晴れていてよかった、とグラシアは思った。 もし曇天だったり雪模様だったり、ましてや吹雪だったら、それを理由にして帰ってしまったかもしれない。 ここまで来たことを、グラシアは後悔していなかった。5年も経ったというのに、グラシアの中の彼への想いは消えるどころか、日に日に膨らんでさえいた。同時に、5年前の自分の想いが、子供っぽい依頼心から生じたものであることにも気付いていた。 でも、今は違う。依存するばかりでなく、自分も彼を支え得る存在になれる位には成長したはずだ。だからこそ、今こうしてジュリアンの許に向かっているのだ。 だが、彼は覚えているだろうか? グラシアは足を止めた。涙が滲むのは真っ白な新雪が眩しいからだ、と自らに言い聞かせて、顔を上向ける。冷たい空気に研ぎ澄まされた青い空が視界一杯に広がる。 『大丈夫。ジュリアンはそんなに薄情な男ではありませんよ』 空色の瞳を持つ優しい元王子の声が、グラシアの耳に蘇ってきた。 『ジュリアンと一緒に戻っていらっしゃるのを、楽しみにお待ちしていますから』 フラガルド領主の暖かい笑顔が、空をバックに浮かんでくる。 それにしても本当にあの二人は、5年の歳月を感じさせないほど仲がいい。30年過ぎようとも、きっとあの通りだろう。 ----ジュリアンと私は、あんな風になれるんだろうか。 グラシアは白い息を吐いて、再び歩き出した。 その家は、町のどの家とも離れた場所に建っていた。とはいえ人の行き来はあるようで、きれいに除雪された雪道の上に足跡が沢山ついているし、屋根の上も危なくないように、きちんと雪下ろしされている。 グラシアはドアの前に立った。ノックしようと手を挙げたところで躊躇う。いざとなると勇気が抜け出してしまう。グラシアは何度も手を挙げたり降ろしたりした。 そうこうしているうちに、寒さが全身に染み込んでくる。このままだと凍死しそうだ。こんな所でそれも間抜けな話である。グラシアは手袋を履いた手をぐっと握って、ドアに当てようとした。 不意に向こうから開けられた。 息を呑むグラシアの目の前に現れたのは、しかしジュリアンではなかった。 濃い茶色の髪に湖のような深い青い瞳をした、若い男だ。 「…あ、あの…」 グラシアが言いかけると、それを遮るように、 「…ひょっとして、グラシア様?」 その男は訊いてきた。 「あ、はい」 訳の判らぬままグラシアが頷くと、男は破顔した。 「やっぱり。ジュリアンから聴いた通りだ」 大きくドアを開けて、 「とにかく、入って。寒いだろう?」 「は、はい。…お邪魔します」 グラシアは中に入った。暖かい空気に触れて心が和んだ彼は、男の正体に思い当たった。 「貴男は…、アーサー殿ですか?」 男はグラシアの体から防寒具を取り、彼に椅子を勧めた。 「俺のこと、ジュリアンから聞かされてた? どうせ、ろくな話じゃなかっただろ?」 「そんなことはないです。ジュリアンはいつも、貴男のこと賞賛してました」 「どうだろうね。誉められたら却って気味が悪いな」 アーサーは笑って、グラシアにカップを持ってきた。 「コーヒーは飲める?」 「はい。…ミルク入りなら」 本当は、グラシアは紅茶の方が好きだったが、ジュリアンはコーヒーを好んでいた。それで、グラシアも最近はコーヒーを飲んでいたのだ。 「…無理することないんだよ」 アーサーが面白そうに言う。グラシアはどきりとした。ミルクを入れても、彼にとってはコーヒーは苦すぎる。それでも我慢して飲んでいるのは、ジュリアンのことを思い出すためだ。今日初めて会ったのに、アーサーはそれを見抜いたのだろうか。 「…やっぱり、紅茶を頂けますか?」 グラシアは素直に言った。 アーサーはちょっと笑って、グラシアの前に置いたカップを取り上げた。