昨夜、シンビオスはろくに眠れなかった。 昨日のメディオンの行動と、それに対して生じた自分の気持ち、そして今後どうすべきか。それらのことがぐるぐると頭を回って、シンビオスの眠りを殺したのだ。 冷たい水で顔を洗う。きーん、と頭に響いていささか眠気が飛んだ。 顔を上げると、鏡に顔が映る。 水滴をタオルで拭いながら、シンビオスはじっと自分の顔を見つめていた。やがて、両手で頬を挟むようにぱん、と軽く叩く。そしてまた、自分の顔を注視する。つくづく童顔だ。 メディオンの、あの大人びて、どこか神秘的で、男らしくそれでいて妙な色気のある雰囲気を思い浮かべるにつけ、自分はなんて子供子供しているんだろう、と思う。 ----一体、メディオン王子はどういう心持ちだったんだろう。そもそも、ぼくのどこに、そんなふうに思わせるものがあるんだろう。 そのうち気恥ずかしくなってきて、シンビオスはようやく鏡の前から離れた。手早く服を着替え、溜息を一つつきながら自室を出た。 食堂に入る前に立ち止まって中を確認する。 キャンベルがいつもの席に着いているのを見、更に、いつもその隣にいるメディオンの姿がないことを確認する。少し安堵しながら、シンビオスはその席に向かった。後一人、ダンタレスを加えて4人で同じ食卓を囲むのである。 「----おお、おはようございます、シンビオス殿」 キャンベルが、いつもと同じ陽気な口調で挨拶してくる。 「おはようございます、キャンベル殿」 返しながら、シンビオスはキャンベルの斜め向かいの椅子に腰を下ろした。この向かいには、いつもメディオンが座っている。しかし、昨夜の夕食時から空席のままだった。 「----まだ、メディオン王子はご体調が…?」 「ええ。頭が痛いと仰って、まだ横になっています」 キャンベルは心底心配そうな顔で答えた。 「それは心配ですね。----やはりお風邪なのでは?」 「いえ、どうも違うようなのです。頭が痛い他はどこも異常はないようですし、熱もありませんでしたから。ご自身も、少し寝ていれば治る、と…」 「そうですか。ならいいんですが…」 頭痛がするといえばシンビオスもそうだ。昨夜眠れなかったので、睡眠不足からくるものだ。同様に、メディオンも眠れなかったのだろうか。だとしたら、どういう思いでいたのだろうか。 気が付くと、キャンベルがじっとシンビオスを見つめている。そういえば、彼は果たして、昨日メディオンとシンビオスの間にあったことを知っているのだろうか。メディオンにとってキャンベルは兄弟以上の存在だ。なんでも相談しているらしい。とすると、今回のことも…? シンビオスは恥ずかしさに顔が熱くなってきた。あまり人に知られたくない性質のことだ。 「…あ、ああ、----失礼、シンビオス殿」 キャンベルが、ふ、と顔を横に背け、シンビオスへの視線を外した。その体勢のまま、 「あの…、もし宜しければ、朝食後、お仕事の前にメディオン様を見舞っては頂けませんか。あなたのお顔を見ればメディオン様もきっと元気になると思いますので…」 キャンベルの物言いにしては珍しく、もごもごと呟くように言う。 (恐らく)自分が原因で頭痛になっている人に顔を見せて、果たしてその人が元気になるものだろうか、とシンビオスは思ったが、ここで拒否するのも不自然なので、 「勿論、いいですよ。ぼくでお役に立てるものなら」 と応えた。 キャンベルはほっとしたような笑顔になった。 「ありがとうございます、シンビオス殿」 そこにちょうど、ダンタレスがやって来て、 「----遅くなりました。つい寝坊してしまいまして…」 シンビオスの隣、すなわちキャンベルの向かいに座った。 「おや、メディオン王子はまだ…?」 キャンベルが、さっきと同じ説明を繰り返しているのを聴くともなしに聴きながら、シンビオスはメディオンになんと声をかけようかと考えていた。 朝食後、キャンベルと共にシンビオスはメディオンの部屋に向かった。ダンタレスは一足先に執務室に行っている。 「----メディオン様、失礼します」 キャンベルがドアをノックしてから開けて、 「シンビオス殿がいらしてくださいましたぞ」 メディオンの眠っているベッドまで歩いていく。 シンビオスは、入り口から数歩入ったところで留まっていた。 メディオンは布団を頭からすっぽり被って、姿が見えなかった。 「----メディオン様、お休みですか?」 覗き込むようにしてキャンベルがそっと声をかけている。 眠っていないだろう、という気がシンビオスはしたが、敢えてキャンベルに向かって、 「どうかそのまま。----眠らせてあげていてください」 キャンベルはそろりとシンビオスの許まで戻ってきた。 「どうも、申し訳ない」 「いえ。