アベルは問題児だった。
 同じ寄宿学校で学ぶ生徒に片っ端から手を出し、それを咎めた教師に2ヶ月の重傷を負わせた。
 学校側はアベルの父親に事の顛末を報告したが、返ってきたのは倍になった寄付金だけだった。

 アベル・マリア・デル・マリベアリシュトの家は代々議員の家系で、シュタインバルグ国においては名門中の名門である。
 為に、結婚は本人同士の意志よりも、家柄同士の結びつきといった意味合いが強い。アベルの父の結婚もそうだった。
 アベルの母は病弱で、アベルを産んでからは床につくようになった。
 もともと愛のない結婚である。アベルの父は妻も、産まれたばかりの息子のことも顧みず、仕事を口実に家に帰らなかった。半分は本当で、もう半分は愛人の許にいたのだ。
 やがて母が亡くなり、父は愛人を連れて家に戻ってきた。
 アベルは4歳になっていたが、ろくに顔を合わせたことのない父と、あからさまに子供嫌いの態度を見せる派手な後妻に、懐くはずもない。
 反抗的な態度を見せるアベルを父は疎ましく思い、またその気持ちを隠そうともしなかった。
 やがて就学する年齢になったアベルを、父は多額の寄付金と共に寄宿学校に押し込めた。ことあるごとに父親は学校に寄付し、学校もその見返りにアベルの多少の無茶には目を瞑っていた。
 年齢の割に体が大きく、従って力も強く、乱暴者のアベルを抑え込むことのできる教師がいなかったせいもある。
 12歳を過ぎた頃からアベルはろくに授業にも出ず、他の生徒を部屋に引きずり込むか、あるいは裏庭で木刀を振るかして日々を過ごしていた。

 今日のアベルは----生徒を連れ込もうとしていた。小柄な同級生である。可哀想に彼はすっかり怯え、それでも自分の細い腕を掴むアベルのごつい手を振り解こうともがく、という、無駄な努力を続けていた。
 アベルは決して手を離さなかった。この寄宿学校には6歳から18歳までの少年達がいて、容姿も可愛いのからいまいちな者までと様々である。アベルは自分と同い年から上の少年を好んだ。上級生でさえ、自分より華奢であれば構わなかった。子供過ぎる少年には興味はなかった。
 今手の中にいる少年は、歳も容姿もアベルの好みだった。
 まさに力ずくで少年を部屋の中に引きずり込もうとした時、廊下の角を曲がってやってくる人物が、アベルの目に飛び込んできた。
 遠目にも、教師でないことは判った。小柄だったからだ。
 もし好みのタイプならあいつも一緒に頂こう、とアベルは考えた。そこで、その人物を待ち構えていた。
 先にアベルに捕まっていた少年が、微かに身を震わせた。
 アベルも、急に寒気を覚えた。
 今は晩春で、今日はどちらかといえば暖かい日である。
 それは、廊下をやってくる人物のせいであった。金髪で小柄なその少年の身体から、冷たい気が吹きつけてくるのだった。
 アベル達に対してまるで無関心な様子で、金髪の少年は廊下を真っ直ぐに進んでくる。
 アベルは動けなかった。
 目の前を通り過ぎる時、少年は瞳だけを動かしてアベルをちらり、と一瞥した。冬の月のような寒々とした金の瞳であり、目線であった。
 遠ざかっていく後ろ姿を、アベルはただ見送った。
 気が付くと、先に捕らえていた少年までいなくなっている。いつの間にか手を離してしまったらしい。
 追いかけようかとも思ったが、何故かそんな気にもなれず、アベルは部屋に引きこもった。

