フラガルドの町に、白い物が飛び交う。 「あれは《雪虫》ですよ、王子」 窓に顔を寄せて食い入るように外を見つめているメディオンに、シンビオスは教えた。 「ゆきむし?」 メディオンはシンビオスを振り向いた。 「ええ。正式な名前は知りませんが、みんなそう呼んでいます。…あの虫が最初に飛びはじめてから1〜2週間すると、初雪が降るので」 「それで《雪虫》か」 メディオンは再び窓の外を見た。蟻ほどの大きさで、尻に白い綿のようなものを付けて飛んでいるさまは、確かに名前に相応しい。 「ロマンティックだね」 「名前と姿は、ね」 シンビオスは肩を竦めて、 「でも、容赦ありませんよ、あの虫は。目だろうと口だろうと鼻だろうと飛び込んできますから。この時季は外に出ないか、出てもゆっくり移動しないと」 「へえ」 メディオンは楽しそうに笑った。南に位置する帝国には雪虫などいない。初めて目にする幻想的な虫がそんな悪さをすると聴いただけで面白い。 「笑い事じゃないんですがね」 シンビオスは苦笑すると、メディオンの横に歩み寄る。 「ものは試し、といいますし、外に出てみましょうか?」 「いいのかい?」 「買いたい物があるんです。----それに、一度体験してみれば、貴男も笑っていられなくなるでしょう」 「手厳しいな、君は」 今度はメディオンが苦笑して、シンビオスの柔らかい頬を軽くつまんだ。 「外に出ても、話さないようにしてくださいね」 シンビオスは神妙な顔で言った。 この時季必需品であるフードのついた薄手のロングコートを着て、シンビオスとメディオンは城下町に出た。 いつもならはしゃいで駆け回っている子供達も大人しく、威勢のいい露店主達も声を出さず、静かに立っているだけだ。商品には覆いが被せてあった。 「これは…」 メディオンは言いかけて、すぐに口を噤んだ。確かにシンビオスの言った通り、口の中に雪虫が飛び込んできそうになったからだ。 シンビオスが愉快そうにメディオンを見る。メディオンは軽く片眉を上げて応えた。 目的の店は、ありがたいことに露天ではなかった。その軒先で、シンビオスはフードを外すと軽くコートを揺すった。くっついていた数匹の雪虫が飛び立つ。それから、同じようにしているメディオンの前髪に、彼は手を伸ばした。 「?」 不思議そうなメディオンの目の前に、シンビオスは手を差し出した。雪虫が乗っている。メディオンがちょっと微笑んだ。シンビオスが手を払うと、その勢いで雪虫は仲間と合流した。 それをなんとなく見送ってから、二人は店の扉をくぐった。 それと時を同じくして。 雪虫の攻撃に辟易しながら、フラガルドの城門を入って来た者がいる。彼はやはり城の入り口で雪虫を、こちらはやや乱雑に払い落とした。そして中へと入って行く。 彼を最初に迎えたのは、またしても、たまたま通りかかったマスキュリンであった。彼女は彼を見て、手にした本を取り落とした。 「----あ〜あ、何やってんだよ」 彼は呆れたように言って、屈み込んだ。気性を表わす赤い髪が、マスキュリンの視界を上から下へと通り過ぎる。それにつられて、彼女もその場に膝をついた。 「まったく、相変わらずドジだな、おまえ」 男らしい声は別れたときと少しも変わらない。そこだけ子供時代を残したアイスブルーの瞳も。 逞しい手が差し出した本を、マスキュリンはぼんやりと受け取った。なんだか無性に泣きたい気分になってくる。 しかし、彼女はにっこり笑ってこう言った。 「いらっしゃい、ジュリアン!」 「…ヘイワードが門番で良かったぜ。お陰で顔パスだからな」 ジュリアンは悪戯っぽく笑った。 「相変わらず唐突だな、おまえは。来るなら来るで連絡ぐらいよこせばいいのに」 ダンタレスが言った。言葉に反して口調は嬉しそうだ。 「そうよ。なんのおもてなしもできないわ、これじゃあ」 文句を言いつつ、グレイスも顔をほころばせている。 「もてなしなんていいよ。堅苦しいの苦手だって、知ってんだろ?」 ジュリアンは肩を竦めた。 「酒があればよいのであったな、ジュリアンは」 キャンベルも笑顔満開だ。 そこへ、マスキュリンが紅茶を運んできた。グレイスがやると言ったのを代わってもらったのだ。