メディオンは王子ではなくなった。 皇帝からの手紙は、メディオンの皇位継承権の剥奪を伝えるものだった。 メディオン自身が願い出たのを「許可」したのではなく、あくまで皇帝自身がメディオンを「勘当」したことにしたいらしい。 「どういうことなんでしょう?」 首を傾げるシンビオスに、メディオンは寂しげな笑顔を見せた。 「見せしめだよ。光の勇者であり、自分の血を引く息子でさえ、逆らえば勘当してしまう。----だとしたら、民衆に対してはどうだろう?」 「…もっと容赦しないと、みな思うでしょうね」 「そうだ。…それに、私が支持を集めて民衆をまとめあげるのを、父は恐れているんだ。私が昔のように、父の言いなりになる息子ならそれでもいいだろうがね。----今の私はもういらないんだよ」 「そんなこと!」 言いざま、シンビオスはメディオンに抱きついた。 「酷すぎます、そんなの……」 メディオンは腕の中の温もりを強く抱いて、 「父は気の毒な人なんだ、シンビオス。きっと、誰かを心から信じたことも、愛したこともないんだろう」 「…王子はお人好しすぎです」 シンビオスはメディオンの胸に顔を押し付けたまま、ぽつりと言う。 「そうかもしれない。…だけど、少なくとも私には信じられる人も、愛せる人もいる。父ほど辛くはないよ」 「…ぼくの父のせいでしょうか」 「シンビオス…?」 シンビオスはメディオンを哀しげな瞳で見上げた。 「父が裏切ったと皇帝は思っています。だから…」 「それでも信じることを止めない人もいる。…父は本当は弱い人なのかもしれない」 メディオンは優しく言って、シンビオスに口付けた。それから明るく微笑む。 「さあ、これで私は王子ではなくなったわけだから、シンビオス、私のことを『王子』と呼ぶのはなしだよ?」 「え…?」 シンビオスは戸惑い顔で、 「な、なんて呼べばいいでしょう」 「なんて、って、名前で呼ぶものではないのかい?」 「あ、そ、そうですよね」 「それとも、『ダーリン』とでも呼んでくれるとか」 メディオンは明らかに面白がっている。 「な、名前で呼びます…」 シンビオスは、やっとそれだけ答えた。 靴の下で雪が鳴る。気温が低いせいだ、とシンビオスが教えてくれた。むき出しの顔が冷たい。いや、痛いほどだ。 だが、メディオンは城の中に入らず、飽きることなく中庭を歩き回っていた。濃紺の手袋を履いた掌に雪が落ちてくる。以前本で見た通りの六角形の結晶が幾つも重なっている。指先でそっとほぐしている間にも、どんどん降り積もってくる。 背後で、きゅ、と雪が鳴った。 「おう…、メディオン」 シンビオスが小走りにやってくる。 「あまり長い間外にいると、体が冷えちゃいますよ」 メディオンはシンビオスを抱き寄せて、滑らかな頬に自分の頬を擦り寄せた。 「うわ! 冷たい!」 思わず叫ぶシンビオスに、メディオンは悪戯っぽく笑った。 「また『王子』と言いそうになったね?」 「つい出ちゃうんです。…でも、途中で止めた…」 シンビオスの言葉も途中で止められてしまった。 「----君が『王子』と言いそうになる度にこうする、というのはどうだろう?」 「いつまで経っても止められなくなりますけど」 「構わないよ。その度にキスするから」 メディオンはシンビオスの頭を抱き寄せた。 「----こう寒いと、温泉にでも行きたくなるな」 「本当ですねぇ」 シンビオスはしみじみ言った。 今はもう雪が道を塞いでしまったため、ドルマントまでは行けなかった。もしそうなる前に行っていたとしたら、今度は雪が融けるまで缶詰め状態になってしまう。 一冬を温泉地で過ごすなど、忙しいシンビオスには無理な話だが、空想ぐらいしてもいいだろう。何もかも忘れて、メディオンと二人だけで温泉…。 「…はぁ…」 思わずため息が出てしまった。 シンビオスの気分が解ったのか、メディオンはクスクス笑った。 「温泉だろうとここの浴室だろうと同じことだよ、シンビオス。君さえいれば私はそれでいい」 「それはぼくも…、同じです。でも…」 小さく、やっぱり行きたいな、と呟く愛らしい唇にもう一度キスしてから、 「さあ、もう中に戻ろうか。君の言った通り、すっかり冷えてしまった」 メディオンはシンビオスの肩を押して歩き出した。 頭上で羽ばたきの音がした。 二人は空を振り仰いだ。 