雪が無くなって何が一番嬉しいかというと、歩くときに足下を気遣わなくていいことだ。
 雪の上では、頭を下げて足下を確認しつつ、背中を丸めて歩く。前のめりに転ぶよりも、後ろにひっくり返る方が断然多いからだ。例外は上り坂で、前に体重をかけ過ぎたあまり、地面に這いつくばる危険がある。あとは、何かに躓いたときだ。どちらにせよ、その姿を他人に見られたら、残りの人生がかなり恥辱に塗れたものになること請け合いなので、充分に注意されたい。

 さて、シンビオスは久しぶりに背筋を伸ばし、顔を上げて、中庭を散策していた。
 今年は暖かい日が続いたためか、例年よりも雪融けが早く、冬枯れした下草の合間から新しい芽生えが見える。
 シンビオスは大きく息を吸った。湿った土の匂いが春を感じさせる。
 桜も梅も白樺もまだ芽を固く閉ざしているが、常緑樹の緑は、冬の間よりも明らかに明るくなっている。
 なにより、花壇ではクロッカスが黄色や紫の蕾を見せているし、他の花々も芽を伸ばしつつあった。
 ----ああ、春だなぁ…
 シンビオスはもう一度深呼吸した。こんなに早い春は初めてだ。
 ----桜も梅も、まだ咲かないかな? でも、いつもより早そうだ。
 枝の蕾を確認しながら、シンビオスは木から木へと歩いていった。
 ところで、確かに雪はもう無いが、だからといって足下を確認しなくていいとは限らない。
 シンビオスは、ちょっとしたくぼみに躓いて、転びそうになった。すかさず、目の前の白樺の幹にしがみつく。
「----ああ、びっくりした…」
 思わず呟く。
 地面を見てみると、小さく掘り返したような跡があった。もぐらの仕業だろうか。
 シンビオスはしゃがみ込むと、手で軽く地面を均した。少なくとも躓かない程度にして、手を払いながら立ち上がる。
「----シンビオス様! お茶の時間ですよ!」
 中庭の入り口から、ダンタレスが呼んだ。
「今行くよ!」
 シンビオスは答えて、歩き出した。----足首が痛い。躓いたときに変なふうに捻ってしまったようだ。
 庇いながら歩いていくと、すぐにダンタレスが血相を変えて駆けてきた。
「どうなさいました?」
「う、うん。ちょっと捻ったみたい」
「ええ? 大丈夫ですか? 歩けますか? シンビオス様、どうぞ私に掴まってください」
 相変わらず大袈裟なダンタレスの焦りっぷりが、逆に心配かけて申し訳ない気分にさせる。シンビオスは恐縮した。
「大丈夫、歩けるよ。----それに、手が汚れてるから…」
「そんなことは気にしなくていいんです!」
 ダンタレスは、シンビオスの手を取って、自分の腕を掴ませた。
「…ありがとう、ダンタレス」
 ああ、ダンタレス、よりによって白いシャツ着てるし…、などと気にしつつも、彼に掴まったことでシンビオスはかなり楽になった。
 取り敢えず執務室に戻って、シンビオスが手を洗っている間に、ダンタレスがグレイスを連れてくる。
「----ああ、かなり腫れてますね。幸い、折れてはいないようですけど…」
 グレイスは患部を摩りながら、
「湿布を貼っておきましょう。しばらくは長く歩かない方がいいですね」
「じゃあ、明日の遠出も中止ですね」
 ダンタレスが、気の毒半分からかい半分で言う。