 冷たい少年の名前は、アリステア・ツィーヴァルシュルツといった。両親が事故で死んで、ここに預けられたのだ。彼の家は、マークリーベ市の名門一族の本家だった。故に、アリステアの相続する財産は膨大であり、また親戚も多かった。
 まだ子供であるアリステアの後見人になった者には、その莫大な財産も管理できる特権が与えられる。にも関わらず、数多い親戚はアリステアを引き取るのを拒んだ。多大な寄付金と共に、アリステアはこの寄宿学校に放り込まれた。
 アリステアは早熟な子供であった。
 両親の生存中から、彼らの莫大な蔵書を読みふけり、自分の中に取り込んでしまっていた。故に聡明すぎる嫌いがあり、両親でさえこの息子のことを持て余すことがあった。
 アリステア自身、他人のことは元より自分のことにさえ、無頓着であり無関心であった。
 初日の授業から、アリステアは教師よりも造詣が深い所を見せた。間違いを次々指摘したのだ。アリステアはアベルとは違う意味での問題児として、すぐに教師達から腫れ物に触るような扱いを受けた。

 アリステアが編入してきてから3日目。クラスにセンセーションが巻き起こった。
 アベルが教室に姿を見せたのだ。
 すでにアベルの毒牙にかかっていた少年も、まだ無事だった少年も、一様に緊張した。なるべく目立たないように息を殺す。
 しかし、アベルの関心はただ一人にあった。
 アリステアは、難しい兵法の本を読んでいた。彼もクラスから浮いた存在だった。どこか近寄りがたい雰囲気が彼の全身を覆っていた。それでも、面倒見のいい委員長が時折あれこれ話しかけていたが、ろくに返事もしない。
 そのアリステアに、アベルは真っ直ぐ近寄っていった。机の上に手をついて屈み込むと、
「よお。----おまえ、編入生なんだってな」
 と声をかける。
 アリステアは本から目を離さず、
「おまえは問題児だろう」
 冷たく言ってのけた。
 クラス中が凍りついた。あのアベルに対してなんという言い種だろう。アベルの気の短さ、気性の荒さを思えば、まさにキレて手がつけられなくなるに違いない。
 当のアベルは----ぞくぞくしていた。想像通りの冷徹な声が、彼の脳を痺れさせる。今まで知らなかったタイプだ。どうしても手に入れたいと----、あの冬の月のような瞳をこちらに向けさせてみたい、とアベルは考えた。そして彼は、そうと思えば相手の意向など無視して突き進む性質だった。
 アベルは、アリステアの細い顎を掴むと、自分の方に向けさせた。金の瞳がアベルの灰色の目に突き刺さってきた。それは不思議な魔力を持ってアベルの心を捕らえた。
 アベルはそのまま、アリステアの唇を奪った。
 クラス中がどよめく。
 アリステアの唇をさんざん楽しんでから、アベルは彼を解放した。ほくそ笑みながらアリステアを見る。
 アリステアはアベルを見据えて一言、
「----それで?」
 これにはさすがのアベルも、一瞬詰まった。しかしすぐに気を取り直して、
「続きは俺の部屋で、ってのはどうだ?」
 駄目もとで誘ってみる。
「いいだろう」
 驚いたことに、アリステアはあっさり立ち上がった。ぽかんとしているアベルに、
「----行かないのか?」
 冷ややかな声をかける。
 アベルはにやり、と笑うと、アリステアの肩を抱いた。呆然と見送るクラスメイトを後目に、2人は教室を出ていった。

「----どうしてついてきたんだ?」
 部屋に入り、制服のブレザーを脱ぎながらアベルは訊いた。もしアリステアが拒否しても、強引に連れ込むつもりだったので、彼はいささか拍子抜けしていた。こんなにあっさりO.K.を貰うのは初めてだ。
「授業がつまらない」
 アリステアは淡々と答えた。
「それだけか?」
「不満なら戻るが?」
「い、いや、全然問題ない」
 アベルは慌てた。駆け引きなどではなく、アリステアが本心で言っているのが解ったからだ。
「なら、文句は言うな」
 アリステアは微かに微笑んだ。
「それもそうだな」
 アベルも笑って、タイを緩めると、ベッドに腰掛けた。
「----来いよ」
 なんの躊躇いも戸惑いもなく近づいてくるアリステアの細い腕を、アベルは掴んで、ベッドに引き倒した。
 金色の瞳が妖しく光っている。----捕らえられたのは俺の方かもしれない、とアベルは一瞬感じた。
 胸を開いて、口付ける。白い肌はひんやりとして吸い付いてくるようだ。アリステアはされるがまま、微かに眉を寄せて目を閉じ、時折息を漏らす。その密やかさが、アベルの気に入った。

