じゃないからね、シンビオス。護るべき人々、共に歩む同志----ベネトレイムやパルシス、忠義を持って寄り添ってくれる者達----ダンタレス、マスキュリン、グレイス、そして心の支えになる子供達----おまえとマーガレットがいる。そうだ、シンビオス、おまえ達がいるからこそ、私は痛くても苦しくても頑張れるんだよ。おまえ達が大人になったとき、この国がもっといい国になっているようにしたいからね」
 まだ子供だったシンビオスには、コムラードの言葉の意味が半分しか解らなかった。すなわち、結局父さまは痛くて苦しいこと、そしてシンビオス(とマーガレット)のことを大好きだということだ。
 同じ立場になった今、父が本当に言いたかったことをシンビオスは理解している。
 一緒にいてくれる仲間がいれば、痛いことも苦しいことも半分になる。
 大切な人達のためなら幾らでも進んでいける。
 今のシンビオスにも、そんな人達が大勢いる。
 フラガルドの領民達。城で働いている人達。姉と彼女の家族。遠征軍の仲間達。ダンタレス、マスキュリン、グレイス。そして----メディオン。
 領主になったばかりの頃は全く余裕がなくて、自分を支えてくれる人達がいることに、シンビオスは思いが及ばなかった。
 自分一人だけで総てを背負っているのだと考えていた。
 だが実際にはそうではなかった。気付いていなかっただけで、シンビオスはダンタレス、マスキュリン、グレイスの3人を心の支えとして感じていたのだ。
 そうでなければ、もっと早くに駄目になっていたに違いない。
 示してくれたのはメディオンだった。
 自分は独りじゃないこと----ずっと前から独りじゃなかったこと。支えてくれていた人達がいたこと。気付いていなかっただけだということ。
 メディオンのおかげで心に余裕ができて、総てに思いを巡らせることができたのだ。
 もし一年前にメディオンがフラガルドに来てくれなかったら。
 ----今頃ぼくはどうなっていただろうか。
 切羽詰まった状態になっていただろうか。
 それとも、少しは余裕が出てきて、周りの人達の思いやりに自分で気が付けるようになっただろうか。
 ----そんなこと、今となっては判らないよな…。
 メディオンが傍にいてくれる。シンビオスは色々な人達に感謝している。
 それが今の現実だ。
 ----本当に、メディオンがいてくれて良かった。
 俯き加減で書類に目を落とすメディオンの顔をぼんやりと見つめながら、シンビオスはそう思った。
「----シンビオス? どうかしたのかい?」
 視線に気付いたメディオンが、顔を上げて尋ねてくる。
「ううん、別に」
 シンビオスは首を振った。今は仕事の時間だ。
「この出来高から、今年はどのくらいの量を備蓄に回せるかな」
「そうだね。需要と供給のバランスを考えて…----」
 資料と格闘しつつ、2人は領民達のより良い生活のために仕事を続けていった。

 昼食を済ませた後、シンビオスとメディオンは町を回ってみることにした。
 これはコムラードの時代からの変わらぬ習慣だった。父が元気なときは一緒に、父が体調を崩してからはダンタレスと、そして今はメディオンと共にシンビオスは町に行く。
 領民達の声を直接聴きたい、というのが、シンビオスが受け継いだコムラードの信念であった。
 領民達にもすっかりなじみ深い習慣なので、みな忌憚のない意見を言ってくる。中にはシンビオスが考えつかなかったようなものもあったりして、とても為になるし助けにもなる。
 シンビオスは素直に頭を下げて、
「----ありがとうございます。参考にします」
 と真摯に受け止めれば、相手は嬉しそうに、
「頼みますよ、領主様。期待してますからね!」
 と激励してくれる。
 たまには、
「ああ、シンビオス様。この前のあれ、ちゃんと改善して下さって。ありがとうございました」
 と感謝の意を示してくれることもある。
「いえ。私は気付かなかったので…。教えて下さって助かりました。また何かありましたらお願いします」