お茶請けは今から作っていたのでは間に合わないので、残念ながらシンビオスが昨日焼いておいたマドレーヌである。 「どうぞ、ジュリアン」 彼女にしてはしおらしく(といっては気の毒だが)、ジュリアンの前にカップを置く。 「サンキュー」 ジュリアンはマドレーヌをしげしげと眺めて、 「…お前が焼いたのか?」 「ううん。シンビオス様よ」 「なら安心だな」 「どういう意味よ〜?!」 マスキュリンが手にしたトレイを振り上げる。ジュリアンは腕を上げてガードしつつ、 「冗談だよ、冗談! まったく、ほんっとに成長しねえな、おまえ」 「大きなお世話よ!」 マスキュリンはぷぅ、と頬を膨らませて、そっぽを向いた。 ジュリアンは声を上げて笑うと、マドレーヌにかぶりついた。 「…うん、やっぱり旨いな」 「…紅茶はどう?」 マスキュリンは、本当に恐る恐る、という感じで訊く。 「ん? ----ああ、いけるぜ」 「よかったぁ!」 マスキュリンはトレイを胸に当てて、満面の笑みを浮かべた。 ジュリアンは2個目のマドレーヌを食べながら、 「そのシンビオスはどうしたんだ?」 「メディオン王子と街にでてらっしゃる。もう戻られると思うが」 ダンタレスの言葉が終わらないうちに、廊下から足音が響いてきた。それも大勢の。 「----ジュリアンが来って?」 「クピックピーーッ!」 「久しぶりアル!」 「元気そうだな」 どやどやと入ってきたのは、フラガルド警備隊として常駐している、ジャスティス、アイリン、シバルリィと、無言なので判らないだろうがハガネである。すっかりシンビオスのペットと化したペンもいる。彼らは一斉にジュリアンを囲んだ。 「どうしたんだ、おまえら」 ジュリアンは目を瞠った。それでも、幾分嬉しそうだ。 「…ヘイワードから聴いたんだ」 穏やかな声がする。シンビオスとメディオンが入り口に立っている。 「よぉ」 ジュリアンは二人に手を上げた。 「ジュリアン、久しぶりだな」 メディオンが微笑む。 「よく来たね」 シンビオスは笑いながら、ジュリアンの足下でじたばたしているペンを抱き上げた。 「よお、ペン。しっかり子育てしてるか?」 ジュリアンは、ペンの頭をくしゃくしゃにした。 「ペンコとガキ共は?」 「クピクピ〜」 「昼寝、って…。まだ午前中だろ。《朝寝坊》ってんだ、それは」 「来たからには、暫くいるんだろうね?」 シンビオスの問いに、ジュリアンはちょっと決まり悪そうな笑顔で、 「いや。この後アスピアにも寄りたいし、それに…、グラシアの様子も見に行きたいしな」 「グラシア様の? そうか」 メディオンは頷いた。 「だが、今日ぐらいは泊まっていくのだろう?」 「邪魔じゃなきゃな」 「邪魔だなんて!」 マスキュリンがつい叫んで、はっと口を押さえた。周囲の呆気に取られた視線に顔を紅くして、 「へ、部屋の用意をしておいてあげる! 泊まらないなんて言ったら《ブレイズ》よ!」 と、恐ろしい宣言をして食堂を出ていった。 「…なんなんだ、あいつ…」 呆れ気味に呟くジュリアンに、シンビオスはクスクス笑った。 「《フェニックス》じゃなくてよかったね」 「…そのコメントもどうかと思いますが」 ダンタレスがすかさず主に突っ込む。その絶妙さに、ジュリアンは吹き出した。 「相変わらずみたいで、安心したぜ」 「ありがとう」 「…誉められてません、シンビオス様」 今度はシバルリィだ。シンビオス軍に突っ込みタイプのしっかり者が多いのは指揮官が天然ボケだからだ、とジュリアンは常々考えていたものだ。比べるとメディオン軍は静かだった。リーダーからして大人しい。シンテシスとウリュドの漫才だけが妙に浮いていたのを覚えている。 「…だけど、ジェーンは一緒じゃなかったのね、ジュリアン」 グレイスが穏やかに言った。 「そういえばそうだな。彼女も連れてくればよかったのに」 これはジャスティス。冷やかすような口調だ。 「俺も誘ったんだけどな」 ジュリアンは正直に答えた。 「なんか、今回は遠慮するってさ。戦友達だけで話したいこともあるだろうからって」 「なるほど。彼女らしい気の遣い方だ」 ハガネがしみじみと呟く。 