「----次の授業の時間だ」
 ベッドに俯せたまま時計に目をやって、アリステアが言った。
「どうせつまらないんだろ? 放っとけよ」
 傍らのアベルは自分の腕を枕にして、仰向けに寝転がっている。
「次は歴史だ。あの教師は、一番間違いが多い」
「ああ、あいつか。前にさんざん痛めつけてやったのに、全然懲りてない。相変わらずうるさく小言を言ってくるんだ。鬱陶しい奴だ」
 アベルはにやりと笑って、
「あいつが恥をかくのを見るのも、悪くない」
 アリステアは無言のまま、服を着けはじめた。

 2人が入っていくと、教室は異様な緊迫感に包まれた。なるべく彼らの方を見ないように、彼らの存在を無視している。
 始業の鐘がなり、歴史教師が入ってきた。
 教師はアリステアの顔を見て微かに顔を顰め、続いていつも空席のアベルの席に目をやって、目玉が飛び出しそうな程驚愕した。
「起立!」
 委員長が号令を掛ける。アベル以外の全員が立ち上がった。彼は机に脚を乗せたまま座っていた。
「礼!」
 アリステアは頭を下げなかった。彼の中では、歴史教師は尊敬に値しない存在だからだ。
「着席!」
 全員が速やかに座った。まったく身じろぎ一つしない。
 異様なプレッシャーを感じながら、教師は教科書を開いた。
「あー、…前回の続き、大航海時代からだったな…」
 教師は何度も咳払いして、黒板に書き出した。
「ダルク・オケウヌスは、2489年、当時栄華を誇っていたロズハルト国の王に、船で世界を一周してくるように命じられた。その王の名前は? サンスルース」
「《獅子王》カエサル・スフォルッツァです」
「宜しい。ダルク・オケウヌスは息子のルカと共に、ポルグース海を西へ流れる海流に乗ったのだ。その海流は? ----ハルト委員長」
「モスキー海流です」
「その通り」
 教師は頷いた。
「さて、オケウヌス親子は途中ある島に立ち寄る。そこで父親のダルクは原住民に処刑されてしまった。彼らの祭壇を壊してしまったからだといわれている」
「正確にいえば、それは違います」
 アリステアが言った。
「----なんだと? ツィーヴァルシュルツ、これは歴史書に記載されている事柄だ」
 教師はアリステアを睨み付けた。
 アリステアは冷ややかに教師を見つめ返して、
「息子のルカは、祭壇の傍に生えている花を摘んだ。だが、原住民達の考えでは、祭壇の周りにあるものは総て神の物だった。ルカは原住民に捕らえられそうになったが抵抗し、弾みで祭壇を壊してしまった。父のダルクが息子の身代わりを申し出て、処刑された。----『海の歴史』174ページからそう書かれています」
 教師は教壇に教科書を叩きつけた。アリステアとアベル以外の生徒がびくり、と身を震わす。
「でたらめを言うな、アリステア・ツィーヴァルシュルツ! そんな名前の歴史書は聞いたことがない!」
「でしょうね。----古代ロズハルト語で書かれた本ですから。初版は2532年で、その50年後に絶版になりました」
「………………」
 教師が絶句する。
 アベルが笑い出した。嘲りの口調を隠そうともせず、
「歴史教師のくせに、そんなことも知らないのかよ!」
 と、野次る。生徒達の間から、失笑が漏れた。
「………………」
 教師は暫くアリステアを睨んでいたが、
「静かに! ----ツィーヴァルシュルツ、後ほど証拠として、その本を提出するように」
 アリステアは薄く笑った。
「構いませんが、----読めるんですか?」
 生徒達が声を上げて笑い出した。
「----今日の授業はここまで!」
 教師は顔を真っ赤にして怒鳴ると、憤慨した足取りで教室を出ていった。
「----なんだ、あいつ。逃げやがった」
 アベルが呆れた調子で言った。
「あれでも教師かよ。----アリステア、部屋に戻ろうぜ」
「そうだな」
 アリステアが立ち上がる。
 他の生徒が口を開いて、
「委員長、僕達はどうすればいいの?」
「取り敢えず、まだ授業時間だ。大人しく自習していよう」
 ハルト委員長は答え、それから、出ていこうとしているアリステアに、
「あ、アリステア君、ちょっと待ってくれ」
 声をかけた。小柄で華奢な風貌ながら、アリステアには気軽に呼び捨てに出来ない雰囲気が漂っていた。----もっとも、アベルにはそんな雰囲気など通用しない。
 アリステアが振り向く。
「さっき言ってた本----『海の歴史』さ、もし良ければ貸してくれないか?」
「興味があるのか?」
 訊いたのは、アベルだった。
「ああ。----卒業したら、ヒークベルトの海軍に入るつもりなんだ。海のことを色々学んでおきたい」
「構わないが、読めるのか?」
 アリステアの質問に、ハルト委員長は頷いた。
「伯父が、古代ロズハルト語の研究者でね。前の誕生日に辞書をくれたんだ。『海の歴史』のことも、その伯父から聞いた。色んな分野の研究者が、喉から手が出る程欲しがってるって」
「そうか。----なら、後で部屋に持っていこう」
「ありがとう」
 そこに、教頭がやって来た。
「アベル・マリア・デル・マリベアリシュト及びアリステア・ツィーヴァルシュルツ、校長室に来なさい」
 クラスがしん、となった。多分、歴史教師が校長に『報告』したのだろう。だが、さっきの授業では、明らかに教師の方の勉強不足に非があった。皮肉を言ったり茶化したりしたのは問題だったのだろうが----。
「教頭先生。さっきの授業のことなら、この2人にはさほど----」
 委員長が言いかけるのを、
「アリオン・ハルト委員長。君は黙っていなさい。関係のないことだ」
 教頭は厳しく言った。
「それに、今日のことばかりではないのだよ」
「………………」
 委員長は口を噤んだ。
「----さ、来なさい、2人とも」
 教頭が促す。アベルはつまらなそうに口を尖らせ、アリステアは冷笑を浮かべて、教室を出ていった。

