メディオンは眠るのが嫌いだった。
 正確には、眠るときに見る『夢』が嫌いだった。
 夢がどのようなプロセスで眠りの中に現れるのか解明し切れていないところがあるものの、現実世界で印象に残った事柄に関連するのは確かだろう。
 ストレスの溜まる環境に置かれたメディオンが見る夢は、大抵が厭な夢だった。ーーーー『悪夢』とまではいかない。ただ、目が覚めたときに、心が引っ掻かれたような厭な感じになるという、始末に負えないものだった。

 夢のパターンは大抵決まっている。

 メディオンはいつの間にか遠い町にいる。
 現実には存在しない町だが、夢の中では、メディオンはそこがどこだか知っていて、自分の家ーーーー勿論王宮ではなく、祖父母や母がいる下町の家だーーーーからかなり遠いというのも知っている。
 いつこんなところに来たのかまったく記憶がない。
 ただ、たった独りでこんな遠くまで来てしまった、という不安と、早く家に帰りたいという焦りがメディオンの全身を侵略する。
 メディオンにとっては、前の晩自分のベッドで眠ったはずなのに、目が覚めたらこの遠い町にいた、という感覚なのだ。だから、家では今頃、メディオンがいなくなったことで大騒ぎになっているに違いない。
 ーーーー早く帰らなければ。
 メディオンは駅に行くことにした。この町からは汽車で帰れるはずだ。
 駅の場所は何となく覚えている。いるのだが、ここからどっちの方向に行けばいいか判らない。そもそも今いる場所がどの辺りなのか。知っている場所のような気がするが、まったく知らない場所をそうと勘違いしているだけかもしれない。
 誰かに尋ねようにも誰もおらず、建物も霧がかったように輪郭が曖昧だ。しかも、まだ昼前のはずなのに薄暗い。雲はなく陽が出ているのに、何故か薄暗い。
 メディオンは、恐らく駅はこちらだろう、という感覚だけで歩き出した。どんどんどんどん、歩いても歩いても何もない。同じような景色が続き、同じ場所をぐるぐる回っているだけのような気がする。ーーーーいや、まさか。だってずっと直進していて、一度も角を曲がらなかったじゃないか。
 もう汽車に乗るのは諦めよう。こうなったら歩いて家まで帰ろう。この道を行けば着くはずだ。
 もし着かなくても、ここよりは知っている町に出るかもしれない。そのときにこそ駅を見つければいいんだ。
 どのくらいの時間がかかるだろう。ああ、早く帰りたいーーーー

 ーーーーと、ここで目が覚める。
 目覚めたときメディオンの心に残っているのは、知らない町を彷徨っているという不安、本当に家に帰り着くのかという不安、周りの景色が曖昧で、かつ段々と薄暗くなってくるという不安、そんな中で自分独りきりだという不安ーーーーとにかく胸をざわつかせる不安ばかりだった。

 また、あるときは、この夢の続きのようなものを見る。

 とうとうメディオンは家まで帰り着いた。
 家の前には祖父母、母、シンテシスにウリュド、その他の幼なじみがメディオンを出迎えてくれている(キャンベルがいないのは、彼とは下町で一緒に過ごしていなかったからだ。そういうところは、夢なのに妙に筋が通っている)。
 だが、彼らの前には暗い深淵が横たわっている。
 幅も広く、とても飛び越えられそうにない。
 家の前に集う人々はそれが見えないのか、それとも知っていて無視しているのか、盛んにメディオンに手招きしてはしゃいでいる。
 メディオンもそれに応えて手を振り、普通に足を踏み出す。そして当然、深淵に呑み込まれる。