対面式になっているキッチンに行き、お湯を沸かしはじめる。 「ジュリアンはすぐに戻ってくるからね」 「仕事に行ってるんですか?」 「そうだよ。----俺が行く予定だったんだけどね」 アーサーが浮かない表情をしたので、グラシアは気になった。 「どこかお体の調子でも?」 「ん? いや、雇い主が気に入らなかったんだ」 「はあ…」 グラシアの呟きに重なって、玄関のドアが開く音がした。やや乱暴に閉められて、 「----まったく! あの子泣きじじい!」 お世辞にも上品とは言い難い悪態が、ドア越しに聞こえてきた。 グラシアの心臓が跳ね上がる。彼は思わず腰を浮かせた。この場から逃げ出したくて仕方ない。それに気付いたアーサーが、安心させるように目配せしてくる。グラシアは落ち着かない思いで座り直した。 そうこうしているうちにドアが開いた。 「人の足下を見やがって!」 ジュリアンがぼやきながら居間に入ってくる。 「大体----」 唐突に言葉が切れた。そのまま、驚いた顔でグラシアを見つめる。 グラシアの方も、ジュリアンに逢えたことで胸が一杯になってしまって、言葉なんて出て来なかった。 二人は無言のまま見つめ合った。 その場の雰囲気をどう感じているのか、アーサーは今までと同じ口調で、 「----お疲れ、ジュリアン」 と声をかけた。 「座ったらどうだ? コーヒーを淹れるよ」 なんとなく空気が和んだ。 「あ、ああ。サンキュー」 とジュリアンは応えて、グラシアの向いの椅子に座った。 アーサーはトレイにティーポットとカップ、二人分のコーヒーを乗せて運んできた。グラシアに紅茶を淹れながら、 「----で? あの『子泣きじじい』がどうしたって?」 「ん? …ああ、そうだよ、あの強欲じじい」 ジュリアンは余程嫌な思いをしたらしい。顔を顰めて、 「アーサーに話を持ってったのに俺が行ったもんだから、ごねて2割カットしやがった」 「ははあ、あのじいさんの言いそうなことだ」 「笑い事じゃねえよ」 むくれるジュリアンの前に、アーサーはカップを置いた。自分も椅子に座ってコーヒーを飲む。それからグラシアの方を向いて、 「…そのじいさんっていうのはね、グラシア様、凄くケチなんだよ。人に仕事を依頼しておきながら、正規の料金を払いたがらないんだ。で、何か不満材料を探し出してはまけさせるってわけさ」 その説明に、グラシアは目を丸くした。 「そうなんですか。凄い人がいるんですね、この世の中には」 しみじみ呟く。 不意に、ジュリアンが笑い出した。グラシアの声は大人っぽく変わってはいるものの、台詞は昔のまま、お人好し丸出しだったからだ。 「----おまえ、そういう世間知らずなとこ、全然変わってねえんだな」 グラシアは嬉しくなった。遠慮なくものを言うところなど、まさに以前と変わらぬジュリアンだ。 「そういうジュリアンだって、口の悪さは相変わらずですね」 グラシアはすかさず言い返した。 「うるせえよ」 ジュリアンは腕を伸ばして、グラシアの額を指で弾いた。5年の空白など、どこかに行ってしまったようだ。 アーサーは黙って二人を見守っていた。彼は知っていた。5年前、ジュリアンが何もかも置き去りにしてこの地にやって来たのは、ジェーンを救えなかったことへの罪悪感からだったことを。ジュリアンの口からはっきりとは語られなかったが、アーサーもだてに他人より歳を重ねているわけではない。すぐにそうと察した。 ジュリアンは、それからずっと働き詰めだった。罪を償うように、また、許しを乞うかのように。見ているアーサーの方が辛くなるほどだった。 だけど、もう充分だろう。いつまでもジュリアンがそうやって苦しむのを、ジェーンだって望んでいないはずだ。 