 校長室では、校長と歴史教師が待ち構えていた。歴史教師は精一杯の威厳を纏っていたが、アベルの一睨みですぐに蒼ざめた。
「アベル・マリア・デル・マリベアリシュト、アリステア・ツィーヴァルシュルツ。彼の授業を妨害したとの報告を受けたが、事実かね?」
 校長が苦々しく訊ねる。
 アリステアは冷たい口調で答えた。
「あれを授業というのなら」
「----どういう意味だね?」
「生徒に誤った情報を教えるのを、授業とは言わないでしょう。歴史ばかりではありません。文学も古典も魔法学も----あらゆる科目において、事実でない事柄を伝えられることがあります」
 校長は、アリステアの冷徹な瞳をじっと見つめた。子供の眼ではない。得体の知れない魔物の眼だ。
「----どうやら我が校には、これ以上君に教えられることは無いようだ、アリステア・ツィーヴァルシュルツ。部屋で自習でもしていたまえ」
「そうですね」
 アリステアは冷ややかに微笑んだ。
「君も同様だ、アベル・マリア・デル・マリベアリシュト。これ以上、授業の邪魔をしないように」
 アベルは、馬鹿にしたように鼻で笑った。
 校長は息を吐いて、
「話は以上だ。2人とも、部屋に戻るように」
「失礼します」
 アリステアとアベルが校長室を出ていった。
 校長は椅子の背もたれに身を預け、疲れた様子で眼を閉じた。
「校長、あの2人、退学にしては如何ですか?」
 堪りかねて、教頭が進言する。
 しかし、校長は首を横に振った。
「そうなれば、彼らには行く場所が無くなってしまう。彼らの親戚は、彼らを引き取らないのだ」
「当然でしょう! あんな乱暴者とこまっしゃくれたガキなんて、誰が引き取りたいものですか!」
 興奮して叫んだ後、歴史教師は自分を見つめる校長と教頭の視線に気付いた。
「----すいません。言い過ぎました」
「いや」
 校長は疲れたように首を振った。彼自身もそう思っていたからだ。教育者としては失格かもしれない。だが、教育者といっても人間であるから、『限界』がある。
 その『限界』を遠くしてくれるのが、アベルの父とアリステアの親戚が寄越す寄付金であった。それは、彼ら2人の振る舞いに目を瞑って余りある程の『見返り』だったのだ。今回の件について苦情を言えば、追加の『見返り』が届けられるだろう。
 校長は、教育者としての良心から敢えて目を背け、アベルの父とアリステアの親戚への手紙を書き始めた。