「あ、いえいえ。こちらこそお願いします」
 といった感じで、シンビオスとフラガルドの住人達はまさに『相思相愛』だった。
 フラガルドに来てまもなくの頃----まだお客の立場だったメディオンは、町を回るシンビオスに付いていって初めてこの光景を見、驚愕したものだった。
 帝国でも皇帝が視察に出ることはあるが、住民達の意見を聴いて回ったりはしない。
 住人達も皇帝に陳情したりしない。
 『共和の理念』というものに対して、帝国の人間の中にあっては理解力があると思っていたメディオンだが、実際に目にした光景は想像以上のものだった。
 領主と領民が意見を交わし、たまに熱い議論を戦わせたりする。
 メディオンは眼を開かれる思いだった。新しい世界を知ったときの心躍る希望感に包まれていく。
 事実メディオンはその日一日ずっと興奮気味で、
「本当の『共和の理念』ってこういうものだったんだ」
「ああやってお互い意見を----しかも冷静に現実的なことを言い合えるって素晴らしいことだ」
「シンビオス、君も、この町の人々もみんな素敵だね」
 と言い続けて、シンビオスを苦笑----なにしろ彼にとっては日常茶飯事だから----させた。
「そんな、大げさですよ、メディオン王子」
「私にとっては大げさじゃないよ。共和国に----この町に来て良かった。世界が広がったよ。今までよりずっとより良い世界がね」
 メディオンはシンビオスを抱きしめた。
「それになにより、ここには君がいる----シンビオス」
 愛情のみで形作られた苦笑を浮かべるシンビオスに、メディオンは何度も口付けたものだった。
 あのときの興奮を、メディオンは今でも忘れていない。
 むしろ、この町で日々過ごしていくうちにますます強くなっている。
 フラガルドのことを、今やメディオンはシンビオスと同じくらい----つまり、シンビオスがフラガルドを愛している気持ちと、メディオンのシンビオスに対する愛情と、両方の意味で----愛していた。
 ----本当に、ここに来て良かった。
 メディオンはつくづくそう思った。彼はここで総てを手に入れた。人生を懸けられる仕事、同じ処を目指す仲間達。心安らぐ故郷、そして----愛する人。
 相手の話に真剣に耳を傾けているシンビオスを、メディオンは目を細めて見つめた。
「----解りました。必ずお望みの通りに対処しますので」
「お願いします」
 会釈した相手が去っていくのを見送って、
「さ、そろそろ帰ろうか」
 シンビオスはメディオンを見上げて言った。
「そうだね。----いつの間にか陽も落ちてきた」
 晩夏の昼は段々と短くなってきている。傾きかけた陽が地面に長い影を伸ばしている。
 その影をお供に、二人は城へと戻っていった。

 夕食の席。
 マスキュリンがこう言い出した。
「----そういえば、メディオン様とキャンベル殿がフラガルドにいらしてから、そろそろ1年になりますね」
「おお! そういえば」
 ダンタレスが頷く。
 メディオンとシンビオスはこっそり目配せし合った。
「もう1年か…。…早いものですな、メディオン様」
 感慨深げにキャンベルが呟く。
「そうだな。過ぎてしまえばあっという間だ」
「色々ありましたわね」
 グレイスが懐かしそうに目を細めた。
「あったね、色々」
 シンビオスがしみじみ頷く。
 (義理だが)お見合い騒ぎがあったり、ジュリアンが来て城内で風邪が流行ったり、メディオンが皇帝に勘当されたり、皆で新年を迎えたり、ジュリアンが来てアスピアで会議があったり、アーサーが旅立っていったり、初の国民投票が行われたり、結果メディオンがシンビオスの副官になったり、可愛い姪が産まれたり----
 一つ一つの出来事がどれも特別なエピソードに溢れていて、皆は暫し思い出話に興じた。
 大体の話の種も出尽くした辺りで、マスキュリンがこう言い出した。
「----そういえばシンビオス様。一周年記念のお祝いとかなさらないんですか?」
