ジュリアンにはジュリアンの人生がある。最大の脅威であるブルザムを倒した今、グラシアに彼を止めることはできない。
 だが、グラシアの胸の中に、どうしても割り切れないもやもやがあった。
 普通の少年に戻ってしまった自分を置いて、遠くに旅立ってしまうジュリアンをつい恨んでしまう。我が儘だと判っているが、グラシアにはどうしようもなかった。
 ほんの少しの間に、自分はなんて変わってしまったんだろう。
 今までのグラシアなら、ジュリアンには充分お世話になったのだから、これ以上彼に頼るのは申し訳ないと思うはずだ。これからの困難は、自分と教会の人々だけで何とかする。そして、ジュリアンの旅の無事を祈る。
 神子として、当然のことなのに。
 グラシアは眠れない眼を開いて、薄暗い空間を見つめていた。
 ----大丈夫。今までだってちゃんとやってきたんだから。カーンやヘラ、ダビデ達、それに神父達もいてくれる。みんな力を貸してくれる。…ジュリアンがいなくたって、大丈夫。…ジュリアンが…いなくたって…。
 眼を閉じた拍子に、溜まっていた涙が顔の側面を流れて落ちた。
 ジュリアンがいない。どうしてそれに耐えられるだろう? 他の誰でも駄目だ。ジュリアンじゃなきゃ駄目だ。
 グラシアは枕に顔を押し当てて、静かに泣いた。

 恐る恐る鏡を覗き込む。
 大丈夫だ。思ったほど顔は腫れていない。
 グラシアはほっとした。以前、泣いて眼が腫れるのは擦るからだ、と何かで読んで知っていた。だから昨夜、途中で、冷たく濡らしたタオルで眼を冷やしたのだ。
 泣いたとすぐに判る眼で皆の前に出たら、心配をかけるに違いない。それどころか、原因を訊かれるだろう。それは避けたかった。神子らしくなく心が荒んでいるのを、誰にも知られるわけにはいかなかった。
 更にグラシアは、冷たい水で何度も顔を洗った。腫れは大分引いて、よほど鋭い人でなければ気付かないほどになった。
 ただ、泣きすぎて頭が重いのだけは、どうしても治らない。
 グラシアは食堂に向かった。食欲はなかったのだが、行かなければ皆が不審に思う。
 入り口で一度立ち止まって、中を窺う。ジュリアンの姿はない。グラシアは安堵した。彼と顔を合わせて平静でいる自信がない。
 なるべく目立たない席に着こう、と、中に足を踏み入れたグラシアの肩を、後ろから誰かが掴んだ。
「おはよう、グラシア。今から飯か?」
 逞しい手、男らしい声。間違いなく、今一番会いたくない人物だった。それでも振り向いて、
「おはようございます、ジュリアン」
 と普通に応じられたのは、我ながら上出来だとグラシアは思った。周りに人の眼があったから、というのもあるだろう。
「一緒に食おうぜ。最後だしな」
 何気なく発せられたジュリアンの言葉が、グラシアの胸を強く撃ち抜く。
 ----やっぱり、ジュリアンにとってはどうでもいいことなんだ。じゃなきゃ、そんなどうでもいいみたいな口調で言わないもの。
 頭と胸がずきずき痛むのを堪えながら、グラシアはジュリアンに腕を取られて、引きずられるようについていった。
 テーブルに向かい合わせに着く。あまり食欲のないグラシアは、パンとスープだけを取った。対してジュリアンはといえば、こちらもいつもより少な目だ。
「…それだけですか?」
 思わず、グラシアは訊いていた。
 ジュリアンは顔を曇らせて、
「…ああ、まあな」
 短く答える。
 ----…そうか。ジェーンのことがあったものな…
 グラシアはやっと思い当たった。彼女のことを悼んでいないわけではないが、自分の悩みの方に気を取られ過ぎていた。
 ----やっぱり、私はもう神子として失格かもしれない。
 他人のことよりも自分のことを優先してしまうなんて、今までのグラシアなら絶対にしなかったことだ。
 暗い顔でグラシアが黙り込んでしまったのを見て、
「…さ、とにかく食おうぜ」
 ジュリアンが明るく声をかけてくる。かなり無理している感があったが、その心遣いが嬉しい。
「そうですね。出発の時間に間に合わなくなってしまいます」
 グラシアも笑顔を作った。短く感謝の祈りを捧げてから、パンをちぎる。
「…今日で最後、か…」
 ジュリアンが呟いた。
「長いようで短いようで、大変な日々だったな」
「そうですね。----でも、これからだって結構大変ですけどね」
 なるべく恨みがましくならないように気を付けながら、グラシアは言った。もしかしたら、ジュリアンが考え直してくれるかもしれないと----北に行くのをやめて、一緒に来てくれるかも、と期待していた。
 現実は、そう甘くはなかった。
「そうだな。おまえももう、力が無くなっちまったわけだし。----でも、大丈夫だ。みんなが力になってくれるだろ。きっと、巧くやっていけるさ」
 ジュリアンは優しく言った。優しく。グラシアは酷く腹が立った。
「----随分簡単に言ってくれますね。そうでしょう。あなたにはもう関係のないことですものね」
「…あ?」
 ジュリアンは驚いた顔をしている。グラシアの口の利き方に戸惑っているのか。それとも、言葉の意味が判らないのか。
「あなたは北に行ってしまうんでしょう? だったら、もう私のことは放っておいてください! どうせ、私のことなんてどうでもいいんでしょうから!」
 自分でもびっくりするほどの大声が出てしまった。その場に居合わせた他の者達も、グラシアに注目している。いたたまれなくなって、グラシアは立ち上がった。椅子が倒れるのも構わぬまま、食堂から飛び出す。
「え? お、おい、グラシア!」
 こちらも立ち上がって、呆然とするジュリアンに、
「何してる! 追いかけるんだ」
 と声がかかった。
 その一言に我に返ったジュリアンは、慌てて駆けだしていく。
「----やれやれ、世話が焼ける」
 メディオンが苦笑した。先程の声は彼のものだ。
「…そういえば、グラシア様はまだ子供だったんですよね」
 彼と同じテーブルに着いているシンビオスが、しみじみと呟く。
「つい忘れてしまいますけど…。グラシア様にしてみれば、お辛いでしょうね。大人だって逃げ出したくなるような重責を背負ってるんですから」