「シンビオス様ー! メディオン王子ー!」 小降りになった雪幕の向こうから、ゼロが手を振っている。隣にはエルダーの姿も見える。シンビオスとメディオンも手を挙げて応じた。 鳥人達は中庭に降り立った。 「お久しぶりです」 エルダーが頭を下げる。 「二人とも、どうしたんだ?」 シンビオスが訊ねた。 「雪が降ってきちゃったんで、アスピアでの復興作業ができなくて…。それに、年越しはやっぱりフラガルドで、ってことで、ベネトレイム様が帰してくださったんです」 ゼロが朗らかに説明した。 「君達だけかい?」 「いえ。他にもいらっしゃいますわ」 エルダーが意味ありげな言い方をした。 シンビオスはそれを訝ったが、とにかく出迎えてみようと、皆と一緒に歩き出した。 「この冬は雪が凄いですね」 ゼロが言った。 「おまけに寒いし…。どうなってるんでしょうね?」 「こういう冬の後は、豊作になるそうだよ。父が以前にそう教えてくれたよ」 戸口で体についた雪を払いながら、シンビオスが応じる。 「コムラード様が?」 と訊いたエルダーも、ゼロの背中の方についた雪を落としてやっている。 「うん。母が亡くなった冬がやっぱり寒くて、でもその後にはいつもより作物の育ちがよかったんだって」 「じゃあそれはきっと、君の母君からの贈り物だったんだろう」 メディオンは帽子を脱いで軽く振った。さらさらの雪はそれだけで簡単に落ちてしまう。 「父もそう言ってました。もし今度もそうなったら、それはきっと父からなんでしょうね」 シンビオスは笑って、城の中に入った。 廊下を歩いていると、向こうからマスキュリンがやってきた。 「お客様がみえてますよ。グレイスが応接室にお連れしています」 「ありがとう。…それもその人に頂いたのかい?」 シンビオスは、マスキュリンが手にしているゼラニウムの鉢植えを見て訊いた。 マスキュリンはみるみる紅くなって、 「え? …ま、まあ、そうなんですけど、そうじゃないです。…つまり、応接室にいらっしゃる方からではなくて…」 「? じゃあ、誰から?」 「い、いいじゃないですか、そんなこと!」 マスキュリンはぷい、と横を向いた。 不思議そうに顔を見合わせるシンビオスとメディオンの後ろで、エルダーとゼロがにやにやしている。何か知っているらしい。 「…お客様をお待たせするのも悪いし、とにかく行こうか、シンビオス」 メディオンが取りなすように言って、シンビオスも頷いた。 「じゃあ、シンビオス様、僕達も部屋に戻りますから」 ゼロが言って、エルダーとマスキュリンと連れ立って廊下を去っていく。 二人は何一つ解らないまま、応接室に行った。 ドアは開いていた。 「----母上!」 メディオンが驚きの声をあげる。 メリンダとイザベラ、それにブリジットとシンテシスとウリュドがソファを埋め尽くしていた。先に部屋に来ていたらしいキャンベルもいる。 「メディオン様が全然いらしてくださらないから、こっちから来ちゃいました」 シンテシスがいつも通り遠慮なく言って、ウリュドに肘打ちされている。 「元気そうで安心したわ」 メリンダが優しく微笑む。 「母上も。----わざわざお越しとは思いませんでした」 メディオンが嬉しそうに応じた。 シンビオスは気を遣って、そっとその場を離れた。 ----まさか、お客様が王妃様達だったなんて。 後で改めてご挨拶しよう、とシンビオスは思った。まずは身内だけで話したいこともあるだろう。 「…シンビオス様」 背後から、柔らかな声がかかった。振り向くと、更に意外な人物がいた。 「ヌーン。…君も来てたんだ」 と言ったシンビオスの脳裏に、閃くものがあった。 「あ、じゃあ、マスキュリンに鉢植えをあげたのは…」 静かな魔導師は静かに頷いた。 「そのためにここに来たのです」 「はあ、そうなんだ…」 「彼女が今辛い気持ちでいるのも知っています。それに付け込もうなんて思ってはいません。…いつまででも待つつもりです」 「そうか」 シンビオスは知らず微笑んでいた。 ヌーンと別れたシンビオスは、今度はマスキュリンと会った。聞けば、さっきは部屋に鉢植えを置きにいくところだったそうだ。 「今、ヌーンに会ったんだけど…」 シンビオスが言いかけると、マスキュリンはまた紅くなった。 「…聴きました?」 