ゼウスはいつものように、ヘルメスの淹れた紅茶をテラスで飲んでいた。
 ふと、宙に目線を移して、
「例の剣を目指す者がいるようだ」
 と言った。
 傍らに控えていたヘルメスは、亡母そっくりの顔を顰めた。
「またですか。----まったく、人間ってのは懲りないものですね」
「まあ、そう言うな。だから面白いのだろう」
「そうでしょうかねぇ」
「おまえの人間嫌いも困ったものだな」
 ゼウスは笑って、
「----ああ、今回の者は、なかなか見込みがありそうだ」
 と、話を戻した。アクアブルーの眼を閉じて、
「面白いな。----ラベンダーの香りがする」
「それは、その剣を求めてきた者のことですか?」
 興味を引いたらしく、ヘルメスが訊いた。
「ああ。全部で4人。1人はラベンダー、もう1人は桜。後の2人は、ハッカとライムだ」
「後の2人はともかく、珍しいですね? ラベンダーと桜なんて」
「初めてだな」
 ゼウスは穏やかに微笑んで、
「----護りが倒されたぞ」
 ヘルメスは目を見開いた。
「本当ですか? 人間にそんなことが可能だなんて…」
 剣の護りとは、ゼウス本人の魂の一部だ。本人よりはずっと能力は劣る----とはいえ、ゼウス自身が全知全能の神なので、それなりの力はある。少なくとも、人間に簡単に倒されたりはしないはずだ。
 今までも、数え切れない程の人間達が、雷神の剣を得ようと挑んできた。10人以上の小隊で挑戦してきた者達もいた。だが、皆敗れ去った。
 それが今回、たった4人の挑戦者が勝利を掴むとは----。
「…あ、ゼウス様。お手を抜かれましたね?」
 ヘルメスの言葉に、ゼウスは苦笑した。
「ヘルメス。おまえはそれ程まで人間を信じたくないようだが、私は手加減などしてないぞ」
「----本当ですか?」
「手は抜いていない。----ただ、ラベンダーの香りに少し酔ったかもしれないがな」
 ゼウスはにやりとして、
「私の魂が、かの若者の魂に惹き付けられたようだ。彼なら、我が剣を手にするに相応しい。なかなか面白い若者のようだからな。----しかも、美しい。現代のガニュメデスだ」
 ----まったく、見境がないお方なんだから。
 とは、心の中でのみ呟いて、ヘルメスは、
「いいですけどね。ここのところ退屈なさっていたようですし」
 と言って、
「ですが、程々になさいますように。人間というものは、いつ裏切るか解りませんからね」
 今まで、何度かゼウスはこれぞと思う人間に眼をかけてきた。最初は畏まって感謝していた者達も、やがてゼウスに眼をかけられているという優越感から、段々と不遜な態度を取るようになってきた。思い上がった人間は、最初から悪人である者よりも始末に負えない。ゼウスは彼らをすぐに見限った。その後の彼らの運命は言うまでもないだろう。ゼウスはその度に、苦い想いを抱いていた。
 幸か不幸か、ここ100年程はゼウスの目に適う者もなく、彼はすっかり退屈していたのだ。
 ゼウスは、左目を覆っている金の前髪を掻き上げた。右目よりほんの少し強い輝きを持つその瞳を宙に据えて、
「大丈夫だ。彼とそのパートナー----桜の香りのする少年----彼らは、大抵のことは自分で解決できる力がある。普段は私のことなど思い出しもしないだろう」
「だといいんですけどね」
 ヘルメスはゼウスを見つめた。
「それならそれで、もう一つの問題があります」
 ゼウスは前髪を下ろして、ヘルメスに目を移した。
「もう一つ? なんだ、それは」
「あまりにお気に入りすぎて、お手許に召し上げたくなるという問題です」
「成程な」
 ゼウスは大真面目な顔で頷いた。あまりに真剣な口振りなので、ヘルメスは怪しんだ。
「まさか、ゼウス様。----そうなさるおつもりなのですか?」
「いや。彼らの活躍する様を長く見ていたいからな。----ただ、なかなか無茶をする者達のようだし、万が一の時にはそれもやぶさかではない」
 聡いヘルメスは、ゼウスが言わんとすることが解った。彼らが自分達で解決できることには手を貸さない。また、彼らの手に余るような場合には、剣に宿ったゼウスの魂が手助けする。もし、彼ら自身にも、ゼウスの魂にもどうしようもない事態に陥った場合、ゼウスは手を貸さない。
 魂を迎えに行くのはヘルメスの仕事であるから、彼はハデスではなくゼウスの許に、かの2人を連れてくればいい、と、こういうわけだった。
「----解りました」
 ヘルメスは言った。それだけで、ゼウスにも伝わった。
「頼んだぞ、ヘルメス」
「はい」
「だが、まだまだ先の話だ。----今は、彼らの冒険を楽しむことにしよう」
 ゼウスは微笑んで、薫り高い紅茶ゆっくりと味わった。


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