「お祝い? ----するものなの?」
 シンビオスは目を瞬かせた。
「だって、あの日メディオン様達がいらっしゃらなかったら、今話したことが起こらなかった可能性だってありますよ? 今日のこの日だってなかったかもしれないし…。そう考えたら、やっぱり特別な日でしょう?」
 マスキュリンが楽しげな口調で述べる。
 確かに一理ある、とシンビオスは思った。
「そうだね。…ちょっと考えてみようかな」
 と言ったシンビオスの頭の中に、この時漠然とある考えが浮かびつつあった。

 部屋に戻ったシンビオスは、メディオンにその考えを伝えてみることにした。
「さっきマスキュリンが言ってたことなんだけど…、ちょっと考えがあって」
「なんだい? ----実を言うと、私も思ったことがあるんだ」
「え? ----どんな?」
 こんな返答がメディオンから戻ってくるとは思わなかった。シンビオスは訊き返した。
 しかしメディオンは首を振って、
「まず君の考えを聴きたいな、シンビオス。私のはその後で」
「そう? ----じゃあ…」
 シンビオスは、午前中の職務の時に考えていたことをメディオンに話した。すなわち、メディオンのお陰で心が落ち着いたこと。そのために、色々な人達からの助けに気付いたこと。メディオンに対するのと同じくらい、皆に感謝していること。
「メディオンのお陰でぼくは色々なことに気付けた。本当に感謝してる。----だからこそ、メディオンが来てくれた日を、ぼく達2人だけのものじゃなく、みんなにお礼を言う特別な日にしたいんだ」
 シンビオスの訴えを、メディオンは嬉しそうに、愛おしそうに聴いていた。
「シンビオス。…私も君と同じことを考えていたんだよ」
「…そうなの?」
「ああ。----この町は私を丸ごと受け入れてくれた。そして、総てを与えてくれた。愛する君や、大切な友や、やり甲斐のある仕事をね。ここは本当に私の故郷になったんだ」
 メディオンはシンビオスを抱きしめた。
「1年前、この町に来たときから、私の人生は始まったんだと思ってる。本当に来て良かった」
「…メディオン」
 シンビオスもメディオンを抱きしめた。伸び上がって、彼の唇にキスする。
 唇が離れかけたとき、メディオンがシンビオスの後頭部に手を当てて再び押し戻した。そのまま激しく蹂躙される。
「----…っふ…」
 シンビオスは吐息を漏らした。膝から力が抜けそうになる。メディオンにきつくしがみついた。
 メディオンはそのままシンビオスを抱き上げると、ベッドまで運んでいった。

 その日がやってきた。
 夕方過ぎに図書室に行ったマスキュリンは、そこにこの城の料理人がいるのを見て首を傾げた。
 もう夕食の支度をしているはずの時間である。
「どうしたの? 新しい料理の研究?」
 マスキュリンは声をかけてみた。
「ああ、マスキュリン。----違うんだ。坊ちゃんとメディオン様に、厨房から追い出されちまったのさ」
 料理人は朗らかに肩を竦めてみせた。彼はコムラードの代から厨房一筋で、シンビオスのことも大層可愛がっている。シンビオス『坊ちゃん』の為に美味しい料理を日々作るのが生き甲斐だ。
 マスキュリンもそれを承知しているので、シェフの答にますます首を傾げた。
「シンビオス様とメディオン様に? ----どうして?」
「いや、なんでも今日は特別な日だから、感謝の気持ちを込めてみんなに手料理を振る舞いたいって…」
「…お二人がそんなことを?」
「ああ。----どういう特別な日かは解らないが、お気持ちが嬉しいじゃないか」
「そうね」
 マスキュリンは頷いた。頭の中は忙しく考えを巡らせている。
 『特別な日』というのは例の一周年記念のことだろう。あのときマスキュリンが言った『お祝い』とは、シンビオスとメディオン、2人きりでロマンティックに、とのつもりだったのだが…。
 そうはならず、皆と一緒に祝おうとなるのがあの2人らしい。
 ----でも、『感謝』ってなにかしら…?