「春になってからまたおいでよ。寒い地方から来るんだから、暖かいときの方が」 シンビオスが微笑む。 「そうだ。そのときはジェーンも一緒に、な」 キャンベルがジュリアンの肩を叩いた。 「クピクピッ!」 ペンが何か言って、シンビオスとメディオンが同時に笑い出す。ジュリアンは柄にもなく紅くなって、 「生意気なこと言うな、このペンギン!」 シンビオスに抱かれたままのペンの頬を両の拳で挟んで、力一杯ぐりぐりする。 「クピッ! クピィ〜!!」 「わ! ちょっと、ペン! 危ないってば」 腕の中で暴れるペンを支えきれずに、シンビオスは仰け反った。その肩をメディオンが後ろから掴んだので、なんとかひっくり返らずにすんだ。 当のペンはといえば、シンビオスの腕が緩んだので難なくジュリアンの攻撃から逃れると、憤慨した様子で出ていってしまった。 「…大丈夫かい? シンビオス」 メディオンはシンビオスの肩を前に押して、体勢を立て直してやる。 「すいません、王子」 シンビオスは息を吐いて、 「ジュリアン。何もあんなにむきにならなくても。ペンが怒っちゃったじゃないか」 「うるせえ」 ジュリアンはすっかりふてくされている。 「…ペンは何を言ったアルか? シンビオス様」 アイリンが不思議そうに訊ねた。なにしろ、ペンの言葉はジュメシンにしか理解できないのだ。 「うん。あのね…」 言いかけたシンビオスの口を、逞しい手が塞いだ。 「余計なこと言いやがったら、フォースエッジで真っ二つだぞ」 目を真ん丸くしているシンビオスにジュリアンは言ったが。 ----バキッ! その頭を背後からダンタレスがどついて、 「シンビオス様に凶悪な脅し、かけるんじゃない!」 ジュリアンは威勢よく振り向いて、ダンタレスを睨んだ。 「痛えな、この過保護野郎!」 「なんだと! 喧嘩売ってるのか!」 「上等じゃねえか。…やるか?」 いきなり始まってしまったが、なんのことはない。レクリエーションの一種である。周りの者達も心得ているから、止めようともせずに眺めている。シンビオスも呑気な笑顔で、 「いいけど、外でやって」 「よーし! 表に出やがれ!」 「大きな口を叩けないようにしてやる!」 ジュリアンとダンタレスが出ていく。それを追って、 「久しぶりに名勝負が見られるな」 「楽しみアル♪」 「次は俺と手合わせ願おうか」 「じゃあ、その次は私と」 「私もお願いしよう」 「でも、あまり無理しないでくだないね」 わいわいとみなも続く。後にはシンビオスとメディオンが残った。 「…相変わらずなのは、ジュリアンも同じようだ」 メディオンが楽しそうに呟く。 「本当ですね。…王子、ぼく達も見に行きましょう。執務室が特等席ですよ」 シンビオスはメディオンの腕を取って歩き出した。 外で手合わせするなら中庭が相応しい。応接室とそれに続くシンビオスの部屋の窓際には庭木が茂っていて、中程には噴水がある。が、執務室の方はちょっとした空間になっているから、みなここで鍛練する。 廊下を歩きながら、 「…でも、そんなに気に障ったんでしょうか、ジュリアンは。『新婚旅行』っていうフレーズ」 シンビオスは言った。 「彼はあの通りの男だからね。照れくさかったんだろう」 メディオンが微笑む。 「それにしても、ペンにあんなにあたらなくても…。…あ、マスキュリン」 廊下の向こうから、マスキュリンがやってきた。 「部屋の支度が終わったんだね? ご苦労様」 「ええ。いつでも休めますよ。…ジュリアンは?」 「うん。丁度よかった。君もおいで」 シンビオスは空いた手でマスキュリンの手を取った。 「え? シンビオス様、どちらに?」 マスキュリンは戸惑いつつも、シンビオスに引かれてついていく。 シンビオスが執務室のドアを開けると、外からの歓声が聞こえてきた。 「始まっているようだよ」 メディオンが窓を開く。三人は並んで外を見た。途端に雪虫が飛び込んでくるのには閉口だが、戦いの当事者達は構わず激しく動き回っている。集中力だろう。観客達も手で払おうともせず、好試合を観戦している。 「あ、シンビオス様、メディオン王子。マスキュリンまで」 丁度窓の所に立っていたヘイワードが、彼らを見上げる。 