夜から朝にかけて季節外れの大雨が降って、それまで積っていた雪を半分ほど融かした。そのため道路が冠水し、馬ソリででも通るのが困難な状態になってしまった。水が溜まったうえ、ぐちゃぐちゃになった雪がわだちを作っていて、横転する危険性があるからだ。かといって、歩くのもままならない。道路は状態がよくなるまで封鎖されてしまった。
 それが昨日のことで、今朝になっても封鎖が解除になる目処はたっていなかった。
 仕方のないこととはいえ、シンビオスは落胆した。というのも、今日は週に一度の休日であり、メディオンが来てくれるはずの日だったからだ。
 もう3週間も前から約束していたのだが、なかなか果たされなかった。最初に来るはずだった日は、誰も一歩も外に出られないほどの猛吹雪だった。先々週はシンビオスが風邪をひいたためお流れ。そして先週はメディオンの方がダウンしてしまった。
 で、二人とも元気になったのに、今度は季節外れの大雨。----これは、王子と自分を逢わせないようにする、何者かの陰謀ではないか、とシンビオスはいらぬ邪推をしてしまった。こんな気分のときは、周り総てが敵に思えてしまうものだ。
 一番もどかしいのが、すぐ近くにいるのに逢えないことだ。もし王子が遠く離れた帝国や北の大地にいるなら諦めもつくが、フラガルドとアスピアは近すぎる。ちょっとその気になればすぐに逢える距離だ。なのにもう3週間も顔を合わせていない。手紙のやり取りはしているが、それだけでは物足りない。顔を見たい。声を聞きたい。
 シンビオスは何もやる気が起きずに、ベッドの上に寝転がって本を読んでいた。以前、メディオンから贈られたものだ。これじゃあ王子の代わりにはならないけど、今は心を慰めてくれるものを求めていた。
 ページを繰る手を止めて、シンビオスは溜息をついた。ちっとも活字が目の中に入ってこない。気がつくとメディオンのことばかり考えてしまっている。仕方なく、シンビオスは本を閉じて、窓の外を見やった。どんよりとした曇り空だ。気温的にいって雨はもう降らないだろうが、大雪になりそうな気配だ。
 ----道路の通行止めが解除されたとしても、吹雪になったらまた王子は出てこられないだろうな…。
 そう考えると、シンビオスの心は空模様と同じくどんよりしてしまう。
 ----いっそのこと、ベネトレイム様にお願いしてみようかな。王子をフラガルドに住まわせてくださいって。
 亡命中の身なら、首都にいるよりも地方の町に滞在した方がいいのではないか、とシンビオスは思うのだが、ベネトレイムの考えは違うようだ。あるいは、何か意図があるのかもしれない。国王の考えていることは、いまいちシンビオスには解らない。ベネトレイムはもともと秘密主義なところがある。
 ----王子がフラガルドに滞在してくれたら、こんな思いをしなくてもいいのにな…。
 思考を巡らせているうちに眠くなってきた。シンビオスは目を閉じて、眠りの中をうとうとと漂いはじめた。

 ----メディオン王子、ぼくと一緒にフラガルドで暮らしましょう!
『すまない、シンビオス。そうしたいのはやまやまだが、実はもう先に、ある人から同じことを言われてね。その人と暮らすことに決めてしまった』
 ----ええっ?! だ、誰と?!
『結局は早い者勝ちなのだよ、シンビオス。一足遅かったな』
 ----ベ、ベネトレイム様っ? ど、どうしてベネトレイム様が王子に…。
『いや、最初はメリンダ王妃に言うつもりだったのだが、彼女はまだ皇帝と離縁していないのでな。息子の方に鞍替えしたのだよ』
『そういうわけなんだ。本当にすまない、シンビオス。----だけど、もし君がもっと早くに…。…いや、もう言っても無駄だな。私のことは忘れてくれ』
 ----そんな、ひどい!

