やっと、今週最後の仕事が終わった。
 シンビオスはペンを置くと、椅子に座ったまま大きく伸びをした。
 窓から中庭を眺めると、まだ陽は充分高い。予定していた時間より早く、仕事が済んだのだ。
 今日の夕方には、メディオンが泊まりにやってくる。明日一日の休暇を一緒に過ごして、明後日の朝アスピアに戻る、というスケジュールだ。
 シンビオスが今日まで仕事なため、メディオンの到着は夕飯の時間くらいになる。まだかなり間がありそうだ。
 シンビオスは、執務室の窓から中庭に出た。勿論、本来なら、長い廊下を通ってちゃんとしたドアから出るべきだろうが、暑くて面倒になったのである。
 強い日差しは、服越しの肌にも突き刺さるようだ。時折吹く風は涼しいものの、肌を冷ますまでには至らない。ひっきりなしに鳴く蝉の声が、暑苦しさを倍増させる。
 その蝉の声を縫って、涼しげな水音が耳に心地いい。中庭の中央で水をきらめかせている噴水である。
 シンビオスは辺りを見回した。誰もいないのを確認すると、その唇に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。噴水の縁に手をかけ、服を着たまま水の中にするりと滑り込んだ。深さは膝丈ほどだ。吹き上げられて落ちてくる水の下に立って頭から浴びたり、肘をついた体勢で仰向けに寝てみたりする。
 冷たい水が、頭を、肌を、全身を冷やしていく。あまりの心地よさに、シンビオスは目を閉じた。
 この一週間、体がずっと熱かったのは、勿論暑い日が続いたせいだ。だが、それ以外の理由があることも、シンビオスは解っていた。
 週に一度の逢瀬のみで、若いシンビオスが、そうそう体の熱を抑えられるものではない。
 前に逢ったときから時間が経てば経つほど、体の芯が燻っているような、もやもやした感じになってくる。夏の暑さが、ますますその感覚を増幅させる。今日はまさにピークだ。
 冷たいシャワーで物理的に冷やして日々耐えてきたが、今日はその必要はない。メディオンに逢えるからだ。それでも噴水で水浴びしてるのは、まだ時間があるのと、やはり気温の高さに耐えきれなくなったため、であった。
 ----ああ、早く秋にならないかな。
 涼しくなれば、体の熱も今ほど酷くならないだろう。そうすれば、より耐えやすくなる。生真面目な性質のシンビオスは、こんなふうに欲求不満になる自分が、淫らというか、不健康というか、とにかく『いけないこと』のような気がして恥ずかしい。ストイックに生きてきた者は、欲望に流され突き進むことには、罪悪感を覚えるのである。
 頭が冷えてきて、少しすっきりした気分になる。シンビオスは噴水から出た。水を含んだ服が肌に張り付いて、強い日差しを抑えてくれる。それでも、この暑さならすぐに乾いてしまいそうだ。
 水を滴らせつつ、シンビオスは中庭を散策した。日向は避け、影から影へと渡り歩く。
 ふと、一本のカエデの前で足を止める。
 夏の日差しをたっぷり浴びて、枝を大きく伸ばしている。その枝には緑の葉が色濃く生い茂っている。----一部分を除いて。
 ある枝の先、ほんの5、6枚だが、紅くなっている葉があった。
 ----もう、紅葉してるのか…?
 暑苦しい蝉の声を聞きながらその葉を見つめていると、突然、後ろから抱き締められた。
 ----?!
