今夜の月は満月に3日ほど足りなくて、歪な形をしていた。
 ----なんだか、空に突き出してるみたいだ。
 シンビオスはぼんやりと考えた。
 初めての船旅に興奮してなかなか寝つけなかった、というのがフラガルド新領主としては余りにも子供っぽいというのであれば、彼は他に幾つも理由を挙げることができる。
 たとえば、長く辛い戦いを終えて気が抜けた、とか。
 父の死を思い出して、とか。
 また、分割された共和国の未来を憂い、領主として彼の肩にのしかかるこれからの重責を思って。
 そんなふうに心が乱れているとき、シンビオスは決まって月を眺める。優しい光が総てを流してくれるような気がして。
「月光のつける白い道の上を」
 シンビオスの薄紅色の唇から歌が漏れた。
「船は進む 何処までも」
 このとき、船倉に続くドアが静かに開いたが、蒸気の音にかき消されて彼の耳には届かなかった。
「船首に立つ 若く勇ましい指揮官は」
 シンビオスは不意に口を噤んだ。背後に人の気配を感じたのだ。
「----シンビオス」
 柔らかい響きを持つ声が彼の名を呼んだ。
「こんな夜中に…、いったいどうしたんだい?」
「眠れなくて」
 なんて素っ気無い答だろう、と内心思いつつ、シンビオスは言った。もっと気の利いたことは言えないのだろうか。
「そうか」
 メディオンはシンビオスの隣に歩み寄って、
「実は私もなんだ」
「そうですか」
 …話が続かない。考えてみれば、シンビオスの傍にはいつもダンタレスがいたし、メディオンにもキャンベルが付き添っている。二人っきりだなんて、なんだか妙な気分だった。次の言葉を探していると、メディオンの方から話題を提供してくれた。
「----シンビオス、さっきの歌は? あまり聴いたことがないんだが…」
 メディオンの問いに、シンビオスはやっと笑顔になった。
「旅の吟遊詩人が歌っていたのを聞き覚えたんです」
 シンビオスはメディオンを振り向いて、彼を見上げた。月明かりの下で、色白のメディオンはなんだか白蝋の人形のように見える。金の髪は冴え冴えとした光を放ち、瞳も薄い緑色で、幽玄世界の人のようだ。彼が知らない所に消えてしまわないよう、シンビオスはやや急いで言葉を繋いだ。
「この歌、貴男のことを謳っているんですよ、王子」
「…まさか」
 メディオンは目を見開いて呟く。少し、人間らしくなった。
「じゃあ、最後まで歌ってみましょうか?」
 シンビオスは微笑んで、再び澄んだ声で歌いだした。
   ♪月光のつける白い道を 船は進む 何処までも
    船首に立つ 若く勇ましい指揮官は
    金の髪をきらめかせ 赤いマントを翻し
    真直ぐに前を見つめている
    不思議な光を宿すその瞳に映る 輝かしい未来を叶えるために
    彼は今日も戦場を駆け抜ける
    ああ 美しく蒼きドラゴンよ♪
「……………」
 呆然とした感のあるメディオンに、
「…ほら、間違いないでしょう?」
 シンビオスは悪戯っ子のような、やんちゃな笑みを見せた。いつもはひっそりと微笑む彼が、たまにしか見せない表情だ。この笑顔を見るためならどんなことでも厭わない、と思う者が共和国には吐いて捨てるほどいることを、メディオンは知っていた。独り占めしたいと願う者が多い、ということも。
 メディオンもその一人だったが、その想いが真面目なシンビオスにとって迷惑になりはしないかと恐れてもいた。
「…だけど、照れくさいな。そんなふうに、自分のことが歌になるなんて…」
 メディオンは目を伏せた。煙るような睫の下の瞳が、穏やかな空色に変化する。
「きっと、貴男が素敵だからですよ、メディオン王子」
 メディオンの白皙の顔にみるみる朱が差すのを満足げに見つめてから、シンビオスは再び月に目を移した。
「----いい月ですね」
「…まだ満月ではないんだね」
 メディオンは普段通りの静かな声で応じた。
「なんだか、空にぽっこり出っ張っているように見えませんか?」
 シンビオスの言葉に、
「そうだね」
 メディオンの口元が綻ぶ。可愛らしい擬態語が、まだあどけなさを残す彼に、妙に似合っている。
 本当に、とメディオンは思う。いったい、誰が想像できるだろう? この静かで、愛らしいとさえ言える彼が、戦場では激しく勇ましい虎になるなんて。あの長く激しい戦いを共に生き抜いてきたメディオンでさえ、時々信じ難い思いに捕われるのだ。
「月は太陽の光を反射してるんですよね」
 シンビオスは不思議そうに言った。
「どうも信じられないんですよ。あんなに綺麗なものが、自分の力じゃなく他人の力を借りて光ってるなんて」
「そうだね。でも、誰かの力を借りるのは、決して悪いことではないよ?」
 メディオンは優しく言った。ともすれば、なんでも独りで解決しようとするシンビオスである。メディオンはそのことが一番心配だった。
 シンビオスはメディオンの言葉に頷いている。月を見ているため、メディオンからは彼の表情は窺い知れない。だが、その背中は落ち着いているように思える。
「私も…、最近気付いたんです。----太陽は月を愛していて、その光で優しく包み込むのだと。そして、月もまた太陽を愛していて、だからあんなに嬉しそうに、その光を浴びて輝くのだと」
 蒸気の音に消されそうなほど微かな声で呟いて、シンビオスは月に手を翳した。
「空の反対側にいて、お互いを求め、惹かれあっているのでしょう。…まるで…」
 その後に続く言葉を、メディオンは考えるより早く口にしていた。
「…まるで、君と私のように」
 一呼吸ほどの間の後、シンビオスも囁いた。
「まるで、貴男と私のように」
 メディオンはシンビオスの肩を抱いた。シンビオスはメディオンの肩に頭を凭れて目を閉じる。
「…シンビオス」
 自分の名がその涼やかな声で呼ばれるのを、シンビオスは夢見心地で聴いた。自分の声が彼の名を呼ぶときには、彼の耳にどのように響くのだろう。
「はい、メディオン王子」
「約束してくれないか。もうなんでも独りで解決しようとしないと。何かあったら私はすぐに君の許に駆けつけるから」
 これからメディオンが滞在するアスピアから、シンビオスが戻るフラガルドへは半日ほどで着く。帝国と共和国の距離から考えるとずっと近い。
「ありがとうございます、王子」
 深い森のような緑の瞳で、シンビオスは月を見つめた。
「約束します。もう無茶なまねはしません」
「本当だね?」
 メディオンは思いのほか疑い深い。シンビオスは苦笑して、
「王子。そんなに私が信用できませんか?」
「だって君、結構向こう見ずだろう」
 そう言われるとは思っていた。シンビオスはメディオンに向き直って、
「…じゃあ、固い口約束をしましょうか?」
 と言うなり、メディオンの首に両腕を絡めると、伸び上がって唇を重ねた。
「!」
 メディオンは驚いたがそれも一瞬のことで、すぐにシンビオスのしなやかな体を抱き締めると、深く口づけを返した。
 ----長いキスの後、二人は月光を透かして互いの瞳を見つめた。
「…メディオン王子。また私を助けてくださいますか?」
 シンビオスはメディオンの胸に顔を埋めて言った。
「約束しよう」
 メディオンがシンビオスの耳に囁く。
 シンビオスはメディオンの腕の中に溶け込むように抱かれた。月明かりを浴びて、完成された彫刻のように、二人はいつまでもそうしていた。


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