小さいシンビオスは塞いでいた。 領主の子息として不自由なく育てられ、母がいないながら、父や姉、そして従者達のみならず、町中の総ての人々から愛情を注がれている子供が、何を不満に思っているのかと、普通の大人なら首を傾げるだろう。自分の子供の頃を覚えているなら、些細なことでも大事件に感じたあの頃を思い出して、懐かしがるはずだ。 この夏、シンビオスは姉と(ダンタレス、グレイス、マスキュリンも当然一緒に)、マロリーに遊びに行くことになった。姉の婚約者が統治する町だ。 その婚約者----トラスティンが嫌いで行くのを嫌がっているのか、と思った人は早とちりだ。シンビオスはトラスティンが好きだった。明るくて朗らかで、面白いお兄さんだ。同じお兄さんでも、真面目な(ある意味堅い)ダンタレスとは違って、シンビオスと同じ子供のような態度で遊んでくれる。 シンビオスが苦手なのは、マロリー城で飼われている犬だった。 勿論、一緒に駆け回れる人懐っこい子犬とか、穏やかな目をした優しい大きな犬などは、シンビオスも好きだった。だが、そのマロリーにいる犬ときたら。 知らない人物を見ると、吠えるのだ。 いや、『吠える』という表現は似つかわしくない。その犬は、 「オゥオゥオゥオゥ、オ〜ゥオゥオゥ」 まるで、泣いているように鳴くのである。 マスキュリンが、 「なぁに、あの犬。嘆いてるみた〜い!」 と、大笑いしてから、フラガルドの仲間内では《嘆き犬》と呼ばれるようになった。本当は長ったらしく格調高い名前がついているのだが、誰もその名前で呼ばなかった。 大人達はみな笑っていたが、子供のシンビオスにとって、その犬の鳴き声は無気味だった。以前本で読んだ、『バンシー』を彷佛とさせた。死を予告しに現れる妖精である。 あの声を聴くのは嫌だ。そうとはいえ、トラスティンには逢いたい。シンビオスは一晩考えた末、姉に、 「姉さま、トラスティン兄さまにフラガルドにいらして頂けないんですか?」 と訴えた。 マーガレットはシンビオスを膝の上に抱き上げた。 「トラスティンは領主だから忙しいのよ、シンビオス。----それに、マロリーはここより涼しいから過ごしやすくってよ」 ここ数日、フラガルドでも暑い日が続いている。実際、シンビオスは夏バテ気味だった。マーガレットは、それで彼が元気がないと思っていた。 シンビオスは何も言えなくなった。「犬(の鳴き声)が恐いから行きたくない」なんて、男の子なのに情けないことは口にできない。子供とはいえ、プライドはあった。 シンビオスは、こくん、と頷いた。 マーガレットは、この聞き分けのいい弟の頬にキスして、膝から降ろした。 「いい子ね。----さ、おやつの時間だわ。グレイスに用意してもらいなさいな」 「はい」 シンビオスはぱたぱたと駆けていく。その背中に、 「----も待ってるわよ、シンビオス」 マーガレットは声をかけた。 「姉さま、誰ですって?」 シンビオスは振り向いて訊いた。子供の彼には難しい発音の言葉だったから、耳が反応しなかったのだ。 「《嘆き犬》よ」 マーガレットはクスクス笑った。これっぽっちも悪気はないようだ。 シンビオスは一瞬情けない顔をして、再び走っていった。 来てしまった以上、会わずに済ませるつもりだった。 だが。 トラスティンと副官のウィルマーに挨拶し、部屋に荷物を置いた後、 「ねえ、シンビオス様。《嘆き犬》にも挨拶しないと」 マスキュリンが言い出した。 シンビオスがうんともすんとも言わない内に、周りが面白がって同意してしまい、結果、シンビオスは引っ張られるようにして連れていかれた。 犬小屋の前に行くと、犬を繋いでいた鎖を、ウィルマーが手に取ったところだった。 シンビオスはグレイスの後ろに回り込んで、彼女の長いスカートにしがみついた。犬もそうだったが、シンビオスはウィルマーも苦手だった。無愛想だからだ。 「お散歩ですか?」 グレイスが声をかける。 ウィルマーは《嘆き犬》に目を落としたまま、 「そうですが、どうかしましたか?」 いつも通りの素っ気無い口調で尋ね返してくる。 「犬は元気かな、って思いまして」 マスキュリンは明るく答えた。 「ご覧の通りですよ」 ウィルマーの返事通り、《嘆き犬》は彼の足下を落ち着きなく右往左往していた。それからおもむろに、 「オォ〜ゥオゥオゥ、オ〜ゥオゥオゥオォ〜ゥオゥ」 と嘆き出す。 