グラシアは海の代わりに、雪景色を眺めていた。 エルベセムの最高指導者として毎日過酷な修行を行っていた彼は、疲れた心と体を休めるためによく海を眺めたものだ。 だが、レモテストは岩山に囲まれた土地だ。海などなく、見えるのは真っ白い世界ばかり。 それでも、雪が降るのを見ているのは好きだった。雪ひらは一つも同じ動きで落ちてこない。あるものは漂うようにゆっくりと、別のものはくるくると回りながら、また、真直ぐに落ちてくる素直なものもある。何時間見ていても飽きない。 だから、今日のように晴れた日はつまらなかった。なにより、新雪が陽の光を反射して眩しい。常緑樹の緑の葉の上やすっかり葉を落とした裸の枝に、雪がきれいに積っている様は面白いのだが、動きがなくてつまらない。 グラシアは辺りを見回した。誰もいないのを確認してから、積った雪の中に駆け込む。彼の脛の辺りまである雪を、蹴りあげるようにして走り回り、時々腰を屈めて雪を手で掬いあげる。頭上で散った粉雪は、グラシアの頭や顔にさらさらと降り注いだ。 息が切れるまでそれを続けて、グラシアは終いには雪の中に仰向けに倒れ込んだ。勢いで雪が舞い上がる。 影が、グラシアを覆った。 寝転がったまま上方を見ると、ジュリアンが立っていた。 グラシアは慌てて起き上がった。顔を紅くして、 「ジュ、ジュリアン。見てたんですか?」 ジュリアンは、なんだか奇妙な表情で頷いた。呆れているような、喜んでいるような、楽しそうな。 「----だ、誰にも言わないでくださいね」 グラシアはそう頼んだ。子供じみた振る舞いをしたのがひどく恥ずかしかった。----同時に、見られたのがジュリアンで良かった、とも思っていた。これが他の誰かなら、自分勝手な言い方だが、こんな所に来合わせた相手に少し腹を立てたかもしれない。その点、ジュリアンなら(恥ずかしいには違いないのだが)割と平気だった。 「おまえがそう言うなら誰にも言わないどくけど」 ジュリアンはグラシアの隣に腰を降ろした。思いがけず優しく笑って、 「でも、なんか安心したよ。----おまえも年相応なところがあるんだな」 普段のグラシアは大人びた口を利くのでジュリアンもすっかり忘れていたのだが、彼はまだまだ12才の子供だ。それがこんな立場でいて、同じ年頃の子供達よりも数十倍厳しい修練を積まされている。 そして今も、戦いに次ぐ戦いの毎日だ。ジュリアンでさえうんざりしているのだから、グラシアはもっと辛いだろう。そんな中で、こうして雪と戯れてはしゃいでいるのを目にして、ジュリアンは安心していた。 「……………」 グラシアは黙って考え込んでいたが、 「…それって、普段の私が『可愛げがない』ってことですか?」 と訊いた。 ジュリアンは目をみはって、それから苦笑した。 「『可愛げがねえ』っていうより、『大人びてる』って感じかな、普段は。----けど、最近は随分と変わってきたじゃねえか、おまえも」 「私は…、変わりましたか?」 「ああ。最初会ったときは、『やけに暗いガキだな』って思ってたけどよ。この頃はよく笑うようにもなったしさ」 言われて、グラシアははっとした。確かにジュリアンに会ってから、自分は変わったと思う。いや、ジュリアンだけではない。今では心を預けられる人達が一杯いる。それがグラシアを『孤独』から救い出してくれた。 勿論、エルベセムではカーンやヘラを始め、神父達などの教会関係者がグラシアをサポートしてくれていたが、それはあくまで上下関係の基に成り立ったものだった。今は、みんなが『同志』としてグラシアに接してくれている。それが本当に嬉しかった。 グラシアは穏やかに微笑んで、 「きっと、この『遠征軍』の皆さんのお陰です。皆さん、いい方達ばかりですから」 彼にしてみれば心の底からの台詞だったのだが、 「ホント、ここの奴らってお人好しばっかり揃ってるよな。俺から見たら信じらんねえよ」 ジュリアンは呆れた様子で肩を竦めた。 傭兵家業が長い彼は、若くして世の中の裏の裏までも見てきた。この世は打算と欲望ばかりだ。それが一番顕著なのが、あのドミネート皇帝だ。あそこまで自分の欲望に一直線だと、----もし自分にまったく関わりがなければ----ある意味清々しくさえ感じるだろう。