マスキュリンは、廊下を中庭に向かって歩いていた。
 シンビオスのおやつの時間なのだが、当の子供の姿が自室になかった。そんなときは、必ず中庭を覗く。
 今はラベンダーが盛りで、その前に、帽子も被らぬ格好でシンビオスがしゃがみ込んでいた。
 今日は天気もよく、気温も高い。幼い子供なら日射病になってしまいそうだ。マスキュリンは急いで彼の許に駆け寄った。
「シンビオス様、おやつの時間ですよ」
 自分も屈み込んで、子供の耳に囁く。
 シンビオスはマスキュリンを振り仰いで、にっこりと笑った。
「今日はなに?」
「ミルクプリンですよ。シンビオス様、好きでしょう?」
「うん!」
 シンビオスは跳ねるようにして立ち上がった。
「行こ! マスキュリン」
 マスキュリンの手を引っ張って歩き出す。
「シンビオス様、お外では帽子を被らなきゃ駄目ですよ」
「はい。ごめんなさい」
 シンビオスは神妙に謝ってから、いかにも重大な秘密を打ち明けるように重々しい口調で、
「----ねえ、マスキュリン。あそこには母さまがいるんだよ?」
「え?」
 マスキュリンは思わず足を止めて振り向いた。半分透き通った姿のデイジーが、花々の間を滑るように漂っている姿を、思わず想像してしまう。彼女の目には何も視えないが、子供の純粋な瞳には視えるのだろうか。ダンタレスに負けないぐらいそういう話が苦手な彼女は一瞬恐くなったが、すぐに思い返す。----あのデイジー様なら、たとえ……でも構わないじゃないの。
「シンビオス様。お母様はどの辺りにいらっしゃるの?」
 それでもどきどきしながら、マスキュリンは尋ねた。
「うんとねえ、あのお花」
 シンビオスはラベンダーを指した。
「あのお花、母さまと同じにおいがするの」
 ああ、とマスキュリンは納得した。デイジーはラベンダーの香りが好きで、ポプリを作って衣装棚に忍ばせていたのだ。そのため、彼女からはいつもあの花の好い香りがした。
 マスキュリンは深く息を吸った。花の香りが肺一杯に入ってくる。懐かしい過去と今を一瞬に繋ぐ香り。彼女はよくグレイスと一緒に、デイジーのポプリ作りに参加したものだ。
 マスキュリンは幻を視ていた。まるで踊っているようだと称されたあの優雅な足取りで、花々の間を歩くデイジーの姿を。お気に入りの白い服を纏った姿は妖精の女王ようで、凛とした美しさと同時に危うい儚さをも、マスキュリンは感じていた。----デイジーが体調を崩したのは、まさにそれから間もなくだった。
 他にも色々デイジーの思い出が浮かんできて、マスキュリンは涙が零れそうになった。だが、なんとかこらえる。以前エルダーがシンビオスの前で泣いてしまって、彼にとても心配をかけてしまった話を思い出したのだ。あの夜には、彼女とグレイス、それにマスキュリンの三人で、しみじみとお酒を呑んで語り合ったものだ。
 ----今夜も切なくなりそうね。あの二人に声をかけておこう。
 と考えて、マスキュリンはちょっと笑った。
「----?」
 シンビオスは不思議そうにマスキュリンを見上げて、
「ねえ、早く行こうよ」
 と繋いでいる手を引く。
「あ、はい、行きましょうね」
 元気よく歩き出すシンビオスの後を、マスキュリンはついていった。
 誰もいなくなった中庭に風が吹き寄せる。揺れる花々の合間に白い影が見えた気がしたのは、恐らく光の悪戯だろう。


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