厄日、というのがある。
 できれば来てほしくないが、こちらの都合などお構いなく、それは唐突にやってくる。年齢・地位・性別に関わりなく、誰にでも平等に訪れる。
 メディオンにもまた、その日がやってきた。
 朝起きたときに「今日は厄日だ」なんて自覚できるようなら、誰も苦労しない。従ってメディオンも、いつもと同じ目覚めを迎えた。むしろ、いつもより清々しい気分だった。
 なにしろ今日は、ドルマントでリハビリを終えたシンビオスが、レモテストにやってくるのだ。

 ドルマントまで様子を見に飛んだゼロが、シンビオスからベネトレイム宛の手紙を預かって戻ってきた。そこには、彼らしく律儀に、他の2軍の人達に迷惑をかけて申し訳ない、という心情と、明日にはレモテストに行けると思う、という言葉が書かれてあった。
「これでやっと、3軍が揃うわけだ」
 ベネトレイムは、一同の顔を見回した。夕食の席で、シンビオスの手紙を読み聞かせたのだ。
「これからが本当の勝負ということになるな。辛いだろうが、真の平和を勝ち取るためだ。もう少しだけ頑張ってほしい」
「今までだって、結構大変でしたけどね」
 総大将のジュリアンが、肩を竦めて応えた。2度も味方と戦う羽目になったジュリアン軍全員の、これが実感だった。
「それを言うな、ジュリアンよ」
 ベネトレイムは苦笑して、
「----とにかく、また明日からの鍛錬に向けて、今夜は全軍ゆっくり体を休めておくといい」
 この言葉をきっかけに、皆はわいわいと喋りながら、食堂を出ていく。
 自室に戻ろうとしたメディオンを、ゼロが引き留めた。周りに誰もいないのを確認して、
「シンビオス様からです」
 そっと封書を渡してくれる。
 胸の高鳴りを感じながら、メディオンはゼロに礼を言って、すぐに部屋に戻った。丁寧に封を切って、中の手紙を取り出す。

 ----親愛なるメディオン王子
   ゼロから聴きました。王子も大変な目に遭ったのですね。
   その後、おかげんは如何でしょうか。あまり無理をなさらず、
   ゆっくり休んでくださいね。
    ぼくは明日、レモテストに入ります。明日から、また一緒に
   いられます。早くお逢いしたい----手紙では伝え切れない想いを、
   明日ゆっくりとお話しします。