 部屋に戻ったアリステアは、委員長に貸す『海の歴史』と、その他2・3冊の本を、本棚から取りだした。
 取り敢えず『海の歴史』はデスクに置き、その他の本を、部屋までついてきたアベルに差し出す。
「----なんだよ」
 アベルは不満げだった。せっかく部屋に戻ってきたのだから、もっと他にすることがあるだろう。少なくとも、『読書』という選択肢は、アベルの中にはない。
「兵法の基礎だ。これを読んで学んでおけ」
「なんのことだ? 役に立つのか?」
 訝しげなアベルに、
「軍隊を率いるためには絶対に必要な知識だ」
 アリステアは静かに告げた。
「軍隊?」
 アリステアは、今度は壁の前に立った。壁には、世界地図と、シュタインバルグ国の地図の2種類が貼ってあった。シュタインバルグの方を指して、
「今我々がいるのはここ----大陸の中心、プロイセンだ。ここには国会がある。議会が開かれる建物はかつての王城で、堅牢な造りになっている。背後は山。三方は、今は埋められているが幅・深さ共に3mの堀があった。堀にかかるのは、幅1.5mの吊り橋のみだ。城壁は高さ4m。銃や弓を撃つ小さな窓が開いている。難攻不落の城だ」
「それがどうかしたのか?」
 今更改まって言い出すことでもない。アベルはアリステアの真意を量りかねていた。
「南にはマークリーベ。温暖な気候で、農作物の産地だ。この大陸の食料庫に当たる。つまり、食料の心配はいらないということだ。北には、港町ヒークベルト。世界に開かれた港故に、海軍の強さには定評がある。それをそっくり手に入れれば、海戦においては他国に後れを取ることはないだろう」
 アリステアは淡々と説明していく。アベルは何となく解ってきた。もしや、こいつは----
 アリステアは、今度は世界地図を示しながら、
「海を渡って南にはファルーヤ王国。ここは中立国で、それなりの軍隊がある。ここを攻略するのは、充分に力をつけてからの方がいい。
 ファルーヤの東にはクリストファーム王国がある。ここは今、軍部が力を増してきて、怪しい動きをしている。数年の内にクーデターが起こるのは間違いない。そうなればいっそ、同盟を結んだ方がいいだろう。
 その先は陸路だ。ジョサイアシティの財政力は力になる。ムーンベクトの王は凡人だから御しやすい。今は娘も生まれたばかりで、王はますます愚かしくなっている。あるいは、大臣の方にコンタクトを取った方がいいかもしれない。
 海を渡れば港町ランシュークだ。同じ大陸にありながら陸の孤島であるサヴィナ王国は、この大陸の食料庫だ。ただ、ここ数年は不作が続いている。今は、昔の豊作時の蓄えを食いつぶしている状況だ。このまま不作が続けば、或いは滅びてしまうかもしれない。こちらも様子見が必要だろう。
 ランシュークから北西に海を渡れば、ツェザーニャ公国と、その宿敵サクラーヌ公国だ。ここは数年ごとに戦を起こしているから、巧くいけば漁夫の利を狙える。
 ----その他の国は、特に注意する点はない。すぐに攻略できるだろう」
 一気に説明して、アリステアはアベルを見つめた。金の瞳に、妖しい光が宿っている。それはまさに、魔性の瞳だった。
「----世界を手に入れる」
 アリステアは言った。
「アベル、おまえにも手伝ってもらいたい」
 アベルは不敵に笑って見せた。
「面白い。これからは退屈せずに済みそうだ。おまえになら、どこへでもついていくぜ、アリステア。----たとえ、タルタロスの底だろうとな」
 アベル、アリステア共に14歳の晩春だった。

