寓話によれば、「人間を人間たらしめるのは『理性』である」そうだ。
 メディオンは、自他共に認める理性的な人物だ。「理性の塊」といってもよい。
 滅多なことでは取り乱さない。はっきりと感情にまかせて行動したのは、父が横暴な命令をしたときくらいだ。あのときも、結局は周りの者に宥められて、メディオンは元の理性的な青年に戻った。----正確には、深い感情を、理性の仮面の下に押し隠した、のである。
 果たして、それが正しかったのかどうか。
 ただ、一つ言えるのは、彼のその強すぎる理性が助けになることもあれば、逆に仇なすこともあるということだ。

 シンビオスは、年頃になっても浮いた話一つない。
 幼い頃から領主の跡取りとして、剣術の稽古や帝王学の取得等々に大きく時間を取られて、色恋沙汰にうつつを抜かす暇がなかったこともある。
 また、厳しい修行を続けているうちに、自分を律することができるようになっている。それになにより、そういう色や恋の道というのは、一度も経験したことがないと、一度でも経験したことがある場合に比べて、容易に辛抱が利くものだそうだ。
 シンビオスの場合は、特に自分が「辛抱」してるなどと感じたこともなく、青春時代をあたら真面目に過ごしていた。

 さて、そんな二人であるから、恋はいたって静かに、そしてもどかしく始まった。
 顔を合わせたときに交わす会釈が、ほんの少し違う感じになってくる。
 別の相手と話している姿を、お互いちらちらと見やったりする。
 話をするときには必ず大人数の中に紛れ込む。二人きりだと緊張するからだ。
 もし二人きりになってしまった場合は、堅苦しい話----剣術とか戦術とか政治とか----に没頭する。そして必ずその合間に気まずい沈黙が挟まってしまう。
 メディオンは、自分が理性を失って、らしくない振る舞いをするのではないか、と怖がっている。
 シンビオスは、自分の胸に初めて湧き上がる不可解な感情を持て余し気味だ。
 見かねた従者達が、
「メディオン様、シンビオス殿のことを好いてらっしゃるなら、はっきりそう伝えたら如何ですか」----もどかしいったらありゃしない。
「シンビオス様。誰かを好きになるのは、あなたの歳なら当然です」----いえ、遅いくらいですよ。
 と、心の声を隠しつつ助言した。
「そうだな、キャンベル。いつまでもこんな状況を続けるのは好ましくないな」
「ありがとう、ダンタレス。確かに、こんな気持ちのままじゃ何も手に付かない」
 主達は、有り難くそのアドヴァイスに従って、
「シンビオス、私は君が----好き…だけど、君は私をどう思ってる?」
「私も…あなたが好きです、メディオン王子」
 ようやく想いを伝えあって、めでたしめでたし----かと思いきや。

「----参ったな…」
 自室で独り、メディオンは呟いた。
 現状を打破しようと思い切って告白し、シンビオスからも色好い返事をもらって、少しは進展するかと思いきや、----まったく以前と変わらぬ関係が続いている。
 今ほど、メディオンは自分の理性を恨んだことはなかった。
 どうしても躊躇ってしまうのだ。シンビオスは可愛い。何もかもがメディオンを「誘惑」する。いや、多分本人は無自覚なのだろうが、だからこそ余計にメディオンの胸をざわめかせる。だが、ここぞというときに、人一倍強力なメディオンの理性が働いて、セーブをかけてしまう。常に理性的に生きてきた者にとって、「我を忘れる」状態というのは、想像もできないだけに恐ろしい。
「なんて意気地なしだ、私は…」
 シンビオスだって、きっと呆れているに違いない。

 そのシンビオスも、どうしたものか悩んでいた。
 なにせ、今まで経験したことのない状況であり、心境である。
 メディオンといると落ち着かず、かといって逢えないと寂しい。彼に触れたい----もっとあからさまにいえば、メディオンを抱き締めたいし、彼にも抱き締めてもらいたい。
「----駄目だ、きっと…」
 考えただけで胸の奥がぎゅう、と締め付けられたような感じになるのに、もし現実になったとしたら----。
 我知らず、シンビオスはおのが身を抱き締めていた。