「ええ? そんな…」
 シンビオスは不満げに眉を顰めた。
「『そんな』って、シンビオス様。自業自得じゃございませんか。大体、領主ともあろう方が、ぼ〜っとしながら歩いてるから、蹴躓いたりするんですよ。幾ら春だからって、注意力が散漫すぎやしませんか?」
 畳み掛けるようなダンタレスの弁説に、
「…うぅ…」
 シンビオスは返す言葉もなかった。
「まあまあ、ダンタレス様。シンビオス様だって、好きで躓いたわけじゃないんですから」
 と、グレイスが妙な間の手を入れて、
「メディオン王子には、中庭でのお茶会で我慢して頂かなくてはね。シンビオス様、残念でしょうけど…」
「うん…。仕方がないから、王子には後で手紙を出しておくよ。ゼロに持っていってもらう」
 ----折角、楽しみにしてたのにな。
 さっきまでの、春めいた気分が嘘のようだ。シンビオスはすっかり暗くなっていた。
「----お茶、こちらにお持ちしましたよ!」
 開け放したままのドアから、マスキュリンが顔を出した。手にしたトレイから、アールグレイの花の香りが漂う。それをテーブルに乗せて、
「大丈夫ですか? シンビオス様。----ほらほら、そんな暗い顔なさらないで! 世の中、薫り高い紅茶と美味しいお菓子があれば、大抵のことは乗り越えられるものです」
 これは、シンビオスが子供の頃からの、マスキュリンの口癖だった。そして、確かにその通りのことが、いつもシンビオスに起こった。きっと、属にいう『刷り込み効果』というやつだろう。
 今日も、お茶を飲み終わった後のシンビオスの心は、半分ほど元気になった。
 メディオン王子宛に、ことの次第を簡単に書き記して、ゼロに配達してもらう。
 明日は休日なので、フラガルドから少し北にある滝まで、メディオンと出かけることになっていたのだ。
 ----雪も融けたし、あったかくなったし、やっと二人だけで出歩けると思ったのに…。
 シンビオスは溜息をついた。
 冬の間、どうしても行動範囲が限定される。フラガルド城内では、二人きりになれるようでいて、なかなかそうはならなかった。人の目が多すぎるのだ。
 たとえば、図書室でのんびり過ごしているところに掃除が入ったり、中庭で雪遊びしているのを廊下の窓から見られていたりする。別に、不特定多数の目があるところで愛を語ろうなどとは思っていないが、落ち着いて話ができないのも事実だ。
 それは自室にいても同じで、廊下を誰かが行き来していると思うと、なんとなく気が散ってしまう。神経質になり過ぎかもしれないが、こればかりは性格だから仕様がない。自然、二人の会話は当たり障りのないものになってしまう。手紙でのやりとりの方が余程情熱的なくらいだ。
 こういった調子だから、今でもキス止まりの関係なのだ。
 だから、二人だけで出かけられるのを、シンビオスは楽しみにしていた。----勿論、まだ肌寒い中(しかも戸外で)どうこう、なんて気分にはならないだろう。それよりも、他人の目がない、というのが重要なのだ。
 ----それなのに、捻挫しちゃうなんてな。…ちょっと、浮かれ過ぎたかな。
 いいことの後には悪いことがやってくる。シンビオスはその真理を知っていた。