 予想外の方向に進んで悩むマスキュリンの許に、キャンベルがやってきた。
「夕飯の用意ができたので食堂に来てほしい、とお二人が」
 そう告げると、すぐに去っていく。
「お、できたか! ----ささ、行こうか、マスキュリン」
「そうね」
 料理人と連れだって食堂に行くと、廊下の反対側からグレイスとダンタレスがやってきた。マスキュリンは駆け寄って、
「グレイス! ----このこと、何か聞いてる?」
「いいえ。シンビオス様とメディオン様がご馳走して下さるとは伺ったけど、それ以上は何も…」
 グレイスは静かに首を振った。
「ダンタレス様は?」
「いや、俺も特には…」
 食堂の前で3人がそんな話をしているうちにも、城の者達がぞろぞろとやってきては食堂に入っていく。
「お! お主達、入り口で何をしているのだ」
 キャンベルがやって来た。彼が城の皆に声をかけて廻ったのだ。
「中に入らないのか? ----もう全員揃ったはずだが」
「キャンベル、一体何が…」
 ダンタレスの台詞に被せて、
「話は中でだ。さ、入った入った!」
 キャンベルは3人を中に押し込むと、そのまま厨房の方へ去っていく。
「あ、おい…」
「…取り敢えず、席に着きましょうか」
 グレイスが言う。
「そうね」
 マスキュリンは頷いて、3人は自分達の定位置に付いた。テーブルの上には、大皿にのった料理の数々が並んでいる。美味しそうな匂いが皆の食欲を刺激している。
 見回すと、城内の全員が集まっているようだ。これは、そう、メディオンとキャンベルの、フラガルドでの永久滞在の許可が出た、とシンビオスが告げた夜と同じだ。
 そのシンビオスとメディオン、そしてキャンベルが厨房から姿を見せた。
「----皆さん、揃ってますか?」
 シンビオスは食堂を見回して、
「お食事の前に、メディオンからお話があります」
 メディオンが前に進み出た。
「私もお腹が空いているので、短めに済ませます。ご安心下さい」
 少し笑いが起こった。
「私とキャンベルがフラガルドに来て、今日で丁度1年になります。
 この1年、特にこの城の方達には大変お世話になりました。幾ら感謝してもし足りない程です。
 この想いを皆さんにお伝えしたくて、今日はささやかですが心ばかりの手料理を用意させて頂きました。
 勿論彼には敵いませんが、」
 ここでメディオンが料理人の方に腕を差し伸べた。急に振られた料理人はきょとんとした後、恥ずかしげに頭を掻いて会釈する。再び笑いが起こった。
「----楽しんで頂けたら幸いです」
 メディオンと、キャンベルも一緒にお辞儀する。拍手が沸き起こった。
 シンビオス達3人は自分の席----ダンタレス、マスキュリン、グレイスが着いている----に向かった。シンビオスはグラスを掲げて、
「では、乾杯しましょう」
 その言葉に皆が立ち上がった。
 シンビオスは一人一人の顔を見回して、
「----私からも一言いいですか?
