フラガルドの町の木々が、赤や黄色に色付きはじめた。
 ほうきを手に、舞い落ちる葉を見上げて、グレイスはほう、と息を吐いた。たおやかな彼女によく似合う、物憂い雰囲気。
 枝を踏み締める軽い音が、彼女を振り向かせた。
「シンビオス様」
 若き領主の姿を認めて声をかけると、彼は微笑んだ。
「グレイス、何を…」
 とシンビオスは訊きかけて、彼女が手にしたものを見やると、
「…気持ちは解るけど、無駄な努力じゃないかな」
「ええ。私も今そう思ったところなんです」
 グレイスは微苦笑を浮かべた。
「ヘルブラストで吹き飛ばしたら?」
 どこか茫洋としたシンビオスの言葉に、グレイスは喉の奥をくすぐられたかのように笑う。
「まさか。それは無茶ですわ」 
「じゃあ、放っておいていいよ。色とりどりで綺麗だし」
 シンビオスはうっとりと周りを見回した。
「それに、落ち葉は大地の肥やしになるからね」
「そうですわね」
 グレイスは素直に頷いた。その瞳を悪戯っぽく覗き込んで、シンビオスは、
「その分時間が空いたね? じゃあ、ちょっとお茶につきあってくれないかな? クッキーを焼いてみたんだ。君の率直な意見が聴きたいんだよ」
「光栄ですわ、シンビオス様」
 グレイスはひっそりと微笑んだ。

「----ちょっと、甘味が足りなくないですか?」
「いや、充分甘いですよ」
「私としては、もう少し大きい方が食べごたえがあるかと…」
「えー? それじゃあ食べにくいでしょう。一口サイズがいいですよ」
「…率直な意見、ありがとう」
 シンビオスは苦笑した。
「なんだか、自信がなくなってしまったよ」
「ああ、すいません、シンビオス様。どうも、私は甘いものが苦手でして…」
 ダンタレスが頭を掻く。
「私の一口とマスキュリン殿の一口では、大きさが違いますでしょうな」
 キャンベルも、大きな体を決まり悪そうに縮めている。
「私は、もう少し甘くてもいいと思いますけど」
 マスキュリンはそう言って、グレイスに目を移した。
「ね、グレイスはどう思う?」
 今まで一言も発言せずに、目を閉じて大切に噛み締めるようにクッキーを味わっていたグレイスは、
「メディオン王子は、この味を一番気に入ってくださると思いますわ」
 シンビオスの頬が微かに紅くなる。
「な、なんで判ったの、グレイス」
「味もサイズも、王子にぴったりですもの」
 グレイスは静かに答えた。
「なーんだ。それならそうと仰ってくださいよ、シンビオス様」
 マスキュリンが屈託なく笑って、
「道理で、私の好みとは違ったわけですよね」
「そういうことなら…。きっと喜んでくださいますよ、シンビオス様」
 ダンタレスの目許が緩む。
「確かに、メディオン様がお好みになる味ですな」
 キャンベルが顎鬚を撫でて言った。
「まあ、シンビオス殿のお作りになったものであれば、メディオン様はどんなものでも喜ばれるでしょう」
「王子はそう言ってくださるのですが…」
 シンビオスは言い淀んだ。
 確かに、メディオンはシンビオスの作ったものをいつでも誉めてくれる。それは本当に嬉しいのだが、不味ければそう言ってくれればシンビオスとしても参考になるし、決まり悪い思いまでして他人に意見を求めなくて済む。いつも、正直に言ってくださいと言うと、メディオンは困ったように笑って、本当に美味しいんだよ、と答えるのだ。
「本当に美味しいんですわ」
 グレイスがそっと、囁くように言った。
「グレイス?」
 シンビオスは驚いたように彼女を見る。
「メディオン王子は正直な方ですもの。シンビオス様を喜ばせるためだけにお世辞を仰るとは思えません。だから、シンビオス様のお作りになるものが本当に口に合うのでしょう」
「そうかな」
 シンビオスは嬉しそうな笑顔になった。グレイスの言葉には、人を安心させる力がある。母親のようなおおらかさと優しさが。
「今度、間違った振りして、わざと味付けを変えてみたらどうですか? そうしたら、はっきりしますよ」
 マスキュリンの目がキラリと光る。
「まあ、マスキュリンったら…」
 グレイスは困ったような表情で、
「そんなこと、王子に対して失礼でしょう?」
「そうだぞ、マスキュリン。そんな試すようなことを…」
 ダンタレスも思いっきり顔を顰めて、マスキュリンを睨む。
「まあまあ、ダンタレス。…冗談なのだよな? マスキュリン殿?」
 キャンベルが愉快そうにマスキュリンに目配せした。
「勿論ですよお!」
 マスキュリンは、あはは、と笑って手を振ってみせる。
「だいたい、シンビオス様がそんなこと、なさるわけないでしょう?」
「まあね」
 シンビオスは涼しい顔で答えた。