「…ひどいです、王子…!」
「…何がひどいんだい?」
「だって…、----え?」
 シンビオスは目を開けた。目の前にメディオンの顔があった。
「…あ、あれ? 王子…?」
 シンビオスは寝ぼけた頭を振りながら、上体を起こした。
「君の夢の中で、私はどんな『ひどい』ことを君にしたのかな?」
 メディオンは楽しそうに笑っている。
「い、いえ、あの…」
 シンビオスは恥ずかしさのあまり顔を伏せた。眠りに落ちる直前までメディオンとベネトレイムのことを考えていたから、あんな奇妙な夢を見たのだろう。
 ここで、シンビオスはやっと気がついた。勢いよく顔を上げて、
「王子、どうしてここに? 道路は通行止めだったでしょう?」
「さっき解除されたんだよ。馬ソリ定期便も運行を再開したから、一便に乗ってきたんだ」
「あ、復旧したんですね、道路」
 シンビオスはやっと目が覚めてきて、頭もまともに働くようになってきた。道路の状態はどうでしたか、と訊こうとして、メディオンの顔色が心持ち蒼ざめているのを見て取った。
「----王子、ひょっとして酔ったんでは?」
 メディオンは肩を竦めた。
「ちょっとだけだよ。----なにしろ、凄いでこぼこ道でね」
「す、すいません、すぐに気がつかなくて。…とにかく、横になって休んでください」
 シンビオスはベッドの端に寄って、場所を空ける。メディオンはすぐに横になった。
「ありがとう」
「襟元を寛がせると楽になりますよ」
 と言いながら、シンビオスはメディオンのシャツのボタンを外し、
「今、スッキリする飲み物を持ってきますね」
 ベッドから降りようとしたが、メディオンがその腕を掴んで、
「後でいいよ、シンビオス」
「でも…」
「今は違うものがほしいな」
 メディオンは目を閉じ、軽く顎を上げる。シンビオスは屈み込んで、メディオンの唇に自分のそれを宛てがった。
「----少し、気分がよくなったよ。下手な薬よりも、この方がずっと効くな」
「じゃあ、もっとよくなるように…」
 シンビオスはもう一度メディオンにキスした。こうしてメディオンの体温を感じるのも久しぶりだ。シンビオスはそのままメディオンの胸に頭を預けた。鼓動が伝わってくる。----少し速い気がする。それはシンビオス自身も同じだった。
「メディオン王子…、逢いたかったです」
 シンビオスは呟いた。
 返事はない。
 顔を上げてみると、メディオンは眠っていた。
 ちょっと拍子抜けしたが、間近でメディオンの寝顔を見るのもしばらくぶりだ。シンビオスは幸せな気分だった。

