気がつくと、ダンタレスは歌っていた。
 海を越えて旅立っていく、愛しい妹に宛てた歌だ。
 ----よくもこんなにぴったりの歌があるものだな。…尤も、シンビオス様にとっては「妹」じゃなく「姉」だが。
 おまけに、海を越えるわけじゃないか、と、ダンタレスは笑いを洩らした。だが、すぐにシンビオスの気持ちを慮って、表情を暗くする。
 ----シンビオス様はまだ幼いのに…。
 あんなに聞き分けのいい子供は珍しい。それが却ってダンタレスにとっては不安だった。
 大好きな姉が、----母親代わりの姉が結婚して遠くに行ってしまうのに、シンビオスはなんの不満も我が儘も言わなかった。グレイスが優しくそのことを告げる間も黙って耳を傾け、ただ一言、
「わかった」
 それだけだった。
 無理している。ダンタレスもグレイスも、そしてマスキュリンも承知していた。悲しむべきは、シンビオスがそれを自分だけで抱え込んでしまうことだった。
「----絶対、よくないですよ!」
 マスキュリンは憤慨した。
「シンビオス様はまだ9才ですよ? なのに、その辺の大人よりも分別があるなんて!」
「そうは言っても…」
 グレイスは哀しい顔で首を振る。
 どうしてシンビオスがそうなってしまったのか、三人には心当たりがあった。父コムラードがいないことについて、「忙しいのだから仕方がない」と言い聞かされて、シンビオスは育っている。感情をぶつけてもどうしようもないことがあるのだと、幼くして悟ってしまっているのだ。
「せめて、私達にだけでも我が儘を言ってくだされば…」
 グレイスがため息をつく。
「それを言うな、グレイス」
 ダンタレスは厳しい顔で言った。
 シンビオスが三人に心を許していない、というのではない。どうやら、心配をかけたくないらしいのだ。本来ならこちらが心を注いでお護りしなければならない相手に、逆に気を遣われるようでは情けなさすぎる。
「どうしたらいいんでしょうねえ」
 マスキュリンが寂しげに呟いた言葉は、みなが心に抱いていた悩みでもあった。

 ----まったく。俺は何もできないのか?
 ダンタレスは苦々しく考えた。
 ここ数日、城内は浮き足立っている。グレイスもマスキュリンも、勿論シンビオスのことは心配していたが、同時に、マーガレットの婚礼の準備に忙しくもあった。花嫁の支度など判らないダンタレスは、いつもと変わらぬ(ように表面上は見える)シンビオスの世話を、一人でしていた。で、気付いたのだ。時折シンビオスが何か言いたげに、自分を見上げてくる。訊ねてみても、はっきりと答えない。ダンタレスが自分の無力さを呪う瞬間だ。
 ----せめて普通の子供らしく、我が儘の一つでも言ってくださればな…
 ダンタレスは息を吐いた。
 静まり返った部屋に、ノックの音が響く。控えめなそれは、耳のいいダンタレスでなけれは聞き漏らしていたかもしれない。
「…シンビオス様」
 ダンタレスは目を見開いた。数時間前に部屋を覗いたときには眠っていたはずの子供が、心細げに立っている。
「どうなさったのですか?」
 ダンタレスは優しく声をかけながら、小さい背中を軽く押して中に通した。
「目が覚めて…、眠れなくなっちゃったんだ」
 シンビオスは俯いて、微かな声で言った。
 ダンタレスはシンビオスの前に膝を折って座り、
「どう、なさったのですか?」
 もう一度訊いた。
 シンビオスは暫く躊躇っていたが、やがて顔を上げて、
「ダンタレス。…ダンタレスは、どこかに行っちゃったりしないよね?」
 予想外の言葉だった。
「シンビオス様…」
「ダンタレスは、ずっとぼくの傍にいてくれるよね?」
 大きな目に哀しみを湛えて、ひたむきに見つめてくるシンビオスを、ダンタレスは腕に抱き締めた。
「私はずっと貴男の傍にいますよ、シンビオス様」
「本当に?」
「私が今まで、貴男に嘘を言ったことがありますか?」
 シンビオスはかぶりを振って、ダンタレスの首にしがみついた。
「約束だよ? ダンタレス」
「誓います、シンビオス様。私は決して貴男の傍を離れません」
 ダンタレスはシンビオスの髪を撫でて、重々しく応えた。
「よかった」
 シンビオスは息をついて、それからあくびをした。ダンタレスはちょっと笑って、
「眠れそうですね? 部屋までお送りしましょう」
「…ここで寝ちゃだめ?」
 シンビオスはもはや眠そうな声だ。
「…そうですね。一緒に寝ましょうか」
 ダンタレスはシンビオスを抱き上げて、寝床に寝かせた。自分もその傍らに横たわる。
 すぐに、シンビオスは眠ってしまった。ダンタレスの手を、小さな手でしっかり掴んでいる。こういう風にすぐ眠れるところは、やはり子供である。ダンタレスは少し安心した。
 ----ずっと彼を護っていこう。決して離したりはしない。
 ダンタレスはシンビオスの前髪をかきあげて、額にそっと唇を寄せた。


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