 がくん、と落ちる厭な感覚で、メディオンは目を覚ました。
 心臓がひっくり返ったかのように激しく打っている。
 暫くベッドの上で眼だけを開いてじっとしている。ざわざわとした空気が全身にまとわりついて身体が重い。石のように強ばって、動かせない気さえする。
 だがそれは錯覚で、実際はどこも固まってはいない。メディオンは大きく息を吐くと、体勢を仰向けから横向きに変えた。
 ーーーー久しぶりに見たな…。
 サラバンド紛争から今に至る北への遠征の間、過酷な進軍のせいかメディオンは泥のように眠り、お陰で夢を見なかった。正確には、夢を見たのを覚えていないほど熟睡できていた。
 このレモテストでも『賢者の遺跡』で鍛錬に励んでいるが、毎日ではなく2日おきだから以前ほど疲れていない。加えて、決戦が近いということで神経質になり、眠りが浅くなっているのかもしれない。
 ーーーー何か飲んで落ち着こう。
 メディオンはベッドから起き上がると、寝衣の上にガウンを羽織った。明かりを時計の前にかざしてみると、もうすぐ午前2時になる頃だった。
 メディオンは食堂に行くことにした。普段は寝酒の習慣のない彼だが、この昂ぶった神経を抑えるためには酒が必要だと感じたのだ。勿論度を超して呑む気はなく、あくまでも少量、気付け程度で済ませるつもりだ。
 廊下は古代文明の暖房設備のおかげで暖かい。そのため窓が曇って外が見えないが、月明かりが雪に反射してほの明るい。
 食堂に入ってみると、奥にある食料庫に近いテーブル1つだけ、燭台に明かりが灯されていた。
 自分以外に誰かいるとは思っていなかったメディオンは驚き、手にしていた燭台をかざして、
「…誰かいるのか?」
 そのテーブルに歩み寄りながら密やかに声をかけた。
 食料庫の入り口から小さな明かりが差し、
「ーーーーメディオン王子ですか?」
 燭台を手にしたシンビオスが顔を出した。
「シンビオス? こんな夜中にどうしたんだい?」
 他の誰ではなくシンビオスに出くわしたのを嬉しく感じながら、メディオンは尋ねた。
「なんだか目が覚めてしまって…。喉が渇いたんですけど、部屋の水差しに水が入ってなかったんです」
 シンビオスは小さく肩を竦めて答えた後、
「…メディオン王子こそ、どうなさったんですか?」
 同じ質問をしてきた。
 メディオンは自分も食料庫に用があるのを思い出した。シンビオスと一緒に中に入ると、
「私もご同様だよ。ただ、ちょっと厭な夢を見てね。心を落ち着かせようと思って」
 酒の並ぶ棚からブランデーを出し、グラスに少量注ぐ。
「厭な夢、ですか…」
 シンビオスは少し眉を曇らせて、
「…もし差し支えなければ、どんな夢かお聴かせ下さいませんか? ほら、誰かに話すと気が楽になるってことがありますから」
 と言ってきた。
 メディオンは確かに誰かに話してスッキリしたい気分だったのだが、そのためには厭な話を聴かせることになる。彼は躊躇った。
「でも、余り…いや、全然、楽しい話じゃないよ? 君の方にこそ差し支えるよ」
「私なら平気です。他人の夢の話なんてそれこそ『他人事』ですから」
 シンビオスの明るい口調と砕けた物言いは、恐らくメディオンをこれ以上恐縮させないためなのだろう。それが却って有り難い。たいしたことじゃない、と背中を叩かれている心持ちになる。
「そう? …じゃあ、お言葉に甘えようかな」
 メディオンはシンビオスを促して、ブランデーの入ったグラスを片手に、燭台が灯っているテーブルに着いた。シンビオスも彼の向かいに腰を下ろす。
 メディオンは、例の2つの夢の内容と、今日は落ちる夢の方を見て、落下感で目が覚めたことをシンビオスに話した。
「ーーーーああ、あのがくん、と落ちる感じ、厭ですよね」
 同意感を漲らせてシンビオスが頷く。
「まったく、厭な夢ばかりでうんざりするよ。ーーーー勿論いい夢も見ているんだろうけど、そちらの方は全然覚えていないんだから」
 シンビオスに話し、同意を得られたことでメディオンは気が軽くなり、少し冗談めかしたふうに言った。
「そうですね…」
 シンビオスは暫く考え込んでいるようだったが、
「ーーーーメディオン王子」
 突然改まった口調で声をかけてくる。
「な、なんだい? シンビオス」
 つられて、メディオンも少し背筋を伸ばした。
「もしまた同じ夢をみたら、私のことを思い出して下さい」
 シンビオスは、ひた、とメディオンを見つめた。揺らめくろうそくの明かりを受けて、緑の瞳が強く輝いているのが判る。
「夢の中で、私は必ずあなたをお助けしますから」
 そんなことが可能なのかどうか疑問に感じる隙もないほど、シンビオスの口調は真摯であり、その瞳は引き込まれそうなほど真剣だった。
 メディオンはどぎまぎした。アルコールのせいだけではない。シンビオスが自分のことをそこまで親身に考えてくれるという嬉しさ、シンビオス自身の力強さ、その総てにメディオンは酔っていた。
「ありがとう、シンビオス。嬉しいよ。ーーーー君を信じる。そのときにはきっと君を呼ぶよ」
 感激の余り、テーブルの上に置かれていたシンビオスの手を上から強く握る。
 今度はシンビオスが紅くなる番だった。薔薇のように頬を染めて、
「い、いえ。王子のお役に立てれば…ぼくも…嬉しいです…」
 目を伏せて小さく呟く。『私』から『ぼく』への一人称の変化は、メディオンへの想いを発露させているようでーーーーメディオンの勝手な願望かもしれないが、ここは確かめるべきタイミングだろう。
 メディオンはシンビオスの手を離して椅子から立つと、素早くテーブルを回り込んでシンビオスの隣まで行き、再び彼の手を取って立ち上がらせた。シンビオスの瞳を覗き込むように見つめて、
「シンビオス。ーーーー夢の中だけではなく、現実でも私を助けてくれるかい? これから先ずっと私の傍にいて欲しい」
 熱く囁く。
「はい。ぼくでよければ…」
 シンビオスもひたむきにメディオンを見上げてくる。
 その風情が余りに可愛らしいのと、自分への想いを確認できた嬉しさから、メディオンはシンビオスのしなやかな身体を強く抱き締めた。
「君じゃなきゃ駄目だよ、シンビオス」
「メディオン王子、…ぼくもあなただけです」
 2人は熱い口付けを交わした。

 その誓いどおり、シンビオスはメディオンの傍にいてくれた。
 夢の方ではどうかといえばーーーー、メディオンが遠い町で途方に暮れているとき、曖昧な町の間から、くっきりした輪郭のシンビオスが現れて、メディオンにこう言う。
『メディオン王子、捜しましたよ。さあ、一緒に帰りましょう』
 そしてメディオンの手を引いて歩き出すと、次の瞬間には2人は家の前に着いている。
 目の前に横たわる深淵も、
『今、橋を架けますから』
 とシンビオスが言えば、ゼロやエルダー、フィンデング、オネスティ、その他大勢の翼のある者達が橋を運んできてくれて、渡れるようになる。
 2人は仲良く手を繋いで橋を渡り、皆が待つ家へと帰り着くのだ。

 とはいえ、勿論、どんなに幸せでも厭な夢を見ることはある。それでも、目覚めたとき隣にシンビオスがいて、彼の温もりを感じているうちに厭な気分も薄らいでくる。
 誰かを愛すること、誰かに愛されること。それがこんなにも心を平安にさせるのだと、メディオンはシンビオスのお陰で知ったのだった。


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