シンビオスは身震いした。 ウィルマーは犬の鎖を強く引いて、 「静…に! ----! 静…に…ろ!」 呼び掛けたものの、激しい嘆き声にかき消されてしまっている。 ついに、マスキュリンが吹き出した。 「あはは! 嘆いてる嘆いてる〜!」 お腹を抱えて爆笑する。 「おいおい、マスキュリン」 と窘めながらも、ついつられてダンタレスも、更にグレイスまでもが笑い出した。 ウィルマーが口許に握りこぶしを当てる。その前に、口許が綻んでいたのを、シンビオスは見逃さなかった。目許も緩んでいるようだ。シンビオスは意外に感じた。なんとなく、ウィルマーは笑わないんじゃないか、と勝手に思っていたのだ。 実は、ウィルマーが無愛想なのは、性格のせいもあるのだが、若さ故の照れと、子供に慣れていないための戸惑いがあるからだった。後々になって、シンビオスはそれに気付くのだが、今はまだ子供なため、ただ不思議がっていた。 《嘆き犬》は、自分が笑われていると解ったのだろう。嘆くのをやめてしまった。 「----あら、終わっちゃった」 マスキュリンがつまらなそうに言った。 ウィルマーは咳払いを一つして、 「ご用がなければ、散歩に出たいのですが」 「まあ、ごめんなさいね」 グレイスがおっとりと頭を下げる。 ウィルマーと《嘆き犬》はすたすたと行ってしまった。 「----余程決まりが悪かったらしいな」 ダンタレスが呟く。 「あれだけ笑えば当然か」 「でも、ダンタレス様、笑わずにはいられませんよ。あんな鳴き声を聴いちゃねぇ」 マスキュリンはまたしても笑いながら、 「ね、シンビオス様も、面白かったでしょ?」 いきなり鉾先が自分に向いて、シンビオスは目を瞬かせた。 「う、うん。そうだね」 曖昧に頷く。犬は無気味だったが、ウィルマーの珍しい表情は興味深かったから、嘘はついていない。 笑い過ぎて喉が乾いた一同は、城の中に戻ってお茶を貰うことにした。 フラガルドではお茶を入れる立場のグレイスも、ここではお客様だからただ座っていればいい。却ってそれが落ち着かないようだ。居心地悪そうに椅子の上で動いて、 「グレイスったら。じっと座ってなさいよ」 マスキュリンに注意されている。いつもとまるで逆だ。 「だってマスキュリン。何もしないでいるなんて、なんだか落ち着かないの」 グレイスはそわそわと言った。 「いいの。ここではお客様なんだから」 マスキュリンはのんびりとお茶を飲んで、 「----おいしい。でも、グレイスの方が淹れるの上手ね」 「マスキュリンったら」 グレイスは苦笑した。 シンビオスも黙ってお茶を飲みながら、グレイスとマスキュリンのやり取りを、物珍しそうに眺めていた。こんなグレイスは滅多にない。 ----この町にいると、みんな違っちゃうのかな? シンビオスはダンタレスに目線を移した。彼もどこか違うのだろうか。 「----シンビオス様、どうかなさいましたか?」 幼い主の熱心な視線に気付いて、ダンタレスは少しどきどきしながら訊いた。 「なんでもない」 シンビオスはふい、と視線を逸らせた。ダンタレスはいつもと変わらないようだ。シンビオスはちょっと安心しかけて、すぐに考え直した。 あの姉も、この町では----特に、トラスティンと一緒のときには、まるで別人のようだ。『姉』が『見知らぬ人』のように感じられたことが、この町では今までに何度もあった。 ----ダンタレスもそのうち変わっちゃうかもしれない。…それに、ぼくも…? 別の人になってしまうんだろうか。 自分の考えに恐ろしくなったシンビオスは、いたたまれなくなって子供用の高い椅子から降りた。 「シ、シンビオス様?」 ダンタレスが目を丸くする。そのぐらいの勢いだったのだ。 「なんでもない!」 シンビオスは叫んで、食堂から飛び出した。闇雲に城の中を走る。シンビオスはフラガルドに帰りたかった。でも、そんな我が儘は言えない。それに、理由を問われても、曖昧すぎるから許してもらえないだろう。 シンビオスはいつの間にか、裏庭に来ていた。丁度、向こうからウィルマーが、《嘆き犬》を連れて戻ってくる。 犬がシンビオスを見つけて、足を止めた。ウィルマーが鎖を引いても進もうとせず、その場をうろうろし始める。これは例の『嘆き』の前兆だ。 シンビオスは回れ右をして、城の中に駆け込んだ。