----もしメディオン王子が起きられて、気分が宜しくなったら、いつもの時間にいつものようにお茶を待っています、とお伝え願いますか? ----勿論、気分がすぐれないようなら無理なさらないように…」 「はい、伝えます」 「では、私は仕事に参りますので」 「どうもありがとうございました」 深々と頭を下げるキャンベルにこちらもお辞儀を返して、シンビオスは部屋を出た。 もしメディオンが眠っていなかったら、シンビオスとキャンベルの会話を聴いていたはずだ。どんな気持ちで聴いたかはともかく、シンビオスの意図は解ってくれたに違いない。----改めて話をしたい、ということに。 そもそもの発端は、まさしくその『お茶の時間』に起こった。 いつも、午後の休憩時間になると、メディオンは自ら紅茶を淹れて執務室まで来てくれる。そのときダンタレスは食堂まで行って休憩するから、執務室にはメディオンとシンビオスの二人きりになる。 昨日もそうだった。 二人がけのソファに並んで座って、とりとめのない話をしながら、二人は紅茶とお菓子を楽しんだ。ちなみに言えば、そのときのお茶請けはグレイス作のクッキーだった。 休憩時間が終わると、シンビオスは執務に戻り、メディオンは茶器一式を携えて執務室を出ていく。 二人一緒にソファから立ち上がったその瞬間、なんの前触れもなく、メディオンはいきなりシンビオスを強く抱き締めた。 それも、明らかに友情からの抱擁ではなく、それ以上に熱い想いのこもったものだった。いかに鈍いシンビオスにもそれが判るほど、情熱のこもった抱擁だった。 何しろ今の今まで全然そんな雰囲気はなかったし、メディオンがそんなふうに自分を想っているとは考えてもいなかったし、それに慣れていないことなので、シンビオスは身を硬くした。嫌な気持ちがしたかといえば、----全然そんなことはなかった。むしろ妙な気持ちになった。こちらからもメディオンを抱き締めたい、という思いが胸の奥から込み上げてきた。 しかし、それを実行に移す前に、メディオンはシンビオスを解放した。抱擁してきたときと同様、突然且つ勢いよく突き放し、風のように素早く部屋を出て行ってしまった。シンビオスが声をかける間さえなかったのである。 だんだんと驚きと衝撃から冷めてきたシンビオスは、メディオンの行為の根底にある彼の気持ちに気付いて、今更のように頬を紅くした。 そこに、ダンタレスが戻ってきた。シンビオスを一目見るなり、 「どうなさいました? 顔が真っ赤ですが…。…お風邪を召しましたか?」 生来の過保護ぶりを発揮して尋ねてきたものだから、シンビオスも慌てて、 「いや、なんでもない、大丈夫」 と言い続けなければならなかった。 その後執務に戻ったので、メディオンのことを考えている余裕はなくなった。 職務後、夕食の席にメディオンの姿はなかった。キャンベルによれば、頭痛がするので、とのことだった。それはシンビオスにとっても好都合だった。一体どんな顔をしてメディオンと接すればいいのか、全然心の準備をしていなかったからだ。 自室に戻ったシンビオスは、風呂に入り眠る支度を済ませてベッドに入ってから、今日のメディオンの行為について考えた。知らず、自分で自分の身を抱き締めている。メディオンがああいう行為に出た、その心について考えた。あのとき感じた自分の心について考えた。その上で、どうすればいいのかを考えた。 それらの思考がぐるぐると頭の中で入れ替わり立ち替わりして、とうとうシンビオスは眠れなかった。 そして今。 シンビオスはメディオンを待っている。 ----午前中の仕事をなんとかこなし、昼食のため食堂に行くと、メディオンはやはりいなかった。酷く蒼い顔をしていた、とキャンベルは言った。 「----ですが、お茶の時間にはお邪魔する、と仰っていました」 言外で、無理なさらないように止めたのですが、と含ませた口調である。 「…そうですか…」 シンビオスは呟いた。微かに安堵の響きがこもっている。 朝のシンビオスの言葉を聴いていたなら、あるいは昼食にはやってくるかと思っていたのだが、一体メディオンは今どんな思いでいるのだろう。シンビオス同様、照れくさいものを感じているのだろうか。同席する従者二人に悟られないように、会うとしたら二人きりで、と考えているのだろうか。それなら、キャンベルも知らないことになる。そう思い当たって、安心したのだ。 そのキャンベルと、横で話を聴いていたダンタレスは、一様に不可解な顔をした。 何しろ、体調が悪いはずのメディオンは、それでもシンビオスとのお茶の時間にこだわっている。そのシンビオスにしても、メディオンがそんな状態なら絶対に止めるはずなのに、それどころかあまり心配していないように思われる。 