「ヘイワード。交代したの?」 シンビオスの問いに、 「ええ。ラッキーでしたよ。丁度当番が終わって」 ヘイワードは愉快そうに答えた。 ダンタレスがジュリアンの攻撃を槍で払って、すぐさま反撃に出た。それをジュリアンはブレードで受ける。押し合って、少し距離を置いて対峙した。 「----はっ!」 「たぁ!」 気合いと共に、二人は同時に前に出た。激しくぶつかりあって交差し、位置を変えて向かい合う。 先に膝をついたのはダンタレスだった。しかし、すぐにジュリアンもその場に跪く。 「ジュリアン!」 マスキュリンが叫んで、窓から外に出た。彼の許に駆け寄って、 「大丈夫? しっかりして!」 「…大袈裟なんだよ」 ジュリアンは苦笑いしながら立ち上がった。 「大丈夫? ジュリアン」 先にダンタレスを回復したグレイスが、ジュリアンに歩み寄る。 「ちょっと効いたかな」 「お互い様だ、ジュリアン」 ダンタレスは嬉しそうに言った。 「相変わらず、おまえの攻撃は確かなものだ」 回復してもらったジュリアンはにやりと笑うと、 「さあ、次は誰だ?」 と言った。 結局、シバルリィ、アイリン、ハガネは、ジュリアンを負かすことができなかった。キャンベルはダンタレスと同様、痛み分けに終わった。 「どいつもこいつも情けねえ」 ジュリアンは挑発気味に、 「シンビオス、おまえの軍も大したことねえな」 「鍛えなおさなきゃね」 のんびり応じるシンビオスに、ジュリアンは企み深く笑いかけた。 「大将はどうだ?」 「試してみる?」 シンビオスは窓を飛び越えて中庭に降り立った。上着をダンタレスに預け、剣を抜く。あどけない顔が、すう、と引き締まった。 ジュリアンは唇を湿してブレードを構えると、いきなり切り掛かった。シンビオスはひらりと身をかわして、剣を振るう。下段でジュリアンは受けた。そのまま上に払う。シンビオスは後ろに軽く飛び退いた。 マスキュリンははらはらしながら見ていた。主であるシンビオスの応援をしなきゃいけないのだろうが、気が付くと心の中でジュリアンに声援を送っている。ジュリアンに勝ってほしかったのだ。 マスキュリンの願いをよそに、決着のつかない激しい攻防が続く。荒々しくて男らしい責めのジュリアンに対し、シンビオスはまるで舞っているかのような身のこなしだ。二人はまるで踊っているようにも見える。剣がぶつかる音だけが中庭に響き渡っていた。 動きを止めて向かいあった二人は、さすがに息が上がっていた。構えた武器も呼吸に合わせて微かに震えている。 「----そこまで!」 ダンタレスが声をかけた。シンビオスとジュリアンの体から緊張が消えていく。観客達も息を吐いて、二人の戦い振りを口々に讃えだした。 「…お見事」 メディオンが手を叩いた。ジュリアンは彼に剣先を向けて、 「あんたはそこで、高みの見物か? メディオン王子」 「でも君、疲れてるんじゃないのか?」 「あんた相手なら充分やれるさ」 「大きく出たな」 メディオンは笑って、外に飛び出してきた。 「王子。私の代わりに決着をつけてくださいね」 シンビオスが声をかける。メディオンは微笑んで頷いた。 「…始め!」 ダンタレスのかけ声と同時に、メディオンのレイピアがジュリアンに襲い掛かった。蝶のように舞い蜂のように刺す、と称される巧な険技だ。ジュリアンは疲れているせいか押され気味が、それでも隙をついてブレードを振る。 「ジュリアン!」 ついに、マスキュリンが胸の内を叫んだ。 「しっかり! 負けないで!」 「メディオン様! その調子です!」 負けじと、キャンベルも主人の応援をする。 「ジュリアン、そこだ!」 「頑張って、メディオン王子!」 いつの間にか、ジュリアン派とメディオン派に分かれて応援もエキサイトしている。しかし、メディオンにはやはりシンビオスの応援が一番力を与えてくれるのだろう。彼の声を聴いた途端に、動きが更に早くなった。 「…っ、この! ちょこまかと!」 ジュリアンはキレ気味に言って、斜上段からブレードを振り降ろした。メディオンはその下をかいくぐってレイピアを突き出す。二人の武器は、お互いの喉元寸前でぴたりと止まった。