 アベルは兵法を学び始めた。元々戦というものを、理屈ではなく本能で『知っていた』感のあった彼は、すぐに総てを習得した。それとほぼ平行して、希望者を募って剣の稽古をつけ始めた。
 希望者は結構な数が集まった。この学校は名門の家柄の子息が通うところで、そういう家柄は職業軍人を重んじる。最上級生の中には、卒業後軍隊への入隊が既に決まっている者もいた。
 アベルの『道場』に集まった者達は、アリステアの荒唐無稽な野望を聞かされても、それを笑わなかった。アリステアには逆らいがたい何かがあった。それは生徒達の心をいともたやすく縛り付けた。彼らは全員、アリステアに忠誠を誓った。あのアリオン・ハルト委員長も、その中にいた。
 先に卒業していった上級生達は、アリステアに対する忠誠を胸に秘めたまま、それぞれ定められた場所に向かった。ある者は軍人、ある者は教師、議員になった者もいた。彼らは、アリステアとアベルが自分達を呼び寄せるその日を、静かに待っていた。

「----最近、マリベアリシュトも大人しくなりましたな」
 ある日、教頭が校長にこう言った。
「他の生徒に手を出すことも、我々に突っかかってくることもなくなりました」
「彼も大人になったのだろう」
 校長が応える。
「甘い、甘いですよ! 校長、教頭!」
 歴史教師は、2人とは違う意見を持っているようだった。
「あいつ、ごつい生徒ばかり集めて、裏庭でみんなして木刀を振ってるんですよ?! きっと、何か企んでいるに決まってます!」
 校長は顔を顰めた。どうもこの人物は教師に向いていないようだ、と考えた。
「以前から、マリベアリシュトは木刀を振っていただろう。皆と一緒にやるのは、協調性が出てきた証拠だ」
 歴史教師はいきり立った。なんとしても、校長にこの危険性を解らせなくてはならない。
「なら、ツィーヴァルシュルツはどうです? 奴は何やら、生徒達に妙なことを吹き込んでるようですが」
「妙なこととは、具体的にはどんなことだね?」
「それは----まだ解りませんが、ツィーヴァルシュルツのことだから、きっと恐ろしいことに決まってますよ!」
 激しく言い募る歴史教師を、校長は冷ややかに見つめた。今の自分は、きっとアリステア・ツィーヴァルシュルツと同じ眼をしているに違いない、と彼は思った。なるほど、あの少年があんな目つきをするのも無理はない。
「君も、仮にも教師なら、生徒のことを少し信用してあげたらどうかね?」
 口調まで、少しツィーヴァルシュルツに似てしまったようだ。校長は内心可笑しかった。
「………………」
 歴史教師は不満げに黙り込んだ。彼は、カッサンドラのことを思い出した。予言を誰にも信じて貰えなかった、哀れな巫女のことだ。まあ、いい、と彼は考え直した。信じて貰えなくとも、彼女の予言は総て当たっていたのだ。近い将来、校長はそれを知ることだろう。そして後悔するのだ。----そのときにはもう遅すぎるだろうが。