 領主になったばかりの頃、重圧に潰されそうだった私が耐えられたのは、皆さんの支えがあったからです。本当にどうもありがとう。
 そして、これからも宜しくお願いします」
「こちらこそ!」
 誰かが(しかも数人が同時に)応えた。再び拍手が起こる。
 シンビオスは嬉しそうな笑顔になった。
「では、皆様の幸せを願って。----乾杯!」
「「「「かんぱーい!」」」」
 グラスの触れ合う音が響いた。
「いただきまーす!」
「ああ、良い匂い!」
「あ、美味しいですよ、これ!」
 和気藹々とした雰囲気が食堂を包み込む。
「----さ、みんな食べて食べて」
 楽しそうに言いながら、シンビオスは料理を取り分けた。
「ありがとうございます。----それにしても、こんなことを計画なさってたなんて…」
 マスキュリンが少し悪戯っぽい調子で、
「教えて下されば、お手伝いしましたのに」
 シンビオスは首を振った。
「気持ちは嬉しいけど、そんなわけにはいかないよ。ぼく達がお礼を言いたい人達の中には君達だって含まれてるんだ。----いや、むしろ何よりぼくは君達に一番感謝してるんだからね」
 傍らでメディオンもキャンベルも頷いている。
「ありがとうございます、シンビオス様。----いただきます」
 ダンタレスは応えたが、言葉とは裏腹に中々手を出さなかった。
「どうしたのだ、ダンタレス」
 それに気付いたキャンベルが問う。
「いや…、----この料理、おまえも手伝ったのか? キャンベル」
「ああ。私もメディオン様と同じ想いだからな」
 キャンベルはにやりとして、
「とはいえ、私は料理は不得手だから、皿を出したり盛り付けを手伝ったり厨房からここまで運んだり、位しかしていないが」
「そうか。なら安心して食べられるな」
 ダンタレスも表情を緩めた。
「何だ、おぬし! 失礼な奴だな!」
 キャンベルが豪快に笑った。
 一緒に笑いながら、ダンタレスはやっと料理を口に運んだ。
「…うん、美味い。----美味いですよ、シンビオス様、メディオン様」
「そう。良かった」
「沢山召し上がって下さい」
 シンビオスとメディオンが微笑む。
「ええ。ありがとうございます」
 ----実はダンタレスがすぐに食べなかったのは、感激により胸が一杯になっていたからだった。そうとは言わず、わざとキャンベルのせいにしてみせたのだ。
 ダンタレスはあの日々のことを思い返していた。領主の重責に段々沈んでいくシンビオス。見守ることしかできない自分。----何の力にもなれていないと思っていたが、そうではなかった。自分達の存在が、少しはシンビオスの救いになっていたのだと判って、ダンタレスは喜んだ。
 ----これからもずっとシンビオス様をお護りしていこう。
 ダンタレスは決意を新たにした。
 マスキュリンは、メディオンが来たあの日のことを思い出していた。
 あの日メディオンはマスキュリンに、
「シンビオス殿は本当に、貴女達を頼りにしているはずです。誰かが傍にいて自分を見守ってくれていると感じるだけで、人は本当に安心できるものですよ」
 と言ってくれた。あの言葉にマスキュリンは救われたのだ。
 ----感謝しているのは私も同じです。本当にありがとう。
「…ホントに美味しい! ----ね、グレイス」
 マスキュリンははしゃいだ声を出した。
「ええ、本当に」
 グレイスはおっとりと微笑んだ。
 彼女はいつも、シンビオスの幸せを祈ってきた。彼の亡き母デイジーの分も。
 1年前の今日、メディオンがシンビオスに幸せをもたらしてくれた。それはグレイスにとっても大きな喜びだった。
 ----デイジー様。そしてコムラード様。シンビオス様はお幸せですわ。…これらかもずっと。
 グレイスは心の中でそっと呼びかけた。
「----あ、みなさん、お代わりありますからね」
 シンビオスが食堂中に声をかける。
「でも、デザートもありますから、お気を付けて」
 メディオンが続けた。
「大丈夫! 別腹ですから」
 マスキュリンがすかさず応えて、皆が笑った。
 皆大いに食べ、呑んだ。そして語り合った。コムラードの時代から今までの、この城の歴史を。悲しみ、喜び、総てのことを。
 デザートを食べ終わる頃になっても、いつまでもいつまでも話は尽きなかった。
 この日----今まで以上に結束が強まった、と全員が感じていた。

 先の話になるが、----シンビオスとメディオンはこの後も毎年同じ日に料理を振る舞い続けた。日頃の感謝を皆に伝える記念日として、この日はフラガルド城の歴史に新たに加えられたのである。


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