 振り向くと、目の前にメディオンの笑顔がある。
「メディオン王子!」
「逢いたかったよ、シンビオス」
 メディオンの唇が、シンビオスのそれに重なる。冷めていたシンビオスの肌が、メディオンと触れ合っている箇所から、再び熱くなってくる。
 唇を離して見つめ合うと、シンビオスは再び頭がぼう、とする心地になっていた。
「----熱心に、何を見ていたんだい?」
 メディオンの質問も、一回ではすんなり頭に入ってこない。
「----え?」
「いや、だから、熱心に何を見ていたのかなって」
「あ、ああ、すいません」
 シンビオスは少し紅くなりながら、目の前の葉を指して、
「ほら、ここだけ紅くなってるでしょう?」
「ああ、本当だ」
 メディオンは目を丸くして、その葉にそっと手を添えてみる。
「枯れている----のとは違うね。この暑いのに、もう紅葉してるんだ」
「そうみたいですね」
「もう秋になるのか…」
「有り難いことです」
 シンビオスはしみじみと言った。口調があまりに真剣味を帯びているので、メディオンはちょっと笑ってしまった。
「ずーっと暑かったものね。今日も----服のまま水浴びしちゃうほど」
「解りました?」
 ちょっと首を竦めて、シンビオスは笑みを見せる。
「うん。抱き締めたとき服が湿っていたからね。それに、すっきりした顔をしてるよ」
 言いながら、メディオンはシンビオスの頬をつついた。
 二人は、中庭をゆっくりと回った。
「今日は仕事が早く終わったんだね」
 メディオンはいつも応接室でシンビオスを待っている。大体同じくらいの時間に彼は戻ってくるのだが、今日はちょっと遅かったので、ダンタレスに断ってからメディオンは執務室に行ってみた。そこはもぬけの殻だった。首を傾げながら窓辺に寄ってみると、中庭にシンビオスの姿を見つけた。そこで自分も窓から出て、そっと彼に近づいて、後ろから抱き締めたのである。
「ええ、そうなんです。----王子に逢えると思うと、仕事もはかどりました」
 なんのためらいもなく、真っ直ぐに自分を見つめて素直な気持ちをぶつけてくるシンビオスを、メディオンはつくづく愛しく思い、また可愛いとも思った。
 一週間我慢したのはメディオンも同じだ。そのため欲求不満なのも。シンビオスと違う点は、それに対してメディオンはなんの罪悪感も感じていないところだろう。感じる必要があるものか。至極当然のことなのだから。
 とはいえまだ陽も高く、気温も高い。抱き合うには不適切だ。メディオンは理性とポーカーフェイスで本心を包み込んで、いつも通りの爽やかな笑顔をシンビオスに向けたのだった。

 夜になると涼しくなる。
「----なるほど、この気温差が葉を紅くするわけだ」
 メディオンが呟く。
「…そう…ですね…」
 シンビオスは曖昧に応じた。まだ頭が茫洋としている。今の実感としては、火照った肌に冷たい風が気持ちいい、ただそれだけだ。
 一週間振りに交わす愛は、深く激しい。そして、とても一度で納まるものではない。
 メディオンはじっと窓の外の『音』に耳を澄ませていたが、
「…あれは、虫の声かい?」
 澄んだ高い音を、シンビオスの脳がやっと認識した。それまでは聞こえてはいたものの、意識していなかったのだ。
「そのようですね…」
 どうしてこの人は、どんなときにも涼しげなのだろう、とシンビオスは思った。自分はこんなにも----なのに、メディオンは紅葉とか虫のことに思いを馳せている。
「一体、今は夏なのか、秋なのか…」
「さあ…、どっちでしょうね」
 どちらでもいい。メディオンと一緒にいられるなら、季節などシンビオスには関係がなかった。
 メディオンは、子供のような瞳でシンビオスの瞳を覗き込んで、
「ね、もし明日が夏なら、泉に泳ぎに行こう。----二人っきりで」
 それはとても魅力的な申し込みである。シンビオスは心を躍らせた。
「もし秋なら?」
 楽しげに訊ねる。
 メディオンは、シンビオスの裸身を抱き締めた。
「もし秋なら、ずっと部屋にこもっていよう。----涼しいから平気だろう」
 何が『平気』? とは、シンビオスは訊かなかった。解りきっていたからだ。メディオンの本心も、シンビオスと同じなのだ。ずっと一緒にいたくて、一緒にいられたら他のことはどうでもよくて----クールどころか情熱的だ、というのも、シンビオスはその身をもって知っていた。自分が冷静さを欠いているので、相手がどれほど我を忘れているのか、『そのとき』には気付かないのだ。
 それからは、総てが『充足』に変わるまで、二人は存分に『情熱』を絡ませ合ったのだった。


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