二人は顔を見合わせた。 そんな従者達の様子に気付かぬまま、シンビオスは機械的に食事を口に運んでいた。---- ダンタレスが出て行ってから、どのくらい経っただろう。 シンビオスは石のように身を固めて、ソファに腰を下ろしていた。 微かなノック音がした。 シンビオスはつかつかとドアに寄って、返事もせぬままドアを開けた。 メディオンが立っていた。 いきなりドアが開くとは思っていなかったのだろう、青ざめた顔に目を驚きに見開いている。茶器一式が乗ったトレイを手にしていた。この辺りの律儀さが彼らしい。 シンビオスが身を引いて促すと、メディオンは静かに部屋の中に入ってきた。テーブルにトレイを置く。 ドアを閉めてから、シンビオスもテーブルの方に向かった。 ほぼ同時に、二人は並んでソファに腰をかけた。 紅茶をカップに注いで、メディオンはシンビオスの前に置いた。続いて自分のカップにも注ぐと、二口三口ごくごくと飲み下す。 シンビオスは猫舌なので、カップを両手で包むように持ったまま、少し冷めるのを待っていた。 メディオンはよほど喉が渇いているのか、更に飲み続けている。そのうち、もう一度カップに紅茶を注いだ。一杯目を飲み干してしまったらしい。 シンビオスはそっとカップに口を付けて、ふーふーと息を吹きかけてから、一口飲もうとした。 「----シンビオス。…怒っているだろうね」 やっと、メディオンが口をきいた。 シンビオスはなんとも答えられなかった。ちょうど紅茶を口に含んだところだったからだ。 「突然あんなことをしてしまって…。許してほしい。だけど、君に対する想いは偽りのないものだ。それだけは解って----、…いや、解ってくれなくてもいいんだ。解らなくて当然だ。----大事な友人に対して、友情以上の気持ちを抱くだなんて、きっと君には理解できまい。だから、それでいい。ただ嫌いにならないでさえいてくれれば…。----どうか私を軽蔑しないでほしい、シンビオス。君にそんなふうに思われるのが一番怖いんだ」 シンビオスが黙っている間に、メディオンは一気にこう言った。そして今度は彼が黙り込んでしまった。 シンビオスはめまぐるしく頭を働かせた。昨日シンビオスが一瞬身を硬くしたのを、どうやらメディオンは拒絶反応だと思ったのだ。そして、シンビオスに嫌われはしないかと恐れ、衝動的に行動したことを後悔していたのだ。----今の今まで。 そう思い当たったとき、シンビオスはメディオンのことが愛おしくて堪らなくなった。 シンビオスはカップをテーブルに置くと、立ち上がった。 「メディオン王子。ちょっと立って頂けますか?」 訝しげに自分を見上げているメディオンに、シンビオスは言った。 戸惑った様子ながら、メディオンが立ち上がる。間髪を入れず、シンビオスは素早くメディオンの背中に腕を廻して、ぎゅ、と抱き付いた。メディオンが身を硬くするのが感じられた。昨日のシンビオスと同じ反応だ。確かにこれは誤解されても仕方ないな、と心の中で苦笑しつつ、シンビオスは囁いた。 「これが、ぼくの偽らざる気持ちです。…メディオン王子」 「…シンビオス。----本当に?」 メディオンが呻くように呟く。 「ええ。…昨日は突然で驚いただけなんです。----今の王子みたいに」 抱き付いたまま顔を上げる。メディオンの顔が目に入ってきた。泣きそうであり、同時に幸福感に溢れているようにも見える。 メディオンは顔を俯かせてシンビオスと目を合わせた。片腕が力強くシンビオスの体を巻き締め、もう片方の手がシンビオスの熱い頬に宛われた。 シンビオスはゆっくりと瞼を閉じ---- ----ノックと共に、 「シンビオス様。宜しいですか?」 ダンタレスの声がドアの向こうからした。 どうぞ、の返事を受けて、ダンタレスはドアを開けた。シンビオスはすでに大きな執務デスクに着いていて、メディオンは飲み終わった茶器を乗せたトレイを持ち上げたところだった。 ダンタレスはメディオンに軽く会釈して、部屋を出ていこうとする彼と入れ違うように、シンビオスの許まで歩み寄った。 「----じゃあ、失礼するよ、シンビオス」 ドアのところで、メディオンが言った。 「ええ。ありがとうございました、メディオン王子。----また、夕食のときに」 シンビオスが応える。 いつもと同じやりとりなのに、いつもとは違う『何か』をダンタレスは感じた。 それにどうだろう。シンビオスの顔がまたしても真っ赤だ。 「シンビオス様、やっぱりお風邪を召しましたのでは…。お顔が紅いですが」 真相を知らぬがゆえ、ダンタレスは過保護精神を発揮して尋ねた。 それに対してシンビオスは、 「いや、大丈夫。なんでもない」 としか、答えようがなかったのである。 |