軽いどよめきが起こる。 メディオンとジュリアンは武器を引いて向き直った。みなは二人を取り囲んだ。 「お見事でした、王子」 「ジュリアンも、凄かったアル」 「素敵でしたよ、メディオン王子」 シンビオスの言葉に、メディオンは嬉しそうな顔をした。 「ジュリアン、カッコよかったわよ!」 マスキュリンが笑いながらジュリアンを見上げる。 「おまえの応援が効いたんだよ」 ジュリアンは少し優しい口調で応えた。 賑やかな昼食の後、マスキュリンはジュリアンを引っ張って、街に出ていった。シンビオスとメディオンは執務室に戻って、残った仕事を片付けていた。 「あの二人、雪虫にやられてなきゃいいですけどね」 シンビオスは外を見て呟いた。やり合っているときには気にならなかったのだが、終わってからは、みな体や髪に付いた雪虫を払うのに大騒ぎだったのだ。 「さっきみたいに、大して気にならないんじゃないかな」 メディオンは軽く応じてから、 「それにしても、君も随分気を遣ったものだね」 「…なんのことでしょう?」 「こんな仕事、今日済まさなきゃいけないわけでもないだろう。ジュリアンとマスキュリン殿を二人にしたかったんだね?」 メディオンの指摘に、シンビオスは肩を竦めた。 「あのときの…、ジュリアンが滝壷に落ちたときのマスキュリンの叫び声が、いつまでも耳に残ってましてね。ぼくはそれまで気付かなかったんです。彼女がそんな風にジュリアンのことを想っていたなんて」 ちょっと息を吐いて、彼は続けた。 「切ない想いをしたぶんだけ、彼女には幸せでいてほしいんです。ジェーンには申し訳ないですけど、せめて彼がここにいる間だけは」 メディオンはシンビオスの肩を優しく抱いた。 「大丈夫だよ。マスキュリン殿は強い人だから。今は辛くても、きっと乗り越えられるさ」 「ええ。ぼくもそう思います」 シンビオスは微笑んだ。その頬に、メディオンはそっと口づけた。 夜も更けると途端に寒くなる。応接室の暖炉に火を入れて、シンビオス、メディオン、ジュリアンは床に座って酒を酌み交わしていた。とはいえ、シンビオスは未成年だしあまり呑みなれていないので、軽い種類のを呑んでいる。他の二人は、北地方の強い酒----氷漬けになったシンビオスが呑まされたやつ----を平気な顔でやっていた。 そうして思い出話しに花を咲かせながらグラスを傾けていたが、度数の低い酒を舐めるように呑んでいるシンビオスを見ているうち、ジュリアンの悪戯心に火がついた。彼は突然窓の方を見て、 「あっ!」 と叫んだ。 「え?」 「なに?」 メディオンもシンビオスも素直な性質なので、すぐにつられてそちらを見る。ジュリアンはその隙に、シンビオスのグラスと自分のとを取り替えた。酒の色は一緒である。 「ああ、悪い。なんかいるように見えたんだけど。…気のせいだったかな」 ジュリアンは抜け目なくそう言って、酒を呑んだ。 「こんな時間に、中庭に誰がいるっていうんだい?」 メディオンは笑って、 「酔ったんじゃないのか? ジュリアン」 「呑み過ぎたんじゃないの」 シンビオスも冷やかす。これこそ、ジュリアンが待っていた前フリだった。 「それはおまえもだろ、シンビオス」 「私はそんなに呑んでないよ。軽い酒だし」 「そうか? じゃあ、もっと呑めよ」 「うん」 シンビオスは素直にグラスを取った。ジュリアンの目が光る。 一口呑んだシンビオスは、 「!!!」 目を見開いた。『炎の酒』と呼ばれるアルコール度数50%の液体が、容赦なく喉を焼く。彼はむせかえった。 「シ、シンビオス?」 メディオンは驚き、それから笑い転げるジュリアンを見て総てを察した。 「ジュリアン!」 ジュリアンは腹を抱えて笑っている。 「まったく! …シンビオス、すぐに水を持ってくるから」 メディオンは奥に行き、程なく戻ってきた。が、そこにシンビオスの姿はなかった。そしてジュリアンが床にのびている。 笑い過ぎてへたったわけでもあるまい、と思いながら、メディオンはジュリアンを抱き起こした。 「ジュリアン、どうしたんだ? …シンビオスはどこだ?」 「ああ…、あの野郎。