 その日。
 お互い、今日こそ、と思って臨むので、ここ最近は二人きりで過ごす雰囲気が、ますます歪なものになっていた。
 かといって、逢わずにはいられない。そのぎこちなさに、あとでどっと気疲れしても、逢えない寂しさに比べれば耐えられる。
 むしろ、そのぎこちなささえ幸せの一因となっている。二人きりなのに何も感じないとなれば、それはもう「終わり」を意味するからだ。
 きっかけさえあれば、とメディオンもシンビオスも思っていた。
 ----それが作られたものだったのか、あるいは本当のアクシデントだったのか、シンビオスに訊いたらなんと答えるだろう。
 茶器を用意しているときだった。
「----つっ…!」
 シンビオスが声を上げた。
「どうしたんだ?」
 テーブルで待っていたメディオンが、血相を変えて駆け寄る。立ち上がった勢いで椅子が倒れたが、そんなことにはまったく気付かなかった。
「戸棚の扉に、指を挟んじゃって…」
 シンビオスは左手で右の人差し指を押さえている。
「どれ、見せてごらん」
 メディオンは彼らしくもない強引な所作で、シンビオスの右手首を掴んだ。
「…あ…」
 シンビオスが小さく呟く。
 それにも気付かぬまま、メディオンはシンビオスの指を眺めた。色白なだけに、赤く付いた痕が痛々しい。メディオンは、そっと唇を触れさせた。
「----っ…」
 痛みとは違う戦慄が、シンビオスを貫いた。
 恐らく十数秒後に唇を離したメディオンは、
「----大丈夫? シンビ…」
 シンビオスを見て言葉を切った。
 頬を上気させ、潤んだ瞳でシンビオスはメディオンを見上げている。
「……………」
「……………」
 どちらからともなく、二人は抱き合った。
 全身が心臓になったみたいだ、とシンビオスは思った。メディオンと触れ合っているところから、自分の鼓動が強く感じられる。頬を寄せているのがちょうどメディオンの心臓の辺りで、そこからも強いリズムが響いてくる。
 メディオンもまた、同じリズムを感じていた。これは自分の鼓動なのか、それともシンビオスのものなのか。判らないならいっそ溶け合うほどにまで、と、より強くシンビオスの体を抱き締める。
 メディオンのいましめがきつくなって、シンビオスは息苦しくなった。メディオンの胸に預けていた顔を上向ける。
 メディオンの瞳と出会った。
 その空色に見とれていると、だんだんと大きくなってきて、終いには視界いっぱいを覆われて----同時に、唇を塞がれる感覚がした。
 ああ、キスされてるんだ…。
 シンビオスは目を閉じた。
 苦しい。物理的な苦しさではなく、心理的な息苦しさだ。胸の奥が締め付けられる。
 重ねた唇から漏れるシンビオスの熱い吐息が、メディオンの理性をついに融かし始めていた。微かに残った冷静な部分が、頭の奥で囁いている。もう止まらない、と。
 そうだ、止まらない。止まる必要などない。
 理性を失うのが----本能に従うのが怖いって? とんでもない! どうしてもっと早く、我を忘れてしまわなかったのか。
 口付けを受けながら、シンビオスはメディオンに縋り付いた。胸の奥の苦しさが、違う感情へと変化してきた。体の芯から湧き上がるこの想いは----なんだろう? ずっと抱き締めていてほしい、もっとキスしてほしい、そして、それ以上のことを----求めるこの気持ちは。
 ----こんな素敵なことだったなんて。
 二人はうっとりと見つめ合い、またキスを交わした。
 あとは本能の命ずるまま、愛の喜びを体に、そして心にしっかりと刻み込んだのだった。


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