 しかしその後も、アベルもアリステアも特に目立った行動は取らず、やがて卒業の日を迎えた。
 歴史教師だけは、アベルのいわゆる『お礼参り』を勝手に予測して、一人で暫くの間びくびくしていたが、1ヶ月経っても2ヶ月経っても、アベルはやってこなかった。
 それも当然。アベルは取るに足らない歴史教師のことなど、卒業と同時に忘れ果てていた。
 アベルは卒業したその足で父親の許に向かうと、ある程度の金と引き替えに、相続放棄を申し出た。
 後妻との間に既に息子をもうけていた父親は、渡りに船とばかりにそれを承知した。
 18になって両親の遺産を正式に相続したアリステアは、今は誰も住んでいない家に一旦戻った。両親の蔵書総てと、弁護士が管理していた現金のみを手に、すぐに何処かへ姿を消した。
 やがて分家筋の親戚の許に、弁護士を通じて、アリステアは家名の相続放棄を申し入れてきた。親戚達は騒然となった。だったら金を返還しろ、という者もいたが、アリステアの取った手続きはこの国の法律に則ったものだった。それに、彼は家と調度品と宝飾品をそっくり残していった。これだけでもかなり価値があるものだ。親戚達は協議を重ね、結局金は手切れ金として考えることにした。そう考えれば決して高くない。そして、一番近い筋から、ツィーヴァルシュルツ本家の跡継ぎを選んで据えた。

 ある日、シュタインバルグ国の主要三都市----すなわち首都プロイセン、港町ヒークベルト、産業都市マークリーベにおいて、一斉に反乱が起こった。
 反乱軍は瞬く間に各都市の議会を制圧した。
 首謀者の名はアリステア----名字を持たぬ、ただのアリステアであった。
 プロイセンとマークリーベの正規軍を率いていたのは、既にアリステアに忠誠誓っていたかつての卒業生だった。彼らは部下共々、アリステアの許に降った。
 港町ヒークベルトの海軍にも、アリステアの息のかかった者がいた。しかし、将軍は違った。彼女は----クリス・ガルク将軍は、反乱を起こした部下達を鎮圧しようとした。ヒークベルト海軍はまさに2つに分かれ、かつての味方同士で争った。
 やがて、アベルの率いる軍が到着した。彼は、クリスと、彼女に荷担する総ての兵士を捕らえた。----なるべく生かして連れ帰るよう、アリステアに命じられていたためだ。
 クリス将軍は、アリステアの前に引き出された。
 アリステアの姿を見た瞬間、クリスは心を奪われた。触れられた肩から密やかに、彼に対する感応の波動が全身に広がっていく。それは微かに官能的でもあった。
 アリステアはクリスに言った。
「私にはおまえの力が必要だ」
 と、たった一言。
 それだけで、クリスの脳髄は痺れた。彼女はその場に跪き、頭を垂れて応えた。
「私の持てる総てを、あなたに捧げます」
 その声には、恍惚とした響きがあった。
 各都市の、アリステアに与する以外の議員達は捕らえられ、処刑された。アベルの父もその中にいた。代わって、アリステアの手の者が統治者になった。クリスは皇帝直属の将軍になり、あのアリオン・ハルト委員長が、彼女に代わってヒークベルト海軍の将軍になった。
 アリステアは、プロイセンの議事堂を自らの城と定めた。埋められていた溝を掘って水を流し、難攻不落の王城を再び蘇らせた。
 そして、国名を変えた。----アリステア帝国と。アリステアは皇帝になった。