俺をいきなりぶん殴って、出ていっちまいやがった」 ジュリアンは頭を振って、 「痛えな、畜生!」 「自業自得だろう」 メディオンはまずそう言ってやってから、 「とにかく、捜そう」 二人は廊下に出た。 「…あら、どうなさいました?」 丁度通りかかったグレイスが、眼を丸くして訊いてくる。 「あ、グレイス殿。シンビオスを見なかったかい?」 「シンビオス様がどうかなさったのですか?」 「酒呑んで、俺をぶっ飛ばしてどっかにいっちまったんだよ」 ジュリアンの説明に、グレイスはみるみる蒼くなった。 「シンビオス様が、お酒を…?」 「ど、どうかしたのかい? グレイス殿」 いつも穏やかなグレイスらしからぬ反応に、メディオンは嫌な予感がした。 「シンビオス様には…、酒乱の気があるのですよ」 グレイスは声を潜めて言った。 まだシンビオスが幼い頃、間違えてコムラードのウイスキーを呑んでしまったことがあった。酔っぱらったシンビオスは屋根の上に登って走り回り、グレイスと血の凍るような鬼ごっこをしたのだった。そして突然眠ってしまった彼は、なんなくグレイスに捕まった。 「何故、君が屋根に?」 「ダンタレス様では蹄で滑ってしまいますし、マスキュリンは高い所が苦手ですから」 「なるほど」 「恐ろしいことに、それだけではないのです」 グレイスは続けた。3年程前、マロリーに遊びに行ったシンビオスは、今度はトラスティンに酒を呑まされ、あの美しい中庭の木に登って、枝から逆さまにぶら下がって大声で歌いだしたという。やはり唐突に眠ってしまい、落っこちてきたところをダンタレスが受け止めて、事なきを得たのだった。 「へえ。どうやら、高い所に登るのと、突然眠っちまうってのが癖らしいな」 ジュリアンは面白そうな顔で言った。 「何を呑気なことを言ってるんだ」 メディオンが顔を顰める。 「でもよ、想像すると面白いよな。あのクソ真面目なシンビオスが大声で歌うんだぜ。しかも、木からぶら下がってさ」 言いながら想像したのか、ジュリアンはまた笑っている。 「…とにかく、捜さないと。グレイス殿、申し訳ないがダンタレス殿とマスキュリン殿を起こして、城の中を捜してくれないか。私とジュリアンは外を捜してみる」 「解りました」 グレイスは力強く頷いて、廊下を駆けていった。 「ジュリアン、行くぞ」 「まったく、面倒くせえなぁ」 「…誰のせいだ、誰の」 メディオンとジュリアンは中庭に出た。応接室の照明は木々に遮られて殆ど届かない。ほぼ真ん丸に満ちた月明かりだけが頼りだ。 「どっかで歌ってないか?」 ジュリアンが辺りを見回す。 「また屋根の上に登ったとか」 メディオンは見上げて、 「もしそうだったら、君が行けよ、ジュリアン」 「なんで俺が」 「君のせいだろう。ちゃんと責任は取ってもらう」 「あんたこそ、《ラブラブ》なんだろ? 迎えに行ってやれよ」 まだシンビオスが屋根に登ったと決まったわけではないのだが。不毛な言い合いを続ける二人の耳に、凄まじい水音が聞こえた。そう、何かが飛び込んだときの。 「…今の、まさか」 「噴水か?」 メディオンとジュリアンは申し合わせたように駆け出した。 ----いた。 この寒空に、噴水に入って水を撥ね上げている姿が、月明かりに照らしだされている。 「…何やってんだ、あいつ!」 ジュリアンは憤慨しつつ近付いていく。 「あ、ジュリアン。君もどう?」 シンビオスは全身ずぶ濡れのまま、呑気に笑った。残念ながら(?)服は着たままだった。 「何言ってんだよ!」 「シンビオス、早く出るんだ」 メディオンが優しく声をかけたが、 「や、です」 シンビオスは言って、向こう側へと逃げていく。 「シンビオス!」 ジュリアンが素早く回り込んでいく。メディオンは残って待っていた。案の定、じきにシンビオスは戻ってきた。 「シンビオス、おいで」 メディオンは努めて穏やかな声をだして、身をかがめて手を差し出した。 「メディオン王子」 シンビオスは可愛らしい笑みを浮かべてその手を掴んだが、思いのほか強く引っ張ったので、噴水の縁ぎりぎりに立っていたメディオンはバランスを崩し、見事に水の中に突っ込んでしまった。 