 短いが、シンビオスの心が詰まったこの手紙に、メディオンは感激もひとしおだった。
「本当に、早く逢いたいよ、シンビオス」
 メディオンはそっと呟いた。

 以上が昨日のことで、翌朝目を覚ましたメディオンがいつになく華やいだ気分なのも、当然といえるだろう。愛しい人とやっと逢えるのだ。
 メディオンはベッドから出て、カーテンを開けた。雪が降っている。雪が大好きなメディオンは、ますます上機嫌になった。
 顔を洗うために身を屈めたとき、頭につきん、と痛みが走った。
 まさか、頭痛か? そういえば、頭が重いような気もする。
 ----寝起きだからだな。
 メディオンはそう自分を納得させると、タオルで顔を拭いた。
 ----今日はシンビオスに逢えるんだから、頭痛なんて冗談じゃない。
 メディオンは身支度すると、食堂に向かった。
 先に来ていたキャンベルの隣に座って、メディオンはアサリのリゾットを口に運んだ。
 実を噛むと、じゃり、と嫌な感触がする。砂が入っていたようだ。
「砂が入っているな」
 メディオンはキャンベルに言った。
「そうですか?」
 キャンベルも恐る恐る噛んでみて、
「いや、大丈夫ですよ」
「そうか? じゃあ、今のだけなのかな」
 ところが、メディオンのリゾットに入っていたアサリには、総てに砂が入っていた。些細なこととはいえ、あまり気分の良いものではない。メディオンの気分が少しだけ曇った。
「当たりだと思えばいいんですよ」
 というキャンベルの慰めを背に、メディオンは一旦自室に引き返した。歯を磨きながら外を眺める。雪が絶え間なく落ちてくる様子を見ているうちに、どうにも外に出たくて堪らなくなった。
 早速オーバーを着込み、帽子を被る。手袋とマフラーも忘れてはならない。
 中庭には誰もいなかった。
 まだ足跡も付いていない新雪の上に、メディオンは足を踏み出した。靴の下で雪が鳴る。
 ところで、雪道で一番滑る状態というのは、勿論凍っててかてかになっているときだ。しかし、目に見えているときは皆警戒する。そして、それなりの対策を取る。怖いのは、氷の上にうっすらと雪が被さった状態のときだ。下の氷が見えなくなる。おまけに、さらさらのパウダースノーが、氷をより滑りやすくしている。
 冬が始まったばかりのレモテストでは、ここ数日、雪が積もっては融けるのを繰り返していた。日中融け切らなかった積雪が、朝方の冷たい空気に冷やされて、大地はスケートリンクと化していた。そこに、雪がうっすらと積もったものだから----
 メディオンは、仰向けに転んだ。頭こそ打たなかったが、腰を思いっきり打った。しばらく起きあがれなかったほどだ。
 上からはどんどん雪が降ってくる。降りが激しくなってきたようだ。埋もれてしまうのは嫌なので、メディオンは起きあがった。背面についた雪を払おうと体をひねる。また、足元がつるっと滑った。
 今度は横座りの体勢で尻餅をつく。しかも、無理な体勢になったため腰を捻ってしまった。ますます痛くなる。
 メディオンはなおも滑る足元に注意して歩きながら、住居区の中に戻った。
 ちょうど、キャンベルが通りかかる。
「メディオン様、お散歩ですか」
「思いっきり、転んでしまったよ」
 メディオンは顔を顰めて、
「腰を打ってしまった。----ウリュドは部屋にいるかな」
「それは災難でしたね」
 キャンベルは、そっと主のオーバーに付いた雪を払ってやった。
「歩けますか? なんなら私の背に乗ってもいいですよ」
「有り難いけど遠慮するよ」
「では、せめてお供しましょう」
 メディオンとキャンベルは、並んで廊下を歩いた。
「----なんだか、頭も痛くなってきた」
 メディオンは額に手を当てて言った。
「ええ? 大丈夫ですか? 今日は大事な日なのに」
 キャンベルはメディオンの手を避けさせて、自分が主の額に触れた。
「…熱があるじゃありませんか!」
「え? そうか?」
 メディオンは再び自分で額に触ってみて、
「----自分じゃよく判らないな」
「打ち身や怪我はともかく、風邪のような病気は、ウリュドにも治せませんよ。部屋で安静にお休みください」
 と言って、キャンベルはメディオンの腕を掴んだ。引きずるように、彼を自室へと連れて行く。
「判った。判ったけど、せめて打ち身だけは治してほしい」
「すぐにウリュドを連れてきます。メディオン様はベッドに入って待っていてください」
 メディオンの部屋の前でそう言い置いて、キャンベルはウリュドの部屋に向かった。
 メディオンは浮かない気分で部屋の中に入った。オーバーを脱いで、ソファの上に乱雑に投げ出す。帽子と手袋、それにマフラーもその後に続いた。のみならず、服も脱ぎ捨てて、メディオンは寝間着に着替えた。ベッドに潜り込む。寒い。今頃になって、メディオンは自分が風邪をひいていると自覚した。朝、一瞬だけ感じた頭痛もそのためだったのだろう。その頭痛は、今や絶え間なく襲いかかってきている。
 ----ついてない。
 メディオンは溜め息をついた。よりによって今日風邪をひいてしまうなんて。
 ノックがして、キャンベルがウリュドと共に入ってきた。
「メディオン様、大丈夫ですか?」
 ウリュドは心配そうに、メディオンの顔を覗き込んでくる。
 メディオンは全然大丈夫ではなかったが、心配かけるのは嫌だったので、
「なんとかね。腰か頭、どちらかの痛みが取れれば、もっとましになるんだろうけど」
 と答えた。
「風邪は治せませんけど…」
 ウリュドは言って、ヒールを唱えた。転んで打った腰の痛みが、すう、と引いていく。その分、頭の痛みが酷くなったように、メディオンには感じられた。二つの痛みが相殺しあっていたのだ。それでも、二箇所も痛むよりは、一箇所だけの方がましだろう。
「ありがとう、ウリュド。腰の痛みが引いたよ」
「どういたしまして。----あとは、風邪の方を早く治してくださいね」
「そうですよ、メディオン様」
 キャンベルが口を挟んだ。今まで、メディオンが脱ぎ散らかした服を、黙々と片づけていたのである。
「折角、シンビオス殿と、しばらく同じ屋根の下に滞在するというのに…」
「そういえば、シンビオスはまだ着いていないのか?」
 メディオンは訊いた。向こうを朝出ていれば、そろそろ到着してもおかしくない時間だ。
「少なくとも、我々がこの部屋に来る前には、まだ着いてませんでした」
「それに、シンビオス殿は到着したら真っ先に、メディオン様の所に来るでしょうから…」
 キャンベルとウリュドが口々に言う。
 真っ先に、というのは言い過ぎかも知れない。几帳面なシンビオスは、まずベネトレイムに挨拶するだろうからだ。ただ、所用を済ませた後は間違いなく、メディオンの所に来てくれるはずだ。
「----シンビオス殿が来るまで起きていよう、なんて考えませんように、メディオン様」
 キャンベルはまさに、メディオンの胸の内を言い当てた。
「お気持ちは判りますが、今は一刻も早く風邪を治すのが肝要です。シンビオス殿がいつドルマントを出発したのか判らない以上、彼の到着を待って無理するより、体を休めておいた方が宜しいですよ」
 付き合いが長いと、何でも見通されるから厄介だ。しかも、キャンベルの意見は理路整然としていて、反論の余地がない。
「判った。おとなしく寝ているよ」
 メディオンは素直に応じた。横になっているうちに眠気が差してきた、というのもある。
「では、お休みなさい、メディオン様」
「お大事に。後でまた来ますね」
 キャンベルとウリュドは部屋を出ていった。
 メディオンは目を閉じた。今朝から今までに起こったことを思い返して、一人苦笑する。まったく、なんという日だろう。
 ----更に悪いことといえば、シンビオスが来ないことぐらいだろうな…
 縁起でもないことをぼんやりと考えているうちに、メディオンは眠ってしまった。