となると、自分がここにいては邪魔だろう。止め処なく溢れる二人の思い出話に耳を傾けながら、アーサーは席を外す口実とタイミングを探していた。 そこに、ノックの音が響く。天はアーサーの思惑に賛成らしい。彼は急いで出ていった。 待っていたのは、例の『子泣きじじい』の遣いだった。いつもなら敬遠したい相手なのだが、このときばかりは天使に見える。 「新しい依頼ですか?」 アーサーはやや急いで訊いた。 若い遣いは遠慮がちに頷いた。 「大変申し訳ないんですが、主人が突然、温泉に行きたい、と言い出しまして…。護衛をお願いしたいんですが」 「護衛ね。いいですよ、勿論。で、何日ほどのご滞在になりますか?」 アーサーが妙に上機嫌なので、遣いの者は面喰らった。どこの誰に依頼をしても、大抵はあまり気乗りのしない様子を見せる。その理由が自分の主にあることを、この遣いは勿論了承していたし、仕方がないとも考えていたからだ。 「え、えーっと…」 焦ったあまり手帳を落としたりしながら、 「----今のところ5日間ですが、都合によっては伸びたり、あるいは縮んだりするかもしれません」 遣いは答えた。『都合』というより『我が儘』と言うべきかもしれないが、雇い主であるから悪くは言えない。 「今すぐ支度しますから、お待ち頂けますか?」 アーサーは言って、中に引っ込んだ。そのまま自分の部屋に入る。 そのやり取りはジュリアンとグラシアにも聞こえていた。たぶん、二人は同じことを考えていただろう。何とも複雑な表情をしている。 「…あー、ちょっと手伝ってくる」 とジュリアンは言って、アーサーの後を追った。 傭兵というものは、突発的な出来事に備えて普段から準備しておくものだ。従って、アーサーは手伝ってもらうまでもなく支度を終えていた。もっともジュリアンにしても、ただの口実に過ぎなかった。彼はアーサーと話がしたかったのだ。 ジュリアンが口を開くより先に、 「俺が戻って来る前に出かけるつもりなら、ちゃんと戸締まりしてな」 アーサーが言った。 「戻って来ないつもりなら、鍵はいつもの場所に置いといてくれ」 ジュリアンは黙って頷いた。 アーサーは彼の肩を叩いて、部屋を出た。 「…じゃあ、グラシア様。ごゆっくりしていってくださいよ」 グラシアは立ち上がって、 「ありがとうごさいます。アーサー殿も、お気をつけて」 丁寧に頭を下げる。 部屋から出て来たジュリアンは、ドアまでアーサーを見送った。 「しっかりやれよ」 「俺を誰だと思ってるんだ?」 アーサーはにやりと笑った。 「君は、グラシア様のことだけ心配してればいいんだ」 「あんたに言われるまでもねえよ」 ジュリアンは片目を閉じてみせた。 遣いの者と連れ立って歩いていくアーサーを見送って、ジュリアンはドアを締めた。戸締まりをして、居間に戻る。 椅子の傍に立ったままのグラシアを、ジュリアンは改めて見直した。今まで子供のイメージしかなかったのに、こうして見ると背も伸びているし、声も顔も大人っぽくなっている。何より、瞳に宿る魂の力強さが違う。もう、ジュリアンに依存していた頃のグラシアではない。立派な一人の大人だった。 ジュリアンの視線にも、グラシアは怯まなかった。やっぱり彼が必要なのだ。頼るべき存在としてではなく、対等なパートナーとして。そして、彼もそう思っているのを、グラシアは感じ取っていた。 「----背が伸びたな、グラシア」 と言って、ジュリアンは微笑んだ。 「だって、5年も待ったんですから」 グラシアは悪戯っぽくジュリアンを見つめて、 「もっと待たなきゃいけませんか?」 「いや。もう充分だ」 ジュリアンが両腕を広げる。グラシアは勢いよくその中に飛び込んでいった。 |