 ゼロは間もなく戻ってきて、メディオンからの返事をシンビオスに届けた。
 手紙で彼はシンビオスのことをひたすら心配し、最後には、
    ----滝だろうと中庭だろうと、どちらでも構わないよ、シンビオス。
      君がそこにいてくれれば----
 などという、照れくさくなるような文句が書かれていた。
 ----手紙じゃなく、王子の口から直接聞きたいな…
 そのために、誰もいない場所に出かけるはずだったのに。
 ----でもまあ、どちらにしろ、王子には会えるんだから。
 シンビオスは丁寧に手紙を畳み、それを枕元に置いて眠った。

 翌日もいい天気だ。
 気温も高めで、まさに『ピクニック日和』といえる。
 ----なのに、中庭でお茶だもんなぁ…
 自分の不注意とはいえ、いや、だからこそ、シンビオスはつまらなかった。
 いつもより少し遅く起きたシンビオスは、身支度を整えた後、診察ついでにグレイスに湿布を変えてもらった。腫れは、昨日よりも酷くなっている。少しずきずきと痛んだ。
「今日あたりがピークでしょう。だんだんと引いてくるはずですわ」
「うん。ありがとう、グレイス」
「朝食、こちらにお持ちしますね」
「そんな大袈裟な。大丈夫だよ」
 シンビオスは苦笑した。
「でも、余り足首に負担をかけない方が…」
「じゃあ、グレイス、掴まらせて? その方が楽だから」
 シンビオスは立ち上がって、
「歩けないわけじゃないんだ。ちょっと痛いだけで。せめて、城の中ぐらいは移動しないと、怠け癖がついちゃうよ」
 この若い領主は言い出したら頑固だということを、グレイスは知っていた。彼女も立ち上がって、シンビオスに手を差し伸べた。
「解りましたわ、シンビオス様。----お手をどうぞ」
「ありがとう」
 二人は食堂に向かった。

 メディオンは昼前にやってきた。キャンベルも一緒だ。
 出迎えたシンビオスの姿を見るなり、
「シンビオス! 大丈夫かい?」
 慌てて駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫です」
 シンビオスは焦りながらも、にこやかにメディオンを迎えた。
「いらっしゃいませ、メディオン王子」
「…う、うん。お邪魔するよ」
 メディオンは威を削がれた感じで、それでもまだ心配そうに、
「座ってなくていいのかい? 痛くないの?」
 と、痛くない方の足に体重をかけて立っているシンビオスを見つめた。いつもは姿勢のいい彼のこと、やはりどこか不自然な立ち姿だ。
 シンビオスは大丈夫と言いかけて、ちょっと思い直した。自分の前では無理してくれるな、と、メディオンに常々注意されている。
「少し痛いですけど…。力を入れなければ」
「それは『大丈夫』とはいいませんよ、シンビオス殿」
 キャンベルが呆れ気味に言う。
「まったく、君ときたら…。仕方がないね」
 言うなり、メディオンはシンビオスを抱き上げた。
「うわ! ちょ、ちょっと、王子!」
 いきなりこうくるとは思わなかった。シンビオスは恥ずかしいのと驚いたので、手足をばたつかせた。
「…っと、危ないよ、シンビオス。じっとして。----落としてしまうよ」
 最後の言葉に、シンビオスは我に返った。それでも照れくさいのは変わらない。メディオンの首に腕を廻して、肩に顔を隠すように埋めた。
「…重くないですか…?」
 掠れた声で尋ねる。
「こう見えても、ダビデほどじゃないが、鍛えてるんだよ。もっと重い物を持ったこともある。君なら片腕にぶら下げられるよ」
 メディオンは、冗談ともつかない口調で答えた。
 中庭まで、さほど長くない道のりだが、シンビオスは永遠に着かないような気がした。王子の歩調がいつもより遅く感じるのは、考え過ぎかもしれない。
 途中、すれ違った者達の声も幾つか聞こえた。驚いたり冷やかしたりしている。
「…まあ、王子。すいません」
 これはグレイスの声。
「わあ! シンビオス様、羨ましい」
 この楽しそうなのはマスキュリン。
「王子、今、戸を開けますから」
 ダンタレスは恐縮しきっている。
 ドアの開く音がして、爽やかな風が吹き付けてきた。
 すぐに、シンビオスは椅子に降ろされた。
「はい、着いたよ」
 ほんの目の前で、メディオンが微笑む。
「あ、ど、どうも…」
 直視できず、シンビオスは周りを見回す振りを装って、さり気なく目を逸らせた。
 ダンタレスもグレイスもマスキュリンも、それにキャンベルの姿も既にない。
 早春の、少し冷たい風に当たって、シンビオスはやっと落ち着いてきた。それでも目を伏せたまま、
「王子、ありがとうございます」
 と、ほとんど呟くように言う。
「お礼を言うのはまだ早いよ、シンビオス」
 メディオンは笑いを含んだ声で、
「戻るときも、同じようにするつもりだから。君の部屋までね」
 シンビオスは、ちょっと情けない顔でメディオンを見た。