 昼寝したせいで夜になっても眠くならないのは、愛し合う二人にとっては好都合だ。ずっと逢えずにいたやるせない想いを、ほとんど一晩中ぶつけあった。
 明け方に少し眠っただけにも関わらず、寝不足の辛さよりも心と体の充足感の方が大きくて、ちっとも眠くなかった。ただ一つだけ、メディオンは今日の昼にはもうアスピアに戻らなくてはならない。それだけが寂しい。
 シンビオスは欠伸を漏らした。メディオンはギリギリまで眠っていてもいいが、シンビオスの方は今日からまた仕事だ。もう支度しなくてはならない。
 メディオンを起こさないようにベッドから出て、シンビオスは着替えを手に浴室に入った。体を洗い服を着て出てくると、寝ているメディオンはそのままに、部屋を出る。
 廊下の窓から外を眺めて、シンビオスは目をみはった。
 外は猛吹雪で真っ白だ。
 ----これじゃあ、王子も帰れないな。
 シンビオスの頭にまっ先に浮かんだのはこれだった。続いて、
 ----明日も明後日も、なんて我が儘は言いません。せめて今日一日だけでもこの雪が降り続きますように。
 とお願いした。
 そのかいあってか、雪は止むどころか更に激しくなってきた。----ゼロが雪まみれになりながら昼食の席にやって来て、ベネトレイムからメディオン宛ての伝言を届けた。この雪が治まるまで、無理にアスピアに戻って来なくてもいい、とのことだった。
「このまま止まなければいいのにね」
 メディオンは悪戯っぽくシンビオスに微笑みかけてくる。
 シンビオスは、あの支離滅裂な夢を思い出していた。メディオンをベネトレイムに取られる----要するにメディオンをアスピアに帰すのは耐えられそうにない。
 考えるより先に、
「----王子、ぼくと一緒にフラガルドで暮らしましょう」
 夢と同じことをシンビオスは言ってしまったが、実際に口に出してみるとものすごく恥ずかしい台詞だということに、改めて気付いた。しかも、今は二人きりではなかったのだ。食堂にいる皆の目が自分を見ているのを、シンビオスは痛いほど感じた。顔が熱くなるのが判る。
「…い、いや、つまり、王子がここに滞在できるように、ベネトレイム様にお願いしてみる、ってことで…」
 一瞬呆気に取られていたメディオンは、シンビオスの焦りっぷりを見て柔らかく笑った。
「嬉しいよ、シンビオス。君の方からそう言ってくれるなんて」
「い、いえ、あの、別に深い意味はないんですが…」
 このうえ取り繕うという無駄な努力をシンビオスは試みたが、勿論巧くいかなかった。ゼロがからかうような笑顔で、
「え〜? そうですか? 凄く意味ありげな言葉に聞こえましたけど」
 と言ったほどだ。彼は続けて、
「じゃあ、ベネトレイム様には僕の方から伝えておきますね! シンビオス様がメディオン王子にプロポーズした、って」
「ち、違うってば…」
 最早、言い返すだけの気力もない。シンビオスは口の中で小さく呟いた。

 食事を終えた二人がシンビオスの部屋で寛いでいると、ゼロがすぐに上機嫌で戻って来て、ベネトレイムが許可したと告げた。
「ベネトレイム様、大笑いしてましたよ。冗談だと思ったみたいです」
 それが当然だ、とシンビオスは思った。その方がありがたい。本気に取られたら照れくさいだけだ。だが、
「でも、冗談じゃない、って僕がしっかり申し上げておきましたからね」
 ゼロが無邪気な調子で続けたので、シンビオスは頭を抱えてしまった。
「ありがとう、ゼロ」
 メディオンは満面の笑みを浮かべて、
「雪の中、ご苦労様。もうゆっくり休んでくれ」
「そうします。…では、失礼しますね」
 ゼロは大きくお辞儀して、部屋を出ていった。
「----まったく、もう…」
 吐息と共に呟くシンビオスの肩を、メディオンは抱き寄せた。
「何がそんなに嫌なんだい?」
「嫌っていうより、恥ずかしいんです。みんなの前であんなこと言っちゃうなんて」
 シンビオスは甘えるようにメディオンの肩に頭をもたれさせて、
「本当は、二人だけのときに言おうと思ってたのに…」
「でも、私は嬉しかったよ」
 メディオンはシンビオスの顎を持ち上げて、シンビオスに口付けた。
「----王子…」
 このままメディオンの腕の中にいたい、とシンビオスは思ったが、そうもいかない。
「…ごめんなさい。午後の仕事をしなきゃ…」
 メディオンは優しく頷いた。
「今夜があるよ、シンビオス。それから明日も、明後日も、その先も…」
 そう、ずっと一緒にいるということは、焦らなくてもいいということだ。不安にならなくてもいい、そして寂しさに心を痛めることもない。
 シンビオスの中に、やっと実感が湧いてきた。これからは、メディオンと分かち合っていく。晴れの日も雨の日も、嬉しいことも辛いことも。
 シンビオスはこの先総てのことが楽しみで仕方なかった。


HOME/MENU