 しかし、マスキュリンの冗談は、すぐに現実となった。
 その朝、目覚めたときから、シンビオスはなんだか妙な気分に襲われていた。
 ----気が乗らない。
 何か嫌な予感がして、いたたまれないような、居心地の悪いような…。
 それでも、午前中は大きなミスもなく仕事をこなした。
 昼食の後、シンビオスはクッキーを焼いた。プレーンとチョコチップのを。
 お茶の時間。それを一口齧って、
「……………」
 メディオンは奇妙な顔をした。
「? 王子、どうかしましたか?」
「…シンビオス、これ、味見したかい?」
「いえ…?」
 と答えてから、慌てて食べてみて、
「…砂糖を入れ忘れました」
 シンビオスは蒼ざめた。勿論故意ではない。純粋な事故だ。
「今日は調子が悪いみたいだね、シンビオス」
 メディオンは暖かい空の瞳でシンビオスを見つめた。
「ごめんなさい、王子…」
 俯く大地の色の髪を、メディオンはテーブル越しに手を伸ばして撫でた。
「気にすることはない。誰にでもそういう日はあるんだ」
「ええ…」
 メディオンは腰を浮かせて、シンビオスにそっとキスした。
 ----コンコンコン。
 応接室のドアを、誰かがノックした。
「…どうぞ」
 シンビオスは声をかけた。自室と応接室を隔てるドアは開けてある。
「失礼します、シンビオス様」
 ダンタレスが入ってきた。応接室を横切って二人の前にやってくる。
「何かあったのか?」
「フィンデングが、手紙を持ってきました」
 ダンタレスが取り出した手紙を、シンビオスは受け取って、
「トラスティン義兄上から?」
 封を切って読みはじめる。
「…ほお、クッキーですか」
 ダンタレスはテーブルに目をやった。
「食べてもいいですが、味は保証しませんよ」
 メディオンが笑って言う。
「と、いいますと?」
「砂糖を入れ忘れたそうで。彼にしては珍しいですね」
 メディオンの答えに、ダンタレスは眉を寄せた。
「…まさかシンビオス様。…わざと…?」
「…は?」
 怪訝な顔で訊き返すメディオンに構わず、ダンタレスは、
「どうなんですか? シンビオス様」
「……………」
「シンビオス様!」
「……………」
 しかし、シンビオスはダンタレスの言葉など耳に入らない様子で、何度も手紙に目を走らせている。その顔がだんだん血の気を失っていくのを見て、
「シンビオス? どうしたんだ?」
 メディオンが声をかける。
 シンビオスは黙って手紙を差し出してくる。メディオンとダンタレスは目を通した。何の変哲もない時候の挨拶から入って、簡単な近況報告。それに続いて…、
 ----実はシンビオス、君に会ってもらいたい人がいるのだ。私の知り合いのお嬢さんなんだが、どうだろう? 彼女とご両親は、今後三日ほどマロリーに滞在しているから、その間に来てほしい。
 なんでも、彼女は君の噂を聴いていて、どうしても会いたいんだそうだ。勿論、会うだけで構わないと言っているけど…----
 メディオンとダンタレスは顔を見合わせて、
「…お見合い?」
 異口同音に呟く。
 シンビオスは頭を抱えてしまった。
「シ、シンビオス様…」
 ダンタレスが恐る恐る声をかけるが、
「……………」
 シンビオスは反応しない。
「メ、メディオン王子…」
 ダンタレスは、救いを求めるようにメディオンを見た。メディオンの白皙の顔もますます蒼ざめていたが、彼は口を開いた。
「シンビオス。気持ちは解るが、義兄上のためだろう?」
「…貴男は…、平気なのですか?」
 シンビオスは顔を上げた。その深い緑の瞳にあるものを見つけて、ダンタレスは胸を衝かれた。自分はこの場にいてはいけない、と感じて、そっと部屋を出ていく。
 メディオンは、シンビオスの前に跪いて、
「だけど、ほら、『会うだけでいい』って書いてあるだろう?」
 むしろ、自分に言い聞かせるように話す。
「でも…」
「お世話になっている義兄上に対して、義理を果たすと思えばいい」
「メディオン王子…」
 シンビオスはメディオンの背中に腕を廻して抱きつくと、胸に顔を埋めた。
「ぼくには貴男だけなんです。どうか…、お許しください」
「シンビオス。許すも許さないも、私は君を信じているよ」
 メディオンはそう言って、いつまでもシンビオスの背中を優しく撫でていた。

