海が見たい、とメディオンが言ったので、フラガルドの東の山裾を通って海岸まで出かけた。
 今日は薄曇りで風も強く、波も高い。彼らの他に、人影は見えなかった。
「やっぱり、海は気持ちいいな」
 長い髪を潮風に吹かれるに任せて、メディオンは潮の香りを嗅ぎながら、海岸線をゆっくり歩く。
 波が打ち寄せて、彼の素足を濡らす。
「水はまだ冷たいな」
 呟いて、大きく水を蹴る。
 その後を少し遅れてついていきながら、シンビオスは浮かない顔でメディオンの背中を見つめた。
 最近、頻繁にメディオンの元に手紙が届いているのを、シンビオスは知っていた。それが皇帝からのもので、メディオンの帰国を促すものだとも。
 メディオンはそれについて何も言わなかった。いつもと変わらず、なんでもないような様子で過ごしている。
 だが、シンビオスは不安だった。メディオンが何も言わないのは、帝国に戻るつもりだからではないだろうか。それを言い出せなくて、黙っているのではないだろうか。
 いっそのことはっきりさせた方が楽になるんじゃないか、と、シンビオスは何度となくメディオンに尋ねようとしたが、どうしてもできなかった。メディオンの口から決定的な言葉を聞かされてしまったら…。そう思うと、恐かったのだ。
 今のまま、ずっと一緒にいたい。たとえそれが、危うく脆く、いつ崩れるか解らないものであっても。
 シンビオスは、そっと溜息をついた。
 メディオンが、シンビオスを振り向いた。
「ね、シンビオス、やっぱり海はいいね」
 いつもと変わらぬ、優しく華やかな笑顔で言う。
「そうですね…」
 シンビオスも、慌てて笑顔を作った。
「デストニアの海とは大分違うな。あっちは内海だから穏やかだけど、こっちは波が荒い」
 メディオンの口から『デストニア』の名前が出て、シンビオスの胸は締め付けられるように痛んだ。不安に、動悸が激しくなる。
「----懐かしいですか?」
 話題を変えなきゃ、と思いつつも、訊かずにはいられなかった。
 メディオンは気にした様子もなく、
「まあ、そりゃあね。あんな国でも、一応故郷だし」
 のんびりと答える。
 シンビオスはぎゅ、と拳を握った。
「…戻りたいですか…?」
「いや…」
 メディオンは言いかけて、やっとシンビオスの尋常じゃない様子に気がついた。紙のように蒼ざめ、小さく震えている。
「シンビオス、君…」
 メディオンはシンビオスに駆け寄ると、肩に手を置いた。
「まさか、私が帝国に戻るなんて思ってるのかい?」
「…だって、王子は何も言ってくれないから…」
「言わなくても、君は解ってくれてると思ってたんだ。----君も、それなら訊いてくれればいいのに」
 シンビオスはうなだれた。声を震わせて、
「…ごめんなさい…」
 微かに呟く。
「いや、ごめん、シンビオス」
 メディオンは、そっと彼を抱き締めて、
「はっきり言わなかった私が悪いんだ。心配させてすまなかった」
 シンビオスは無言のまま、メディオンにきつく抱きついた。
「今日、父に返事を書くよ。そのうち諦めるかと思って、今まで無視していたんだが----。父が執念深いのを忘れていた」
 少しふざけた口調でメディオンが言う。シンビオスは思わず笑ってしまった。
 メディオンも微笑んで、シンビオスの頬に手を添えた。
 唇から、メディオンの想いが伝わってくる。少しでも疑ってしまった自分を、シンビオスは恥じた。
 二人はしっかりと手を繋いで、再び波打ち際を歩き出した。
「----王子の返事に、皇帝は納得してくれるでしょうか?」
 メディオンの心を知って安心したシンビオスだが、今度は皇帝の方が気になる。さっきメディオンも言った通り、皇帝はかなり執念深く、なんでも自分の思い通りにさせたがる。
「どうだろうね。----まあ、いざとなったら二人で駆け落ちでもしようか。誰も知らない所…、たとえば、この海の向こうまででも」
 と言って、メディオンはシンビオスを見た。
 シンビオスも真直ぐにメディオンを見つめ返して、
「そうですね」
 真剣に答える。
 そう、シンビオスの心は既に決まっていた。他の何よりも、メディオンが一番大切だ。いざというときには、領主という立場を放棄しても、メディオンと共にいる方を選ぶ。たとえ、そのことで国中の人々に非難されようとも、
 ----王子を失うことの方が辛い…
 シンビオスは、繋いだ手に力を込めた。
 すぐに、メディオンも強く握り返してくれる。
 波の音を聴きながら、二人は何も語らぬままに歩いて行った。
 やがて、傾きかけた陽射しが、途切れた雲の下から現れた。雲と空と海をオレンジ色に染め、波立つ海をキラキラと輝かせる。
「この分だと、明日は晴れそうだね」
 水平線の彼方を眩しそうに見つめて、メディオンは言った。西の空には雲が無く、太陽が沈んでいく様子がよく見える。
 メディオンとシンビオスは、じっと夕焼けを眺めていた。砂の上に影が二つ、長く伸びている。押し寄せる波が、足下の砂をさらっていく。引き込まれそうになる感覚を繋ぎ止めるのは、強く繋いだ互いの手だ。
 すっかり日が落ち、最初の星が空に輝きはじめるまで、二人はそこに佇んでいた。相手の存在を、心に強く感じながら。


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