アスピアより北の地は、今日も雪が降っている。
 窓の外を見て、メディオンは溜息をついた。窓のすぐ前にある木でさえぼんやりと霞む程、激しい降りだ。
 基本的に、メディオンは雪が好きだ。もともと、降っても一冬に一日二日くらいで、しかもほとんど雨に近いほどの湿った雪しか降らない地方出身である。北の地で初めて目にした、真っ白でさらさらで、結晶がはっきり見える雪にいたく感激したものだ。
 しかし、何事にも『程度』というものがある。
 今、この雪は、メディオンの生活に大きな支障をもたらしていた。
 この雪のせいで、メディオンはもう1ヶ月もの間、シンビオスに逢っていないのだ。
 メディオンのいるアスピアと、シンビオスが治めているフラガルドまでの街道は一本。その道が、除雪が間に合わない程の大雪で通行止めになってしまっている。
 何より悔しいのが、この大雪が、1ヶ月前メディオンがシンビオスの許を去ってアスピアに戻った、その夜から降り始まったことだ。もう一日、いや、数時間でも降り始めが早ければ、メディオンはフラガルドに足止めを食らって、シンビオスとずっと一緒に過ごせたものを。
 更に悪いことに、このところ気温の低い日が続いている。上空には、鳥人達も飛び回れないくらい強い寒気がわだかまっている。彼らが運んでくれる手紙や、ちょっとした小包などの配達便も、今は止まってしまっている。つまり、シンビオスと文も交わせないのだ。
 あとは、まあ、独り寝が寂しい、とか、そんなところだろうか。
 こんな具合で、メディオンの『シンビオス欠乏症』はすでにピークを通り越して、彼の冷静な判断力さえ奪いかけていた。何しろ、これ以上雪が続いて馬そりの運行が滞るようであれば、
 ----雪を漕いででも、自力で行こう。
 とまで思い詰めている程だ。
 一面の銀世界では方向を誤りやすい、とか、寒くてフラガルドまでもたないかも、とか、雪に慣れていないから危険すぎる、とかいったリスクを総て考え抜いた上での、メディオンの決心である。----つまり、そこまでせっぱ詰まっているのだ。
 しかし、当然のことながら、天はそのメディオンの無謀な行為に反対だったようだ。
 密やかな、ドアをノックする音がした。
 キャンベルだと思ったメディオンは、振り向きもせずに一言、
「どうぞ」
 と応える。
 ドアが開いた。入ってくる者の足音は聞こえない。帝国でも共和国でも、必要以上に足音を響かせるのは『田舎者』と蔑まれる。蹄の音が響くケンタウロス族は、だから特に優雅に上品に振る舞い、足音を消す鍛錬をしている。それでも、総て消し去ることはできない。まして、静かな部屋だ。少しの音も耳に届くはずだ。
 それに気付いたメディオンが、訪問者を確認すべく振り向く前に、
「紅茶をお持ちしました」
 柔らかい声が、優しく言った。
「最近、寒い日が続きますね」
 最初の台詞で、メディオンは誰か判った。それでも振り向かなかったのは、自分の耳が信じられなかったからだ。思い詰めたあまりの幻聴か、と。2つ目の台詞でようやく振り向いた。目に飛び込んできたのは、シンビオスが紅茶の乗ったトレイをテーブルに置く姿だった。
 シンビオスが。
 すぐ目の前に。
 どうして、とか、どうやって、とか、そんな疑問は取り敢えず浮かばなかった。ただ、本物なのか、と思い、すぐに消えてしまうのでは、と恐れた。
 それで、強く抱き締めた。
 腕の中の温もりは確かに本物で、柔らかい唇も、背中に廻された腕も、メディオンの名前を呼ぶ声も、紛れもない、シンビオスのものだった。