 暖かい陽射しと、時折思い出したように吹く風のなか、二人はのんびり昼食を採った。
 この頃には、シンビオスも当初の衝撃から立ち直って、リラックスして食事と会話を楽しんでいた。
「----桜はまだ咲かないね」
 メディオンが、風に揺られる枝を見上げて、
「帝国では、もう満開を過ぎて散り始めてるとか」
「今年はずっと気温が高いですからね」
 シンビオスも同じ枝を見た。
「ここでも、いつもよりは早く咲きそうですよ。----それでも、あと一月、いや、それほど待たないかな。今日も暖かいですからね。きっとすぐですよ」
「すぐか。楽しみだな。----共和国では、梅も桜も、他の春の花も一気に咲くんだろう? とても華やかだろうね」
「ええ。----ほら、今は枯れた感じですけど、これが、あっという間に新緑と明るい花々の色で彩られるんです。冬は真っ白だったから、凄く嬉しいですよ」
 シンビオスの、うっとりと細められた瞳に、そのときの光景が蘇る。
 その幸せそうな表情を、メディオンは微笑みながら見つめていた。

 食事の後、色々な話をしながら、二人は春の陽射しを楽しんでいたのだが、だんだんと風が強くなってきた。それに運ばれて、今まで一つもなかった雲が空に広がり始め、時折太陽を隠す。そうなると、風の冷たさばかりが感じられるようになってきた。
「----そろそろ、中に入りましょうか?」
 シンビオスは言った。座ったまま動かないでいたから、すっかり冷えてしまった。寒さに慣れている自分でさえこうなのだから、メディオンはもっと辛いだろう。
「そうだね。風が強くなってきた。やっぱりまだ冷たいね」
 案の定、メディオンはこう答えた。素早く立ち上がって、シンビオスの横に来る。
 ----あ、しまった!
 シンビオスは忘れていた。戻るときに、また『あれ』をされるんだった。
「お、王子。ぼく、歩けますよ」
 シンビオスは慌てて立ち上がって----思わず、痛い方の足に体重をかけてしまった。再び椅子に崩れ込む。
「無理しないで、って言ってるのに」
 メディオンは息を吐いて、
「何がそんなに嫌なんだい?」
「嫌っていうか、恥ずかしいんです」
「どうして? 今さらそんなことを気にするような仲じゃないだろう?」
「…それとこれとは…」
 別問題だ、とシンビオスは思ったが、メディオンは違うらしい。もう議論は打ち切り、とばかりに、再びシンビオスを抱き上げた。
「……………」
 シンビオスは、先程と同じ体勢になった。
「そんなに、照れなくてもいいのに」
 紅く染まった耳に、メディオンの呟きが届く。
「……………」
 シンビオスはなんとも応えられなかった。
 メディオンはちょっと笑った。それから空を見て、
「雨雲だ」
「え?」
 シンビオスも顔を上げた。黒い雲が空を覆いつつある。
 メディオンは急いでに城の中に入った。シンビオスが腕を伸ばしてドアを閉める。
 静かな廊下を、シンビオスの部屋へと歩いていると、窓を雨粒が叩きだした。
「遠出しなくて正解だったね」
 メディオンが、茫洋と呟いた。
「今頃、ずぶ濡れになっていたところだ」
「そ、そうですね」
 不注意で足を挫いたことが、却ってよい結果になった。
 ----どこかで帳尻が合うようにできてるんだな…
 シンビオスはぼんやりと考えた。
「だけど、隙がないと思ってた君にも、結構可愛いところもあるんだね。よそ見して歩いて、足を挫くなんて」
 メディオンは言った。不愉快な口調ではなかった。からかっているのとも違う。その証拠に、
「君のことで、知らないことがまだまだ沢山あるんだろうな。----色んな君を見つけだすのが楽しみだよ」
 続けてそう囁く。
 周りに誰もいないのをしっかりと確認してから、シンビオスは自分からメディオンに口付けた。彼は、初めてここがどこかを忘れた。他の人のことも忘れた。何も気にならなくなった。----メディオンのこと以外は。
 部屋に戻った二人は、それから、お互いの新しい顔を見い出した。それは、二人きりのときにしか見られず、また、他の誰にも見せることのないものだった。


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