 本陣の前で、ジュリアンはやっとグラシアを捕まえた。グラシアは暫く藻掻いていたが、ジュリアンの力には敵わない。抵抗を諦めた。さっきから涙が止まらず、小さくしゃくり上げている。
「…一体、どうしたっていうんだ?」
 グラシアの腕を掴んだまま、ジュリアンは膝を折った。伏せられたグラシアの顔を覗き込む。
「----他に誰が…いたって…、あなた…がいなきゃ…駄目なんです。…一番傍に…いて…ほしい…んです----」
 途切れ途切れのグラシアの言葉を、ジュリアンは信じられない思いで聞いていた。グラシアはしっかりしていると、自分がいなくても大丈夫だと、思い込んでいたのだ。
 ジュリアンは手を伸ばして、グラシアの頬に触れた。溜まった涙を指で払う。
「すまない、グラシア。----おまえがそんな風に思ってるなんて、知らなかったんだ」
 グラシアは、弾かれたようにジュリアンに抱き付いた。ジュリアンは小さな背中を優しく撫でて、暫くグラシアが泣くに任せていた。
「----ごめんなさい、ジュリアン…」
 やがて、グラシアは小さく呟いた。
「子供みたいにだだをこねてしまいました。自分が恥ずかしいです…」
 ジュリアンは笑って、
「『子供みたい』って、子供だろ、おまえ。まだ12だろ?」
「そういえば…そうですね」
 ぼんやりと呟くグラシアの髪を、ジュリアンは大きな手で乱した。
「----なあ、グラシア。俺は一度、アーサーの所に行く。ジェーンのことを伝えなきゃならないし、何より、彼に会いたいと思ってるしな。それが済んだら、必ず戻ってくるよ」
 グラシアはジュリアンを見上げた。
「本当に?」
「ああ。約束する」
 ブルザムを倒したら、自分はもう用なしだと思っていた。だが、違った。まだ自分を必要としてくれる人がいる。ならば、その人のために生きていきたいと思う。
「ありがとうございます!」
 頬を紅潮させて、本当に嬉しそうな笑顔を見せるグラシアに、ジュリアンも優しく微笑み返した。


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