 次にメディオンが目を開けたとき、部屋は最早薄暗かった。随分寝てしまったようだ。
“----メディオン様、大丈夫ですか?”
 ベッドサイドから、キャンベルが訊いてきた。
“ああ、いてくれたのか、キャンベル。ありがとう”
 メディオンは枕の上で頭を巡らせた。
“少し寒いな”
“では、紅茶でも淹れましょう”
 と行きかけたキャンベルに、
“そういえば、シンビオスはまだ来ないのか?”
 メディオンは尋ねた。
 キャンベルはぴく、と止まった。背中が震えている。メディオンが不審に思うより早く振り向いたキャンベルは、嫌に深刻な顔をしていた。
“キャンベル----”
“メディオン様、どうか落ち着いて聴いてください”
“----?”
“実は、シンビオス殿は----、雪道で滑って頭を打って、安静を余儀なくされました。いつレモテストに来られるかさえ、はっきりしない状態だそうです”
“なんだって?!”
 メディオンは目眩がした。
“ヒールは? 効かなかったのか?”
 キャンベルは悲痛な表情で頷いた。
“どういうわけか、ヒールでも、癒しの水でも、まったく治らない怪我だとか…”

 メディオンは再び目を開いた。部屋は明るく、白い天井が目に眩しい。
「----???」
 事態を把握しきれず、メディオンが盛んに目を瞬いていると、
「メディオン王子、大丈夫ですか?」
 優しく柔らかい声がかかった。
「…シンビオス?」
「はい」
 にっこりと微笑む恋人を、メディオンはまじまじと眺めた。
「君、…大丈夫なのか?」
「はい?」
「い、いや、君が転んで頭を打って----」
 ここまで言って、メディオンはやっと気が付いた。
「…そうか、夢だったんだ」
「転んだのは王子でしょう?」
 シンビオスはからかうように笑う。
「キャンベルだな、ばらしたのは」
 メディオンも一緒に笑った。
 シンビオスの笑顔は相変わらず可愛らしい。また見られて嬉しい。さっきのが夢でよかった、とメディオンはつくづく思った。
「折角久しぶりに君に逢えたのに、風邪だなんてね。我ながらタイミングが悪すぎるな」
 メディオンは手を伸ばして、シンビオスの頬に触れた。
「早く治るように、しっかりお世話しますね」
 シンビオスはメディオンの手に、自分の手を重ねて、
「何かほしいものとか、してほしいこととかあります?」
「あるけど、君に風邪が感染りそうなことばかりだよ」
 メディオンは笑いながら手を引っ込めた。
「何か、温かいものが飲みたいな。それと、フルーツがあれば」
「確か、食堂にリンゴかオレンジがあったような…。ちょっと見てきます」
 部屋を出ていくシンビオスの後ろ姿を、メディオンは目で追っていた。熱があるせいだろうか、取り残されるような寂しい気分に襲われてしまう。
 部屋から出る寸前、シンビオスは振り返った。メディオンが見ているのに気付くと、小さくキスを投げてきた。その後すぐにドアが閉められる。
 メディオンは改めてシンビオスを可愛いと思い、愛おしく感じた。それ故、風邪をひいてしまった自分を強く呪う。目の前にシンビオスがいるのに、感染すといけないからキスさえできない。かといって、治るまで会わないというのも嫌だ。やっぱりシンビオスに看病してもらいたい。
 ----シンビオスを目の前にして、あれもこれも我慢しなきゃならないのか…。
 メディオンは痛む頭を押さえて、息を吐いた。彼の厄日は、どうやらもうしばらく続きそうである。


HOME/MENU