「〜〜〜〜〜」 冷たい水の中に呆然と座り込むメディオンを見て、シンビオスは声を上げて笑っている。目論見通りだったらしい。 「----おい、どうしたんだ?」 噴水の向こう側から、ジュリアンが声をかけてくる。シンビオスは笑い止むと、そちら側に静かに移動していった。 「! シンビオス! 待つんだ!」 メディオンが慌てて追ったが、----遅かったようだ。 水音に続き、ジュリアンが髪から水を滴らせて上体を起こしたところだった。 「ジュ、ジュリアン…」 メディオンがそっと声をかける。 ジュリアンは顔を上げると、笑っているシンビオスの肩を掴んで、 「てめえ! 沈めてやる!」 水に突っ込ませた。シンビオスがじたばたともがく。 「ジュリアン! 気持ちは解るが落ち着いて!」 メディオンはジュリアンを後ろから羽交い締めにした。 「離せ! こいつばっかりは許しておけねえ!」 「相手は酔っ払いなんだから」 二人のやり取りを、身を起こしたシンビオスは楽しそうに笑いながら眺めていたが、突然笑い止むと、後ろにひっくり返った。 「シ、シンビオス?」 「また引っ掛ける気か?」 メディオンとジュリアンは恐る恐る覗き込んだ。 「----寝てるぜ、おい」 ジュリアンが呆れ声を出した。メディオンと顔を見合わせると、どちらからともなく笑い出す。 「…早く着替えよう。風邪をひいてしまう」 メディオンがシンビオスの体を抱き上げて、噴水から出た。ジュリアンも続く。 容赦なく吹く冷たい晩秋の風が、濡れた体から体温を奪っていく。酔いもすっかり醒めてしまった二人は足を速めた。 「人騒がせな奴だ」 メディオンの腕の中でぐっすり眠るシンビオスの頬を、ジュリアンは恨みを込めてつついた。それでも目を覚まさないのには感心してしまうが。 「元はといえば、君のせいだろう」 メディオンは苦笑まじりに言った。 場内に戻ると、丁度城中を捜しまわっていたダンタレスに会った。彼は水浸しの三人を見て眼を丸くしたが、事情を聴いて吹き出した。しかし、ジュリアンにしっかり釘を刺すのは忘れなかった。 すぐにシンビオスを着替えさせてベッドに入れたグレイスが、小言付きでバスタオルと着替えを、メディオンとジュリアンに差し出した。乾いた服に袖を通して、冷えた体を暖めるべくもう一度暖炉の前に座り、二人はグラスを傾けた。 「…やっと人心地ついたぜ」 ジュリアンはタバコをくゆらせながら呟いた。 「誰のせいだか判ってるんだろうね」 メディオンがどこか楽しそうに言う。 「うんざりするほど思い知らされたよ」 ジュリアンは大仰に煙を吐き出した。ダンタレス、グレイス、マスキュリンの三人に散々、からかい交じりのお叱りを受けたのだ。 「君がいる所では、いつも何かが起こっているね。レモテストでもそうだった」 「ああ、あの雪合戦か?」 ジュリアンは笑った。 レモテスト。 邪教ブルザムの信仰が盛んな町である。そのせいで住民は殆ど仮面をつけている。 それでも、エルベセムの教会も立っていた。だが、ここではエルベセムの方が邪教なのだ。 その教会の中庭で、グラシアとシンビオスが話し合っていた。二人ともあどけない顔に似合わないほど、厳しい表情になっている。いよいよ明日、ブルザム邪神宮へ乗り込むのだから、自然と力が入るのも当然だろう。 何かが空を切って、シンビオスの肩に当たった。 「…冷たい?!」 シンビオスは思わず叫んで、そこに眼をやる。濡れていて、解け残った雪がついている。 「大当たりだ」 ジュリアンがにやりと笑った。彼が雪球を投げたのだ。 「何をするんだ、ジュリアン」 シンビオスは、彼にしては珍しい仏頂面で文句をつける。 「何って、こうするんだよ!」 言いざま、ジュリアンは次々と雪球を投げてきた。 「ちょっと、ジュ、ジュリアン!」 「何するんです!」 とばっちりで、グラシアにまで当たる。しかしジュリアンは構わず投げ続けてくる。 「もう! いい加減にしろ!」 シンビオスが投げ返した雪球は、見事にジュリアンの顔面を直撃した。 「やった!」 とシンビオスが喜んだのもつかの間、すぐにジュリアンの反撃か顔に当たった。 「ざまみろ」 と言うジュリアンに、今度はグラシアの雪球が当たって…。 