午前中の職務を終えたシンビオスは、昼食の後城下を廻ってみた。
 いつもなら雪が積もっている時季だが、今年はかなり遅れている。それを喜んでいる者達もいれば、残念がっている者もいた。
 シンビオスに付いてきたメディオンは、やはり雪が降らないのをつまらながっていた。
「今日は予報では雪ですよ」
 シンビオスは慰めた。
「でも、まだ降っていないね」
 メディオンは雲に覆われた空を見上げて、
「昨日も一昨日も雪だって予報だったのに、結局降らなかった。今日もそうなのかな」
「パルシス様に訊いてみましょう」
 課題を提出するため、これからオブザーブに行くのである。暇がないときはゼロやハガネに届けて貰うのだが、シンビオスはなるべく自分で行くようにしていた。あの塔から景色を眺めるのが、いい息抜きになるのだ。
 シンビオス自らがオブザーブに出向くのは、メディオンがフラガルドに滞在するようになってから初めてのことだ。展望台に登れると聴いたメディオンは、まるで遠足を控えた子供のような調子であった。----まったく、無邪気というか、子供っぽさを大いに残した王子様である。
 城下をぐるりと見回り終えたシンビオスとメディオンは、街道を通ってオブザーブに向かった。
 空は相変わらず雲に覆われていて、しかも気温もかなり低い。
 なんということもない会話を交わしながら二人がオブザーブに着いた頃には、すっかり体が冷え切ってしまっていた。
「ご苦労、シンビオス」
 パルシスがにこやかに二人を出迎えた。
「いつも提出期限を守っているな。感心なことだ」
「後が怖いですから」
 シンビオスは言って、課題をパルシスに渡した。
「採点は追ってしよう。----今日も展望台に登るかね? シンビオス」
「はい、ぜひ。----メディオン王子もそれを楽しみになさってますので」
 シンビオスがメディオンに顔を向ける。メディオンは微笑みながら頷いた。
「そうか。----だが、まず熱いお茶でも飲んで、冷えた体を温めた方がいいだろう」
 パルシスの言葉に呼応するように、彼の弟子がお茶を運んできた。皆は礼を言ってそれを受け取ると、椅子に腰掛けた。
「今日は本当に寒かっただろう。北から冷たい空気が流れてきているからね」
「パルシス殿、今日こそ雪が降るのでしょう?」
 メディオンは早速訊いた。どうにも待ちきれない思いらしい。
 パルシスは笑った。
「私ぐらいの歳になると、雪は煩わしいとしか思わないのですが…。やはりメディオン王子はお若いのですな」
「で、どうなんですか?」
 シンビオスも尋ねる。彼自身も雪が降らないのを物足りなく感じていたが、それよりもなによりもメディオンの喜ぶ顔が見たかった。
「うむ。今日は間違いなく降るはずだ。----事実、北の方は既に降り始めている。展望台から見ればよく解るだろう」
「え、もう降っているんですか?」
 メディオンが身を乗り出す。
「ええ。あの雲もじきにここまで流れてきましょう。勿論、フラガルドにも」
 パルシスは立ち上がった。
「見てみますかな?」
「ええ、ぜひ!」
 メディオンとシンビオスも立って、パルシスの後を付いていった。
 展望台は壁がないうえ高い所にあるため、非常に寒い。だが、ここから望む景色はとても美しい。
 メディオンは早速、北を望む望遠鏡を覗いた。ついこの間、ブルザムと死闘を繰り広げた山々が見える。そこに、雪が絶え間なく降っていた。景色が白くけぶっている。
「綺麗だ…」
 メディオンは思わず言葉を漏らした。
 シンビオスはメディオンのマントを引いて、
「ぼくにも見せてくれませんか?」
 肉眼では、ぼんやりと霞んでいるようにしか見えない。雪なのか霧なのか区別が付かないのだ。
「いいよ」
 メディオンはシンビオスに場所を明け渡した。
 シンビオスは望遠鏡を覗き込んで、
「ああ、本当だ。綺麗ですね」
 と言った。
「ほんの少し前にあそこで戦っていたなんて、嘘みたいです」
「うん、そうだね」
 メディオンは頷いた。
「あの雲が南下してくるのですか? パルシス殿」
「そうです」
「楽しみだな。早く降らないかな」
 無邪気に期待を膨らませているメディオンの姿に、シンビオスは微笑んだ。
「----メディオン王子、他の展望台にも登りましょう」
 階段を降りていく。メディオンもすぐに後を追った。
 東の望遠鏡を覗いたシンビオスは、
「東はいいお天気ですよ。遠くの海が輝いてます」
 と言って、すぐにメディオンに場所を譲った。
「眩しいね。----あの海の向こうには何があるんだろう」
 メディオンがうっとりと呟く。
「あ、パルシス様も、以前同じようなことを仰ってましたね」
 シンビオスは、パルシスを振り向いた。パルシスは頷いて、
「うむ。海はロマンをかき立てるな」
「仰る通りです」
 メディオンもシンビオスもまったく同意だった。
 南もまた、晴れている。大陸航路がはっきりと見える。
 じっと望遠鏡を覗くメディオンの横顔を、シンビオスは切なげに見つめた。
「帝国が懐かしくなりませんか?」
 メディオンは望遠鏡から、シンビオスに目を移した。
「全然。自分でも意外だよ。もっと感傷的になるかと思っていたけどね。----今は帝国を懐かしむ気持ちより、20年前この地に渡ってきた人々の心情に、より強く共感するよ」
「メディオン王子も、ここを終息の地とする覚悟ができた、ということでしょうな」
「ええ、その通りです、パルシス殿」
 メディオンはもう、帝国に未練はなかった。彼は共和国で----いや、正確にはシンビオスの傍で暮らすことを望んでいた。その想いを込めて、シンビオスを熱く見つめる。
「……………」
 シンビオスは黙って展望台から降りると、今度は西の台に登った。頬が少し紅くなっているのは、寒さのせいだけではないようだ。
 西に見えるはバーラント。始まりの地だ。ここで紛争が起きたから、サラバントで和平会議が開かれ、メディオンとシンビオスも出会った。
 メディオンは今でも思う。もし今回の、一連の戦いがなかったら、シンビオスとは出会えなかった。だがきっと他の形で出会っていたに違いない。シンビオスを知らない自分の人生など、メディオンはまったく想像できなかった。
「----寒さが凍みてきたな。そろそろ戻らないか?」
 パルシスの言葉に、メディオンもシンビオスも素直に従った。

