シンビオスは確かに疲れていた。 当然だろう。サラバンド紛争からこの北の地への遠征まで、まったく休む間もなく駆け抜けてきたのだ。更にその最中、父を亡くすという不幸にまで見舞われた。 しかし、余りに色々なことが起こりすぎて、疲れを自覚する余裕すらなかった。 『賢者の遺跡』での鍛錬を終えて出てくると、冬の短い日は既に暮れている。 「ああー、寒い!」 「お腹空いたー」 「早く中に入ろう」 皆が口々に言って、建物の中に入っていく。 シンビオスは一番最後に遺跡を出た。何となく空を見上げて、 「ーーーー……………」 そのまま立ち止まった。 「…シンビオス様? どうかなさいましたか?」 前を歩いていたダンタレスが振り向く。 シンビオスは上向いていた顔を正面のダンタレスの方に向き直した。 「いや…。…ごめん、遺跡に忘れ物したみたいだ」 「えぇ?」 「先に戻ってて」 「いえ、シンビオス様。私も一緒にお捜ししますよ」 踵を返して近寄ってくるダンタレスに手を振って、 「大丈夫、大丈夫。ーーーーすぐ戻るから、悪いけど紅茶を淹れておいてくれないかな」 シンビオスは言った。 「ええ…。シンビオス様がそう仰るなら…」 付き合いが長いと、相手の『真意』が言葉の裏に見えてくるものだ。ダンタレスは、シンビオスが独りになりたがっているのだと感じた。なので、そのようにしよう、と思って素直に引き下がった。 「ありがとう、ダンタレス」 シンビオスの方も、ダンタレスが自分の気持ちを正しく理解してくれたと解った。だから、それに対してのお礼の言葉だった。 ダンタレスは小さく頭を下げると、大聖堂の中に入っていった。 その姿を見送った後、シンビオスは身体を回して大聖堂に背を向けた。軽く息を吐いて、また上を見る。 ほぼ真上の方向に、半分だけの月が浮かんでいる。 寒々とした空気の中、まだ星もよく見えない夜の始まりに、半分だけ光る月。残りの半分は切り離されてしまったかのようだ。 そんなことはない、見えないだけでちゃんと存在しているはずなのだが、シンビオスにはどうしても月の半分と半分が離ればなれにされたように思えて仕方がない。 寒い冬の空に、半身を失い、たった独りで。 ーーーー? 不意に、月がぼやけた。 眼がどうかしたのかと拭って、その手の甲が濡れているのにシンビオスは気付いた。 ーーーーまさか。 多感な乙女じゃあるまいし、と自嘲する。月を見て泣くなんて。 「ーーーーシンビオス」 声をかけられて、シンビオスは反射的に振り向いた。誰の声か思い当たったのと同時に、正にその姿を、まだ滲んだ視界に捉える。 シンビオスの顔を見たメディオンは一瞬眉を寄せ、すぐに大股に歩み寄ってきた。次の瞬間、シンビオスの身体はメディオンのマントの中にくるみ込まれていた。 有り難い、とシンビオスは思った。メディオンが何も言わずに抱き締めてくれたことが、だ。 これがもし、「どうしたの?」とか「大丈夫かい?」とかいう質問でワンクッション置かれたなら、シンビオスはきっと「何でもないです」と答えていただろう。そうなったら、こんなに素直に抱擁を受け入れていなかったに違いない。 シンビオスは身体の力を抜いた。つまり、それだけ余計な力が入っていた、ということだ。そのまま、メディオンにもたれかかるように寄り添った。それは、無理して独りで立っていた、ということだ。 少し顔を上げて、メディオンの肩越しに月を見上げる。 今度はもう、光る半身と影の半身がちゃんと一つに合わさって見える。 ーーーー今の王子とぼくみたいだ… ぴったりと寄り添って離れたくない。シンビオスは再びメディオンの肩に頭を凭れさせた。 「…メディオン王子」 眼を閉じて囁く。 「ぼくの半身になって下さい」 「シンビオス。ーーーー私でよければ」 メディオンの密やかな甘い声が耳に忍び込んでくる。 シンビオスは顔を上げて、今度はメディオンを見つめた。 「あなたじゃなきゃ駄目です」 「私もだ、シンビオス。君以外には考えられない」 メディオンもシンビオスを見つめてくる。ほのかな月明かりに輝く蒼い瞳の中にあるものは、シンビオスに喜びと、ある種の畏れを抱かせた。 それらの想いを噛みしめながら、シンビオスは眼を閉じた。次に来る瞬間を待ち受けるためだ。 そして勿論、メディオンはシンビオスの望むものをくれた。 ーーーー唇を離して、2人は再び見つめ合った。 メディオンは優しい微笑みを見せて、 「ーーーーさ、もう中に入ろう。ダンタレス殿が紅茶を淹れて待っているよ」 「あ…。そうでした」 半分はダンタレスを先に帰す口実だったのだがーーーー恐らくダンタレス自身もそうと解っていただろうがーーーーちゃんとお願いしたとおりにしてくれるとは、相変わらず律儀だ。 「…そういえば、メディオン王子はどうしてここに?」 今更疑問が浮かんで、シンビオスは尋ねた。 メディオンの笑みが更に深くなった。 「うん。ダンタレス殿に頼まれたんだ。『私は紅茶を淹れておきますから、王子がシンビオス様をお迎えに行って下さい』って」 「そうだったんですか」 やはり長い付き合いだけに、今のシンビオスに何が必要なのか、ダンタレスはちゃんと解っているのだ。恐らく、シンビオス本人よりも。 「ありがとうございます、メディオン王子」 シンビオスは深々と頭を下げてから、 「お陰で、心が軽くなりました」 メディオンを見上げて微笑む。 「それはよかった。君の力になれて私も嬉しいよ、シンビオス」 メディオンはシンビオスの髪をさらりと撫でた。そのまま手を差し出してくる。 「さ、戻ろう」 「はい」 シンビオスはメディオンのその手をしっかりと握った。 |