「うん」 困ったように、しかしほんの少し嬉しそうにマスキュリンは、 「花、断ろうかと思ったんですけど…」 「どうして? 綺麗な花だったじゃないか」 とシンビオスが言ったところ、そういう問題じゃない、と切り返された。 「花を貰うって、やっぱり女の子にとっては意味のあることなんですよ」 「そうなの? 花は花だと思うけど」 「誰に貰うか、っていうのが重要なんです」 「…ヌーンじゃ嫌なのかい?」 マスキュリンはちょっと考えて、 「嫌じゃないですけど…」 やはり、ジュリアンのことがまだあるのだろう。だが、あの戦いで、まずマスキュリンとヌーンの魔法で敵を疲弊させてから直接攻撃に入る、という作戦をシンビオスは採っていたので、彼らの中に強い連帯感が生まれたのも知っている。 「まあ、焦ることはないと思うよ。時間は沢山あるんだから。ヌーンも待つって言ってるし」 シンビオスは、殊更深刻にならない口調で言った。 「そうですよね」 マスキュリンは、自分に言い聞かせるように、 「焦ることはないんですよね」 「そうそう」 シンビオスが鷹揚に頷くと、やっとマスキュリンは微笑んだ。 マスキュリンとも別れて、シンビオスは執務室に入った。 「シンビオス様。メリンダ王妃がいらしているそうですね。キャンベルがそわそわとお出迎えに行きましたが」 ダンタレスが声をかけてくる。 「うん。今頃話が弾んでるんじゃないかな」 シンビオスは応えて、書類に眼を通した。 今日を含めて後2日で年が明ける。今年は今日で仕事納めだ。急ぎのものはあらかた午前中に済ましているから、ダンタレスと二人だけでも充分に余裕がある。 「仕事始めは何日にしますか?」 「慣れないことばかりで疲れたから、少しのんびりしたいな」 思えば、ゆっくり休めたのは風邪で寝込んだときぐらいだ。温泉は無理だとしても、年明けぐらいはのんびり過ごしたい。 「どうでしょう。春の人事に向けて準備がありますからねぇ。あと、予算も決めないといけないですし。それに…」 あれもあるこれもある、と指折り数えるダンタレスに、 「君も結構意地悪だね、ダンタレス」 シンビオスは苦笑した。 「現状を把握している、と仰って頂きたいですね」 「じゃあ、君はいつまでなら私に休みをくれるんだい?」 「長くて7日、ですね」 「短い方は?」 「敢えて申し上げません。お気の毒すぎて」 「それはどうもありがとう」 シンビオスは真面目な顔で言った。 夕食の前に、シンビオスは改めてメリンダ達に歓迎の挨拶をした。皆で賑やかに食事をして、それからも話は止まらず、各自部屋に戻ったのはかなり遅くなってからだった。 明日が休みでよかった、とシンビオスは思った。風呂から上がったときにはもう午前1時を廻っている。 「----シンビオス、今日はすまなかったね」 メディオンはシンビオスの腰を抱き寄せた。 「結局、今年最後の仕事を君一人にさせてしまった」 「いえ。ダンタレスもいてくれましたから」 シンビオスはメディオンの頬に唇を触れさせて、 「それに、せっかく王妃達がいらしてくださったんですから、そんなこと気にしないでください」 「ありがとう」 メディオンは微笑んだ。彼の笑顔はどれも素敵だが、この笑い方がシンビオスは一番好きだった。 ベッドに入ったとしてもすぐに眠るとは限らないわけで、結果シンビオスは普段より3時間も遅く目を覚ました。それでいてまだ眠り足りない気分だ。 ----今日は休みだから…。 一旦布団から顔を出しかけて、すぐにまたもぐり込む。寒い。いつもなら我慢して起きるが、今日は休みだ。 これが朝寝坊の幸せ、というやつだろうか。今までのシンビオスにはあまり縁がなかったものだ。早起きが身に付いていたし、万一寝過ごしてもダンタレスが容赦なく起こしに来る。 今日は、勿論誰も起こしに来ない。 シンビオスはぬくぬくな布団の中で幸せを味わっていた。温かいものは他にもある。 メディオンはよく眠っていた。体の向きは、完全な仰向けより少しシンビオスの方を向いている。腕は無造作に投げ出されていた。 シンビオスは、----彼にしては珍しいことだが----メディオンの首筋に鼻と唇を擦り寄せた。腕を伸ばしてメディオンの髪を指に絡ませる。柔らかくつややかな金糸はするすると逃れていく。それが面白くて、シンビオスは飽きることなく指をクルクルしながら、メディオンの白い喉に軽くキスしていたが。 