 ダンタレスは難しい顔をしながら廊下を歩いていた。
 ----シンビオス様は真面目で誠実な方だから、たとえ会うだけとはいえ、メディオン王子に対して相当な罪悪感を感じてしまうのだろう。だが、問題はそれだけではなく…。
「----ダンタレス様!」
 ぽん、と背中を叩かれて、ダンタレスは我に返った。
「なんだ、マスキュリン」
「…どうしました? 随分恐いお顔ですよ?」
「い、いや、ちょっとな」
「お茶にしましょうよ! グレイスがフルーツケーキを焼いたんです」
 マスキュリンは明るい笑顔で言う。ダンタレスは少し救われた気がして、
「そうだな…」
 と曖昧に微笑んだ。心に浮かんだものがただの杞憂で終わればいい、と祈りながら。

 その夜、ダンタレスはシンビオスに呼ばれた。
「明日の朝アスピアに行くから、ついてきてくれ」
 事務的な口調で告げられる。
「アスピア、ですか」
「うん。ベネトレイム様ともお話したいしね。…マロリーには翌日入る」
 シンビオスはダンタレスを見つめて、
「他の人には内緒にしてくれ」
「勿論です」
 ダンタレスは頷いた。もともとそのつもりだ。マスキュリンなんかに知れようものなら、あっという間にフラガルド中の噂になってしまう。
「仕事の方は、メディオン王子とキャンベル殿にお願いしてあるから」
「はい…」
 ダンタレスは、痛々しげに自分の主を見た。
「シンビオス様。…あまりお気を落としなさいませんように…」
「ありがとう。でも、私は大丈夫だよ、ダンタレス」
 シンビオスは少し笑顔を見せて、
「会うだけでいいんだから」
「ええ」
 頷いたダンタレスの耳に、シンビオスの呟きが…。
「…え? 今何か仰いましたか?」
「いや、なんでもないんだ」
 シンビオスはそっと首を横に振った。
「夜遅くに悪かったね。今日はゆっくり休んで、明日に備えておいてくれ」
「はい。シンビオス様も」
 二人は執務室を出た。
「じゃあ、おやすみ、ダンタレス」
「おやすみなさい、シンビオス様」
 自室に戻っていくシンビオスの後ろ姿を見送って、ダンタレスはそっと息を吐いた。
 ----シンビオス様は、俺と同じことを気にしてらっしゃるのだ…。
 さっき、聞き間違いでなければ、シンビオスはこう呟いたのだ。
「今回は、ね」