比べれば、この『遠征軍』のメンバーは人がよすぎる。さすがに軍師クラスともなると別だが、ジュリアン以外の指揮官からして甘過ぎる。本当に王子や領主なのだろうか。特にメディオン。彼には本当に、あの皇帝の血が流れているのだろうか。 「世の中みんなあんな人達ばかりなら、この世界も少しはいいものになるんでしょうけど…」 グラシアは溜息をついた。幼くして、『神子』として人々を導く立場にある彼には、みなが自分のことばかり考えているこの世の中を憂いていた。 「自分のことを考える気持ちの半分、…いえ、その半分でもいいから他人のことを思い遣る心を人々が持ってくれれば、この世の諍いも減るんでしょうね」 グラシアの純粋な金の瞳を見つめながら、ジュリアンは昔の自分のことを考えていた。グラシアと同じ年の頃、彼も同じことを養父のアランに言ったことがある。そのとき、アランはこう答えた。 『そんな世の中、絶対来やしない』 ジュリアンは、今でもそれを信じられずにいた。『絶対』なんて、まだ起こってもいない未来のことが誰に解るのか。あれから山ほど経験を積み、世の中の辛酸を嘗め尽くしながら、ジュリアンはまだ希望を捨てていなかった。 「…そうだな。----かなり難しいとは思うけど」 ジュリアンがそう応じると、グラシアは心配そうな顔をした。難しい、なんて言ったのが堪えたか、と思いきや、 「だけど、もし戦争が減ったら、傭兵さん達の仕事も減っちゃいますよね?」 などと訊いてくる。まさに『お人好し』というか、なんというか。 ジュリアンは声を上げて笑った。 「そんなこと心配すんなって。大体、傭兵が儲かるようじゃ世も末だぜ? それに戦争だけが仕事じゃねえ。モンスター退治とか、護衛とか、色々あるさ」 「あ、そうですね…」 「まあ、傭兵にだって、戦争で儲けたいと思ってる奴もいる。武器商人なんかもそうだ。戦争が減らねえのは、結局それで儲かる奴がいるからだろ。それこそ、私利私欲にまみれた浅ましい考えだけどな」 ジュリアンの言葉に、グラシアは再び暗い気分になった。ジュリアンが言うような人達は教会にすら足を運ばない。そんな時間があったら儲かる方を優先するのだ。彼らが住む町の神父達には、彼らを正しく導くようにとは言ってあるものの、「救いなどいらん!」と公言して憚らないタイプが多く、難航している。 「それもこれも、私の力が足りないからですよね…」 グラシアはがっくりと肩を落として呟いた。 ジュリアンは、帽子の上からグラシアの頭を撫でて、 「いや、本人達の問題だろ。あいつら、金儲けのことばかり考えてるけど、金はあの世に持っていけねえのにな。そこら辺、解ってんのかね?」 冗談めかした口調で言ってくる。グラシアにはそれが有り難かった。 ジュリアンはさらにこう続けた。 「ま、そんな奴らだ。戦争が終わったらきっと、別の儲け話を見つけるさ。----だから、おまえが気をに病む必要は全然ねえよ」 「ああ、それもそうですね」 グラシアは思わず手を打った。なんで、今までこんな簡単な真理に思い当たらなかったのだろう。 「ありがとうございます、ジュリアン。お陰様で気が晴れました」 「そりゃあよかった」 ジュリアンの瞳は、どきりとするほど慈しみに溢れていた。 「おまえ、いつも一人でそうやって悩んでるからな。----俺に遠慮はいらねえからな。何でも話せよ」 「はい」 グラシアは大きく頷いた。 ジュリアンはいつも、グラシアを支えてくれる。励ましてくれる。苦しいときに手を差し伸べてくれる。 神子としてこの世界を護りたい、という想いはグラシアの中に常々存在しているが、ジュリアンに出会ってからはその気持ちがますます強くなった。 辛い修行。肩にのしかかる重責。正直、逃げ出したいと思ったこともあった。どうして自分なのだろうと悩んだこともあった。 だが今は----世界をより良い方向に導いていく力があることを、グラシアは喜んでいた。この世界に暮らす人々のため----何よりジュリアンのために、安心して暮らせる平和な世の中にしたい。 ----神子として生まれてよかった。 ジュリアンの優しい瞳に微笑みを返しながら、グラシアは心からそう思っていた。 |