メディオンの腕がシンビオスの体に巻かれた。 シンビオスはびっくりして、メディオンの髪を離した。 「お、起きてたんですか?!」 まさに、悪戯を見つかった子供の気分で顔を紅くするシンビオスに、 「これで目を覚まさないのはエンデュミオンだけだろう」 メディオンは笑って、シンビオスの滑らかな肌に手を滑らせる。 「あ…、や…っ」 首を振るシンビオスにキスしながら、 「どうして? …仕掛けたのは君だよ?」 「んん…、そんなこと…」 メディオンは手を更に下に這わせた。シンビオスはビク、と身を震わせて、メディオンにしがみつく。 メディオンは体をずらして、シンビオスの胸を飾る鴇色の果実を口に含みながら、手の動きを速めた。 シンビオスは小さく喘いだ。指がメディオンの髪を乱す。程なく熱を放った。 うっすらと涙が浮かんでいるシンビオスの眦に、メディオンは唇をつけた。シンビオスは恥ずかしそうに、火照った頬をメディオンの胸に押し付けた。 メディオンはシンビオスの髪を宥めるように撫でながら、 「…今年も今日で終わりだね」 と優しく囁く。 「今年、君に出逢えた。----来年は何をもたらしてくれるだろうね?」 「貴男と一緒なら、何が来ても平気です、メディオン」 シンビオスはメディオンを見つめて答えた。 結局、二人が起きだしたのは昼近くだった。 すでに慌ただしい空気が満ちている。年越しの準備だ。コムラードの喪に服しているから派手なことはしないが、一年の締めくくりと新たな年の幸福のため、ささやかに慎ましく年明けを皆で迎えるのである。 とはいえ、シンビオスに手伝えることはなかった(というより、領主にそんなことをさせるわけにいかない)ので、メディオンと一緒に、お客様を城下へ案内することにした。 今日はよく晴れていた。その分寒さが厳しい。しっかり防寒して外に出る。 城下も、年越しムードで活気に溢れていた。 子供達が雪像を作っている。一人がシンビオス達に気付いて声をあげた。 「あ! シンビオス様! 見て見て!」 子供達が駆け寄ってきて、シンビオスやメディオンの手を引く。 「私達が作ったの! 『光の使徒』よ!」 得意げに胸を張る女の子の後ろにあるのは、どうやらシンビオスの胸像らしかった。隣にメディオンとジュリアンらしき雪像もある。まあ、子供が作ったものにしては上出来だろう。 「ありがとう。よくできたね」 シンビオスは、帽子の上から子供の頭を撫でた。 「これだけ雪があったら、本当に雪像作るしかないですよね」 シンテシスが楽しそうに言う。 「私も作ってみたいわ」 とイザベラが瞳を輝かせると、 「そうしましょう!」 ブリジットが頷いて、早速雪を集めだした。シンテシスも手を貸しながら、 「ほら、ウリュドも手伝ってよ!」 「解ったよ、シンテシス」 「イザベラ様、何を作ります?」 「3使徒がいるんだから…、グラシア様にしましょうか」 「賛成!」 わいわい言いながら作業していく様子を見つめながら、 「…母上はどうなさいますか?」 メディオンは半分冗談で訊ねたのだが、 「そうね。面白そうだわ」 メリンダはさっさと参加してしまった。 唖然とするメディオンとシンビオスに、 「貴男達もいらっしゃいな」 と声をかけてくる。 雪を見るとみな子供になる。 レモテストでもそうだった。ジュリアンが仕掛けた雪合戦がいい証拠だ。あのときも、みな自分の立場も年も何もかも忘れて夢中になっていた。 シンビオスとメディオンは、勿論王妃の言葉に従ったのである。 新年を迎える宴は、慎ましい分親しさが満ちていた。 そろそろ日が変わる。シンビオスは窓を開けた。新しい年を招き入れるためだ。火照った頬に冷たい外気が心地いい。 新年を告げる教会の鐘が鳴った。この鐘が鳴り終わる前に一つだけ願いごとをすれば叶う、と言われている。勿論、内容は内緒にしなければならない。 最後の鐘の音が夜空に吸い込まれた。 シンビオスは窓を閉めて、みなの方に向き直った。 「新しい年が明けました。この一年が皆さんにとって幸福な年でありますように」 シンビオスの音頭で、全員がグラスを掲げる。 メディオンと目が合った。お互いの顔に笑みが浮かぶ。 この年が何をもたらそうとも、恐れることはないのだ。シンビオスはメディオンの幸せを願い、メディオンはシンビオスの幸福を祈ったのだから。 |