 翌朝。
 豪華な刺繍の施されたスタンドカラーのシャツにラウンドネックのベスト、その上から長い上着を羽織った領主の正装に、シンビオスは着替えた。まだあどけない彼は、なんだか服に着られているという気がしなくもない。
「よく似合うよ、シンビオス」
 メディオンは微笑んで、シンビオスの頬に口付ける。
 シンビオスは長い睫の下から、緑色の瞳で斜交いにメディオンを見上げて、
「ちゃんとしてください」
「了解」
 メディオンはくすくす笑いながらシンビオスの体を抱いて、ちゃんと唇にキスしなおす。
「…はぁ〜…」
 シンビオスはメディオンの胸に顔を押し付けて、ゆうべから何度めか判らないため息をついた。
「そう、ため息ばかりつくものではないよ、シンビオス」
 メディオンはシンビオスの頭に頬を乗せて、柔らかい髪を愛しげに撫でながら、
「義兄上のことを考えてごらん?」
「姉上の結婚に反対すべきでした」
 シンビオスは、吐き捨てるように言った。
「…シンビオス」
 メディオンが苦笑する。
「王子、貴男だって」
 シンビオスは顔を上げて、
「随分平然としてらっしゃいますねえ?」
 八つ当たり気味の口調に、こんなときながらメディオンは笑顔になった。こうやって感情を素直にぶつけてきてくれるのが、彼にとってはなにより嬉しいのだ。
「私は君を信じているよ。それはゆうべ証明しただろう?」
「……………」
 シンビオスは少し顔を赤らめたものの、不満そうに口許を歪めている。
「そう。私は君を信じているんだよ、シンビオス」
 メディオンはシンビオスの体に廻した腕に力を込めた。
「たとえ君がこれからどんな選択をしようと、私はそれに従うよ。君なら正しい道を選ぶだろうから」
 シンビオスはメディオンを凝視した。その優しい瞳の奥にある心を探るように。
「メディオン王子。…それは…」
 彼が言いかけたとき、
「----シンビオス様。そろそろ出発しましょう」
 ドア越しに、ダンタレスの声がかかった。
「今行くよ」
 シンビオスは答えて、メディオンから離れた。それでも名残惜しそうに彼の整った顔を見つめ、そっと唇を合わせる。
「気を付けて、行っておいで」
 メディオンはその顔を撫でながら、優しく囁いた。

 出立するシンビオスとダンタレスを、メディオン、キャンベル、マスキュリン、グレイスが城門まで見送りに出た。
「後のことは、私と王子で巧く計らっておきますから」
 キャンベルが朗らかに言う。
「本当に頼んだぞ、キャンベル」
 ダンタレスは親友の肩に手を置いた。
「任せておけ」
「…シンビオス、母やイザベラ達の様子をよく見てきてくれ」
 メディオンの言葉に、シンビオスは頷いた。
「…では、行ってきます」
「お気を付けて、シンビオス様」
 グレイスが静かに頭を下げる。
「行ってらっしゃい! むこうのみんなに宜しく!」
 明るく手を振るマスキュリンにちょっと笑って、シンビオスはダンタレスと共に城を後にした。
「----あ〜あ、行ってしまいましたね。私も連れてってほしかったな」
 マスキュリンがつまらなそうに口を尖らせた。
「きっと、今度連れていってくださるわよ」
 グレイスが微笑みながら言う。
「…さて、領主代行としての役目を果たしましょうか、メディオン様」
 キャンベルがメディオンの背中を押して、それにつられるようにみなは歩き出した。
 メディオンは、愛する人が向かっていった空を振り返って、
「シンビオス。君はどの道を選ぶのだろう」
 その微かな呟きは、強い秋の風に流れて消えていった。


HOMEMENU2へ