 それから6年の間に、アリステア帝国は、かつてアリステアが『その他の国』と一括りにした小国を、6割征服した。まず2・3の国を、アベルが容赦なく叩いた。その様を見て残りの国は恐怖で震えた。そこに、皇帝が囁いた。
 大人しく帝国に降れば、乱暴なことはしない----
 殆どがそれに従った。だが、4割の国は、力はないが意地だけはあった。彼らは勝てる見込みもないのに、帝国の申し出を断った。小国同士の中で同盟を結ぶ国や、帝国以外の大国に救いを求める国も出てきた。帝国に徹底抗戦の構えを見せたのだ。
 この愚かしい行為を、皇帝が許すはずもない。彼は早速アベルを差し向けようとしたが----
「----アリステア。なんでクリスなんだ?」
 アベルは不満げに、皇帝に文句をつけた。久し振りに暴れられると思ったのに、土壇場でクリスにさらわれてしまった。
「情報が入った。ツェザーニャとサクラーヌが間もなく開戦する」
 皇帝は静かに答えた。
「またか! 本当に好きだな、あいつら」
 アベルは呆れ気味に天を仰いでから、皇帝に目を移した。
「『漁夫の利』か」
「そうだ」
 皇帝は冷たい笑みを見せた。
「だから、おまえを残した。あちらにはクリスで充分だ。だが、こちらの方はそうはいかない」
「ふん。ならいい」
 アベルは満足そうに頷いた。
「----で? どちらが勝つ?」
「五分五分だ。ツェザーニャの将はカテリーナ・コルツァーノ。戦死した夫の代わりを務めようとするほどの『女傑(プリマ・ドンナ)』だ。対するサクラーヌには、《黒い悪魔》がついた」
「《黒い悪魔》?」
 眉を寄せるアベルに、皇帝は二枚綴りの報告書を差し出した。
「《黒い悪魔》、或いは《黒髪の天使》。最近名を上げてきたフリーランサーだ。ファルーヤ出身の22歳」
「へえ。こんなのが出てきたのか」
 一枚目の調査報告をじっくり読んでから、アベルはそれを捲った。現れた二枚目は姿絵だった。眼にした瞬間口笛を吹く。
「おまえの好みか」
 皇帝がどこか面白そうに言った。
「顔だけならな。身体はもっと華奢な方がいい」
 アベルは答えて、
「こいつがサクラーヌについたことで、戦局が変わるのか?」
「どちらも瀕死になる」
「なるほど。そうなってからが俺の出番か」
「そうだ。----あと2・3日といったところか」
 皇帝の読みは当たっていた。2日間の戦闘で、両国ともかなりの痛手を受けた。アベルは出撃の準備を始めた。
 明けて3日目。
 早朝、アベルは皇帝に呼び出された。
 いよいよ暴れられる、とアベルは張り切っていたのだが----
「出撃は中止だ」
 皇帝は淡々と言った。
「なんでだ? もうどちらも瀕死だったんじゃないのか?」
 欲求不満で爆発しそうになりながら、アベルは訊いた。
「最終決戦は、ツェザーニャが勝利した。サクラーヌの領土は総てツェザーニャ領になった。生き残りのサクラーヌ兵も、ツェザーニャ軍に降った」
「なんだって?!」
 アベルは呆然と叫んだ。あり得ない。ツェザーニャも、サクラーヌと同じくらいダメージを受けていたはずだ。ならば、停戦するにしても同等の条件を結ぶはずだ。
「ツェザーニャに、まだそんな余力が残ってたのか?」
「《黒い悪魔》が寝返った」
 またしても、皇帝は信じられないことを告げた。
 フリーランサーには実力と、何より信用が第一だ。どんなに力があっても、いや、強いからこそ、土壇場で裏切られたときのダメージは大きい。故に、フリーランサーにとって裏切り行為は、よほどの事情がない限りタブーとされている。
「何か理由があったのか?」
 アベルの質問は、それを踏まえてのことだ。
「サクラーヌの将軍が、カテリーナの子供を誘拐したそうだ。《黒い悪魔》はそれを許せなかったらしい」
「ふん、甘ちゃんだな」
 アベルは鼻で笑った。
「それはどうでもいい。問題は結果だ。----ツェザーニャは、とうとうサクラーヌを滅ぼしてしまった。領土も兵士も、今までの倍になったということだ」
「そうか。----で、どうする?」
「暫く様子を見る」
 皇帝は即座に答えた。
「焦ることはない。そのうち機会が訪れるだろう」
「そうだな」
 頷くアベルを、皇帝は酷薄な微笑と共に見つめた。
「アベル、おまえはこれからクリスと合流して、反抗的な連中を叩きのめしてこい。----思う存分な」
「了解」
 アベルも不敵に笑った。
「----それにしても、厄介な男が出てきたもんだ。《黒い悪魔》か」
「………………」
 皇帝はなんとも応えなかった。
 その男が今後、アリステア帝国にとってどれほど『厄介な』存在になるか----、----皇帝もアベルもまだ知らない。


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