 自分がこんなに暴走する人間だとは、メディオンは今の今まで知らなかった。
 やっと冷静さが戻ってきたときには、ベッドの上でシンビオスの髪を撫でていた。そのシンビオスは、上気した頬をメディオンの胸に乗せている。
 いまだに熱は芯に燻っているものの、少し落ち着いたメディオンは、やっと、最初にするべき質問を口にした。
「----シンビオス。どうしてここに?」
 シンビオスは、楽しそうに笑った。
「メディオン王子も、結構衝動的なところがあるんですね」
「…ごめん。驚いた…よね? やっぱり」
「いいえ! ----嬉しかったです」
 シンビオスは、メディオンの頬にキスして、
「----実は、月一の定例会議なんです」
 それが、自分の質問への答えだと気付いて、メディオンはシンビオスと目を合わせた。
「この天候だから延期だと思ってたんですが、一昨日ベネトレイム様から書簡が届いて…」
「書簡?」
 メディオンは訊き返した。
「配達便は止まっているだろう?」
「ええ。----あなたともすっかり切り離されてしまって、寂しかったです」
 メディオンは、シンビオスの体を抱く腕に力を込めて、同意を表した。
 シンビオスは切なげな吐息を一つ吐いて、
「…一昨日は、割と雪が小降りに----といっても気休め程度ですけど、それを見計らって、ベネトレイム様がハガネやムラサメに頼んだんです」
 一月の間に、各所領からベネトレイムに提出される書類は多々あるが、アスピア以北を襲ったこの雪によって、フラガルドとマロリーからの報告が途絶えた。更に、オブザーブのパルシスとは、他の所領とは違う性質の連絡事項があるのに、それもままならない状態だ。いつまでも放置してはおけない、と、ベネトレイムはとうとう決断を下したのである。
 まず、各領主に、定例会議は予定通り行う、と連絡し、それに伴って、各町を繋ぐ街道の除雪作業を急がせた。取り敢えず、馬そり一台が通れる幅を確保できればよい。
「昨日、パルシス様がフラガルドまでいらっしゃったんです。で、今朝一緒にアスピアまで来た、というわけなんです」
「そうだったのか…。大変だったね、この雪の中」
 早まらなくて良かった、とメディオンは思った。ヘタをすれば行き違いになってしまうところだった。
「会議は明日からなので、今日は一日自由時間です。----だから真っ先に、メディオン王子のお部屋にお邪魔したんです。ずっと、お逢いしたかったので…」
 真っ直ぐに見つめてくるシンビオスの瞳を見返して、
「私も、逢いたかったよ、とても」
 メディオンは応えた。
「----ああ、そういえば、紅茶を淹れてきたんですけど…、…もう、冷めて渋くなってますね、きっと」
 苦笑するシンビオスの、柔らかい唇にメディオンは口付けた。最初は軽く小刻みに、それから徐々に深く激しく。
「…紅茶より、君をまず味わい尽くしたいよ、シンビオス。----ずっと、君が不足してたんだ」
「…ぼくもです…。全然、あなたが足りない…」
 熱い吐息を漏らしながら、シンビオスがメディオンにしがみついてくる。メディオンの理性は、再びあっさりと溶け出していった。

 その日から会議中の二日間、メディオンとシンビオスは熱い夜を過ごしたわけだが、当然そんなことで外の雪は融けないし、寒気も去らなかった。
 二日間の会議も終わり、明日の朝いよいよシンビオスがフラガルドに去ってしまう。
 次はいつ逢えるだろうか、とメディオンは考えていた。また一月後になってしまうのだろうか。たった二日半。たった三夜。一ヶ月の空白を埋めるには短すぎる。自分の体にシンビオスを、そしてシンビオスの体にも自分のことを、しっかりと刻みつけておきたい。
 それを実行すべくベッドに入る前、シンビオスがこう言いだした。
「明日は、メディオン王子もぼくと一緒にフラガルドに帰りますよね?」
「…え。----ああ、そうか!」
 その手があったのだ。うっかりしていた。だが、一つ問題がある。
「でも、今度はアスピアに戻れなくなるんじゃ…」
「え。メディオン王子。戻るおつもりなんですか?」
 シンビオスは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「春まで帰すつもりはありませんよ、ぼくは。----いえ、もっと言えば、春を過ぎても離しません。そのように、ベネトレイム様にお願いするつもりなんです」
 ぎゅ、とシンビオスはメディオンに抱き付いて、そのままベッドに倒れ込んだ。上からメディオンの瞳を覗き込んで、
「嫌だとは言わせませんよ?」
 何とも可愛らしい、満面の笑みを見せる。
 メディオンはシンビオスの頭を抱き寄せた。潤んだ緑の瞳に自分の姿を認めて、満足感を覚える。
「言うわけないじゃないか。私は君の傍を離れるつもりはないよ、シンビオス」
 しなやかな体を抱き締め、反転してしっかりと組み敷いた。メディオンの中のシンビオスを、シンビオスの中のメディオンを、充分に補い合うために。


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