背後から、陰気な嘆き声が追い掛けてくる気がする。シンビオスは長い廊下を走った。 曲り角で、誰かと追突しそうになった。 「おっと」 と声を上げて巧く避けてくれたのは、トラスティンだった。 「----シンビオス? そんなに走ったら危ないよ」 笑いながら、シンビオスの柔らかい髪を大きい手でくしゃくしゃにする。 「ご、ごめんなさい、トラスティン兄さま…」 シンビオスは息をついた。少なくとも、彼はシンビオスが知っているトラスティンだ。 トラスティンはシンビオスの顔を覗き込んで、 「顔色が悪いな。疲れたんじゃないか?」 そういえば、シンビオスが夏バテしているらしい、とマーガレットから聞かされている。だが、それとは違うようだ。 「…その顔は、悩みがある顔だな」 シンビオスはびっくりして、トラスティンを見つめた。 「当たりか。----どれ、お兄さんに話してごらん?」 トラスティンは真摯に、そして優しく言ってくる。 「…笑いませんか?」 シンビオスは恐る恐る訊いた。 「誓って」 トラスティンは胸に手を当てて、重々しく頷く。 シンビオスは、彼の小さな胸を重くしている悩みを打ち明けた。 聴いている間、トラスティンは何度も吹き出しそうになったが、寸でのところで堪えた。ここで笑ってしまったら、シンビオスからの信頼をなくしてしまう。この可愛らしい未来の弟を失うのは避けたかった。 「----まず、あの犬だけどね、シンビオス」 トラスティンは言葉を慎重に選びながら、 「あれがあの子の鳴き方なんだ。別に嘆いてるんじゃなくて、普通に鳴いてるんだ。それが、嘆いてるように聞こえちゃうんだね」 「そうなんですか?」 シンビオスは半信半疑だった。今まで、あんな鳴き方をする犬に会ったことはない。 「いいかい、シンビオス。犬にも色々なタイプがあるんだ。人だってそうだろう? みんな同じなんてありえないんだよ」 噛んで含めるようなトラスティンの説明に、シンビオスは頷いた。自分やダンタレス、マスキュリン、グレイスはみな違う、というのと同じようなことなのだろう。 「じゃあ、グレイスや姉さまが、別人みたいになっちゃったのは?」 こっちの方が、今のシンビオスには切実な問題だった。 「グレイスの方は簡単さ。慣れてないことをしてるから、戸惑ってるんだよ。君も、いつもと違うことをしようとすると不安だろう?」 こちらの説明もよく解った。だが、まだ疑問は残っている。 「姉さまは?」 シンビオスは追及した。 トラスティンは照れたような笑みを浮かべて、 「それは…僕と一緒だからだと思うよ」 「???」 シンビオスは顔中を疑問符にした。 「つまり、君と話すときには、マーガレットは姉として接するけど、僕と話すときは恋人として接してるんだ。----君も、ダンタレスと話すときと、僕と話すときとじゃ違うだろう?」 シンビオスは、今度は首を傾げた。そんなこと、別に意識していなかった。誰に対しても、シンビオスは同じように接してきたつもりだった。 トラスティンは微笑んで、 「君に好きな人ができたら解るだろう、シンビオス。君自身意識していなくても、自然とそういう風になってしまうものだよ」 と言うと、再びシンビオスの頭を撫でて、廊下を去っていった。 シンビオスは巧くはぐらかされたような気がして、暫くそこに立ち尽くしていた。 あのトラスティンの言葉が事実だとシンビオスが知ったのは、メディオンに逢ったからだ。 彼の傍にいると、他の誰に対するのとも違う感情が湧き出てくる。メディオンの一挙手一投足に胸が高鳴ったり、逆に切なくなったりして、そんなときには、決まって姉のことを思い出した。トラスティンと幸せそうに語らっている姿が思い浮かぶ。 ----周りから見ると、ぼくもあんな風に見えるのかな。 そう考えるとなんとも恥ずかしいが、それが心地よくもあった。自分にとってメディオンが特別な人と思えるからだ。 そういう相手がいるのは、とても励みになる。 シンビオスは大人になったのだ。《嘆き犬》の鳴き声に怯えていた子供はもういない。当時のことを思い出すと、シンビオスはおかしくて仕方がなかった。今聴けば滑稽な鳴き声を、なんで自分はあんなに怖がっていたのだろう。 今度はメディオンと一緒に、マロリーを訪れてみよう。 《嘆き犬》の嘆き声が、きっと二人を歓迎してくれるに違いない。 |