「----何をしてるんだ」 タイミングよくやって来たメディオンの胸にも、当然当たった。 「…あ、悪いな、王子。手が滑った」 ジュリアンが確信的に笑う。 「ほう。手が、ね」 メディオンは静かに言って、ジュリアンに雪球を投げた。頭にヒットした。 「なんだよ」 「手が滑ったんだ」 「へえ、そうかい」 ----そうして、それが何故だか、三軍総出の雪合戦大会にまで発展してしまったのだった。 「----あれで、みなリラックスできたんだね。決戦のときにはよく戦っていたよ」 メディオンの言葉に、 「へえ。そんなもんかね」 ジュリアンは気のない様子で応じたが、 「何を言ってるんだ。君もそのつもりであんなことをしたんだろう?」 メディオンは追及した。 「まさか。あんたの考え過ぎだよ、王子」 ジュリアンは吸殻を暖炉に投げ捨てて、 「俺はただ、グラシアとシンビオスの辛気くせえ顔が気に入らなかっただけさ。ガキのくせして、『自分だけが世の中の苦労を全部しょってます』みてぇなツラしやがって」 腹蔵ない物言いに、メディオンは笑った。 「本当にあの二人はよく似てるね。周りに気を遣って、自分の弱味を必死で隠そうとする」 「まったくだよ! 人は独りで生きてるわけじゃねえっての」 ジュリアンは次のタバコに火をつけた。煙がゆっくりと上に昇っていく。それを眺めながら、メディオンは穏やかに、 「でも、君のお陰でグラシア様はそれに気付かれたんだよ、ジュリアン」 「シンビオスにはあんたが教えたんだろ」 ジュリアンはメディオンのグラスに酒を注いで、悪戯っぽく言った。 「あいつ、凄く表情が柔らかくなってた。最初、見違えたぜ」 「そう言ってもらえると嬉しいよ」 メディオンは返杯しながら微笑んだ。 「きっと、グラシア様も、ね」 「だといいけどな」 ジュリアンは呟いた。 そして後は何も話さず、二人はただ黙ってグラスを口に運んだ。 翌朝。 ジュリアンは風邪をひいて、ベッドに寝ていた。 「…本当に悪かったね、ジュリアン」 シンビオスが、申し訳無さそうな顔で声をかける。 ----本当だよ。おまえのせいでえらい目に遭ったぜ。 と言ってやりたかったが、ジュリアンはよく声が出なかったので、目線でそう文句をつけた。 「シンビオス様が謝ることじゃありませんよ」 マスキュリンが横から口を挟んだ。 「大体、ジュリアンがシンビオス様にお酒を呑ませたりしたからいけないんでしょ? 自業自得です」 「うるせえ」 ジュリアンは掠れた声でやっとそれだけ言った。 「だけど、災難だったね。治るまでゆっくりするといい」 メディオンが労るように言った。 「マスキュリンに世話を頼んだからね」 にこにこと告げるシンビオスの笑顔は、何か企んでいるように、ジュリアンの目には映った。彼は口を開いたが、言葉が出る前に、 「じゃあ、王子と私は仕事があるから」 シンビオスが言って、メディオンと部屋を出ていく。 「お大事に」 「何が『お大事に』だ…」 ジュリアンの文句は、しかし、閉じられたドアに当たって虚しく消えた。 「あのねえ、ジュリアン。シンビオス様だって、二日酔いでお辛い状態なんだからね」 マスキュリンはジュリアンの額に冷たいタオルを乗せた。 「あんまりあの方に当たらないでよ。大人げないったら」 それには応えず、 「腹、減った」 とだけ、ジュリアンは呟いた。 「はいはい。お粥作ってきてあげる」 「…おまえが?」 「…何よ。いいでしょ。…どうせ、ここにいる間だけなんだから」 思わず口から出たマスキュリンの本音は、冗談めかした軽い口調だったが、ジュリアンは細く息を吐いた。 ----そうだよな。ここにいる間だけは… 「しょうがねえから、喰ってやるよ」 ジュリアンはやや無愛想に言った。 「えへへ。待っててね」 マスキュリンはいそいそと部屋を出ていった。 ジュリアンは頭を巡らせて窓の外を見た。白い物が飛んでいる。この雪虫がいなくなったら、今度は本物の雪がこの町を覆うのだろう。そのときにはもう、自分はもっと北の町に帰っているのだ。 ----せめて、ここにいる間だけは… ジュリアンは目を閉じた。 外を飛ぶ雪虫の数も少なくなってきた。 冬ももう近い。 |