春になると、何故かもの狂おしい気分になる。 シンビオスは、自分の中に咲いたこの感情を持て余していた。 原因は判っている。 遠征後、帝国から亡命してきてフラガルドに滞在している友人、メディオンだ。 彼に対する思いが友情以上のものになったのはいつだったか、シンビオス自身はっきり覚えていない。 胸の奥が騒ぐのを、シンビオスは最初、 ----春だからかな。 と気楽に考えていた。 そのうち、メディオンを見ているときだけそんな気分に襲われるという事実に、シンビオスは気付いてしまった。 ----これって、もしかして…。 一度意識し始めると、もうそうとしか思えなくなってくる。そうなると、メディオンに対して以前と同じ態度を取るのが難しくなってくる。 シンビオスは、メディオンと二人きりになるのを、巧みに避けた。そうすることで、ともすれば暴走しそうになる想いをなんとか抑え込んでいた。 ----今は、きっと春だから…。 だからこんな気分になるのだ、とシンビオスは無理矢理こじつけていた。きっとこの季節が過ぎれば、メディオンのことも以前のように、ただの友人として見られるようになる。 なんの根拠もない考えだが、シンビオスはそれに縋った。 ----総ては、『春』という、甘くざわめかしい季節のせいなのだ、と。 そんなある日。 仕事で使う資料を求めて、シンビオスは図書室に向かった。 もう春も盛りで、それ故シンビオスの感情もピークに達している。 それでもなんとか平穏に過ごしているのは、メディオンと二人きりになるのを徹底的に避けているからだ。必ず誰かが傍にいるように、しかも誰にもそうと気付かれないように、巧みに図っている。 酷く気疲れする状況だが、メディオンに自分の想いを知られて、気まずくなるよりはずっとましだ、とシンビオスは考えていた。 高い本棚の間を縫って奥へと進む。目的の本は、確か一番突き当たりの棚に納まっているはずだ。 本棚が作る角を曲がったシンビオスは、ぎくりと足を止めた。 そこはちょっとした読書スペースになっていて、椅子とテーブルが何脚か置いてあるのだが、その一つにメディオンが座っていたのだ。 不意打ちだっただけに、シンビオスは激しくうろたえた。メディオンに声をかけるのもままならない。 本当は数秒なのだろうが、シンビオスにとっては数十分も経ったと感じたとき、気配に気付いたらしいメディオンが顔を上げた。 いつものように優しい笑顔を見せてくれるかと思いきや、珍しく動揺を顔に表して、 「…シンビオス。どうしたんだい?」 メディオンは訊いてきた。 その態度を怪しむ余裕は、今のシンビオスにはなかった。 「あ…。し、仕事で使う本を取りに来たんです」 これだけの台詞を、いつもの調子で言うのに、かなりの努力を要した。 「そうか…」 ここでようやく、メディオンは微笑んだ。 いつものメディオンに会ったことで、シンビオスは少し安堵した。 「邪魔してごめんなさい、メディオン王子。すぐにいなくなりますから」 わざとふざけた口調でそう言って、本棚の方を向く。 目的の本を求めて背表紙を眺めている間も、背中の辺りがくすぐったい気がする。----考えすぎだ、とシンビオスは自分に言い聞かせた。メディオン王子はもう、本の世界に戻っている。ぼくのことなんて気にかけてやしないさ。 シンビオスはやっと目当ての本を見つけた。が、高い本棚の一番上の棚に納まっている。背伸びしても、ぎりぎり届かない。 ----椅子を持ってこないと駄目だな。 歯噛みしつつ腕を下ろしたとき、すぐ後ろに気配を感じた。頭の横をす、と腕が伸びてきて、 「この本かい?」 すぐ傍でメディオンの声がする。 「----!」 シンビオスは硬直してしまった。これまた不意打ちである。 「…違う?」 メディオンが重ねて尋ねる。 「…あ、そ、それです。…すいません」 なんとか答えたが、声が震えるのをシンビオスは誤魔化しきれなかった。 メディオンの手がいとも簡単にその本を引き出した。 シンビオスはちょっとメディオンの方に体を向けた。想像以上に近い所に、メディオンの顔があった。 「あ…。ありがとうございます…」 本を受け取りながら、シンビオスはぼんやりと言った。 「いや…」 酷く真面目な顔で、メディオンはシンビオスを見つめている。 そうするのが正しいような気がして、シンビオスは目を閉じた。少し間があって、唇に柔らかい感触を受けた。 しばらく待ってから、シンビオスは目を開けた。メディオンの顔はさっきと同じ位置にある。ただ、表情だけが違っている。困惑の度合いが深まっている。 「----ごめん」 目を伏せてメディオンが呟く。シンビオスは理解できなかった。だから訊いた。 「どうして謝るんですか?」 メディオンは目を上げて、再びシンビオスを見た。 「…だって、こんなことをするべきじゃなかったんだ」 「----どういう意味ですか?」 先ほどとは違う意味で、シンビオスの声は震えていた。 「好きでもないのにキスした、ってことですか?」 「違う! そうじゃない!」 メディオンも感情を高ぶらせている。 「好きだからキスしたんだ。----でも、そうする前に君の気持ちを訊くつもりだったんだ。それなのに…。…こんなことにならないように、ずっと気を付けてたのに…」 苦悶を浮かべるメディオンに、シンビオスはそっと体を添わせた。 「それなら、訊いてください、今。…いえ、自分で言います。----メディオン王子、ぼくもあなたが好きです」 「…シンビオス。----本当に?」 「本当です。----だから、謝らなくたっていいのに」 メディオンの台詞から察するに、彼もシンビオスと同様、いらぬ気を遣っていたらしい。お互いが好きなのに、そうと知らずに避けていた----その事実が可笑しくて、更に、今までの緊張の反動も加わって、シンビオスは笑み崩れた。 「…シンビオス…?」 メディオンが戸惑ったように声をかける。 「ああ、ごめんなさい。----でも、あなたも笑いますよ、きっと」 そう言って、シンビオスは自分が笑っている原因を説明した。 案の定、メディオンも笑った。 「----なるほど。…私達は二人とも大層間が抜けていたんだね」 「そうですね。----でも、もうこれからは…」 「…いつでも、君にキスしていいんだね」 シンビオスの言葉を引き取って、メディオンが悪戯っぽく言う。 小さく頷いて、シンビオスは再び瞼を閉じた。 こんなに幸せな気分なのは、やはり春だから----そしてそれ以上にメディオンのお陰だと、目もくらむ陶酔の中でシンビオスは考えていた。 |