 暖かい屋内に戻って、熱いお茶で体を中から温める。
 窓に目をやったシンビオスは、
「----あ、雪が降ってきましたよ」
「本当だ」
 メディオンが嬉しそうに応じる。
 1時間ほど世間話をして、シンビオスとメディオンはもう辞することにした。
 パルシスは、封書をシンビオスに渡しながら、
「前回の課題を採点したものと、新しい課題だ。一週間以内に提出するように」
「…解りました」
 シンビオスは小さく溜息をついて、それを受け取った。
「では、失礼します、パルシス様」
「どうも、ごちそうさまでした」
「うむ。気を付けるのだぞ」
 パルシスは優しく見送った。

 雪は既に、うっすらと大地を覆い始めていた。シンビオスが好む表現を使えば、『ケーキに降りかかったシュガーパウダーのよう』だ。
「積もってきたね」
 メディオンは楽しそうだ。
「滑るかな?」
「このぐらいじゃ、まだまだ大丈夫ですよ」
 シンビオスは笑って、足を滑らせてみた。冬靴ということもあって、滑らないですぐに止まる。
「----ほら、全然滑りませんよ」
 メディオンも試してみた。
「…本当だ」
 ほっとしたように呟く。雪は好きだが、足元が滑って転ぶのは好きではない。
「怖いなら、腕に掴まってもいいですよ」
 シンビオスはからかうような口調で、優しく言った。
「別に怖くないよ」
 メディオンは苦笑しつつ言い返したが、
「怖くはないんだけど、君と腕は組みたい」
「ぼくもそんな気分です」
 シンビオスはメディオンの腕に、自分のを絡ませた。身をぎゅっと寄せる。
 雪は二人を包み込みながら、激しく静かに降り続いていた。


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